第10話 魔研

『魔王領』

 惑星『ウル』の中でも一際大きな面積を誇るバレット大陸西岸に位置する魔族達の国であり、同世界に存在する幾つかの魔族の国々の中で最大の規模を持つ魔族達の王国である。


[魔王]を国家の頂点たる最高指導者に据えて“六大魔族”と呼ばれる龍族、吸血族、悪魔族、魔女族、堕天使族、人魚族という魔族の中でも代表的な種族の族長が魔王から直々に[大公]の位を賜り、近縁の魔族達に加えて魔王領に暮らす人間種や亜人種を従えた超巨大な魔族主体の国家だ。


 そして魔王領の国家防衛の要たる[国防軍]には、それぞれ陸軍・海軍・空軍の三つの軍がある。


 魔王領は魔法に関しては魔術系統こそ違えど、大陸一の魔法先進大国である『ダルクフール法国』に引けを取らない魔法先進列強国である。しかも、兵員の規模こそ『シグマ大帝国』に及ばないが、彼の国と並んで大陸でも最も精強な軍隊を持つ国の一つに数え上げられている。


 魔王領は他の魔族国家と違い、住んでいるのは魔族だけではなく近年『エルフ』と呼ばれるようになった長耳族に代表される亜人種や獣人、知能を持つ一部の魔物、そして人間種が隣り合わせに生活を営んでいる多種族国家でもある。


 お互いの外見や能力、種族特性が著しく異なる場合が多いためか、外見や能力による差別や偏見が殆どないことと、治安が他国と比べて優れていることもあり、年々移住者が増えているのも特徴だ。

 そんな魔王領の首都[ヴィグリード]から離れた位置にある郊外には魔王軍の研究所がその巨大な姿を見せている。





――――国防省 魔法技術研究本部





 関係者からは『魔研』と呼ばれているその研究所には、魔王領国防軍全軍で用いられている魔法兵器及び各種魔法技術を開発・研究するための施設が立ち並び、厳重な警備体制が敷かれている。周囲には施設を警備するための完全武装した兵士が常に巡回し、研究所から約二百メートル程離れた場所には陸軍の歩兵一個連隊が駐屯する基地が置かれており、上空には空軍が保有する航空戦力である飛龍部隊が常に哨戒飛行して周辺空域へと警戒の目を光らせている。


 しかし、そんな厳重な警備を鼻歌交じりで消し飛ばしてしまうほどの強大な魔力と武力を保有する上級魔族が施設を訪れていた。眼が覚めるような美しい女性魔族で国防省保安本部所属を示す灰色の開襟服の制服に身を包み、ケピ帽を被った姿は凛々しく、乗り込んでいる将官専用馬車の周囲には本人の持つ強大な魔力の片鱗が漂い、隙がなく鋭い雰囲気は彼女がただの軍人でないことを物語っている。



「身分証及び魔力特性の一致を確認しました。

 お通り下さい、クローチェ少将閣下」


「ありがとう。 ご苦労様」



 施設正面の出入り口を警備する人間種の兵士に労いの言葉を掛けた直後に『少将閣下』と呼ばれ敬礼を受けた上級魔族を乗せた馬車がゆっくりと動き出し、施設内にある建物と建物の間を縦横に走る石畳みの道路を徐行速度で進んで行った。



「いやぁ、それにしても噂通り美しいお方だな、クローチェ少将はよお!

 オレ、実物って初めて見たよ」



 出入り口に設置されている検問所から徐々に遠ざかって行く馬車を見送っていた兵たちの内、一人が感心した様子で口を開く。



「ああ、そうか。

 お前、育児休暇が終わって今日から原隊復帰だったから、閣下がここに来てるの知らなかったっけ?」


「そう。 だからビックリしたぜ。

 あのお方がここを訪れてるなんてよ」


「少将閣下はここ一ヶ月程連日で来ているぜ。

 まあ、仕事とはいえ、ご苦労なこったよ」


「へえ……何でまたあんな大物上級魔族がこんな辺鄙な場所にある研究施設に来るんだ?」



 兵士達は場所を検問所の外から門の脇に設置されている警備用の監視所に移りながらも、お喋りを続けていた。中はそれなりに広くて完全武装の兵士が十人くらい入っても面積に余裕がある作りで、室内は暖房用の魔法装置の効果で暖かく、少将が施設を訪れている理由を尋ねた人間種兵士に対して同じ階級の魔族兵士が質問に答える。



「クローチェ少将は転移魔法の実験に参加してるんだよ」

 

「転移魔法の? 何でまた……」


「転移魔法は魔法の先進技術国なら、ある程度実用化されてるのは知ってるよな?

 この国を始め、ダルクフールやシグマのように大量の魔導士を抱えてる国やギルドが転移魔法を使って官公庁の書類や金、情報のやり取りをしてる。

 しかし転移魔法で運べるのはヒト・モノ・カネの内、モノとカネだけだ」


「いや、それは違うだろうよ。 転移魔法はヒトも運べるじゃねえか?」



 転移魔法の説明をしていた同僚の言ったことに兵士は反論する。



「最後まで聞けよ。

 確かに転移魔法はヒトも運べるが、ことヒトに限っては魔力の関係で運べる奴と運べない奴がいる。

 おれもこの前、飯のときに食堂で一緒になった研究員の魔導士に聞くまで知らなかったんだが、どうやら魔力が転移の際に跳躍するときに通る空間っていう場所っていうか道?っていう奴の入り口に対して影響を与えるらしんだよ。

 んで、この空間の入り口っていうのは転移する奴の魔力の力の度合いに関係なく、ええっとぉ……ああそうだ、度合いに関係なく一律に小さいらしくてな。 魔力が弱い方が小さい入り口をすんなり通過出来るらしいんだな。

 だが、魔力が強ければ強いほど空間の入り口に対して魔力が大きくて入らないから、転移が難しくなる傾向にあるらしい」


「へえ、魔力が高い方が転移出来ないんだな。

 普通なら魔力が高ければ、どんな魔法でも使えて好き勝手出来る印象があるんだが?」


「実際には違うんだと。 その魔導士が言うには、おれやお前のような魔力が低いか殆ど魔力が無い奴の方がすんなりと転移出来るらしい」


「じゃあ、さっき通って行った少将は……」


「そう。 だから出来ねぇんだよ、転移が」



 意外だなと同僚から転移魔法の概要を聞いた兵士は思った。

 自分たちのような末端の一兵卒上がりの兵士が転移出来るのに、雲の上の存在である高魔力保持者である上級魔族たちが転移出来ないという逆転現象に対して彼は内心驚きつつも、心の何処かで彼らに対して優越感を感じていた。



「でもよ?

 お前がさっき言ってたようにヒト・モノ・カネの内、ヒトが通れないってのは間違いじゃねえか。

 魔力が低くてもちゃんと人は通れるんだからよ」


「違うんだよ、おれが言ってるヒトっていうのは。

 要するにヒトは人でも重要な役職に就いてる奴が運べないってことなのよ」


「どういうことだ? それは」



 同僚の言うことに訳が分からず混乱する兵士。

 それを見た同僚の兵士はさらに話を続ける。



「基本的に人間種以外の魔族やエルフ族や獣人族が主体になって構成されている国や組織の重鎮や重要人物なんてのは多かれ少なかれ、皆んな魔力を持ってる。

 人間種は兎も角、魔族や獣人、亜人種なんかは魔力が強ければ強いほど国の機関や軍で重用されて要職に就いてる場合が多い。

 まあ、文官や事務屋のように書類を裁くのが上手い奴なんかは、魔力なんて関係なくが強かったり、人間種の軍人なら腕っ節が強かったりとかして魔力なんて関係無く、それなりに組織の重要な地位に就いてたりとかするがな?」



 ココと言って自分のこめかみを人差し指てツンツンと突く同僚を見ながら、兵士は確かに外交官や政治家、商人、事務方の古参なんかは実は何かの魔法を使ってるんじゃ無いのか?と言うくらい口が上手かったり情報の集約や整理に強かったりするし、冒険者や傭兵にも魔力が無くて一切魔法が使えないにも関わず、達人と言っても差し支え無いような弓使いや槍使いなど強い者が存在している……などと彼の話を聞いて魔力以外に強みを持つ者たちの姿を思い浮かべる。



「しかしだ、事務仕事や外交なら兎も角よ?

 兵隊同士がぶつかり合う戦争なんかじゃ、そうはいかねえ。

 最近は銃が使われるようになってきたが……魔力が強くて、強力な魔法を使える奴が一人でも戦場に居ればそれだけで戦局は有利に成りかねねえし、各国の特に魔族や亜人なんかの国の歴戦の指揮官なんて者は魔力が強い奴の割合が高い。

 そんな奴らを好きな場所へ好きな時に、転移魔法で瞬時に配置出来るなんて真似が可能になったらどうなるよ?」


「戦争が一気に有利になるな……」


「だろう! 特にさっき見たクローチェ少将やこの国の陸海空軍それぞれの主力を張ってる魔族兵や将校なんかが、本国から一気に転移して来てみろよ?

 普通なら移動に数日から数ヶ月かかることもある軍隊の行軍行為が、転移魔法によって一瞬で解決だぜ?

 しかも一瞬で転移するんだから、行軍中の疲れなんて一切無いからな。

 万全の態勢で戦争が出来るってもんだ」


「だからヒトが転移出来ないって言われているのか……」


「おうよ。 転移魔法の陣によっちゃあ、数百キロの荷物やヒトも運べるらしいが、魔力も実戦経験も殆ど無え一兵卒を十数人運んだところでたかが知れてらあ。

 そりゃあ、戦局を作戦一つで覆せるような指揮官や参謀を運ぶくらいは出来るかもだが、そもそもそういう役職持ちの奴は最初から戦場で指揮を執ってるわな」

 

「確かに……」



 人間種や獣人主体の軍と違って、魔族や亜人種の軍には一人で戦局を覆すことが出来る強大な魔力や戦闘力を有した者が少なからず存在する。それはさっき見た吸血族の魔導少将だったり、古参の龍族であったり、はたまた数千年の時を生きている長老格のエルフなどだ。


 そんな一人で軍隊を退けるような力を持つバケモノを転移魔法で任意の場所に派遣できるとなれば、戦争そのものの概念が変わってしまうだろう。だが、今までの戦争でそういった事態に殆どの陥っていないのは人間種を含め、バケモノが所属している各国の軍部が戦争の緒戦で彼らを戦線に投入するのを躊躇い戦力の出し惜しみしていることと、彼らが戦線に到着するまでの道程の交通事情が悪く、遅れて戦場に到着した頃には殆どの戦闘が終結しているためである。



「他にも医療系魔法に特化した魔導士なんかも攻撃魔法が使えないだけで魔力は高いから転移魔法で運べねえし、戦争じゃなくても災害や疫病なんかが発生した地域に医療魔導士を転移魔法で瞬時に送れれば沢山の被災者を救えるし、兵站や輸送、交易用の高性能の魔法収納鞄なんかに大量の物資や食糧なんかを入れて運べれば、それだけで流通革命が確実に起こるからな。

 なんでも『本物の転移魔法は未来の魔法技術』とか言われているらしいぜ?」


「へえ、未来の魔法技術ねえ……」



 正直言って一介の兵隊である自分達にとって転移魔法やら流通革命とか言われてもピンと来ない。自分達のような末端の兵隊や平民にとって己と家族が明日の飯に困らなければ、どうでもいい話なのだ。そういった小難しい話は雲の上にいる人たちが決めてもらえればそれで構わないと同僚の話を聞いていた兵士は内心そう思っていた。



「まあ、オレ達のような末端の兵隊にとっては世の中が良くなれば、それでいい話だがな。

 とは言っても、何処に飯の種や出世話が落ちてるかは分からねえ。

 お前さんも子供ができたばかりなら、耳を大きくして色んな話を頭におかねえとな?」


「ん? そりゃあ、一体何の事を言ってるんだ?」


「いいか? ここだけの話だ。 ……誰にも言うんじゃねえぞ?」



 同僚の兵士は交代で監視所の外で立番している仲間の兵士達が窓越しに聞き耳を立てていないことをチラッと確認すると、椅子に座ったまま少し前屈みになって話を聞いていた兵士に顔を近づける。そして彼は声の音量を小さくしてヒソヒソと話し始める。



「いいか?

 この魔研っていう研究施設で行われている実験は軍機軍事機密で外部に内容は漏らせねえ」


「まあ、当たり前だな。 それがどうかしたか?」


「だからな?

 この施設でどんな実験が行われているのか知りたい奴はゴマンといる。

 魔王領は魔法が強い国だからな。

 知ってるか? 魔法後進国や国際通信社の記者にギルドの連中なんかが金で買収した俺たちのような兵隊を毎回ここに送り込んでるのを」


「え?」


「ここにはオレが知っているだけで五人の警備兵がどこかの機関に買収されて情報を集めて漏らしてる奴がいる。

 しかも、報酬は掴んだ情報次第じゃあ上級将校の一年間の俸給と同じくらい貰えるらしい……」



 ゴクリと話を聞いた兵士は思わず唾を飲み込む。

 上級将校の年間俸給と同じ額……それを聞いた瞬間、彼の脳裏には自分の家庭内にある金銭的な不安が解消されて行くのが思い浮かぶ。しかし、生まれたばかりの娘を抱き上げた妻と先ほど見た魔族少将の顔を思い出し、かぶりを振って思い浮かんだ考えを払拭して同僚に向き直った。



「いやいや、それは不味いだろう。

 保安本部の連中にバレたら文字通り、身の破滅じゃないか」




――――保安本部




 正式名称は[国防省保安本部]

 魔王領国防省の内局で国防大臣直轄の部署である。

 憲兵隊や軍刑務所、捕虜収容所の他、防諜対策部署や国境・兵站・鉄道・駐屯施設などの警備部門を所管し、魔王領国防軍の保安警察的な存在で日本の法務省矯正局と陸上自衛隊秘密保全隊と警務隊、そしてイタリアのカラビニエリ国家憲兵隊を合わせたような組織でその権限は絶大である。


 国防大臣直轄の組織であるため、違法行為が確認されれば陸軍の上級大将や海軍の艦隊司令長官さえも逮捕・拘束できる強力な司法警察権を有し、ときには民間人や他の省庁職員、現職の警察官さえも捜査対象とすることがある。人員は国防軍の陸海空軍から引き抜かれた軍人達と国防省職員などから占められており、憲兵隊以外に内部に専門の実働戦闘部隊や秘密部署を抱えている国防省のブラックホール的な存在と見られていた。



「なんだよ? ノリが悪りいなあ……別にこの国に危険を及ぼすような情報を渡すわけじゃあねえんだから大丈夫だって」


「そうじゃなくても俺は嫌だね。

 やっと娘も生まれて『さあ人生これから!』ってときにそんな危ない橋を渡る度胸は俺にはねえよ」


「そうかい。 じゃあいいや。

 お前よりもっと話がわかる奴にこの件は持っていくわ。

 後からやりたいって言っても遅いからな?」

 

「俺は絶対に言わねえよ!」


「っけ! ああ、そうかい。

 ところで、この件は誰にも話すなよ。 分かったな?」


「俺だって命は惜しいし、お前の仲間って思われたらヤバイから言わねえよ……」



 二人の兵士の会話はそれで終わる。

 後日、情報漏洩の話を勧めていた同僚が国家機密法違反で逮捕されて、彼の住まいや関係先に憲兵隊の捜索が入ったということ。その結果、彼を含めて三人の同僚が部隊から消えた事を知った兵士は情報漏洩の勧誘を断って良かったと胸を撫で下ろしたのだった。





 ◇





『閣下。 研究施設前に到着しました』


「ん。 ありがとう」



 御者の声と共に馬車が静かに停車する。

 すかさず女性の魔族軍人であるフレア・ターナー中佐が車外へと降り、周囲の安全を確認してアゼレアに敬礼しつつ報告する。



「異常ありません。 閣下、どうぞお降り下さい」


「ありがとう」



 フレアに答礼しつつ降り立ったアゼレアは軽く周囲を見渡す。



(いつ来てもここは混沌としているわねぇ……)



 彼女の目に映ったのはここずうっと見慣れた光景だった。

 白衣を着た軍の研究員達が研究資料を両手一杯に抱えて歩いていたり、陸軍が正式採用している『多目的人力輸送車』こと人力車の荷台に何に使うのか分からない研究機材や出所不明の魔法鉱石を満載して車を重そうに引っ張る研究員とそれを後ろから懸命に押している警備兵達。


 歩いている最中に何か閃いたのか、地面にしゃがみ込んで術式をブツブツ言いながら石畳に白墨で書き込んでいる研究員とそれを眺めている同僚研究員。少し離れた場所から響いてくる魔法の術式詠唱を行う大きな声などなど……アゼレアが内心呆れていても無理ない混沌ぶりだ。



(でも、何だか懐かしいわ)



 一ヶ月前、転移魔法の実験のために初めて訪れた際に見た光景とほぼ変わらない状況にいつも思う。国防軍に入軍する前にいた大学で専攻していた魔法学部もまさにこんな感じだった。あの頃は大学の中庭や学内で常に同期たちと魔法の最新論理について語り合い、新しい術式の具現化に成功したときは手を取り合って無邪気に喜んでいたものだ。


 あのときはまさか自分が軍に入り、ここまでの地位に登り詰めるなど夢にも思わなかった。しかも、自分の持つ魔力と武力が国防軍内全軍はおろか魔王領、延いては全魔族の頂点に位置するなど誰が予想していたであろう?



(世が世なら魔王になっているか、国家に殺されていたとしてもおかしくはないチカラ……か)



 魔王領の法律により、戦略級攻撃魔法を扱える者は極一部を除いて国防軍または国家のいずれかの機関に属し、国外へ赴くには国家の許可が必要になる身分となる。地球であれば歩く戦略核兵器とも言える扱いではあるが、それ故にアゼレアを含め戦略級攻撃魔法の使い手は各機関において相応の地位と将来が約束されている。


 ある者は国防軍の参謀本部に、またある者は魔王陛下直属の補佐官や護衛官などとして働いている。そしてアゼレア本人は国防省の保安本部で働いているが、彼女がいるのは保安本部の中枢から離れた魔王領北部の避暑地であるスプリングフィールドの地方出張所であった。



(チカラを尊ぶ古い考えの者達の神輿にならないためとはいえ、まさか地方出張所勤務が自分に安寧をもたらしてくれるなんて、皮肉なものね……)



 未だに『魔族はチカラこそ全てである』という旧態依然とした考えを引きずっている者が軍や国家機関の中に少なからず存在していたりする。そういった者達にとって魔力・武力共に全魔族達の頂点に君臨するアゼレアはかの者達にとってまさに理想の存在だった。


 魔王領でも龍族と共に伝統ある吸血族大公家当主の次女であり、次期女性当主たる身分で現役の国防軍少将。尚且つ戦略級攻撃魔法以外にも戦術級攻撃魔法と反転術魔法、反魂魄魔法に超広域精神系魔法、魔力波操作魔法など人間種では到底扱えないような複雑な術式を用いる各種軍用魔法の使い手であるアゼレアは血筋的にも上級魔族の血を誇りに思う保守的な考えを持つ古参貴族たちからも非常に好ましく見られていた。


 魔力だけではなく身体的にも優れた力を持つ龍族兵達を単騎で圧倒する肉体と魔王領でも一二を争う美貌の女性上級魔族とくれば、世間が放って置くはずもなく、彼女は常に好奇の目に晒され続けてきた。それ故に父である吸血族族長のオルランド・フォン・クローチェと母である淫魔族族長のエルメール・フォン・ゾフィーナ・クローチェは娘のアゼレアを巡る種族内の派閥間の争いに苦労してきた過去を持つ。


 姉リドヴィアとアゼレア本人の前では両親はそんな派閥抗争を鎮める苦労などなんてことないと笑顔で接していたが、勘の良い彼女にはその笑顔はかえって苦痛になっていた。軍に入る前から父と母、姉の魔力量を足しても全く届かない異常で膨大な自分の魔力総量に違和感を感じていたが、まさかこの段階で裏では既に種族内でのアゼレアに対する扱いを巡って対立が起きているなど想像もしていなかった。


 アゼレアにとって幸いだったのは、表だって直接彼女に意思確認を取ろうとする者がいなかったことだろう。まあ、当時から膨大な魔力量を誇っていたアゼレアに要らぬちょっかいを出した挙句、機嫌を損ねて消し飛ばされたり、大公家に睨まれるのを恐れていたということもあるのだろうが、目に見える形では対立は起きていなかった。



(でも、この魔力のお陰で誰かを守っている、役に立っているというのならば、私は嬉しい……)



 父や母に迷惑を掛けたくない一心で入った軍は彼女にとってある意味幸せな結果をもたらした。最初の頃こそ、慣れない軍隊生活で苦労はしたが、戦場で自分の能力を十二分に活かして祖国に貢献することができた。その結果、自分にはあの変な二つ名が付いてまわるようになって畏れられる立場になったことで誰も自分と家族にちょっかいを出してくる者はいなくなった。



(まあ、お陰で軍内では腫れ物を通り越して危険物扱いになっているけれど……)



 戦功を重ねて少将の地位まで来ると、国防軍の人事を司る国防省人事局の上層部は自分の扱いを今までと違って第一線から後方へと移し、さらに陸軍から国防省へと転属させて保安本部入りさせた。これによってアゼレア本人は魔王領の同盟魔族国家と敵対する国々に睨みを効かせる役目から軍内の不正・犯罪防止に目を光らせる象徴的な存在へと変わることになる。


 何せ魔王を含めた全魔族の頂点に位置する魔力と武力をその身に宿しているのだ。人間主体国家の軍隊であれば単騎で相手をすることができる上級魔族の面々が陸海空軍の上級指揮官や高級将校の席を占めている中、彼ら軍上層部の犯罪や不正を取り締まる憲兵隊の上部組織である保安本部にアゼレアが軍籍を移したことでその抑止力は確実なものとなった。


 …………なったのだが、これによりさらに国防軍と国防省内における彼女の立ち位置はさらに複雑なものになる。任務において常に真面目で苛烈な姿勢で臨んでいた彼女は保安本部内でも次第に持て余されるようになり、保安本部に移って暫くの後に部内でも閑職と言っても差し支えない魔王領北部の保安本部スプリングフィールド出張所所長の席を与えられることとなった。


 このことに関して周囲は彼女に憐憫の目を向けていたが、当の本人は既にこの頃から自分の実力を存分に発揮出来ない状況に対して特に憤慨するということはなく、スプリングフィールド出張所で静かに業務をこなして、余暇は趣味だった魔法の研究に費やしていた。



(スプリングフィールドでゆっくりと仕事をするのはそれはそれで落ち着いていてとても良いのだけれど、軍内で危険物扱いになっている自分の魔力が何かの役に立てるのならば、悪い気はしないわ)



 実は内心、この転移魔法の実験は疲れるが自分を必要としてくれることに嬉しくもあった。気心の知れた部下たちと日々漫然と業務を行う。己が出張って行くような事案が発生しないというのは魔王領が平和であるという証なのでそれはそれでとても良い傾向であるのだが、その一方で物足りなさを感じていたのも事実だ。


 だからこそ、魔研から転移魔法の実験に協力して欲しいという呼びかけに直ぐに応えた。まさか実験があれほど疲れるものとは予想していなかったが、それでもこの実験が将来完全に実用化されているであろう転移魔法の進歩の礎になっているのだと思えばやり甲斐が出るというものだ。



「おはよう、少将! よく眠れたかね?」


「おはようございます、所長。 ええ、お陰様でよく眠れたわ」


「それは結構。 それでは今日も実験に付き合ってもらうとするかな」



 馬車から降り立って迎えの者が来るまでのほんの僅かな間に他愛のないことを考えていたアゼレアに快活に話し掛けてきたのはこの魔研の総責任者たる男だった。




――――ザウアー・フォン・ヘッケラー:国防省 魔法技術研究所 所長




 外見は癖の強い銀髪が耳にかかるくらいに短く刈り込んだ髪と長く尖った笹状の耳と眼鏡が特徴的で人間種の年齢に例えると二十台後半の外見を持つ優男だった。中肉中背で長身のアゼレアと並ぶと背は少し低くい。シミひとつない肌は白く、陸軍の簡易作業服の上から羽織っている白衣は肌同様に見事に真っ白で皺ひとつない。


 しかしそれはあくまで外見的なものであって、彼の素性を聞いた者は殆どの者がまず驚く。彼は魔王領に亡命して来た『リーフ大森林連合王国』の王族で元王子という経歴を持つ。

 




――――ザウアー・オブ・リーフ:元リーフ大森林連合王国 王位継承者第三位 王子





 ザウアーは出身国であったリーフ大森林連合王国王族内にいる変わり者の筆頭で、彼は魔法研究一徹バカだった。専門は転移魔法及び魔法全般。朝から夜までずうっと自室を兼ねた研究室で過ごして転移魔法とその他魔法の研究と実験に明け暮れて偶に外に出て来たと思ったら、高魔力保持者の将兵や臣下、時には同じ王族である弟や妹までもを捕まえて実験に無理矢理参加させるということを百年単位でやっていた狂魔導師マッドソーサラーである。


 彼はリーフ国内での実験に限界を感じ、魔王領の自由な魔法の研究環境に魅力を感じて亡命して来た過去を持つのだが……普通、王族が他国に亡命となると国際問題は必至である。下手をすると亡命先の魔王領がザウアーを誑かしたのでは?と在らぬ疑いをかけられ、時代が時代なら戦争に発展していてもおかしくはないだろう。


 しかしながら、彼の奔放で無茶苦茶な研究活動と実験に付き合わされて辟易していたリーフの王族や貴族、軍部の者達は議会であっさりと彼の亡命という名の移住を承認し、あまつさえ魔王領側に謝罪とお悔やみを申し伝えて来たのだ……


 当初、日本の外務省に相当するリーフ大森林連合王国外交庁の長官から直接謝罪とお悔やみを伝えられた魔王領外務省の大臣は真意を測りかねていたのだが、ザウアーの受け入れ先になった魔法技術庁の第三魔法実証研究所から悲鳴と苦情が上がって来たことで魔王領側はとんでもない人物を受け入れてしまったことを激しく後悔した。





 ・転移魔法の実験の被験者(人間種の男性魔導士)を魔王領南部の『死者の都』に跳ばした。

 

 ・新たな攻撃魔法の威力を確認するために龍族の兵士を実験台にしようとする。(未遂で終了)


 ・新型爆槽矢の実験で爆槽体に本来注入すべき水ではなく燃焼効率が良い炎竜の血液を入れて火災になりかける。


 ・魔法の剣と呪いの因果関係研究の為に呪いの剣や槍、防具などを複数手に入れ、保管庫で呪いが複合的に現出して研究施設が閉鎖直前までに追い込まれる。





 …………などなど、魔王領の一般国民の間でも噂になるほどの事故を複数やらかしているのだ。そのため、魔王領側はリーフ大森林連合王国による何かしらの謀略か嫌がらせではないかと疑ったのだが、いくつかの事故ではリーフ側が損害を全額肩代わりしているので、今のところ国際問題には至っていない。


 普通であればザウアーは良くて解雇。

 悪くて逮捕後、本国に強制送還されるべきところを今でもこうして魔法研究分野の要職に就いていられるのは、一連の騒動以上に優れた魔法術式を幾つも確立し、魔導具や新型魔法兵器の開発に弾みをつけているからに他ならないのだが、一番の功績は転移魔法でヒトの転移を可能にしたことだ。



「この実験も今日を合わせてあと二回……少将には色々と迷惑を掛けてしまったね」


「お気になさらず。 国家と国民の繁栄と平和に貢献することが軍人としての責務です。

 それに私個人としても、今回の実験に参加できてとても光栄であり、良い刺激を受けました」


「ははっ! 君にそう言って貰えれば我々も魔法の研究をしていて良かったと思うよ」



「さあ、どうぞ!」と言って勢いよく扉を開けたザウアーはアゼレアを研究施設の中へといざない、施設の中央部にある実験場まで続く長い廊下を歩く。


 先頭をアゼレアとザウアーが隣り合わせに歩き、すぐ後ろをフレア・ターナー中佐とザウアーの部下である研究員と警備兵が付き従うようにして歩いている。



「今日もこれまでと同じ実験を行うのですか?」


「うむ!

 そうだと言いたいが……今回は少し違う実験を行おうと思っていてね」


「違う実験……ですか?」


「ああ。

 今までは私や君たちのような高魔力保持者を転移魔法で移動させる実験で気付いたことがあってね。

 これまでの仮説では転移跳躍空間の入り口が小さく、高魔力保持者の魔力が大き過ぎるが故に被験者が跳躍空間に入れないと私は考えていた。

 しかし、それは違うのではないかと考えたのだよ」


「違う、ですか?」


「そうだ。

 実は跳躍空間の入り口は常に全開であり、被験者の魔力が重くて跳ばないのではと考えたのだよ!

 この仮説なら、高魔力保持者が転移できない説明も納得だ」


「なるほど。 魔力が重い……か」



 ザウアーから彼の考えを伝えられたアゼレアは顎に手を置いて思案顔になる。“魔力が重い”ということを今まで気にしたことがなかった彼女は思わず自分の魔力を放出した。すると彼女の体から陽炎のように立ち昇った魔力が周囲に向かって発散されると、ザウアー以外の者達が一斉に膝を折り通路の床へと崩れ落ちる。



「ほお?」


「ぐうぅぅぅ! か、閣下。 ま、魔力を抑えてくださいますか?

 潰れてしまいそうです…………」


「ううッ、く……苦しい!」



 アゼレアが不用意に放出した魔力によってフレア以下、居合わせた警備兵や研究員達は身体全体にのしかかる重圧に耐えかねて両手を床について四つん這いの姿勢になる。全員の身体が小刻みに震えており、中には呼吸が辛いのか喉元を抑えている者もいた。






 ◇






――――国防省 魔法技術研究所 保安区画 魔力監視室




 魔研のとある一画、魔研の関係者でも所長を含めてごく限られた者しか立ち入れない場所が存在している。『保安区画』という名称が付いた場所だ。名前の通り、魔研の保安管理を行う場所で日本で言うところの警備室に相当する。


 ここに立ち入ることができるのは所長と所長から任命されたごく一部の警備兵と専門の魔導士官のみ。それ以外の者は研究所の幹部職員や憲兵であっても所長の許可無く立ち入ることは不可能で、むやみに立ち入ると警備兵に逮捕されることもある。


 そしてその保安区画の中でも特に重要なのが『魔力監視室』という場所だ。魔力監視室とは魔研内で行われる各種魔法実験及び実験以外において魔力の漏洩事故を常に監視しており、魔法実験を行う場合や魔力を帯びた物品や兵器を魔研の施設内に持ち込み使用する際には必ず届出や登録を行う義務がある。


 魔研では常に魔法事故防止に向けて様々な努力が行われており、所長の行う突飛な実験以外で事故が起こることは殆ど無く、あったとしても魔導具を倒したり、操作を間違えて魔力が漏れた程度である。そのため魔力監視室は二十四時間、殆どと言ってもよいほど開店休業状態であった。


 魔力監視室には監視任務を任された六人の警備兵と軍属職員が常時交代で任務に就いており、一度ひとたび何ごとか事故が発生すると、常時作動している監視装置が漏洩した魔力に反応して警告灯が点灯して当該事故の箇所と漏洩魔力の規模を監視室に知らせる仕組みになっている。


 しかしながら、今までこの警告灯と警報器が事故を知らせた規模の大きい魔力漏洩事故はこれまでで僅かに七回。その内の三回が所長のザウアーがやらかした実験の仕業であり、残りは魔道具の取り扱い不注意による事故であったため、魔力監視室に詰めている警備兵と軍属職員は常に暇していることが多く、この日も彼らは暇を持て余していたのだった。



「はあ、暇だ」


「だなぁ。 まあでも、これが当たり前なんだよ。

 もしこの部屋が大忙しになったら、それこそ大変だからな」


「まあな。 でもさ、たまには緊張感がある仕事がしたいよ。

 たまに何かあったと思ったら、所長のお遊びで魔力が漏れただけだったりとか……あり得ないだろう?」


「そう言うなよ。

 そんなこと言ってたら、本当に何かあったときどうするんだよ?」



 魔力監視室で監視装置を前に彼ら警備兵と軍属職員とがそんな他愛もない話で時間を潰していた時だった。突如として室内にけたたましい警報音が鳴り響き、警告灯が赤く点滅し始めたのである。



「な、何だぁ!?」


「警報? いったい何処から……ん? 第七研究区画からか、って“第一級警報”だとぉ!?」



 監視装置に取り付いて魔力漏洩事故の場所を特定しようといつものように慌てず騒がず冷静に調べていた警備兵は警報の種類を見て愕然とした。警報の種類が第一級警報だと分かったからだ。





――――第一級警報





 魔王領において魔法災害特別対策法によって定められた警報である。

 この警報には五つの段階があり、第五級から第一級まで存在し、一番危険なのが『第一級警報』というもので漏洩した魔力によっては物的、人的被害が甚大な規模に及ぶ可能性が非常に高い魔力漏洩事故を指している。



「と、とにかく所内に警報を鳴らすぞ!」


「おう! こりゃあ、一大事だぞ!

 すぐに危機管理対応班に出動要請を!」


「所長にも連絡を入れるんだ!

 あと当該区画の責任者にも連絡をせねば!」


「了解!!」



 暇だった魔力監視室は一転して慌ただしくなる。

 警備兵の一人が拡声器の魔源を入れて所内に警報と警告を知らせる作業を行い始めた。



「非常事態発生! 非常事態発生!!

 大出力の魔力反応感知! 大出力の魔力反応感知!!

 第七研究区画に於いて大規模な魔力漏洩事故が発生した模様!

 第一級警報発令中! 第一級警報発令中!!

 当該区域にいる兵と職員は直ちに避難せよ!

 警備兵は当該区画を封鎖し、危機管理対応班は第七研究区画へ急行せよ!


 繰り返す!

 第七研究区画に於いて大規模な魔力漏洩事故が発生した模様!!

 第一級警報発令中! 第一級警報発令中!!

 当該区域に残っている兵と職員は直ちに避難せよ!!

 警備兵は当該区画を封鎖、危機管理対応班は至急第七研究区画に急行せよ!!』



「第七研究区画では何の実験が行われていたんだ?」



 何の予兆も無く第一級警報が鳴ったのだ。

 監視任務にあたっていた警備兵たちが驚くのも無理はない。

 警告を行う同僚を横目に、もう一人の警備兵は監視装置を操作して魔力特性の検出と特定を急いでいた。






 ◇






 突如廊下にけたたましい警報音が響き渡り、同時に赤い警告灯が点滅して廊下を真っ赤に染める。



「おや?」


「あら?」



 警報音にアゼレアとザウアーが気付くと同時に館内放送を通じて警告文が響き始める。



『非常事態発生! 非常事態発生!!

 大出力の魔力反応感知! 大出力の魔力反応感知!!

 第七研究区画に於いて大規模な魔力漏洩事故が発生した模様!

 第一級警報発令中! 第一級警報発令中!!

 当該区域にいる兵と職員は直ちに避難せよ!

 警備兵は当該区画を封鎖し、危機管理対応班は第七研究区画へ急行せよ!


 繰り返す!

 第七研究区画に於いて大規模な魔力漏洩事故が発生した模様!!

 第一級警報発令中! 第一級警報発令中!!

 当該区域に残っている兵と職員は直ちに避難せよ!!

 警備兵は当該区画を封鎖、危機管理対応班は至急第七研究区画に急行せよ!!』




 非常事態を知らせる緊急警報を聞いたアゼレアは慌てて魔力の放出を止めた。すると彼女の周囲に漂っていた異常なまでの重圧感は一気に霧散し、魔力によって床に押さえ付けられる状態に陥っていたフレア達は先程まで感じていた圧迫感が一瞬のうちに消えたことに驚きつつもヨロヨロと立ち上がる。



「ハハッ。 さすがだな」



 その様子をジッと観察していたザウアーは苦笑しつつも白衣の衣嚢ポケットに手を突っ込んで掌に収まる大きさの魔動伝送器を取り出し、おもむろに伝送器へと話しかける。



「私だ。 所長のヘッケラーだ。

 先程の魔力の大出力反応は漏洩事故ではない。

 非常事態宣言は取り消して各自通常の業務に戻るように伝達したまえ」



 ザウアーが魔研の中央警備室と指示を交わしている間にアゼレアは立ち上がったばかりのフレアや研究員達の元に駆け寄って彼らの状態を慮っていた。



「フレア、大丈夫?」


「は、はい……大丈夫です。 少将閣下」


「ごめんなさい。 私が不用意に魔力を放出したお陰で貴方達に迷惑をかけてしまったわ……」


「迷惑など、とんでもありません。 

 確かにいきなりのことで驚きましたが、平時に閣下の本気の魔力を体感できることなどそうそうありません……軍の治安を預かる幹部憲兵として、とても良い経験をさせていただきました」


「小官も憲兵中佐と同じ意見であります!」


「わたしも魔導の道を研究する者として良い経験が出来ました。

 恐らく閣下のあの魔力を感じることが出来るのは有事の際に閣下と相対した敵兵だけでしょうから……すぐ側で直に閣下の魔力を感じることが出来、今後の魔導研究の参考にさせていただく所存です」


「そ、そう……?」



 部下や研究員らからの予想外の返答に当のアゼレアは面食らったかのように一瞬たじろいたが、直ぐに平静を装って彼らに背を向けた。が、実際には本当のことを言えない彼女は内心困っていた。



(フレアには悪いけれど、あの魔力は本気ではないのよ……)



 実際には所長のザウアーが言った『魔力が重い』という仮説に反応して己の魔力をちょっと出しただけで全力の魔力放出ではないのだいう思いが喉元まで出かかったが、敢えて言わずにいた。別にフレア達を怖がらせることもないし、何よりザウアーの前でそれを言うと別の魔法実験に付き合わされそうだからだ。


 もちろん、彼の研究に応じることはやぶさかではない。

 しかしながら、あの宿舎からこの魔研まで通うのが少し苦痛になるのだ。宿舎に住んでいる軍人や宿舎とその施設を管理運営している準軍属の者たち全てが自分より遥かに下の階級ばかりで、一番高い階級の者でも少佐留まりである。


 そんな集団の中に短期滞在とはいえ、保安本部所属の魔導少将がいるのだ。彼らの緊張感は察して余りあるし、自分が彼らの立場であれば将官が同じ屋根の下に泊まっているという状況は非常に落ち着かないし気を使う。



(個人的にも早く転移魔法の完全な実用化を果たして貰いたいわ……)



 そんな思いとともにザウアーに視線を向ける。

 今のところ魔王領で転移魔法の技術進歩に王手をかけているのは彼だけだ。彼の研究と実験のおかげで物資だけではなく魔力が低い者が転移魔法を使えるようになったのだ。未だに重量や人数の制約はあるが、大いなる進歩と言えるだろう。


 転移魔法を使えるおかげで情報や物流、金融などいくつかの業種で革命が起きている。一番分かりやすいのはギルドや世界通信社及びそれらの傘下にある銀行や保険会社などだ。


 転移魔法のおかげで書類や金銭、人間の移動が可能になってバレット大陸の端から端まで必要な情報や重要な物資の往来がほぼ瞬時に完了するようになった。あとは今以上に多くのヒトモノカネを送れるようになれば世の中は劇的に変わることだろう。



(その為にもこの実験は疎かにできないわね)



 転移魔法が進歩するということは軍隊も移動時の負担が少なくなるということなので今以上に戦争が激化するという危険性も孕んでいる。その為、識者の中には「転移魔法の使用は禁止するべきだ」という意見もあるが、今更便利な技術を捨てることなどできるはずもない。


 ならば便利な一方で危険な側面を持つ転移魔法とどう付き合って行くかという考えを模索するべきだろう。その為には転移魔法の国家利用を厳格にする必要もあるが、それは政治家達と彼らを補佐する官僚達の仕事だ。



(私や所長達が行った実験の成果を未来の国家指導者達はどう受け止めてくれるのかしらねぇ?)


「待たせたね。 警備責任者に事の次第は説明したから、もう警報は大丈夫だ。

 さあ、実験室に行こうか?」



 転移魔法の実験に思いを馳せていると連絡を終えたらしいザウアーが苦笑いをしながら話し掛けてくる。アゼレアは表情を引き締めて彼に頷いてから歩き出し、ザウアーも彼女を追うように歩き出したので研究員や警備兵、ターナー中佐も慌てて彼女たちの後を追って行った。

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