冬の日の漸悟。

枕くま。

第1話 穴の底の平らの冬の、さみしい。

「真の幸福に至れるのであれば、それまでの悲しみはエピソードに過ぎない。」

(銀河鉄道の夜/宮沢賢治)



■ 1.

 火の噴くような仕事を終え、清造は町一番の襤褸家へと帰路に着いた。これまでの人生の中で、手に覚えもなく、学もない清造に出来る仕事は限られており、現在は空港で荷下ろしをやっていた。

 来る日も来る日も、他人の荷物を積んでは下ろし、下ろしては積んだ。いつか腰をやって、まともに立てなくなる日が来るだろうと思っていたが、他に探す暇も体力もないのだった。休憩の間、仲間達がそのような話をしているのを耳にすることもあるが、似た者同士、その結果は容易に想像出来た。人員は流動的であり、消えるのは体力が続かなかったり、足腰をやってしまったり、または、人知れず消える必要がある者だった。転職を口にする者は、いつまでも小汚い休憩室で出来もしないことを暗い目で語った。

 清造も今のままではいけないと、常に危機感だけはあるのだった。清造には小学校に上がったばかりの息子がいた。勉強机の一つも買ってやれず、ランドセルは近所の人に頭を下げて、三代使い古した襤褸を譲って貰った。三分の一程に潰れた黒いランドセルを渡した時、息子は口にこそ出さなかったが、その目の寂しげな色は清造の脳裡に常にこびり付いていた。ランドセルの黒い表皮を走る白い亀裂までが今でも目にしっかりと浮かんだ。それは、今日のような、仕事終わりの、一番虚しい茜空を背にする度にぐずぐずと沁みて来る。その都度、清造は自分から逃げて行った妻を呪った。

 妻とは、学生の頃に出会った。悪さばかりして、目先の慾にばかり目移りする清造にとって、妻の言葉は常に指針となっていた。よく気が付く、働き者の女だった。

「清ちゃんは、変に見栄坊やから、あかんね」

 学生時代に、妻はよくそう云って困ったように微笑んだ。誰の挑発にも食ってかかる清造であったが、妻の柔らかな言葉には、どうにも強く出られなかった。

 学校を卒業すると、二人はすぐに結婚した。しかし、清造は仕事に着いた先でつまらない諍いを起こし、追い出される形で、驚く程あっさりと失職した。妻は学生時代のように、柔らかく嗜めたが、清造は学校を出て独り立ちしたと云う自意識から満足に取り合わず、日銭を稼ぐ方にばかり目が行った。やがて、時は過ぎ、清造の手から若さが根こそぎ零れ落ちると、妻は清造の前から姿を消した。幼い独り息子を残して。

 どうしてあいつは息子を一緒に連れてってやらなかったのか。清造はそのことばかり考えてしまうのだった。育てる自身がなかったのだろうか。それとも、俺の血が混じっているのが、それ程まで厭だったのだろうか。後者なら、申し訳ないと思った。息子にも、生まれるべき親が選べたならよかった。せめて、俺でなければよかった。

 だだっ広い空港から、迎えのバスにひしめきながら町へ戻る。むっとする汗と垢の饐えた臭いにも慣れてしまった。何とか席に座れたが、窓に映る自分の顔を見るや厭になる。目は暗く沈み、無精髭が一層小汚く、唇は乾いて皮が捲れている。濃い目の鉛筆で力強く引っ掻いたような皺が、重く垂れ下がった頬肉をなぞり際立って見える。若さの漏洩が厭がおうにも目に付いてしまう。人生は常に目減りしていく。そんな当たり前の事実が窓の中から清造を睨み付けている。視線を逸らそうと考えたが、躰は疲れ切っており、幽かな動きですら思うようにいかなかった。いっそ心地良い倦怠感に眠気すら襲い来るが、目を瞑る訳にはいかない。眠ってしまえば、財布が失せていたとして、それは眠った方が馬鹿なのだ。清造は仕方なく、老いた自分と真っ向から睨み合った。暗がりで目立つ自分の顔が、次第にビルの薄汚れたネオンや信号の赤青黄色が滲み、見え辛くなってくる。それが、何となく厭な感じがして、清造は視線を落とした。すっかり皮の厚くなった、感覚の鈍る手が、膝の上で粛々と沈黙を守っていた。やはり皺だらけで、清造は拳を握り、張りを出そうと抵抗したが、何の意味もなく、止めてしまった。

 バス停で降り、我が家を目指した。夜の町は車の出入りも少なく、ひっそりとして冷たかった。寄る辺ない人が虚ろな目をして歩き回っている。きっと、他人から見れば、自分もそのように見えるに違いない。恥ずかしい気がしたが、さすがに慣れたものですぐに立ち直り、歩き出す。足は義足に付け替えたばかりのように重かった。足取りは酒も飲まないのに揺れていた。酒。清造はそれだけを一つの指針として足を動かした。それ以外に楽しみはなかった。生きる糧は、飲酒と酩酊以外に有り得なかった。

 何を見ても感動しなくなった。何をやっても、笑えなくなった。泣けなくなった。頭の中の、感情を司る部分に、分厚いゴム板を貼り付けられたのだと、清造は思っていた。激情に駆られると云うことが、なくなってしまった。それは清造にとって悲しいことだった。若さの喪失はあちこちに証拠物が転がっている。簡単な挑発に赤面し、怒鳴りつけ、硬い拳を振り上げた自分はもう、いないのだ。

 仕事場では、そんな人間が何人もいて、そんな人間は次の日にはいなくなった。そう云うことが何十回と続くうち、厭でも心根は冷めて、冷めてしまうのだった。真冬の夜のアスファルトのように硬く、冷たくなってしまうのだった。

 何の気なしに石ころを蹴飛ばした。石は痛快な速度で飛び出した。が、次第に速さは失われ、地面の凹凸に軌道が危ぶまれ、汚水流れる側溝にぽちゃんと落ちて見えなくなった。

 俺独りなら、と清造は思う。俺独りなら、幾らでも無茶は出来る。今の仕事も止めてしまって、どれだけ条件が悪かろうが、少なくとも今よりはまともな職を探せる。それまでの貧乏など、独りなら我慢出来る。出来なくとも、その時は俺独りが後悔するだけで済む。誰にも迷惑などかけない、かからない。だが、自分には息子がいるのだ。

 ただでさえ先のわからない身の上で、さらに職を失う訳にはいかない。都合よく仕事が見付からなければ、息子が餓えてしまう。清造は息子のあの寂しげな目を思い出す。金がないばかりに、流行り物の一つも持てない不憫な息子を思い出す。母がおらず、今も家で独り、ラジオの擦れた音だけを頼りに膝を抱え堪え忍ぶ息子を思い出す。そんな息子と、生活力のない自分を捨てた、妻の姿を思い出す。頭の奥底に、マグマのような熱が滲むのがわかる。自分は、まだまだ怒れる。びっこを引きながら、清造は歩く。

 家に着くと、家の中は薄暗かった。息子は先に眠っているようだった。床の間の襖を開けて、確認することはしなかった。立て付けが悪く、開けると喧しい。眠っているなら、そのまま寝かしておく方が良い。食費が少しばかり浮くだろう。清造はそう思い、疲労に弱る足も忘れて台所に駆け寄り、酒瓶と湯呑みを出した。酒を注ぎ、勿体なさそうにちびちびと舐めた。胃袋がカッと熱を発する。次第に、倦怠感がさらに鈍く重くなり、躰が昔のように熱く、火照ってくる。己の輝かしい記憶が卓袱台の上や目の奥やささくれ立った畳の上に躍った。酒を飲んでいる間だけ、余計な痛みなく昔を思うことが出来た。簡単な懺悔や後悔も容易だった。妻の笑顔も、若々しくきれいなままだった。その目の和らぎも、奥に潜む針のように鋭い閃きはなかった。息子も、快活に笑っている。笑っている。俺も、俺も。

 気が付くと、清造は仰向けに寝っ転がっていた。酒を注いだ湯呑みを探すと、点々と湿った黒い痕の先で転がっていた。飲んでいる間に寝てしまっていたようだった。畳に染みた酒を勿体なく思いながら、もう寝てしまおうと床の間を開けた。雪崩のような音がしたが、息子の眠りも深いだろうと酔いの傲慢さから思った。敷きっぱなしの布団に重々しく腰を落とす。と、そこで隣に眠る息子の異常に気が付いた。息遣いがおかしい。死にかけの野良犬みたいに荒々しい呼吸音。清造が息子の引っ被った布団を退かし、顔を窺う。息子の青白いうらなり顔が、真っ赤に腫れていた。額に手をやると、鈍い感覚を押し広げて高い熱が感ぜられた。

「この野郎、熱なんぞ出しゃあがって」

 毒づくが、返事はない。息子は苦しそうに幼い顔を歪ませて、呼吸のため必死に胸を上下させている。放っておいて、明日までぐっすり眠らせておけば、治るだろうかと思った。が、明日からのことを思えば、放っておくのも憚られた。学校は休ませるにして、昼飯はどうする。夜も、俺が遅くなればその間飯を我慢させることになる。せめて、薬でもあれば良い。体力がなくとも、病気には打ち勝てる。清造は哀れな息子を平然と見下ろし、医者に見せた方が後々苦労がなくて済むと判断した。しかし、深く酒の入った自分では車どころかバイクも自転車も乗れない。妙な所で、この男は律儀なのだった。

 近所の人間を起こし、代わりに病院まで行って貰おうかと思った。親しくしている人間などいないが、息子の一大事となれば話を聞いて貰えるだろう。だが、起きて来なければ? 起きて来たとして、酒を飲んだがために身動き一つ出来ない自分はどう見られてしまうだろう。近所の人間は俺の帰りが遅いことも、そのために息子が長く独りで待つことを知っているのだ。死んだはずの自意識が、こんな時に限って噴出してくる。

 清造は息子の枕元で散々迷い動きあぐね、覚悟を決め、着古した上着に袖を通した。歩いてゆくことを決めたのだ。息子の躰に障ることを考えて、また動きが止まった。やはり、近所の人間に助けを請うべきか。また悩み、結局打ち消した。

「おい、おい、おい、起きろ起きろ」

 揺り動かすと、息子は目脂で固く塞がった瞼を拭い、父の名を呼んだ。

「おかえり」

「阿呆、お前、熱なんか出しゃがって。起きろ、起きろ、病院行くぞ」

「お金は、あんの?」

 息子の言葉に清造は顔を顰めた。

「そんなもん気にすんな」

 そう云って、清造は息子の服を手当たり次第に引っ張り出した。どれも襟がよれ、色褪せていた。

「ほれ! これ着ろ、歩いてくぞ」

「うん」

 息子は力なく返事し、重々しく起き上がった。着替えを取る手も大袈裟に重く、清造はノロノロと動く息子に苛立ち、さっさと着替えを手伝った。身動きの取れない程にぶくぶく着膨れた息子は、くすぐったそうに微笑んだ。己の睡眠時間と明日の仕事の痛苦に傾いていた清造は、その笑みには気付けなかった。



■ 2.

 夜の町は、他人事のように静かに寝入っていた。細かい雪が街灯の落すひかりの中をちらちらと舞っている。それも風が吹く度、煽られて、右に左にと忙しなく流れを変えた。踏み締めるアスファルトも、凍え死んだように弾力を損なっている。

 酒が残っているせいか、寒さが鈍い。病身の息子を歩かせる訳にもいかず、おぶることにしたが、着膨れのため掴み所がなく、三歩に一回は背負いなおしていた。息子の体温の暖かさのせいかもしれないと、清造は寒さの鈍りについて、少し思った。

「どこまで行くの?」

 背中越しに、息子が問うた。耳にかかる吐息まで、酷く熱をもっているように清造には思えた。

「四十九町の、病院までや」

 そこ以外に、夜間診療をしている場所を知らなかった。歩いても然程遠くはないだろうと思っていた。一時間も歩けば、着くはずだ。何の根拠も浮かばず、頭の中の頼りない目算だけで清造は不安を誤魔化した。二時間かかっても構わないと思い始めた。何よりもう、歩き始めてしまったのだから。

 酩酊により、足取りは不確かで、何度も息子を取り落としそうになりながら、清造はそれでも歩いた。息子は背中からずり落ちそうになったり、道路に投げ出されそうになる度、愉快そうに悲鳴を上げた。声は掠れて、痛々しかった。清造は歪む視界と鈍る思考の中、場違いな息子の嬌声に怒りを覚え、何のつもりだ! と怒鳴った。

「お前、お前のためにこうして、病院まで歩いとるんやぞ。仕事に疲れて、疲れ果てて、でもお前が熱を出したから、こうして歩いとるんやぞ」

 金さえあれば、タクシーで往復出来た。電話さえあれば、救急車を呼んでしまうことが出来た。他人を頼れるくらいの強い自我さえあれば、夜分遅くの申し出も容易く出来た。その三点について、瞬時に浮かんだが、一言も発しなかった。清造は自分が思春期のまま大きくなったのだと、こんな時に気がついた。脳の感動を司る部位に、ゴム板は張り付けられている。しかし、それは全方位と云う訳じゃない。回り込めば隙間があり、高い位置から見降ろせば、普通に頭がのぞいている。自分はただ生活に削られて、麻痺していただけで、それ以外の部分は相変わらずの調子なのだ。変に見栄っ張りで、だからこそ挑発が許せず、他人に相談の一つも出来ない、頼れない。顔だけはこんなに老けてしまっているのに。身体はこんなにも衰えていると云うのに。清造は悲しくなった。恥ずかしくなった。死にたくなった。しかし、背中の息子の手前、それらを表に出さないように注意した。自分の息子にまで、嘗められてはいけない。誰にどう思われようと、それは仕方のないことだけれど、息子にまで、そのような目線で見られてはかなわない。

 ああ、そこで、清造は、背中のたった独り残された息子の、その存在の重さに気がついた。この、嫌悪を知らず、侮蔑を知らず、汚辱を知らず、ただ力なく微笑み、昏い目の奥に感情をひた隠しにする他ない、幼い息子のいじらしさを知った。

 酒のためか、清造の感覚はいつにも増して、鋭敏になっている。酒はあらゆる感覚を鈍らせるものであるが、それもまた一側面でしかないのだ。清造の意識は、おぶっているものの輪郭を余すところなく捉える程に、鋭く、そして柔らかでやさしかった。

「きょうは、寒いね」

 息子の発する、弱弱しい声音に、清造は幽かに怯えた。

 背中に乗せた息子は、痩せ過ぎた本来の重みを失くし、実際の質量を超えて、圧し掛かった。清造は、そこに義務や愛情を察した。それらは、必要以上の重さを伴う。その重さに、清造の足は揺れた。愛おしさとは、愛情とは、この重さとの不毛な格闘の末の、結果なのだと思えた。戦いには、覚悟が必要なのだ。その事実を初めて、真の意味で悟った清造は、己の老いについて、ようやく得心を得た。

「……明日も、寒いんやろうな」

 その一言に、背中の息子はくすくすと笑った。

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