恋愛の天使
それからそのまじないをするには二週間を要した。材料の一つに経血が入用だったため、柳は生理が来るのを待っていたのだ。生理二日目の身体の倦怠感、全身の血が重く感じられて、下腹部の子宮には鉛を詰め込まれたようだ。月の美しい夜、時刻は零時を回ったころ。一切の電化製品の電源をおとし、窓を開け放つ。むわっとした、夏の夜の熱い風が吹き込んできて、虫の声が遠くに聞こえた。火災報知器の電源も落としたことを確認して、蝋燭に火を灯す。ちらちらと揺れる炎は、柳の心のようだった。蝋燭の下には、A4版の白い紙と、あの本がまじないのページをあけて置いてある。ざっくりとした手順を説明しておくと、深夜に、部屋の中のあらゆる人工的なあかりを消し、紙に経血を用いて魔法陣を描いたら、窓の外にその紙を飛ばす。そんな薄ら狂気地味た儀式だ。柳は、自分の下着の中に手を入れ、生暖かい血を指ですくう。粘度の高い血が手首まで垂れて気持ちが悪い。柳は紙に指を落として、見様見真似で魔法陣を描いていく。円や文字を書き連ねているうちに、指はどす黒い赤に染まり、爪の中にも血が入り込んでいた。ぽたぽたとあちこちに垂れた赤い汁、紙にこびりついたレバーのような固形物に、吐き気を催さずにはいられなかった。真夜中の狂気、悪夢のような儀式。長い時間をかけて、魔法陣を書き上げたときには、あたりはすっかり経血独特の生臭い、鉄の臭いが広がっていた。生暖かい風と相まって、ここは地獄と見まごうばかりの光景だ。柳は紙を手に取り、窓から身を乗り出す。しかし、そこで急に我に返った。自分はなんて馬鹿なことをしているのだろう。こんなことをしたって、恋愛の天使なんて空想の産物があらわれるはずもない。ましてや、落ちていった紙を近所の人に見られでもしたら、一大事だ。慌ててそれを破ろうとした直後、紙は風にさらわれて、空高く舞い上がった。しまった、と思って柳は急いで外へ出ようとしたが、足は止まる。紙が不自然に宙に浮いているのだ。空中の一点で、止まったまま動かない。あっけにとられて見つめていると、魔法陣を描く赤い線がぼんやりと発光を始める。光は瞬く間に強くなり、柳は思わず目をつぶってしまった。瞼の裏の鮮明な赤と毛細血管。それが暗くなり、光が収まったことを判断して目を開ければ、そこに紙はなく、羽の生えた人間のような生き物がふわふわと浮かんでいた。それは、重力など関係がないというように柳に近づき、きわめて穏やかで丁寧に話しかけた。
「こんばんは、どうか私を怖がらないでください。ね?」
男性とも女性ともつかない、それは人型をとってはいるがなんとも形容しがたい容貌をしていた。胸は平らで、肩幅もあるが、腰は細く手足も華奢だ。どこの国の服ともつかない衣服をまとい、その顔は黒いベールが目元を覆っていて、薄い唇が弧を描いている。肌は、彫刻のように白く滑らかで、一切の生気を感じない。何より、背中に白い翼があるのだ。ひらりと窓を飛び越え、部屋に降り立ったそれは、柳より頭二つ分くらいは大きかった。
「まずは、電気をつけましょう。それから冷房も。お話はその後でしましょうね。」
その優し気で落ち着いた声に、柳は不審者として通報することもできずに指示に従った。電気をつけて明るくなった部屋では、血まみれの机回りの惨劇がひどく目立つ。冷房の涼しい風に乗って、やはり血の臭いが蔓延る。柳は黙ったままだった。
「それから、あなたは手を洗ってください。部屋は…まあ、私が掃除しておきます。」
手を洗った柳が部屋に戻ると、机まわりは元通り綺麗に片づけられていて、ほのかにラベンダーの消臭剤の香りさえした。件の羽の生えた人間は、窓枠に腰かけ、柳の姿を見て微笑む。柳は後ろ手にスマホを持ち、110番をダイヤルしておいた。
「それで、あなたはどちら様なのですか?」
柳が初めて口を開く、口内はからからに乾いていて、声は掠れていた。
「私は、恋愛の天使、イフと申します。あなたの召喚に答えて、ここに参上しました。」
柳からなんの返答もないことがわかると、イフは自分の話を進める。
「召喚に応じて私がして差し上げられることは、あなたの恋愛を手助けすること。具体的に言えば、あなたを『もし』の世界に連れていくことができます。」
「も、し。」
「ええ、『もし』の世界です。ただし、一度に変えられる事実は一つまでです。つまり、『もし私がお金持ちで健康体だったら』などということはできません。また、連れていける世界は三つまでという制限があります。」
イフの声はうっとりするほど美しく、柳の心にしみこんでいった。催眠術にかかるかのように、思考能力が奪われるような気がして、スマホはとうに落としてしまっていた。
「それから最後に一つ、あなたの死後に代償として魂をいただきます。」
その言葉には、さすがに柳は違和感を覚えた。天使というよりかは、まるで悪魔じゃないか。しかし、柳が怪訝な顔をしたのを勘づいたのか、イフは甘い言葉をつづける。
「でも、気に入った世界があればそこに住めば良いのですよ。あなたの好きな人の隣で暮らせる世界で、死ぬまでは幸せに過ごせばいい。悪い話ではないでしょう?」
柔らかな喋り方は静かに柳の心を揺さぶっていく。柳は現状を思い出した。狂おしいほどの熱量は一片たりともぶつけられず、恋情は鎖のように心臓を締め上げる。ただ、恋しい人の背を見つめているだけの毎日。たしかにそんな毎日を送るくらいなら、この妖しい誘いに乗ってしまったほうが何か変わるのではないか。回転木馬のような、観覧車のような、この生活が変わるのではないか。柳は乾いてくっついた唇を無理やりはがした。
「あの……ぜひ、お願いします。」
天使はにっこりと微笑み、小指を差し出した。柳もおそるおそる小指を絡める。体温のない小指はひどく不気味に思ったが、絡めた小指を軽く上下に揺すり、その契約は完了した。
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