俺はもう玩具じゃない

 白村・雛津と別れてすぐ、折鶴と滝崎は下校前の生徒が多く行き交っていた生徒玄関を潜り抜け保健室へと向かった。

 職員室から徒歩10歩とも掛からない程近距離に位置している保健室の扉を2回ノックをすると、中から「はーいどうぞ」と女性の声が聞こえた。

「失礼します。鶴岡先生、お願いしたい事があるのですが」

 扉を開けると、保健医・鶴岡 星羅せいらが椅子ごと折鶴の方に体を向け彼女の事を凝視ぎょうししていた。

「折鶴さん、滝崎くんも。お願いしたい事って何かな?」

 彼女の癖なのだろう。鶴岡は胸元あたりまで伸びた卯の花色の髪をもてあそび、折鶴の返答を待っていた。

 白衣にワイシャツ、黒いベストと春の陽気が暑苦しい今日でも彼女はいつもと変わらない格好で保健室に居たようだ。机の上には校内に掲示するポスターでも作っていたのか、ワードの画面が開きっぱなしになっていた。校内の中でも日当たりのいい場所に位置している保健室には、今も爛々と輝く日光が入り込んで来ていた。彼女はそれに対し、レースのカーテンを引いた位で自身の服装を崩している様子は一切ない。

 彼女のタイトスカートからあらわになったタイツに包まれた華奢きゃしゃな脚とストラップ付きの黒いパンプス、そして何より誰にでも分け隔てなく接する姿がたまらないと男子生徒が盛り上がっていた事を思い出し、折鶴は速やかにその記憶を脳内から追いやった。

「2年生と1年生全員の健康管理個人票を見せてください」

 健康管理個人票は入学時に氏名や生年月日などの基本情報や通院している病院・過去の入院歴を記入したり、生活習慣についての質問も交えられた提出書類だ。3年間の健康診断の結果を記入するページや、保健室の利用回数とその理由・保健医の対応を書き記すページもある。

「……折鶴さん、貴方のだけならまだしも他の子の物を勝手には見せられないわ。

 あれには健康診断の結果も載っているでしょう? 身長や体重にコンプレックスを感じている子も少なくないから」

「先生、私は健康管理個人票に記載されている出身中学校を調べたいだけです。

 どうか協力してくれませんか」

 担任や生徒指導部が管理している生徒個人情報保護票には、生徒の家族構成や自宅周辺の地図が記入されているためまず見せてもらうことすら叶わないだろう。

 だが、健康管理個人票なら1ページ目の隅に出身中学の記入欄がある。幸い健康診断の結果や保健室の利用歴は3ページ目から始まるため、鶴岡が拒む理由として挙げたものは完全に効力を失う。

「……相変わらず自分の目的に真っ直ぐなのね。

 1年前白村くんも苦労した訳だわ」

 鶴岡が指し示す1年前の生徒会選挙で起きた出来事を思い出し、折鶴はおもむろに目を伏せた。

 何故、2年生の折鶴が生徒会長に就任したのか。次期生徒会長候補とうたわれていた白村がどうして副会長の座に落ち着いたのか。そして彼が生徒会をサボり続ける本当の理由も。それら全てを思い出し気まずそうに黙りこくった彼女を見遣ると、滝崎がすかさず助け舟を出すように口を開いた。

「……誰もがあいつみてぇにはなれねぇよ」

 決して折鶴が白村に対し悪事を働いた訳ではない。無論、それは白村も同じだった。

 あの日何があって、結果2年生の折鶴が上級生の白村を押し退ける形で生徒会長を務めているのか。

 それを説明するのには"後悔"と"執着心"。この言葉だけで十分だろう。

「そうね、それは白村くんだって同じ。

 貴方達2人が手を合わせれば、きっとどんな行事だって今まで以上に盛り上がると思うわ」

 鶴岡は折鶴を励ますように告げながら、机のサイドキャビネットの2段目から2学年全クラス分の健康管理個人票を抜き取り、部屋の中央に設置されている丸テーブルの上へ次々と重ねて行った。

「本当に、そうなればいいですね」

 どこか他人事のように返した折鶴へ、鶴岡はその話題に対してこれ以上何も言わなかった。

 「絶対に1ページ目しか見ちゃ駄目よ。それからこの事は絶対に龍崎先生、松北先生には言わない様に。それだけ守って頂戴」

 白村・滝崎・雛津3人の所属する3年4組の担任・佐崎と鶴岡は同期のようで、2人は研修時代に生徒会顧問の龍崎と風紀委員会を担当している松北から指導を受けたらしい。几帳面でどんなに細かいところでも目を光らせる2人とはかなり、と言うよりは1ミリも馬が合わないようで現に研修中も些細な事で「あーでもないこーでもない」と長時間に渡るまで小言を言われたらしい。それ以来、鶴岡はあの2人をアレルギーと自称する位には毛嫌いしている。

「分かりました。鶴岡先生、ありがとうございます」

 そう言って滝崎とともに頭を下げれば、鶴岡は「誰か来ない内に調べちゃいなさい」と告げ、自分の仕事に戻るためいそいそとパソコンへ視線を移した。


「……芽ノ原って事は西浦町の方だな」

 学校や商業施設"ocean color town"がある祭園さいえんから山側に5分ほど歩けば、閑静な住宅街が広がる。西浦町は周辺に幼稚園や中学・高校が多いため、新夏区では一番子育てのしやすい地域だろう。一軒家やスーパー、公園も多くみられる。西浦町地区の居住者数も新夏区で二番目に多い。

「深園も家がその辺りだと言っていました」

 白村の説明に登場した折鶴の友人・鎌谷深園の証言を思い出し、滝崎は「そっか、鎌谷も芽ノ原中出身だもんな」と呟いた。

「折鶴は2年を頼む。

 俺は1年の分を探すから、芽ノ原中の出身者が居たら名前書き出しといてくれ」

 滝崎は自身のリュックサックから表紙に現代文ち乱雑な字で書かれたノートを取り出すと、後表紙から2枚ページを破り取った。その内の1枚を折鶴に手渡せば、彼女はいそいそと鞄の中からチェック柄のペンポーチを取り出し、ボールペンを片手に2年1組の束へと手を伸ばし始めた。

 滝崎もリュックの中からシルバー色のシャープペンシルを取り出し、目の前に山を作る健康管理個人票へ早速と立ち向かった。


「滝崎先輩、終わりました」

 折鶴が滝崎の様子をうかがいながらそう控えめに告げたのは、作業を開始してから10分が経過した頃だった。

「早ぇな。俺はあと……9人で終わる。先に片付けといてくれ」

「分かりました」

 そう返事をして、折鶴は2学年の1組から6組の健康管理個人票を名簿順へ並び直すと鶴岡の元へと運び、テキパキと後片付けを始めた。

 その間にも滝崎は先程より徐々にテンポを上げ、残り9人の健康管理個人票をめくって行った。滝崎が確認を終えるのにさほど時間は掛からなかった。

「じゃあ折鶴、2年の方見せてくれ」

 滝崎の言葉に折鶴は書き記した該当者のリストを彼に手渡した。


 2年1組 鎌谷、榊、橘。

 2年2組 秋口。

 2年3組 望月、二ノ瀬。

 2年4組 粟原、栄田、沼井。

 2年6組 山崎。

 以上10名


 滝崎の手から代わりに1年生のリストを受け取り、それらに目を通す。

 1組 盛、雪野、早河。

 2組 安城、溝江、林、新田。

 3組 若竹、芦間。

 4組 越後。

 5組 曇天寺、牛間。

 計12人


 依頼を届けに来た際に事情を聞いた鎌谷を抜かせば、1年と2年合わせて残りの22人が聞き込みの対象者となるだろう。

「折鶴は2年への聞き込みを頼む。今日の所は校内に残っている奴らだけでいい、"黒猫を知っているか"聞いてくれ」

 俺は1年に当たってみると言い残し、滝崎は健康管理個人票を手早く片付けリュックサックをひったくると、先に教室を出てしまった。

「分かりました」と彼が既に居なくなってしまった扉の向こうへと返事をし、折鶴も自らの荷物を手に取った。

「鶴岡先生。ありがとうございました」

「良いわよ、これくらい」

 折鶴は再度鶴岡に対して頭を垂らすと保健室を出た。遠くから聞こえる不安をあおるような吹奏楽部のティンパニーの音色に、折鶴の足が次第に早まった。


 まずは聞き込み対象者の橘と榊が在籍している自分のクラスを覗きに行こうと、折鶴は2年1組の教室へと向かった。

 教室棟はかなり静まり返っていて、人気がない。もう帰っているかもしれないなと教室の扉に手を掛けた時だった。教室内から男女の声がかすかに聞こえてきた。

「ねぇ、これからどうする?

 結菜は戻って来ないし、またどっかで暴走してるんじゃないの? 絶対やばいって」

 取り乱したような掠れ声は榊のものだった。

「流石にあいつも上級生に手は上げねぇだろ」

 彼女を宥めるようにしてやや苛立ったような男子生徒の声が聞こえた。橘のものだ。彼の足が椅子に当たったのか、キィと甲高い金属音が響いた。

「つか、"黒猫"は最近何してんだよ」

「今日は帰ったっぽいよ。どうせまた弟達のお迎えなんじゃん?」

 彼等の口から出た黒猫の単語に折鶴は疑問を抱いた。

 2人の会話をさえぎるようにして、折鶴は手を掛けたままの扉を力強く引いた。突然現れた折鶴の姿に2人は扉の方を向いた状態で硬着していた。

 わずかに明るい茶髪をお団子にした女子生徒・榊千夏と、生徒指導から何度注意されているにも関わらず一向に直す様子のない赤髪の男子生徒・橘勇斗が折鶴の怪訝けげんな視線に思わず顔を見合わせた。

「貴方達、"黒猫"を知っているの?」

 折鶴の質問に榊の視線が泳ぎ始めた。制服の下に着用している派手なマゼンタ色のパーカーから伸びたフードのひもをいじりながら、彼女は黙秘権を行使した。

 何故それを知っているんだと探るような橘の視線を制するようにして、折鶴は更に質問を続けた。

「ねぇ、"黒猫"って一体誰の事? 貴方達と同じ中学校の生徒なのかしら?」

 早くして、と急かすように2人の前に立ち尽くした折鶴の鞄の中から小さく"LINK"の通知を知らせる鈴の音が鳴った。

 彼女等を睨み付けながら、折鶴は手探りに鞄の中から自身のスマートフォンを取り出した。差出人は滝崎だった。『京ちゃんに関して何か厄介事があれば』と1年前、滝崎と交換して以来殆ほとんどの会話が白村のプリントが未提出だの今日もサボりかなんて彼の怠慢に対してのクレームばかりだった事を思い出し、トーク画面を開いた時だった。

「……言わないのなら、私は貴方達が彼女の現状を知った上でそんな態度を取っている、と判断するわ」

 スマートフォンの画面を見せた途端、榊が口元に手を当て慌てて椅子から立ち上がった。

「……嘘、また……結菜!」

 一言だけ呟いた後、慌てて立ち上がった榊は何処かへ駆け出そうと、教室の扉に手を掛けようとした。その手をさせないという代わりに、折鶴が制止した。


 "瞬一郎: 今さっき噂で聞いた。望月が3年と喧嘩沙汰になってるらしい。"


「私の質問に答えて」

 折鶴の睨みに凄んだ榊の代わりに渋々といった様子で橘が口を割った。

「……黒猫の名前はチロ、黒い毛に黄赤色の目で"5歳"。

 ……それが表向きのそいつの情報。

 よくあるだろ、マフィアとか裏の仕事やってるヤツらが使うようなカモフラージュだ」

 勿論、動物の猫じゃねぇと橘は真っ向から否定した。

 白村や雛津が"猫探し"と言いつつ、スマートフォンやパソコンの画面を覗き込んでいた理由も。雛津が黒猫が一体何を示しているのかなんて言っていた事も、折鶴はようやく理解出来た。

 ただ何かの情報がメモで貰った物と異なったように思え、折鶴は首をひねった。

「"黒猫"の名前は2年6組の山崎千紘。……顔と名前くらいは知ってるだろ?」

 山崎千紘。

 その名前は折鶴がピックアップした2年生10人の中に含まれていた。

 折鶴とはクラスが違うだけあって接点や面識はないものの、一方的に顔と名前だけは覚えていた。天真爛漫なムードメーカーで、多くの友人に囲まれていた印象があった。

「俺と千夏、結菜の3人は中学の時に価値観とかお互いの趣味とか妙に話があって……よくつるむようになった。

 中学なんてさ。勉強しろとか、親も教師も口うるせーし。ちょっとした鬱憤うっぷん晴らしに遊んでやる程度だったんだよ」

 橘は不意に机へ目を伏せ、自嘲げに口角を上げた。

「山崎を人気のない校舎裏とか空き教室に連れ込んで、殴ったり蹴ったりして、いびって遊んでた。

 あいつ、今も昔も根っこの部分は大人しくて地味でビビりで。他人の評価気にしてんの、俺らにはよく分かった」

 つまりはいじめだ。笑顔を浮かべ、たくさんの友達に囲まれていた今の山崎からは全く想像出来ない。

「結菜が主犯格になって、影でいびってたんだけど。1年くらい経った時、ちょうど後輩の女子に見つかって。

 "お前こいつに助けてもらえよ、それとも、こいつ置いて逃げんの"って聞いたら、山崎のやつ。

 後輩の、それも女置いて泣きべそかきながら逃げ出した。

 けど、やっぱやべぇって思ったのか少し経ってからすごすご戻って来たんだよ。その時には結菜が後輩の女の顔、滅茶苦茶に腫らしちまって。

 "絶対に黙ってろよ"って結菜が言った。

 そっから山崎別人みたいに変わったよ。元々人の顔色見て器用に生きてたけどさ」

 橘の言葉に頷きながら、榊が物憂げな表情で言葉を紡いだ。

「山崎は大分周りに打ち解けて、誰とでも仲良くやるようになった。

 いつも笑って楽しそうにしては居たけど、決まって放課後になれば1人で隠れて泣いてた」

 そこまで話すと、橘は空席になったままの窓際の一番前・折鶴の席に視線を向けた。

「結菜の鬱憤晴らしは高校になっても続いてた。

 俺らもそろそろやめとけって止めたけど、それでももう癖になってんのか結菜はなかなか辞めなくて。

 1週間前、珍しくあいつから山崎に指定があった。

 "東雲しののめを連れて来い"ってさ」

「東雲って、転校生の東雲 成葉なるはくん?」

 そう問いかければ、橘は静かに頷いて見せた。

「そいつは根っからのお人好しっつうか、人の懐に入るのがうまいヤツで同じクラスの山崎とはすぐ打ち解けてた。

 東雲と居る時、山崎は心の底から楽しそうにしてた。それが結菜は気に食わなかったんだろうな。

 共犯である手前、結菜は山崎は自分に逆らえねぇって過信してた。

 けど、山崎はその日東雲を連れては来なかった」

 以前いじめに会っていた上、弱みを握られ常に言いなりの状態で反抗出来ずに居た山崎が、初めて望月に逆らったという事だろう。

 その時の事を思い出しているのか、橘は暫く話し始めようとはしなかった。

「……勿論、結菜は手が付けられねぇ位にキレて、山崎を殺す勢いで首を絞めた。

 俺と千夏で剥ぎ取って何とか止めはしたけど、山崎は俺らに羽交い締めにされて身動き取れない結菜に言った」

「山崎、言ってた。

 "自分は変わりたい、誰かに従ってばかりなのは嫌だ"って。

 それ多分……結菜だけじゃなく、うちらに対しても言ってたと思う」

 沈みかけた太陽が自らの色に教室を染め上げ始めた。

 その光が眩しすぎると言うように、榊は机に目線を向けたまま話を続けた。

「結菜、その次の日までは手も付けられない位に不貞腐れてたけど、2日も経てば山崎の事なんてなかったような顔で過ごしてた。

 けど、やっぱり駄目なんだよ」

 結菜は暴力それでしか発散出来ないから。

 榊の言葉を最後に教室内には沈黙が支配した。

 どれくらいの時間が経過しただろうか。折鶴のスマートフォンから鳴った鈴の音によって沈黙は突如として破られた。


 "瞬一郎: 今、ももぞの幼稚園に居る。

 ちょうど会った山崎に話を聞いてる、折鶴も終わり次第合流してくれ。"


 文面から察するに何か手掛かりを掴んだのだろう。滝崎のメッセージに分かりましたと返事を送り、折鶴はスマートフォンをかばんの中に押し込むと2人に対して最後の質問を投げ掛けた。

「最後に聞いてもいい?

 何故、山崎くんを黒猫と呼んだのか。

 そして、貴方達2人も望月さんと同罪だという意識はあるのか。

 深園の机にメモを入れたのは貴方達なのか。

 ……そしてメモでは、チロの年齢が"生後1ヵ月"になっているのは何でなのか」

 折鶴の質問の1つ目に対して榊の方が口を開くのが早かった。彼女は自分の机の横に掛けていた鞄を取り出し、いそいそと帰りの支度を始めた。

「黒猫は警戒心が薄くて人懐っこいから。……山崎らしいでしょ」

 そう言って立ち上がった榊は橘に向けて視線を送った。

 橘もそれに気付き、机の中に押し込められていた教科書やノートをカバンに詰め込んで行った。

「結菜と一緒に山崎や後輩の女を虐めたのは事実だ。高校に入っても暴力をやめない結菜を止めきれずに、傍観したことだって認める。

 だから、結菜だけが責められる訳じゃない」

 そう呟き、橘は不意に手を止めた。キョトンとした顔を浮かべる2人に折鶴も首を捻った。

「……つか、メモって何の事だ?」

「1年5組、空閑未来。黒猫を探してほしい、名前はチロ。目が黄赤色で生後1ヵ月。

 ……そんなメモが深園の机に入っていたの」

 そう説明を施しながら、白村が鎌谷から受け取ったメモを収めた画像を見せると。"空閑未来"という名前とその字を見た途端、橘と榊の顔面から色がなくなった。まるで幽霊でも見たかのように顔を突き合わせ、やっとの事でその言葉を紡ぎ出した。

「うちと橘、結菜しか黒猫の事は知らない」

 だとすれば、その情報を書けたのは望月・橘・榊の3人しかいないという事だ。だが、2人が知らないとすれば、残るのは望月本人しか居ない。

「つか、空閑未来って……山崎が見捨てた後輩の、行方不明になってる奴の名前だ……」

 真っ青な顔で口元をおおいながら橘が小さく「それに」とその残酷な言葉を喉から吐き出した。背筋が凍り、息が詰まる程にその震える声が告げた。

「……その字、結菜のじゃねぇ」


 ももぞの幼稚園は学校から徒歩5分もかからない場所に位置している。母親や父親とともに家路に着く子供達に手を振りながら、保育士達が眩しい笑顔を向けていた。その姿を横目に、折鶴は幼稚園の前に立ち尽くしたままの2人の男子生徒の元へと駆け寄った。

 いつになく険しい顔を浮かべる滝崎の前で1人の男子生徒が必死に何かを説明している姿が遠目で確認出来た。そんな彼の顔には動揺の色が広がっており、黄緑色の目がわずかにうるんでいた。右に流れるようにしてセットされた黒髪も、空閑名義で書かれていたメモの内容と完全に一致する。

 彼は第2ボタンまで開けられた黒いワイシャツと白いブレザーの袖を肘辺りまで捲り上げていた。同様にチェック柄のズボンの裾も足首が見える程度に折り込んでおり、黒色のスニーカーはだいぶ使い古されているのか汚れが目立った。彼が力強く握り締めている右手には、きつく縛り付けるかのように包帯が巻かれていた。

「滝崎先輩、遅くなりました」

「おう、悪ぃな」

 滝崎の元に駆け寄りそう声を掛ければ、一瞬で山崎の顔が強ばった。何で生徒会長まで居るんだと言いたげな山崎の目に、折鶴はすぐに追及を始めた。

「……榊さんと橘くんから話は聞いたわ。

 随分と下劣な事をしたものね」

 折鶴が口にした言葉は本心ではない。むしろ強大な権力者に従わざるを得なかった彼に同調出来る部分もある。

 だが、全く彼に罪はないとも言えない。榊や橘のように直接手を下さなかったにしろ、他人を見捨ててまで自分の身を守ろうとした行為は罪に値する。

「……折鶴さんには分かんないよ」

「えぇ、分かりたくもないわ。

 ……実際、あなたに良心がなければ今頃お友達の東雲くんも望月さんのストレス発散のぬいぐるみになってた」

 下唇を噛み締めていた山崎が折鶴の一言に、咄嗟とっさに顔を上げ声を荒らげた。

「やめろ! しのっちゃんは関係ない!」

「けど望月さんから指示があったんでしょう?」

 大声を張り上げた山崎が狼狽うろたえたように浅い息を繰り返しながら、ポツリと呟いた。もうやめてくれと、まるで神にでも懇願するかのように独り善がりな言葉を投げ出した。

「俺はもう、望月の玩具おもちゃじゃない」

 望月の玩具じゃない。望月の玩具じゃない。そう何度も自分に言い聞かせるようにしながら、山崎は「これ以上何も言わないでくれ」と静止するように折鶴の肩に右手を置いた。何気なくそこに目を向けた時だった。

「山崎くん、あなた……」

 彼の右手の甲に巻かれた包帯の隙間から押し退けるようにして小さな黄色い花が咲いていた。手の甲は楕円形のノコギリ歯のある青々とした葉が覆い尽くしていた。

「俺はもう玩具じゃない」

 苛立ちを表すようにしてその花の根が血管のように浮き出、彼の命を今現在も吸い取っているのかドクドクと忙しなく脈打っていた。その花弁に折鶴が恐る恐る指先を触れた時だった。死人のような顔色を浮かべた山崎がまるで猫のように肩を飛び上がらせ、右手を引っ込ませた。グルグルと渦を巻くように、焦点が合わないその黄緑色の目が何とか折鶴の姿を映した。

「何、いきなり……」

「その花いつからなの?」

 質問に口ごもり、山崎の視線が泳ぎ始めたのを折鶴は見逃さなかった。彼の右手首を掴み取り、きつく巻かれた結び目をいとも簡単に解くと折鶴は徒花を覆い隠していた包帯を抜き取ってしまった。

「徒花病を発症した場合、与えられるストレスや持ち主の体質・花の性質にもよるけど最低でも平均寿命は30日から4年間。

 ……この花はいつ芽を出したの?」

 山崎があらわになった自身の右手を隠すようにして左手を重ねた。今も尚根を広げているのか、パキパキと彼の右手から何かが折れるような破裂音がなっていた。花が生えている位置から察するに、恐らく手根骨しゅこんこつやそれを守っている皮膚が花の生命活動によって少しずつ傷付けられているのだろう。現に山崎も手の甲から破裂音がなる度に苦痛の表情を浮かべ、その瞳には薄っすらと涙が滲んでいた。

「……初めて望月達に、鬱憤晴らしの道具として使われた日から」

「それって、貴方があの3人に虐められ始めた時って事でいいの?」

 確認のため折鶴がそう問い掛けると、山崎は小さく首を縦に振った。つまり平均寿命を軽々と超えた5年間、この花は山崎を苦しめ続けて来たという事になる。事態を静観していた滝崎と目を合わせると、折鶴はすぅと息を吸った。

「……ねぇ、山崎くん。

 聞いてほしい話があるの」

 そう言いながら折鶴は自分が抜き取った彼の包帯を丁寧に巻き直し始めた。その間山崎は、きつく縛られ始めた包帯によって押し込まれて行くその花をじっと眺めていた。

「私の友達の鎌谷深園。

 ……名前位は知ってるわよね、同じ中学校だったんだもの」

 その名前を出した時、山崎は肩をぴくりと震わせた。

 その反応を一瞥いちべつし、折鶴は特に追及をする事はなく平然を装いながら話を続けた。

「今朝になって、深園の机にこんなメモが入っていたそうよ。

 "1年5組、空閑未来。猫を探してほしい。黄緑色の目の黒猫で、名前はチロ。生後1ヵ月"」

 空閑未来。

 その名前を聞いた瞬間、山崎は目に見えて動揺を見せた。

 何で、どうして。行方不明になって、俺が見捨てて。まだ帰って来てなくて、と小刻みに山崎は細切れに言葉を呟きながら乱れた呼吸を繰り返した。彼の喉から喘鳴ぜんめいが聞こえた。

「榊さんと橘くんはそのメモに心当たりがないと言っていた。貴方を黒猫と呼んでいたのは、望月さん・榊さん・橘くんの3人。

 つまりあの2人が分からないというのなら、あれは消去法で考えれば望月さんが書いたって事になる」

 折鶴が包帯を巻いている右手からポロポロと何かが零れ落ち始めた。再び鳴り始めた破裂音からそれが皮膚片だと折鶴は気が付いた。この問い掛けですら、今も尚山崎にとってはストレスの根源となっている。だからといって、聞かない訳にもいかない。白村の探偵ごっこの手伝いなんて、それらしい理由のためではなく山崎自身のために。

 このまま折鶴が彼を労わって、彼の心底に触れず放置してしまえば……彼はいつまでも彼女に心を呪縛されたまま。

 ……いつの日か、動けなくなってしまう。

「でもおかしいのよ」

 別に何もおかしくない。そう絞り出したような山崎の声が折鶴の耳に届いた。

「榊さんや橘くんは黒猫のあなたの事を5歳だと言った。

 あなたが望月さんの"玩具"になった年数と一致するわ。

 けどね、このメモには"1ヵ月"と表記されている」

「……ただ単に、望月が書き間違えただけだろ」

 そんな山崎の言葉に折鶴はスマートフォンに保存された画像を再び開くと、山崎の眼前へと押し付けた。そのメモに書かれていた女の子らしい丸文字に、絶望に顔色を染め上げた彼の口からあ、と小さく言葉が漏れた。

「望月さんと5年も付き合いのある橘くんが言っていたのよ。この文字は望月さんのじゃないって。

 じゃあ一体、誰の字なのかしらね?

 山崎くん、あなたの反応から見るにこれが誰の字か知って」

「違う!」

 折鶴が言いかけた言葉をさえぎるようにして、山崎がそう力強く否定した。違う違うとまるで子供のようにひたすら首を振り、山崎は右手を押さえ込んだ。

「……何だよ、さっきから俺ばっかり疑って。

 お前らも結局……榊達の肩を持つのかよ!」

「違う、私達は」

 そう言って、折鶴が手を伸ばし掛けた時だった。山崎はそれを勢いよく振り払い、必死の形相で口を開いた。彼の額には異常な程の汗が滲み頬を伝っていた。

 しっかりと包帯の内側に押し込んだはずのあの小さな黄色い花が、包帯すらも破り取り。その顔を出し始めていた。

「お前も……俺の敵だ」

 そのまま逃げるように校舎へと駆け込んでいく山崎を追い掛けようとした折鶴の手を、滝崎が咄嗟に止めた。

「……やめとけ。お前が追いかけて悪化したらどうすんだ」

 滝崎の手から手首を何とか抜き取ろうと折鶴がもがいている間にも、山崎の背中が少しずつ小さくなって行く。

「これで追いかけないで彼の症状が悪化したら……最悪、徒花病患者の失踪事件や自殺にまでおちいったら……滝崎先輩は責任を取れるんですか」

 自殺。失踪。

 折鶴の質問に滝崎が目を見開き、苦しげな表情を浮かべ肩を落とした。

「彼は確実に末期の徒花病患者です。何をしでかすか分からない。それこそ苦しみから解放されたいと自殺する可能性だって十分にあります。

 ……そうしたら、誰が責任を取れるんですか?」

 自殺。再びその単語が出た途端、滝崎が僅かに手の力を緩ませた。それでも尚止めようとする滝崎をなだめるように、前方から言葉が響いた。

「滝崎、お前の判断は正しい。

 ……だが、今回は止めるべき場面じゃない」

 抑揚のない落ち着いた雛津の声に滝崎がするりとその手を下ろした。

「……無理そうならすぐ戻れ。

 自分の事情に踏みこまれる事がストレスになる奴だって居る」

 分かりましたと頷き、山崎の背中を追いかけ始めた折鶴を見送ると、滝崎はゆっくり息を吐き出してから突然現れた雛津に質問を投げた。

「依くん、京ちゃんはどうした? 一緒に行動してたんじゃねぇのか?」

 滝崎の質問に雛津は困ったように目を泳がせた後、申し訳なさそうに眉を下げた。

「少し、面倒な事になってな……」

 また何かやらかしたかと滝崎がすかさず聞けば「やらかされた、というか」と雛津が言葉を濁した。

「少々、というか……望月に手が付けられなくてな」

 それがまた目を離した隙にどっかに行ったとかいつもの理由であれば滝崎もそこまで気にせずに聞き流しただろう。だが、望月という単語が聞こえてしまえば別だ。折鶴にLINKを送る前、すれ違った生徒達が口にしていた「望月が3年ともめている」なんて言葉が頭を過った。

「たっく……手間ばっかかけさせやがって」

 どこか分かるかと問い掛けると、校舎裏だと先導するようにして走り出した雛津を追い掛け滝崎は地面を蹴り出した。

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