【亡国のナターシャ―其の三】

 旧名、ナターシャ・アインベル・ルーン・ブラムストカ。旧役名はブラムストカ帝国第一皇女。

 現名、ナターシャ・アインベル・ジークフリート。現役名はジークフリート夫人。


 彼女はずっと役を演じている。


 つい先日まで、自身を生み育てた帝国、そして自身を育てあげた実の父である皇帝。この両者をまんまと亡きものに仕立て上げるまでは、彼女は正しく皇女という役柄、その役目に恭順していた。

 そしてこれまたつい先日から、勇者の妻という役を演じ始めた。


 これまでも。

 これからも。

 彼女は自らを演じていく。


***


 遡ること20年前。


 帝国を未曾有の悲劇が襲った。

 それは彼女、ナターシャの産声と共に始まりを告げる。

 運悪く最初の犠牲者になったのは、彼女を取り上げた助産師だった。

 年を若くして皇帝お抱えの医療技術師団の仲間入りを果たした彼女は、産まれたばかりの赤ん坊を大事に、いや、執拗に抱え離さなかった。

 そして、裸のまま毛布を巻いただけの血液すら拭われていない新生児を連れ去ろうと謀った。

 彼女は瞬く間に捕縛され、後に処刑された。

 その時、同時に処刑されたのは数十人にのぼる医療技術師と、皇帝より警護の任を賜った兵士達。

 その全ての者が、、皇女の誘拐未遂で処刑された。


 次の犠牲者はナターシャの母親。皇帝を深い慈愛と聡明な知性で支えてきた皇后陛下だった。

 先の事件以来、ナターシャの母親は赤ん坊と二人きりで王宮の一室に籠り、他者との接触を一切排除し生活を送った。

 彼女は、産まれたばかりの娘が特殊な力を宿していることに気が付いた。そしてその力が暴走していることも。

 臣下の者達が集団でなく、個人で、それも突発的に事件を起こしたことに違和感を感じ、異常な事態の真相に思い至った。

 出産直後の弱った身体で誘拐されかけた娘を抱き締めると、自身に仕える侍女に命じ人払いをさせた。

 そして皇帝に一つの提案を申し出た。

 ナターシャがこの異常な力を制御出来るようになるまで、ナターシャを隔離する。

 母親である自身と共に。二人きりで。


 『


 有象無象の者達だけではない。父親にも、母親である自身にすらその衝動を抑えきれない。

 この子は、危険過ぎる。と。


 皇帝は、妻の言葉を飲み込む外無かった。

 そうすることでしか、不毛な処刑を抑止する手立てが無かったのである。

 誰か一人を犠牲に赤ん坊を監理する。

 その犠牲者となったのが実の母親だった。

 その異端の力を理解した皇帝は、勅命を以て皇后に子育てを命じた。一人きりの子育てを。


ーー或いは、他の誰かを犠牲にすることも出来たかもしれない。

 皇帝は、産まれてくる子供の為に専属の乳母を用意していたし、皇帝の勅命とあれば断れる筈もない。

 だが、皇后は、血を分けた母親にはその取捨選択は出来なかった。選択肢すら存在しなかった。

 寧ろ、彼女は喜んでこの至福を享受した。

 理由は単純である。

 愛しい。ただそれだけだ。


 5年後。

 ナターシャが自身の力を制御出来るようになるまで、二人きりの生活は続いた。

 王宮内に誂えた特別な一室。生活の全てがその空間で事足りるように十全に完備されているくせに、窓や扉などが一切無く、外に出ることはおろか中に入ることすら出来ないよう造られた、牢獄と言って差し支えないその豪奢な愛の巣ロイヤルハウスで。


 そして、5年間の平穏の後、帝国は運命の日を迎える。


 異変に気付いたのは、給仕の者だった。

 その日の朝、いつものように朝食を運び、食器がギリギリ通る程度の差し入れ口から食事を届けた。

 部屋の中の二人とは直接接触出来ないよう、食事を届ける時間と受け取る時間はずらされており、食器を片付けるのは次の食事を届ける時と決まっていた。

 昼食の時間になり、食器を下げようとして、食事が手を付けられず残っていることに気付いた。

 給仕はこれを衛兵に報告。その報は直ぐに皇帝の耳に届けられた。

 皇帝は自ら部屋に出向き声を掛けた。しかし、何度呼び掛けても返事は無い。

 最悪の事態を想像した皇帝は、とうとう部屋の壁を取り壊し、兵と共に部屋の中へと踏み入った。


 部屋で待っていたのは、可憐な悪魔。

 見目麗しく育った5歳の幼い少女は、部屋と呼ぶには広すぎる空間の中央にで立ち、皇帝らを笑顔で出迎えた。

 皇帝は安堵した。

『娘は、ナターシャは無事だ。何も心配は要らなかった。それに、いつの間にかナターシャは自身の異能を制御出来るようになっているではないか。こうして私自身が独占欲に支配されることもなく、この部屋に踏み入った兵らもおかしな行動を取る者はいない。ナターシャは遂に力を制御してみせ、これから普通の、いや、立派な皇女として、王宮で生活を送ることも、民の前に顔を出すことも叶うのだ。遂に、父と娘。親子水入らずで過ごせるのだーー』


 ナターシャは難なく目的を達成し、皇帝を支配した。

 少女は、この時初めて自らが世に生を受けたと実感した。

 ナターシャは、自らの力を制御出来たことを喜んだ。

 それは、強い達成感。心が満たされるような充実感だった。

 母親から、その力は恐ろしい異能だと、『その力を制御し貴女は強くならなければならない。その力に貴女自身が飲まれてはならない』と教わり続けた、『他者を惹き付け意のままに支配するという能力』を、完全に制御し操れるようになったことを喜んだ。


 ニコニコと満足げに笑うナターシャを前にして、皇帝はナターシャの前に跪き、我が子を初めて抱き締め、喜びに涙を流した。

 その場に居合わせた者も、5年の月日の後、初めて抱擁を交わした親子の姿に涙した。


 少女の傍らで事切れた母親の姿を認識出来る者は、その場には誰一人として居なかった。


***


 ナターシャは、傾国の美女である。

 そう呼ぶに相応しい素質と性質を持ち合わせている。

 その二つを存分に活かす知性をも。


 生まれ持った天性の美の力。

 見る者を惹き付ける魅了力。

 見た者を虜にする異端の力。

 ある者が見れば蠱惑的な妖艶ようぜつさを。

 ある者が見れば母性的な柔和にゅうわさを。

 ある者が見れば健康的な溌剌はつらつさを。

 見る者が望む最高の女性像がそこに在り、誰も彼女を拒むことは出来ない。


 生まれた直後自らに仕える筈だった者の命を奪い、5歳で母親の呪縛から逃れ、父親を操り帝国を裏で支配した。

 それから長い時間を費やし、帝国の情報操作を行った。

 皇帝は領土拡大と称し殺戮と略奪を繰り返した。

 民から莫大な税を吸い上げ、その殆どを戦争に費やした。

 帝国を戦争狂の国と位置付けてからは、教国に取り入り勇者を操った。

 勇者を誘導し皇帝と引き合わせ、実の父親を目の前で討たせた。

 皇帝を亡き者にした後は教国の傘下に入ることを望み、勇者の申し出を受け、勇者の妻となった。

 全てが自身の思うが儘。


 ナターシャは退屈だった。

 歯応えの無い生に飽いていた。

 自身の力は何が出来るのだろうか。

 自身の限界はどれくらいなのか。

 操れない存在は居るのか。

 力が通用しない相手は居るのか。

 私と同じレベルの人間は居ないのか。

 本当の私を見ることが出来るは居ないのか。

 それだけがナターシャの行動理由だった。


 淡々と人を操り、大仰に事を荒立て、予定調和を繰り返した。

 全ては自身の思うが儘。

 民を幸せにすることも、不幸にすることも、全て自由に出来た。

 『正しい行いをしなさい』『間違いを犯しなさい』『人に優しくしなさい』『人を傷つけなさい』『助け合いなさい』『足を引っ張り合いなさい』『高め合いなさい』『貶め合いなさい』『善い行いをしなさい』『悪い行いをしなさい』

 全て私が思う儘。

 つまらない。

 結局私は一人きりのままだ。

 あの時、母親を自害させ、皇帝を支配し、己の力を、異端の能力を意の儘に制御してみせたあの時の喜びは、あの達成感は、あれから一度も感じることが出来ない。

 あの時私は生まれ、あの時私は死んだ。

 最早、生を続けることも億劫だ。


 いつしか、そう思う様になっていた。

 勇者と呼ばれる者にも、私を看破することは出来なかった。教国を治める神の遣いとまで呼ばれる指導者ですら私の力に抗えなかった。

 いっそ、私がこの世界の神にでもなってしまおうか。

 それも良いかもしれない。

 もしかしたら私の力に抵抗出来る者が現れるかもしれない。


 そんなとりとめの無い、幼い少女が夢見、何かに憧れ妄想するかのような稚拙な想像を繰り返した。


 ナターシャは孤独だ。

 全能であるが故に、何にでも成れてしまうが故に、自分は何処にも行き着けないという絶望だけが彼女を支配していた。

 それでも、それに抗う様に。

 先の見えない暗闇の中でもがく様に。

 一縷いちるの光が差し込むその時が来る事を願う。

 そして彼女は今日も自分の役目に恭順する。

 怠惰に。惰性的に。ただ自身に与えた役柄を演じる。


 これまでも。

 これからも。

 彼女は自らを演じていく。


(To be continued)

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