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まっしゅ

あなたの恋を叶える本

 柳というのは不運というか、薄幸というか、寂しい娘だった。両親の愛にも恵まれなかった。父はまだ柳が幼い頃居なくなり、母は最低限のお金を与えるだけで、またその母もいつの間にか家に帰ってこなくなった。柳は、病弱で家にこもりがちだったせいで、対人関係を築くのがとにかく苦手なため、友達も少ない。なにより間も悪かったし、努力もなかなか報われないような、そんな人生を送って十九年、大学一年生になった。第一志望でも十分な実力はあったが、運悪く第二志望の大学へ行くことになったのだ。毎朝、姿見の前に立てば冴えない女が映る。艶のない髪は無造作に肩のあたりを跳ね回っている。太陽を愛さない青白い肌に、線の細い身体。長いまつ毛と不健康にぎょろつく大きな瞳。それでいてやけに唇や鼻の形は整っているので、彼女の姿は手入れを忘れられた人形のようだった。洗濯された染みひとつない灰色のブラウスに、黒いフレアスカートを着ていて、彼女はこういった地味な服装を好んだ。身支度を整えた柳は、鞄と日傘を持ってきっかり八時二十五分三十三秒に家を出るのだ。アパートの階段を下りれば、真夏のぎらぎら照り付ける太陽の光の中を、ちょうどぴったりのタイミングで一人の少女が、真っ黒な影を作って歩いていた。真っ白なセーラー服に光が反射して眩しいくらいで、日焼けした肌ににじむ汗がつやつやしている。彼女は桐という名の、柳の住むアパートの数軒となりに住んでいる中学一年生の少女だ。ものすごく美人ではないが、愛嬌のある顔立ちと、短く切られた黒髪。制服から伸びる健やかな手足は、うっすらと筋肉がついているが、未発達な危うさを感じさせる。さて、なぜ柳がこの桐という少女の後ろを付いていく時間帯に出かけるかというと、答えは単純に柳が桐に特別な想いを抱いているからだ。柳と桐は昔から近所にすんでいる顔なじみだが、もう数年も前から柳には一種異様な想いがあった。それはたぶん恋なのだ。少なくとも柳はそう認識していた。六つも下の同性に恋と表す感情を抱くなど、ばからしいことだが、柳は本気だった。それなら、話しかければよい、おはようと朝の挨拶をしてもよい間柄だ。それができないのは、柳の不器用なところである。桐の背中を、うっすら透ける下着、スカートがひらめくたびにのぞく白い太ももと、ずり落ちた靴下の日焼けと白肌の境目を愛でながら、今日もただ後ろを付いていくのみだった。

 授業は終わり、再び焦げ付くアスファルトをとぼとぼ歩いて帰路につく。毎日の変わらぬルーチンワークは回転木馬のように、あるいは観覧車のように回っていく。しかし、今日だけは柳の目にふと古本屋がはいった。チェーン店を構える大きな古本屋ではなく、シャッターの並ぶ商店街に、ぽつんとある小さな店。入った所で、回転木馬がジェットコースターになるはずもないのだが、すこしでも刺激を求めた柳は店内に入っていった。重いガラスの扉を開けた瞬間、広がる紙と埃の臭い。店主であろう老人がかるく会釈をする。愛想はないが、人嫌いの柳にはむしろ話しかけられない方が好都合だった。店内は薄暗く、埃っぽく、どことなく心地の良い空間だ。狭い空間にぎゅうぎゅうと本棚が詰め込まれていて、その本棚にもまた本がこれでもかと詰め込まれていて、さらにはみ出した本が平台に雑多におかれていた。特に分類わけはされていないらしく、古雑誌の隣に官能小説が置いてあったりする。柳は自分の好きなサスペンスはないかと本棚に目を滑らせていたが、ふと一際変わった色彩の本を見つけた。一面のセピア色の中、それだけが薄桃色で、手にとってみたくて仕方がなくなるのだ。少し背伸びをして、その本を本棚から抜き出すと、それはしっくりと手になじんだ。表紙が滑らかで、もう二度とこの本を手放せないような感覚に陥る。背表紙には題名が書かれていなかったのだが、表紙には古ぼけた字体でこう書かれていた。

「あなたの恋を叶える本」

安っぽい恋愛ハウツー本のような題名だったが、柳はこれを棚に戻すことはできなかった。操られるマリオネットのように妙にぎこちない動きで、本をレジへ持っていく。店主は、本の裏を見て、表を見て、値札が無いのを確認すると、百円です、とだけ呟いた。財布に千円と少ししか入っていなかった柳は、店主が沈黙したときに一瞬ひやりとしたが、良心的な値段に胸をなでおろして、会計を済ませた。丁寧に包まれた紙袋を小脇に抱えて店を出れば、先ほどまでの灼けつくような太陽はすっかり厚い雲に覆われてしまっている。雨の日の匂い、それはしっとりした草や土の匂いだろうか、を感じたところで、早足で家へと急いだ。

 さて、家に帰った柳は、シャワーを浴びて、部屋着に着替えて、まあそんなどうでもいいことをこなしたあとに、あの本を開いた。ぺらぺらと乾いた音をたててページがめくられる。ただし、その内容は柳が思っていたような、劇的に何かを変えるようなものはなかった。気になる人には積極的に声をかけよう、その人がなにをしたら喜ぶかを考えよう、等々。それが当たり前にできるのだったら何も苦労しない。柳はそういった当たり前のことをするのが大の苦手だった。結局特に収穫はなかったかと、最後のページを見たとき、あまりの衝撃に手を止めた。描かれていたのは、ページいっぱいの魔法陣。もう片方のページのタイトルは、「恋の天使を呼び出す方法」とあり、その下に細やかにおまじないの手順が書かれている。それは普通の人が見ればばからしいものだと思ったかもしれないが、柳はもうこれしかないと思い込んでしまった。







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