第14話 淫靡

 結局、クローチェ魔導少将ことアゼレアは翌日まで眠ったままだった。

 彼女曰く「魔力が回復していない」ということだったので、アゼレアも暫く俺と一緒の宿に滞在することになる。


 宿の宿泊費は俺が支払うことにして、アゼレアの部屋は俺が最初に泊まっていた部屋にして、俺の部屋は丁度隣の部屋が空いたので女将さんの計らいでそこを借りることにしたのだが、アゼレアは自分が来ていた制服以外に何も持っていないので生活必需品と着替えを俺のストレージから用意することにした。


 体調が落ち着いたアゼレアと再度話をしたところ、あの雪の中行き倒れていた原因も分かった。国防軍の軍事機密のために詳しいことまでは教えてもらえなかったが、彼女は元々魔王領の『魔研』と呼ばれる国防省魔法技術研究本部の研究施設において転移魔法の実験に参加していたらしい。


 しかし、実験の最終日に突如事故が発生して転移魔法陣が暴走し、逆流した魔力によって身体中に激痛のような痺れが走る中、自分の視界が真っ白になったかと思ったら次の瞬間にはシグマ大帝国の帝都ベルサに飛ばされていたとのことだ。因みに彼女は俺に聞くまでここを魔王領の何処かの街だと思っていたらしく、自分が今いる場所が実はシグマ大帝国の帝都であるということを聞いて酷く動揺していた。



「事故とはいえ、不法入国をしてしまうなんて……」



 魔王領とシグマ大帝国は友好国ではあるが同盟国ではない。

 また、軍事的な結びつきも魔族と人間故に薄く、シグマ大帝国軍は第二都市『メンデル』に司令部を置く[帝国軍西部方面軍管区]以外は基本的に人間種主体の軍であり、帝国軍以外の各省庁所属の軍や治安部隊も人間種が主体だ。


 その為、アゼレアが街中をうろついているときに警察官や兵士に職務質問された場合、不法入国として逮捕される恐れがある。なので、当面アゼレアは宿の中だけで過ごして貰うことになったのだが、彼女のように長身で赤い瞳を持つ者などそうそういないので街中を歩くとそれだけで目立ちまくるという理由もある。


 本来であれば魔王領の大使館があるメンデルまで秘密裏に移動して大使館職員に保護を要請するのが筋なのだが、彼女は移動のための金銭の類を殆ど所持していなかったので、俺が旅費を負担して彼女と共にメンデルまで向かうことになった。


 ……なったのだが、ここで問題が発生してしまう。

 それは俺が現在ギルドにて冒険者基礎講習を受講している最中なのだ。しかも、この基礎講習は冒険者登録申請を出したギルドの支部でしか受けられない。


 なので俺はギルド・シグマ大帝国帝都支部に適当な理由を付けてメンデルの支部で基礎講習を受講したいと申し出たのだが、制度上不可能だと言われてしまった。また、病気や怪我などの特別な理由以外で受講を辞退した場合、保証金が帰ってこないことは勿論のこと、基礎講習を半年間受講できないというペナルティも発生するらしい。


 恐らく冒険者という職業が保証金を払える金持ちの道楽となったりしないように本気で冒険者を志望する者だけを受け入れるための仕組みだと思うが、半年も受講できないのは痛い。そういうことでアゼレアと話し合った結果、俺の基礎講習が終わって晴れてギルドの冒険者として登録が終わってからメンデルへと移動することになった。


 そしてもう一つ問題が発生していた。

 それは俺ではなくアゼレアの方に……だ。



「まさか事故から二十一年もの歳月が経過しているだなんて……」



 そう。

 問題とはアゼレアが事故に巻き込まれた日から21年という時間が経過していたことだった。最初アゼレアは場所だけが違うところに転移していたと思っていたのだが、何気なく俺に日付を聞いた際に場所どころか時間さえも大きく飛び越えていたことが判明する。



「因みによ孝司? 今日は何年何月何日なのかしら?」


「えっと、今日は明暦1868年の2月15日だね」



 そういってモバイル端末のカレンダー機能を見ながら言ったことに対してアゼレアは固まっていた。そして俺の顔を見て苦笑しながらもう一度年月日を聞いてきたので同じことを言ったのだが、最初彼女は冗談だと思っていたらしい。



「もう孝司ったら冗談が下手ね。

 いくら転移魔法に失敗したとはいえ、時間まで飛び越える筈がないわ」


「いや、冗談ではなくて本当に今日は明暦1868年2月15日の土曜日なんだけれど……」


「え? 嘘でしょう?」


「いやいや、本当なんだけどね」


「嘘……本当に? 本当なの?」


「ウンウン」



 しかし、俺が同じ事しか答えないことに対してようやく事態を飲み込んだアゼレアはシグマ大帝国に転移したことを知ったときより動揺して慌てていた。



「信じられない。 まさか跳躍目標地点を大幅にズレた場所へ転移しただけではなく、時間さえも大幅に飛び越えていただなんて……」


「……そういえば今思い出したんだけれど、知り合いの冒険者に魔導士がいるんだけどね。

 その娘が以前、魔王領で大規模な転移魔法の実験で事故が起きて人が死んだって聞いたんだ。

 もしかして、その事故ってアゼレアが巻き込まれたやつじゃないかな?」


「私が飛ばされた後に事故が発生していなければ孝司の言う通りでしょうね。

 っと言うか、人が死んだって何?

 まさか私は既に死んだことになっているの!?

 それとも所長かフレア達の誰かが死んだってこと!?」


「ぐえぇぇぇぇ!?

 ア、アゼレア……苦しい! 手を…………ッ!!」



 こちらに半ばキレたというか狼狽した様子で詰め寄って来たアゼレアに服の胸元を掴まれ、俺はそのまま上へと持ち上げられる。相手が長身のため持ち上げられた俺は床から浮いた状態の足をプラプラとさせることしかできないでいた。


 傍から見たら異様な光景だろう。長身とはいえ、若い女性が体重60キロを超える成人男性を楽々と持ち上げて締め上げているのだ。しかも、持ち上げている方は全く疲れた様子もその細い腕が震えている様子も見受けられない。


 いくら魔族と人間では筋力が違うとはいえ、女性がここまで怪力じみた力を持っているなどと普通では考えられないだろう。俺は締め上げられたことで呼吸がままならなくなり。アゼレアの腕をパンパンと叩いてタップする。



「あ、ごめんなさい……」


「…………ゴォホ! ゲッホ、ゲホゲホ……! 死ぬかと思った……」



 はたと気づいたアゼレアは慌てて俺を床に下ろして解放してくれたおかげで呼吸が楽になり、肺に一気に空気が入ってきたせいで激しく咳き込む。危うく死にかけて、三途の川が見えるところだった。



「ゲホ、ゴホ……ところで時間を飛び越えてって言っていたけれど、一体どういうことなの?」


「ええ。 私が転移魔法の実験に参加していたのが明暦一八四五年の二月九日よ。

 でも孝司が私に言った今日が明暦一八六八年二月十五日……」


「あ……!?」



 アゼレアに日付を言われて俺も驚いた。

 彼女は何と21年も前の時代からこの時代にタイムスリップしてきていたのだ。







 ◇






「ハア……」



 アゼレアは今日既に何回めかもわからない溜息をついていた。

 俺から今日の日付を聞いてからずうっとこんな感じでいるのだが、まあ彼女が溜息を吐きたくなる気持ちも分からなくはない。



「いや、もう諦めようよ? アゼレア」


「違うの孝司。

 私が溜息ついているのは二十年以上もの間、家族や軍と音信不通だったことに対して悩んでいるのよ」


「ああ、そうなんだ……」


「ええ。

 いくら魔族が長耳族と同じように長命な種族とはいえ、二十年という歳月の経過は大きいわ。

 私が一兵卒だったり、普通の家庭に生まれていたらまた別なのでしょうけれど……」


「そっか……そうだよね」



 確かにアゼレアの言う通り、彼女が普通の一兵卒の軍人だったらさして問題ではなかっただろう。いや、普通の兵士でも突如行方不明になれば大騒ぎだが、それも一時的であり、軍隊にとっては何処にでもいる兵士がいなくなったという問題でしかない。


 しかし彼女の階級は実質的に中将の階級に相当する魔導少将。

 軍隊において現役の将官がいきなり一人いなくなるというのは一種のスキャンダルだ。いくら魔族が人間以上に長命だったとしても、20年もの間行方不明というのはほぼ死亡したと思われても仕方がないことだろう。


 それにアゼレアから聞いて初めて知ったことなのだが、彼女は戦略級攻撃魔法という中規模程度の国土を持つ国なら一撃で滅亡させられる威力……地球の感覚で見た場合、戦略核兵器にも相当する超強力な破壊力を持つ魔法を単騎で行使できるとのこと。そしてそれを表すかのように制服に佩用している魔法仗が交差された状態を象った金色に輝く『特・戦略級魔法戦技章』を俺に見せてくれた。


 戦略級攻撃魔法を個人単位で使える種族は魔法に長けた魔族と長耳族、あとはごく一部の獣人だけであり、人間種や殆どの獣人族は集団での運用しかできないらしく、厳格な使用手順が定められている。また、戦略級攻撃魔法を扱える魔導士は国家によって国外への渡航が厳しく制限されており、無許可での国外渡航は状況にもよるが、最大で極刑もあり得るそうだ。


 特にアゼレアの場合、戦略級・戦術級攻撃魔法以外にもそれらの魔法に匹敵する様々な魔法を使うことができるそうで、魔王領の同盟国や友好国を含めた各国からマークされているらしく、俺たちがいるこのシグマ大帝国も勿論そのひとつである。


 はっきり言ってアゼレアは俺から見たら重武装の戦略型原潜と攻撃型原潜を合わせた存在が人間の形をして歩き回っているようなもので、「よく他国から暗殺されたり誘拐されたりしないな……」と内心思ってしまった。


 これだけ聞くと個人に戦略核兵器の運用を任せているのとほぼ変わらず、魔導士個人の悪意や事故で安易に使用されないとも限らない。なのでこれら戦略級・戦術級軍用魔法には発動キーならぬ発動術式がないと使用できない仕組みになっている。


 この発動術式はそれぞれ各国の軍司令部で厳重に管理されており、しかも使用は一回限りの使い捨てであるため取り扱い魔導士本人が軍から渡された発動術式を暗記していたとしても再使用は出来ない仕組みになっていたりと結構面倒くさい発動手順があるようだ。



「まあ、自分の意思ではなく事故でこの時代のこの国まで飛ばされてきたのだから、重い処罰を受けないとは思うけれど、二十年もの間連絡を取れなかった理由が時間そのものを飛び越えていたという俄かに信じられない事象の証明ができないと不味いでしょうね」


「え? 証明って……でも、それは不可能に近いよ?

 俺が見たのはアゼレアが雪の中行き倒れそうになってる姿であって、時間を飛び越えてきた瞬間は見ていないからね」


「そうなのよね……」


「それより俺はアゼレアそのものが驚きの対象だよ。

 魔王軍の将軍で戦略級攻撃魔法と戦術級攻撃魔法の使い手、でもって実家が吸血族大公家とか……もう自分という存在が小っぽけ過ぎて情けなくなってくる……」



 そう、アゼレアがただの魔族軍人ではないことはもう既に分かったことだが、彼女の出自もまともではなかった。彼女の実家は『吸血族大公家』という魔族の中でも龍族とともに古い伝統を持つ魔王領大貴族の筆頭であり、父親は吸血族の族長で母親は淫魔族の族長という魔族生粋のお姫様でもあるという。


 でもって父親は元魔王領国防軍の陸軍元帥でアゼレアが事故に巻き込まれた当時は国防大臣、母親は保健省薬物対策審議官で元軍医、姉は現役の国防軍の軍医であり医療魔導大佐という絵に描いたような軍閥家系だった。



「魔王領にいた頃もよく言われたわ。

 まるで絵に描いたような家庭だって……」


「だろうね。 ところで、戻るのは良いとして魔力は回復しているの?」


「わからないわ。

 頭痛や目眩はないけれど、体の中で魔力を練って外に出せないからやっぱり回復していないのでしょうね……」


「そうかぁ……で、魔力ってどれくらいの期間で回復するか分かる?」


「今まで魔力が無くなるなんてこと経験してないから私もさっぱり分からないし、どれくらいの期間で元に戻るのか予想もつかないわ」


「うーむ」


「せめて少しでも魔力が回復すれば浄化魔法の類を使って体を綺麗にできるんだけれど……」



 そう言いつつアゼレアは己の体をあちこち見回す。どうやら魔導士である彼女は風呂に入れない環境下の場合、浄化魔法で自分の体を綺麗に保っていたらしい。体を休めてリフレッシュするのなら風呂が一番なのだろうが、戦闘地域や上下水道が満足に整備されていない場所ではそういう贅沢は味わえないので衛生を保つ意味でも魔導士は浄化魔法の術式を最初に覚えるらしい。



「うーん、ねえアゼレア?

 この宿の近くに公衆浴場があるんだけれど行ってみないかい?」


「公衆浴場? 駄目よ、行けないわ……」


「そう」



 やっぱりアレなのだろうか?

 文化の違いとかで知らない他人の前で肌を晒したり、同じ浴槽に浸かることに抵抗感があるのだろうか?



「私みたいな背の高いデカブツ女が人間種の多い街の公衆浴場に行ったら目立ちまくって、すぐにシグマの憲兵や警官が様子を見にやって来るわよ?」


「あー、そっかぁ……」



 だが浄化魔法が使えないのならば、なおさら風呂の存在は大きい。

 俺も日本にいた頃、怪我で2週間ほど入院したことがあるが、風呂に入れなかったため看護師さんが持ってきた熱い濡れタオルで体を拭いていたが、タオルの洗濯が不十分だと生乾きの臭いと人間の垢が腐った特有の匂いがして使う気になれなかったり、頭や股間など本来シャンプーや石鹸でガシガシ洗わなければいけない部位が時間の経過と共にかなり臭うようになった。


 男である俺であってもそんな状況はかなり不快に感じるのに、軍人とはいえ妙齢の女性で魔族の貴族出身のアゼレアにとって風呂に入れないという状況はかなり辛いことだろう。どうにかして彼女の衛生環境を守ってあげたいところである。



「うーむ……アゼレア、ちょっと外出してくるけれど大丈夫かな?」


「ええ。 構わないけれど……」


「じゃあ、ちょっと行ってくるね」


「気をつけて行ってらっしゃい」



 俺は部屋を出てある場所を目指すために宿泊しているの宿を出て行った。






 ◇






「ん〜っ! 気持ち良いわぁー!」



 私が今いる場所はシグマ大帝国の帝都ベルサにいくつか存在する公衆浴場のひとつだ。魔王領と同じく上下水道が整備されているシグマ大帝国では風呂は娯楽のひとつでもあるのだが、貴族や企業経営者などと違い一般家庭には風呂場が普及していない場合が多く、庶民はこのような公衆浴場で汗や垢を落とす。


 この国に飛ばされてもう一週間近くが経とうとしているが、魔力が枯渇している自分では浄化魔法が使えない上に不法入国のような形でこの国に来てしまった以上、迂闊に出歩けば警官や兵に見つかる可能性がある。


 特に魔族を含む平均的な女性の身長よりはるかに高い私では街中を歩こうものならかなり目立ってしまうことだろう。そのため公衆浴場に行くこともできず、できることといえば濡らした布で体を拭くしかないと半ば諦めていたのだが、彼が……孝司が公衆浴場の経営者に多額の金銭を払うことで全ての客が帰った後の営業時間終了後に入浴させてもらうことになった



「孝司には感謝してもしきれないわね……」



 運が良かったのだと思う。

 仮に私を保護したのが彼以外であった場合、どうなっていたのかと想像するのも恐ろしい。警察や帝国軍に引き渡されるのならまだマシだが、下手をすれば貞操を奪われるどころか体がバラバラに解体されていても不思議ではない。

 


(それにしても二十年か……)



 転移魔法の実験失敗による事故から二十一年。

 まさか場所どころか時間さえも飛び越えていたとは驚きだった



(魔王領は今頃どうなっているのかしらねぇ?)



 父や母、姉や部下たちは元気にしているのだろうか?

 実験施設に一緒にいたフレアや所長は無事だと良いが、いかんせん確認する術がないのでどうしようもない。


 シグマ大帝国は政治的・宗教的・種族的な理由で帝都ベルサには人間種以外の種族国家が大使館や領事館を置くことを嫌がっているため、これら他種族国家の施設は第二都市メンデルに集中している。



(あれから二十一年。 もし、所長が転移魔法の完全実用化に漕ぎ着けていないのならば、私は未だに転移魔法を利用できないことになるわね)



 転移魔法を使えないとなれば鉄道での移動が現実的だが、列車に乗るとなれば車内での公安官による身分証と切符の確認は回避できない。外国人の場合、更に旅券の確認もあるので身分証と切符だけ持っていれば良いという問題ではない。


 仮に旅券不携帯で捕まった場合、すぐさま自分が不法入国していることが明るみに出るだろう。しかも、理由を上手く説明できないので話はよりややこしいものになる。自分の身分が現在の魔王領でどのように扱われているのかは分からないが、現役にしろ元にしろ国防省保安本部の魔導少将が不法入国で捕まったとなれば笑い事では済まされないだろう。


 淫魔族が得意とする精神系魔法で公安官の意識や記憶を操作するという手もあるが個室の席なら兎も角、相席が普通である客車の場合精神系魔法を使うとすると公安官だけではなく、客車にいる者達全員に術式を使うことになるのであまり良い選択とは言えない。



(どうにかして秘密裏に魔王領に戻る算段をつけないと……それにしても孝司は何故ここまで見ず知らずの私に世話を焼いてくれるのだろう?)



 最初は私が女だから何か下心があってのものかと思っていたが、宿の経営者に対する私のことを秘密にするために支払ったという口止め料、それとは別に支払っている宿泊費にどこか洗礼された印象がある着替えや日用品、そしてこの公衆浴場の経営者に支払った賄賂。


 これだけ見てもかなりの金額を消費しているのに、当の本人は最初に私が着ていた制服を脱がして着替えさせた以外では私に触りもしない。しかも彼はあれだけの金を使ったことから、てっきりどこかの経営者なり官僚や政治家の子弟と思っていたのだが、本人に直接聞いたところどうやらその予想は間違いだったらしく、彼は一人で日々冒険者になるためにギルドの支部に通っている。



(日本……か)



 孝司が自分の顔より先に見せてくれた身分証は今でもはっきりと記憶に焼き付いている。陸軍から国防省保安本部に転属になった際に、部内研修で教わった見たものを写真や絵のように記憶する技術によって彼の身分証を今見たように思い出す。


 身分証の発行元はギルドではなく『日本』という国だった。

 そして日本という単語は時折聞く言葉だった。まずもって自分たちが話している言葉が『ニホン語』と呼ばれているが、今までこのニホン語という言語が何処から来てどうやって広まったのかが分からずに調べている言語学者はいた。が、終ぞ「これだ!」という決定的なものは出てこなかった。


 そんなところに出身国が『ニホン』という者が現れたのだ。まさかニホンが国名とは思わなかったが、日本から来たというだけでもかなり興味深い。今まで百年以上軍の中で過ごしていたお陰で冒険者と全く関わる機会がなかったので、彼が何を目的として冒険者を目指しているのか個人的にも非常に気になる。



(悪い人……ではないのよね?)



 『孝司 榎本』という人物が悪い者ではないというのは直感で分かる。

 国防軍の少将として今まで様々な者たちを見てきた。戦友達はもちろん、合同演習で一緒に肩を並べた同盟国の将兵達、戦闘で直接刃を交わした敵兵に一筋縄ではいかない外務省の外交官、中央議会の議員などなど敵味方それぞれの者達と比べれば彼はこちらが心配になるくらいに超が付くほどのお人好しだ。


 出自が[日本国]という何処に存在しているのか分からない国の出身ではあるが、ギルドで冒険者基礎講習を受講できるということは最低限の身元調査は完了しているという証しでもある。彼さえ良ければ、魔王領まで付き合ってもらって軍人として、大公家の者として正式に礼をしたいところだ。



(まあ、それにしたって魔王領に戻って直ぐとはいかないでしょうけれど、それでも何もお礼をしなかったら、クローチェ大公家の名折れだわ)



 孝司の冒険者基礎講習修了は約一ヶ月後。

 それからメンデルまで順調に移動して、そこからまた移動してバルト永世中立王国を経由して魔王領へと着くのに更に一ヶ月ほど見ておかないといけないだろう。



(二十年も時間が経過しているのだから、せめて交通技術が少しでも進歩していれば良いのだけれど……)

 


 当時でも魔法・科学技術の進歩には目を見張るものがあった。

 それから二十一年も時間が経過しているのだ。その間に何か革新的な技術の発達によって魔王領までの道程が短縮されていることを願うばかりである。



「ふう。 さてと、いつまでもこうしているのは無理ね」



 本来ならば、この公衆浴場は営業時間を終了している筈なのだ。

 それを孝司が秘密裏に迷惑料と言う名の賄賂を払うことで、誰の目にも晒されることなくこうして自由に入浴できる。しかしながら、いつまでも孝司や従業員達を待たせるのは申し訳ない――――そう思いながら、アゼレアは浴槽から出て脱衣所へと向かう。


 もしこの時間が公衆浴場の営業時間帯であったならば、他の女性客はこの日入浴のために訪れたことを後悔したことだろう。長身で且つ均整のとれた体格に引き締まった腰回り、美しい曲線を描く長い脚、世界中の女性が欲するであろう大きくありながら素晴らしい造形を持つ胸、全体的にただ単に肉付きが良いだけではなく、鍛えられることで得られる筋肉が締まった力強く適度なしなやかさを持つ肢体は一流の彫刻家が「美しい女性の身体とは斯くあるべき」と理想として描いている女性としての美がその体にはこれでもかと詰まっていた。


 その上で血管が透けない程度に健康的な赤みを持つ白い肌は絵で描くことが困難なほどで、もし仮に彼女の肢体を見た女性客は己の身体をその目で見下ろして「何故、私は?」と疑問を持ち、その後で世の理不尽さを恨んだことだろう。



「ああ〜、気持ち良かったわ。 ありがとう。

 また来させていただくことになると思うわ」


「あ、はい。 ありがとうございました……」



 そう言って湯で上気した肌を孝司から渡されたバスタオルで水気を吹き上げたアゼレアは服を纏い脱衣所を出て、受付前を掃除していた女性の従業員に礼を言って公衆浴場を出る。



「…………………………」



 彼女から礼を言われた公衆浴場の経営者の娘であり従業員である今年十七歳になる彼女は颯爽と去って行くアゼレアを黙って見送る。娘はアゼレアが入浴するために服を脱いだときに見た彼女の驚愕すべき裸体を思い出し、自分の胸や腰、脚をなぞって最後に自分の身長を測るように頭頂部に手をかざした後で理想と現実の差を……世の不公平さを思い知らされて心の中で酷く嘆いたのだった。






 ◇






『ふーむ、転移魔法のう……』


「ええ。

 まさか転移魔法の事故によって彼女がここまで飛ばされたとは驚きですよ。

 しかも21年前の過去からタイムスリップして来ていたとか……」


『で? そのアゼレアとかいう女魔族はそこに居るのかえ?』


「いえ、彼女は今風呂に入るために公衆浴場に行っています。

 そうじゃないとこうしてイーシアさんと話は出来ませんよ」


『ま、それもそうじゃの。

 ところで孝司、そのアゼレアが事故に巻き込まれた転移魔法じゃが、その転移魔法自体は使えるのかえ?』



 不意に何かを思いついたかのようにイーシアさんがこちらに質問をするが、一体何を思いついたのだろうか?



「どうでしょうか?

 転移魔法の実験自体が軍事機密のようで詳しくは教えてもらってないので、使えるのかどうかさえも分かりません……」


『うーむ、では実験を行っていた者の名前も分からぬということかえ?』


「ええ。 彼女からは事故の瞬間しか聞いてないですね」


『そうなのじゃな……』



 モバイル端末の画面の中でイーシアさんは顎に手を添えて思案顔になり「うーむ」とか「むむむっ」とか呻りながら何か考えているようだが、これまでの短い付き合いでこのエロ神様は碌なことをしないので敢えてその様子を無視する。


 因みに俺が今いる場所はアゼレアが止まっている部屋の隣の部屋である。彼女が風呂に言ったのを見送ってこれまでの経緯をイーシアさんに報告しているのだ。


 本来ならばメールで報告書を送付しても良かったのだが、アゼレアと彼女が経験した転移魔法の事故について文字ではなく、口頭で伝えた方が手っ取り早いと考えてこうして回線を開いてイーシアさんと直接会話をしていた。



『それにしても儂がそちらの世界の面倒を見ぬうちに随分と進歩しておるようじゃのう?』


「そうですね。 まだこの街の一部しか見ていませんが、異世界に来たというよりは昔のヨーロッパにタイムスリップしたんじゃないかと思うときがあります。

 まあ、獣人やエルフを見たらそんな錯覚も吹き飛びますが……」


『ふむ……それにしてもこれはもしかしたら、孝司は運が良かったのかもしれんのう』


「は? どういうことですか?」


(自分の運が良い? 一体、どういうこと?)



 イーシアさんは一体何を思って俺が運が良いと言っているのだろうか?



(もしかしてアゼレアのことを指しているのだろうか?)



 確かに目の前のエロ神様に負けず劣らずの絶世の美女だし、魔王領の有力魔族の娘で且つ魔王軍の現役の将官という強大なコネが出来たことは確かに運が良いのかもしれない。



『分らぬのかえ?

 事故とはいえ時空さえも飛び越える転移魔法の被験者と出会えたのじゃ。

 もしかしたら、その実験を行った研究者なり責任者となりアゼレアという娘を通して知り合う機会があるやもしれぬのじゃぞ?

 事故から21年という時間が経過しておるのじゃ、それだけの期間があれば事故の原因究明を行って転移魔法の更なる実用化に繋がっていてもおかしくはあるまい?

 そうなれば、彼ら魔族の力を借りて件の転移魔法を応用した上で地球からの被転移者を送り返せるやもしれんぞ?」


「ああっ! なるほど……!」



 言われてみれば確かにそうだ。

 事故とはいえ、時空さえも飛び越えたのだから、応用すれば次元を超えることも可能かもしれない。



『出来るだけ被転生者を元の世界に送り返す作業には儂ら神の力は使わない方が良いからのう。 

 可能ならばそちらの世界の者達の力や技術だけで送り返すことが望ましいからの』


「でもそうなると、どうします?

 アゼレアをメンデルか魔王領まで送り届けるだけと思っていましたが、そうなると対応も変わってくるのですが?」


『ふむ、そうじゃのう……おおっ! 良いことを思いついたぞえ。

 孝司、お主アゼレアと一発ヤるのじゃ』


「はあ!?」



 いきなりこの異世界の神様は何を言っているのだろうか?

 なぜこの流れでアゼレアと一発ヤるという結論に至ったのだ?



『「はあ!?」ではない。

 女ざかりの彼女と親睦を深めるには最適な手じゃろう?』


「いやいやイヤイヤ! それダメでしょう!?

 アゼレアとは知り合ってまだ1週間くらいしか経ってないんですよ。

 それに私は彼女と付き合ってもいないんですから、そんなことできるわけないでしょう!」


『ほほう?

 ということはもう少し時間が経って仲が深まれば、突き合うことも可能だということじゃな?』


「付き合うの字が違うでしょう!? あと時間とかの問題ではないですからね?

 それに……」



 それにアゼレアは魔王領国防軍の現役少将である。

 もちろん彼女に一目惚れしたのは事実だ。この事実を敢えてイーシアさんに言う必要はないが、仮にアゼレアが魔王領に戻るまでの間にあちらにも恋愛感情が芽生えたとしても、一国の軍の将官とただの冒険者候補が吊り合う訳がない。



『ホホホッ! もしかして互いの身分の違いを気にしているのか、孝司?

 お主は末席とはいえ、神の一員じゃぞ。

 神とただの魔族の将軍ではどちらが上か考えるまでもあるまい?』


「いえ、それ知ってるのはイーシアさんと御神さんと俺だけですからね?

 もし俺の正体やイーシアさんのことが彼女にバレたらどうなることか……」


「誰にバレたら……ですって?」


「…………え?」



 “バギンッ!”という金属の断裂する破壊音と共に扉が開くとそこにはパジャマ姿のアゼレアがいた。

こちらの身の毛がよだつほどの怒気と殺気を己の全身に纏って……






 ◇






 “ピピピピッ! ピピピピッ! ピピピピッ!”

 耳に入ってくるけたたましい電子音に眼目が覚める。

 何時もの習慣で手を伸ばしてモバイル端末の画面に触れるとセットしていた目覚まし時計のアプリが解除されて再び室内に静寂が戻る。



「ふぁ〜っ! あー、何か疲れたなぁ……」



 妙に体が怠い。

 イーシアさんに弄られたこの体は前日の疲れを次の日に持ち越さないように、一定時間以上眠ると体のコンディションが最適になるように調整されている。なので朝起きると疲れが無くなって問題なくパッと起きれるようになっている筈なのに、今日に限って体が物凄く怠いのだ。



「何だか微妙に頭痛もするしどうしたんだろう?

 偏頭痛はとっくの昔に治っているんじゃなかったっけ?」



 この世界に来る前は散々偏頭痛に悩まされてきた。

 気圧や天気の変化によるものなのか、頭の右側が締め付けられるような痛みに襲われてその度に頭痛薬を服用していたが、酷い時は頭痛薬さえも効かずに痛みでのたうちまわることもあった。



(あまりにも痛がってたら、家族がしつこく病院に行けって言われて検査したら異常無しって言われたんだよなあ……)



 一度、有給を取って専門の脳神経外科に通院して待合室で多数の爺婆に囲まれながら2時間近くも待たされ、レントゲンやCTを撮ってもらって診察を受けたが診断は特に異常無し。結局、この世界に来るまで悩まされ続けた偏頭痛。


 

(やっとあの痛みから解放されたと思ったのに、またこの頭痛に悩まされるとは此れや如何に?

 それに首筋がチクチクと痛む……って、これは何だ?)



 首に手を当てると何やら違和感があることに気付いた。

 右側の首筋に何かプツッとした感触があるのだ。



(何だこれ? 蚊に刺されたのかな?)



 意識を集中しながら触ってみると、首筋に長時間蚊に吸われてできたような傷のようなモノが2ヶ所並行して存在している。



(兎に角、手鏡を……って、ん!?)



 起き上がろうとした瞬間、左手が何か柔らかいものに触った感触があったので、ドキッと驚きながらも反射的に手を引っ込める。すると視線の先、左手のすぐ傍には俺の着ているパジャマとはまた違う柄のパジャマがあった。



「え!? ア、アゼレア?」


(何でアゼレアが俺のベッドで寝ているの!?)



 驚いたことに俺の隣にアゼレアが寝ていたのだった。



(え? だって、アゼレアの部屋は隣……ああ、そうか、あの後気を失ったまま眠ってしまったのか、俺は…………あぁー!! 思い出した! 寝ていた俺はアゼレアに……ッ!?)



 綺麗サッパリ忘れ去っていた記憶が脳の覚醒と同時に一気に蘇って来る。それと同時に良い歳こいた大人でありながら俺は顔から火が出そうなほどの羞恥に身悶えしてベッドの上でのたうち回る。だが、シングルサイズのベッドに大人が2人寝っ転がっているのだ。俺の腕がアゼレアの体に当たり、その拍子に彼女の目が覚める。



「ふわぁ〜! んん……ん? あら、おはよう孝司。 良く眠れた?」


「え!? いや、良く眠れたとい……う…………か?」



 欠伸をしながら布団から起き上がって伸びをしたアゼレアがこちらに向き合うが、彼女の顔を見た俺は気のせいかと思いながらももう一度彼女の顔を見てから更にその美しい顔を凝視する。相も変わらず人間種の女性では到底太刀打ちできない美しい顔……それは良いだろう。


 ギルドから宿に戻ると満足に外出できない彼女と夕食を食べて就寝までの時間をアゼレアと一緒に洗濯物を畳んだり干したり、明日の準備をしながら彼女の故郷である魔王領の話を聞く。これが一昨日前の夜まで続いていたここ最近の日常だった。


 そして見慣れていた筈のアゼレアの持つ特徴的な紫色の髪と真紅の瞳は彼女の美しい顔の造詣に見事にマッチしていたのだが……



「アゼレア、君のその髪と目はどうしたの?」


「え? 私の髪と目がどうしたのかしら?」


「ほら」



 手取り早く本人が直接見たほうが良いだろうと思い、机の上に置いていた鏡をアゼレアに渡し彼女はまだ半分寝惚けた状態で己の顔を見る。すると徐々に意識が本格的に覚醒し始めたのか、半目状態だった瞼が完全に開いて目が最大限に見開かれる。



「え!? うそ……何これ? 何なのよコレはーッ!!」



 驚くのも無理はない。

 アゼレアの紫色だった髪の色はまるで脱色したかのように色素が薄くなって薄紫色に、磨き抜かれたルビーのように赤かった瞳は赤金色へと変化していたのだ。


 しかし、違和感があったのはそれだけではない。

 アゼレアの口から胸元にかけて着ているパジャマを含めて赤茶色い汚れがべったりと付着しており、髪と瞳の色の変化に気を取られていた彼女もさすがに自分の口が汚れているのに気付いた。



「これって……血? え、何で私の口が血で汚れているのかしら?

 えぇ? 孝司の首筋まで血で汚れて…………ああぁぁーー!!

 わ、私ったら、孝司になんてコトを……ッ!!」



 思い出したのだろう。

 アゼレアは自分の髪を両手でクシャクシャに掻き乱しながら顔面が蒼白になり、文字通り頭を抱えてベッドの上で悶絶する。



「御免なさい、孝司! 私、貴方の血を……!!」


「ま、まあしょうがないよ。 多分、あれは事故みたいなものだし……」


「でも……」


「俺も血を吸われてちょっと体が怠いだけだから……」



 実際には貧血による頭痛もあるのだが、今それを言ったらアゼレアは首を括りかねないので黙っておく。それより気になるのは彼女の容姿が変化していることだ。



「ねえ、アゼレア? 昨日の夜のことはどこまで覚えてる?」


「えっと、イーシア様からいただいてた飲み物を寝る前に飲んで……そう、飲んだあとで寝ていたら体が熱くなって無性に血が欲しくなって孝司の部屋に行って貴方から血を吸って……ダメだわ。

 それ以降の記憶が全くない……」


「うん。 なるほど……」



 やっぱり原因はあのエロ神様のようだ。

 話は俺とイーシアさんがモバイル端末で話をしていた数時間程前まで遡る。


 迂闊にも俺とイーシアさんの会話の一部をアゼレアに聞かれ、それを何らかの企みと早合点して瞬間的にキレた彼女に俺は文字通り締め上げられることになった。


 そのときのアゼレアの恐ろしさは脳裏にはっきり焼き付いている。

 よく漫画などでキレた女性を般若に例えるシーンがあったりするが、般若どころか百鬼夜行と硫黄島での日米激戦の真っ只中に放り込まれた気分で正直生きた心地がしなかった。もしあのときイーシアさんが介入するのが少しでも遅かったら……俺は恐怖のあまり盛大に失禁しているか、首を絞められたことによる呼吸困難で窒息死していたことだろう。


 それほどの恐怖を味わされたあと、この世界の神様であるイーシアさんが俺の後ろ盾として控えていることにアゼレアはかなり驚いている様子で、同じ女性同士話しが合うのかお互いに自己紹介した後の関係はすこぶる良好で見ているこちらも心安らぐ光景であったが……問題はこの後だ。



『ふむ……アゼレアよ。

 お主、転移魔法陣の暴走事故による影響で魔力が枯渇していると言っていたであろう?』


「はい。 その通りです。

 お陰で私の魔力は枯渇したままです」


『ならばアゼレア、お主にコレをやろう』



 そう言ってイーシアさんがアゼレアに渡したのは茶色い遮光ガラスの瓶に入った液体だった。



『コレは栄養ドリンクと言っての。

 まあ要するにお主の魔力量を本来のレベルまで回復させるための薬じゃ。

 こいつを飲んで一晩ゆっくり眠れば明日にはほぼ完全に魔力量が元に戻る』



 もしこれがイーシアさん以外の者だった場合、アゼレアは絶対に栄養ドリンクを飲まなかったことだろう。魔力が枯渇してそれを元に戻したいと内心藁にも縋る思いであったとしても、赤の他人から勧められた正体不明の飲み物に手を付けるほど彼女は落ちぶれていない筈だ。


 普通であれば枯渇した魔力を薬を飲むだけで回復するなど眉唾もいいところだろうと思うが、渡してきた相手はこの世界を管理する神様だ。知り合ってまだ1時間超という時間しか経っていないのにアゼレアはイーシアさんのことを信頼して受け取った栄養ドリンクを飲んで眠りに就いた。


 そして深夜になり、俺も彼女ももそれぞれの部屋で寝ていた筈なのだが、眠れずにいた者が一人いた。

 アゼレアである。本人が言うには薬を飲んでから暫くして体が熱くなり、強い吸血衝動に襲われたと言う。



「自分の中に芽生えた強烈な吸血衝動を何とか抑え込もうと頑張ったのだけれど、ダメだったわ。

 本来、私達吸血族は『吸血』という文字が種族名になっているけれど、他種族の血液を糧に生きていた時代は遥か遠い昔……それこそ何千年も昔のことよ」



 現在の吸血族は吸血の文字こそ入っているが、種族のしきたり以外で吸血行為をすることはなく、また吸血をしなければ生きられないということは一切無い。吸血行為があるとすれば、婚姻の際に新郎新婦であるお互いの血液を口にすることで生涯連れ添うということを誓い合う証にするくらいなのだという。


 そのため『吸血族』という種族名はとはほぼ名ばかり状態であり、超人的な身体能力や魔法が使えるといった特徴以外は外見的には人間種とほぼ変わらないらしく、魔族の中では淫魔族と並んで一番人間種に近い種族らしい。

 


「婚姻以外にあるとすれば、夫婦のその……よ、夜の営みの最中に興奮して夫か妻のどちらかが思わず吸血行為に走るくらい……なのよ?」



 顔を真っ赤にしながら恥ずかしそうに話すアゼレアに言わせれば、婚姻を除く吸血行為というのは殆ど性衝動に基づく場合が多く、俺が彼女に襲われたのもそれが原因だとか?



「私ったら、本当に孝司に対してなんてことをしてしまったのかしら……

 御免なさい、孝司。

 怖かったでしょう?」


「え? いや、う、うーん…………」



 俺としてはは恐怖というよりは混乱したと言ったほうが適切な表現だ。

 夜寝ていたら、体全体にのしかかる圧迫感に気が付いて起きると文字通り目と鼻の先にアゼレアの顔ががあるのだ。布団を剥ぎ取り、直接俺に馬乗りになっている彼女を見た俺には「え!?」っという驚きしかなく、覚えていることと言えば……






 ◇






「ア、アゼレア……さん? い、一体何か?」


「御免なさい、孝司。 ダメだと分かっているの。

 押さえ込まなきゃって思うんだけれど、もうダメみたい……ッ!」


「え? ちょ、ちょっ…………んむぅー!?」



 両手を俺の頬に添えて顔を真っ直ぐに向けられたと思った瞬間、アゼレアが自分の顔をぶつけんばかりに俺の顔に密着させて熱烈な接吻を開始したのだ。



「ん……んも…………ふぉー……!?」


「ん…………ンチュ……チュピ!

 チュプ……ンハァ〜…………んン…………チュ!」



 一分の隙もなく密着するお互いの唇。

 俺の唇の隙間からこちらの口内に強引に侵入してくるアゼレアの舌が俺の舌を探して口の中を蹂躙する。まるでそれ自体が別個の生き物の如く動き回る彼女の舌が俺の舌を探し出すと、素早く絡まり巻き付くように締め上げつつ引っ張り出され、アゼレア唇で激しく扱き上げられる。


 粘性を持つ液体の立てる卑猥な音と共に俺の唾液が強制的にアゼレアに啜りあげられたと思えば、お返しとばかりに彼女の唾液が大量に俺の口内に注ぎ込まれて喉奥へと届けられる。息苦しくなった俺は堪らずに唾液を飲み込んでしまう。



(甘い……)



 普通であれば他人の唾液など甘く感じることはないだろう。

 例えそれが絶世の美女による接吻で届けられたものとしても甘くない筈なのだが、そのときは本当に甘く感じたのだ。



(そう言えばアゼレアの体には半分淫魔族の血が流れているんだっけか?)



 激しい、ともすれば強姦とも言えるような過激な接吻で頭どころか体全体がカッと熱くなる中、ボーっとした思考の末、俺はそんなことをぼんやりと思い出していた。突然の出来事に焦点が定まらずに逡巡していた視線がアゼレアの目と合う。


 

「ンヲォ……」



 彼女の持つ特徴的な真紅の瞳は今や爛々と輝いて捕食者のそれと化しており、その目からは明確な意思が俺の意識へと流れ込んで来る。「絶対にに逃がさない」と言わんばかりの断固たる意思を感じ取り、最早どうにもならないと悟った俺は早々に抵抗することを諦めると、アゼレアはニヤリと蠱惑的と言うよりは獰猛な笑みを浮かべいた。



「ンンッ……ハアァァ〜…………」



 恐らく5分以上は続いていたと思われる激し過ぎる接吻が終わった頃には部屋中に淫靡な空気が漂い、俺もアゼレアもすっかりその気になっていた。お互いの体はこれでもかというほど熱く燃え盛り、下半身は異常なほどに熱を帯びて今にも暴発しそうだった。


 お互いの唇が離れると粘性の高い二人のが混じった唾液が糸を引いて橋を作り、プツリと切れると俺のパジャマに落ちて染みを作る。完全に抵抗を放棄した俺の態度を見て満足げな笑みを浮かべたアゼレアは己の唇をペロリと舐めたかと思うと、再び覆い被さりながらこちらに顔を近付けて来た。



「アゼレア、俺もう…………モガ!?」



 激しくも長い接吻が終わり、アゼレアに話しかけようとした俺の口が彼女の右手で塞がれる。彼女は右手の掌で俺の口を塞ぎつつも指先でこちらの頬を撫でるように愛撫し、顔をくすぐった。



「モガモガ! ンヒィ!?」



 また接吻されるのかと思っていた俺の予想は外れ、彼女の顔が俺の右頬に触れたかと思った瞬間、右耳が彼女の唇によって舐めしゃぶられる。ゾゾッとした感覚が背筋を駆け抜けると同時に耳の穴の入り口付近を舌先で愛撫されてむず痒い感覚が俺の脳を支配する。


 必死に体を捩ってこの感覚から逃げようとするが、相手は全魔族の頂点に位置する高位上級魔族である。抵抗するだけ無駄であり、散々耳を責められた俺は完全に骨抜きにされてしまった。


 チュポっという卑猥な音と共に耳から離れたアゼレアは舌先を耳から下方へとスライドさせつつ俺の首を上から下へ向かってペロペロと舐め進んで行く。背徳的な感覚に晒されつつ、横目でアゼレアの行為を追って行くと彼女の顔が俺の首筋付近で固定されて再び舌が動き始める。


 耳元で聞こえるピチャピチャ、ペチャペチャという卑猥な音は性体験がない者が聞いたらそれだけで発情しかねない淫靡さを持っていた。淫魔族かはたまた吸血族の持つ技なのかは知らないが、接吻と舌の愛撫だけでこの感覚なのだ。「もう普通の人間の女性では満足できない体にされてしまったのでは?」という不安に陥る俺を他所にアゼレアは一心不乱に俺の首筋を舐めあげている。



(それにしてもえらく念入りに舐めるなあ。

 まるで注射前のアルコール消毒のような…………ッ!?)



 注射という言葉と共にあることを思い出す。

 アゼレアの体には淫魔族と吸血族の血が半分づつ流れていることを……



(まさか、アゼレア……!!)



 止めろという叫びはアゼレア自身の手によって口を塞がれているため声に出すことができず、俺は口をフガフガと動かすことだけで為す術がなく、彼女の行動を止めることができずにいた。

 やがて……



(アイタァァーーーーーー!!!!)



 首筋に突き立てられた牙による鋭い痛みに対して口を塞がれていながらも叫ばずにはいられない声にならない悲鳴、それと共に血を啜るチュゥゥゥゥという小さな音が部屋の中に響いていた。

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