第9話 朝
“ボーンッ! ボーンッ!”という掛け時計の鐘の音が六回響き終わる前にいつもの習慣で目が覚める。ゆっくりと起き上がり、あくびと共に伸びをしたあとにベッドから降りて直ぐに棚の上に置いてある受信器の魔源を入れた。
“ブーンッ”という音が微かに聞こえ、受信器の内部にある魔法鉱石から各魔動回路に魔力が流れ込み、起動に必要な魔力が供給されていくのを感じ取れたことを確認し、就寝前に予め用意していた洗面用具一式を持って階下の洗面所へと向かうために部屋を出る。
いくら最新式とはいえ、魔法鉱石内蔵型の魔力波受信器の起動には少々時間が掛かる。歯磨きと洗顔を済ませて自室に戻って来る頃に漸く魔動回路全体に魔力が行き渡って音が明瞭に聞こえている状態になるので、何もせずにボーッと過ごすよりも時間を有効に使ったほうが賢明だ。
「この時間帯はまだ誰も洗面所を使っている者がいないから良いわね」
初めてこの宿舎に来たとき、今より遅い時間に洗面所を利用したときはちょうど混雑していた時間帯だったこともあり、後ろで静かに順番を待っていたのだが、私の存在に気付いた誰かが名前と階級を読んだ瞬間に列が割れて最敬礼で順番を譲られたときは流石に恥ずかしかった。
組織の構造上、階級がモノを言う世界ではあるが、勤務から外れたときでもあのような対応をされるとさすがに気が滅入る。特に階級が自分より下とはいえ、年がかなり離れた年上の者にまで勤務時間外の宿舎の洗面所前で最敬礼されると、こちらとしては即回れ右して部屋に戻りたくなる。
「今日の予定も転移魔法の実験……だったかしら?」
確か前日確認した予定では今日は一日中、研究施設で転移魔法の起動実験に時間を費やす筈だった。あの研究施設の周囲には立地的に民間の飲食店などは存在せず、あるのは施設内の関係者用の食堂だけだ。
「朝食はしっかりと食べておいたほうが良さそうね……」
昼食の時間になったからといつものようにふらっと食堂を訪ねれば食事をしている他の者達に要らぬ緊張を強いて彼らの昼食を台無しにしてしまう可能性があるので、自分が食堂に行く時間は昼休憩のかなり後になることだろう。そうなると尚更朝食はしっかりと食べておかなければいけない。
「良かった……誰もいない」
早朝なので当たり前といえば当たり前なのだが、洗面所には利用者は誰もいなかった。そのことに内心安堵しつつ、洗面所で歯磨きと洗顔を手早く済ませてから元来た道を辿って自分に宛てがわれている部屋へと戻ると、魔源を入れっぱなしにしていた受信器から男性の声が淡々と流れていた。
『…………をお伝えしました。 続いて大陸南部の情勢です。
今年の夏から続いていましたリグレシア皇国軍によるマニューリン半島侵攻について、本日新たな情報が届きました。
昨日、リグレシア皇国軍は同半島南部に展開していたルガー王国軍防衛部隊を撃破。
防衛戦力の大半を失ったルガー王国は首都ハースタルの無防備都市を宣言。
同王国首都はリグレシア皇国軍の事実上の占領下に落ちましたが、現在もルガー王国北部では同王国軍地上部隊が反抗の為の残存戦力を集結させているとの一部未確認情報があり、マニューリン半島での戦闘は長期化しそうです……』
「ふう……とうとうハースタルが占領されてしまったのね」
母国の友好国である首都が事実上の占領。
参謀本部の分析予想ではルガー王国軍の戦力規模だとあと半年は持ち堪えるだろうという判断であったが、ラジオから流れてきた情報はその予想を根底から覆すものだった。
もしルガー王国がリグレシア皇国の手に堕ちれば、皇国軍はマニューリン半島をバレット大陸侵攻の為の橋頭堡として利用するのは目に見えていた話だ。だからこそ、本来であればルガー王国の周辺国も協力してリグレシア皇国軍の侵攻を防ぐために戦力を集結させなければいけないのに、各国はルガー王国の再三の戦力の集結の呼び掛けに応えなかった。
(まあ、恐らくは魔族の国同士で潰し合うのを期待したのでしょうけれど……)
バレット大陸には異なる種族がそれぞれ国を起こして暮らしている。
一番数が多いのは人間種の国だが、それ以外にも獣人やエルフなどの亜人族、そして魔族の国々が存在しているが国力や文化にはばらつきがある。
国力や文化にばらつきがあるのは種族が違えば当然ではあるが、今回はその違いが悪い方向に向かってしまっていた。ルガー王国はバレット大陸内に存在する魔族の国の一つであるが、彼の国の周辺国は一国を除いて軒並み人間種主体の国ばかりで、国同士の結びつきはあまり良いとは言えない状態にある。
国民や商人同士の付き合いはこそ良好なものの、こと国家の指導者層に限って見てみれば一方的にルガー王国を嫌っている国が数カ国あった。そういった状況下でもルガー王国はリグレシア皇国という脅威を身近に感じつつも王族を始めとした軍や官僚達は周辺各国との関わりを保とうと必死だったが、それに応えたのは『ザハル諸部族同盟』という複数の獣人種族が集まって起こした国と『ミネベア共和国』という人間種主体の国が一つだけという心許ない状態であった。
この二カ国は今回の戦争に義勇兵部隊をそれぞれ一個師団ずつ派兵したり、ルガー王国軍に魔導兵器を含む各種武器供与を行なっていた筈だが、それでもリグレシア皇国軍の侵攻を止めることが出来なかったということだ。
恐らくは魔族に対して良い感情を持っていない周辺の人間種国家が結託して魔族国家であるルガー王国とリグレシア皇国が潰し合うのを静観し、勝ち残り疲弊したどちらかの国を叩くつもりだったのだろうが、リグレシア皇国の驚くべき進軍速度と戦力にルガー王国軍は敗退し、リグレシア皇国軍はほぼ無傷という結果になった。
(リグレシア皇国軍の派兵規模や戦力、マニューリン半島の地形を考慮した場合、ルガー王国軍でも充分に対応可能という分析結果だった筈だけれど……)
二カ国だけの応援とはいえ、ザハル・ミネベア両国から派遣された義勇軍部隊は対リグレシア皇国軍を想定して選りすぐった精鋭だったと聞いている。なのに一年を待たずして首都の占領という結果に終わるとは笑いたくても笑えない状況だ。
この状況にルガー王国周辺の人間種国家の首脳陣は大いに慌てていることだろう。そして気付くのだ……魔族国家であるルガー王国が同じ魔族国家のリグレシア皇国からの侵略の防波堤になっていたのだという事実を。
(まあ、ここで考えていても埒があかないわね……)
転移魔法の実験が終わった後で少し遠回りになるが、参謀本部に寄れば少しは詳しいことが分かるだろう――――そう思い彼女は着替えを始めた。
寝間着を脱いで綺麗に畳んだ後に、壁のハンガーに掛けていた制服を手に取る。シミひとつない真っ白なシャツを羽織り、ズボンを履いてベルトを締め、ネクタイを結んで上着を着る。まだ迎えが来るには時間がかなりあるので、このまま食堂に向かう。
長靴や制帽はまだ着用しない。
食事には邪魔だし、公式な場でもない上に宿舎の食堂は公務とは無縁の場所であるべきと思っているので、側から見たら制服を着ただけのだらしない格好と思われるかも知れないが、
「さて、今日の朝食は何かしら?」
朝から朝食の献立が何なのかと思うのはとても幸せなことだと思う。
それだけで胃が空腹を訴え、意識が朝食に向かって体が食べるための準備を始める。こういった『普通の幸せ』というのがどれほどかけがえのないことか。そしてそれを想像すると自然と歩調が早くなり、足音はまるで音楽を奏でるかのように軽く弾み、顔の筋肉が緩む。
「いつかは家族以外の大切な人と朝食を共に出来れば嬉しいわね……」
まあ、今の自分には当分叶わない夢だろうが、想像するのは自由である。彼女は足取りも軽く、食堂へと向かって行った。
◇
「ご馳走様でした。 さてと……」
(行くとしましょうか!)
早朝の未だ利用者がいない食堂に一番乗りで入り、誰にも気兼ねする必要がない朝食を食べて最後の締めに珈琲を飲みながら食後の余韻に浸った後は踏ん切りをつけるように立ち上がり席を後にする。ここが下士官用の食堂であれば自分で盆とそれに載った食器類を返却口に持って行かなければいけないのだが、この食堂では配膳から片付けまで専門の給仕係が行ってくれるので非常にありがたい。
「ご馳走様。 今日も美味しかったわ」
「はっ! お褒めに預かり光栄であります!」
食堂を出る直前、ここと厨房を繋ぐ出入り口から中にいる者に労いの言葉を掛けてから食堂を後にして廊下に出る。すると、ちょうど出勤の準備を終えたらしい者たちがゾロゾロと自分と入れ替わるようにして食堂に向かって来ているところだった。
『おはようございます!』
「おはよう。 今日も良い天気ね」
『はっ!! 誠に良い天気であります!』
食堂に向かって来ていた集団の内、先頭の者がこちらに気付いて廊下の端に寄ると後ろに控えていた者たちもそれに倣って端に寄って同じように敬礼をしつつ、全員が前もって打ち合わせでもしていたかのように一斉に朝の挨拶を行い、こちらはそれに応えるように答礼して挨拶を返す。
(やはり緊張しているのが見て取れるわね……)
怯えてはいないものの、通り過ぎる際にサッと横目で見ると敬礼している者の内、何人かは額やこめかみに汗がじんわりと吹き出ているのが分かり、内心朝からすまないという気持ちが込み上げて来るが階級という絶対的な存在を前にそれを彼らに悟られては示しがつかないので、会えて厳しい表情のまま左右に割れた列の真ん中を通り過ぎた。
列の中から抜けて数メートル進んだところで背後の集団が明らかにホッとした雰囲気と魔力の動きが背中越しに感じられるが、彼女はそれを敢えて無視して自室へと歩を進める。本来ならば、将官一人一人に割り当てられている邸宅で生活している自分がこの宿舎にいるのはある理由からなのだが、そこに不満をぶつけてもしょうがない。
(そろそろ迎えが来る頃かしらね?)
散々、迎えは要らない。自分で馬に騎乗して行くと言っても部下や担当の者はそれは出来ないの一点張りで困っているのだが、自分の我儘を通す訳にはいかないので抗うことはとっくに諦めた。が、それでもやはり一々迎えに来られるのはどこか気が引けてしまう。
「本当は自分の段取りで準備して、丁度良い時間配分で出勤出来れば一番良いのだけれど……」
まあ、それを言っても仕方がないだろう。
これは自分だけではなく、自分と同じかそれ以上の地位にある者たちの内、ごく一部の例外を除いて行われていることなのだから……
「さてと、とっとと用意しましょうか」
さすがに制服を着ただけの中途半端な格好だと部下たちに示しがつかなくなっては困る。自室の扉の前まで来た彼女は鍵を開けて部屋に入った。
◇
上履きを脱いで
女性としては比較的背が高いほうである自分であっても、上から下まですっぽりと映し出すことのできる大きな姿見の前に移動して制服を着ている己の前後左右の様子を見る。制服や制帽、サーベルに汚れや皺、くすみが無いことを確認して最後に自分の表情を引き締めてから部屋を後にした。
「よしっ!」
小さな声で気合を入れて階下へと降りて宿舎の出入り口へと向かう。
途中、同じく宿舎に住んでいる者たちから敬礼を受けて無言で答礼をしつつ彼らの前を足早に通り過ぎると直ぐに宿舎の出入り口に着いた。
「おはようございます! クローチェ少将閣下!!」
すると既に宿舎の出入り口の脇で待機していた部下が敬礼と共に挨拶してきたので、こちらも答礼して朝の挨拶を返す。
「おはよう、ターナー中佐。 今日も良い天気ね」
「はっ。 今日も快晴で気持ちの良い朝であります」
フレア・ターナー中佐。
ここ約十年ほど行動を共にしている副官であり、種族は母と同じ淫魔族で自分より六十歳ほど年上の女性佐官だ。私の髪が紫色の肩にかからないくらいの長さに対して、彼女は長く明るい緋色の髪を制帽を被る際に邪魔にならないよう少し低い位置の
私の身長が百八十センチに対して彼女の身長は百七十センチあるかないか。国防省保安本部所属を示す灰色の開襟服である制服の私に対し、フレアは暗緑色の詰襟の軍服を着用しているが、これは彼女の所属が保安本部の直轄下にある憲兵隊中央護衛総隊の所属であるからだ。
髪の色はおろか身長から制服の様式まで違う私とフレアの二人が隣り合わせに立つと、側からみれば見事に凸凹な上官と部下に見えることだろう。
フレアの職務は私の副官兼護衛要員であるのだが、魔王領国防軍全軍の中でも数少ない二つ名持ちである私に護衛を付けるというのもおかしなものだと思うことがある。
アゼレア・フォン・クローチェ――――通称:『赤目の煉獄』『殲滅魔将』『鏖殺姫』
私の名前に対して国防軍内外の者たちに付けられた二つ名の内、自分が把握しているのは上記の三つ。いずれも国防省保安本部に移る前の陸軍時代に付いた名だが、二つ名が付くこと自体は国防軍から魔導少将を拝命している私にとってとても光栄なことだ。……なのだが、もう少しまともな二つ名がなかったのかと名付けた者に小一時間問い質したい衝動に駆られる。
やはり陸軍時代に参加した義勇兵派遣や治安維持軍派遣、派遣軍事顧問団の任務の際に敵兵に一切の情けを掛けずに容赦なく殺ったことがいけなかったのだろうか?でも、戦争という状況下で敵兵に情けをかけたが為に背を向けた瞬間に殺された数多の戦友たちを私は知っている。だから私は敵となった者たちは兵士であろうと民兵であろうと敵対行為を行った者達を老若男女問わず情け容赦無く殺害した。
だからなのだろうか?
いつのまにか変で物騒極まりない二つ名がいくつもこの身に付いて回るようになったのは……
「はあ。 なんだかね……」
「どうされましたか? 少将閣下」
「いえ、何でもないわ。
それよりもフレア、二人きりの時は名前で呼んでもらえるかしら?」
「失礼しました。 アゼレア様」
既に馬車は発車しており、車内には私とフレアの二人しかいない。
誰もいないときはお互いに姓ではなく名前で呼んでいるのだが、フレアは己の種族の族長の娘である私の名前を呼び捨てにするなど恐れ多いという理由で『様』を付けて呼んでいる。
(確かに軍での階級は私が上だけれど、年齢はフレアのほうが上なのだから気兼ねなく名前を呼んでくれて良いのに……)
今のところ私の名前を呼び捨てにするのは家族を除けばごく一部の親しい友人数人だけで、それ以外の者は名前に『様』や『君』付けで呼んでいる。階級が上である中将や上級大将のお歴々だけではなく、士官学校や軍大学の同期たちさえも名前に敬称を付けて呼んでいるのだ。
私自身は軍人として為すべきことを成しているに過ぎないのだが、なまじ自分の魔力が膨大なだけにひとたび戦場に赴けば敵兵を完膚無きまでに殲滅していたのが不味かったのかもしれない。百八十年ほど前の初戦闘での功績を讃えられての叙勲以来、実家の自室に飾ってある勲章は両の指では数えきれないほどになり、当時としては異例の速さで魔導佐官へと昇格したのも良い思い出だ。
しかし、私を見る周囲の目は変わって行く。両親と姉は今も昔も変わらずの態度で接してくれるが、それ以外の者たちは余程の信頼関係を結べた直属の上官と部下以外は全員が私の前に来ると緊張し目を合わせようとしなくなった。
よく腫れ物に触るかのようにという例えがあるが、彼らの私に対する接し方は腫れ物ではなく、いつ臨界に達して爆発するかもしれない不安定な状態の魔導弾と相対するような態度なのだ。酷い時には些細な失態であっても泣いて命乞いをして来るほどなのである。それに対して私が沈黙をしていると、許してもらえていないと勘違いして大声で泣き叫んで逃げるか卒倒するかのどちらかになることも多々ある。
(別に私は他人に対して厳しく当たっていることなんて、これっぽっちも無いのだけれど……)
軍務中であっても、作戦遂行中のときのような緊張感は求めていない。
逆に命を賭ける職場であればこそ、冗談やおちゃらけた態度も必要になって来ることもある。四六時中緊張感に包まれていては身が持たないし、何より戦友という存在には信頼で応えるものであって、恐怖で支配するものではないのだ。
(確かに親しき中にも礼儀は必要でしょうけれど、でもいちいち怯えなくてもいいじゃないねぇ……)
実戦で武功を挙げ、階級が上がっていけば行くほど男性陣は益々私と距離を置いていくし、女性陣は私を『デキる女の象徴』として崇めて恐れ多いとこれまた距離を取るのだ。お陰で軍内には信頼できる上官や部下はいても、友人という存在は全く居らず、親しい友人といえば家族ぐるみで付き合いのある実家の大公家と同じ他種族の大公家や同族の公爵家や伯爵家の一部の子弟にしかいない。
そのせいで貴族家の子女にとっては当たり前のお見合い話や縁談さえも私には来たことがない。姉や同世代の貴族家の子女には耳にタコができるほど縁談話が持ち上がったのにだ!
(このまま私は独りぼっちなんだろうな……)
国家のため、軍のため、大公家と両親のためにと数多の功績を打ち立てたというのに、私の性別が女というだけでこのザマだ。
(仮に私が男だったら、こうなっていないかったのでしょうね……)
恐らく男だったら真逆の状況に置かれていただろう。
女性だけではなく男性からも英雄扱いされて恐れられることはなかっただろうし、縁談話は引きも切らずだった筈だ。
魔王領国防軍には軍属を含めて多種多様な種族の女性が働いているし、中にはフレアのように佐官級の女性軍人も少なからず存在していたりするのだが、将官ともなるとその数は私も含めてほんの三人しかおらず、残りは全て男性で後は国防省の官僚組に女性の次官級以下の事務官が存在しているだけ。
因みに私を除く女性将官の二人はどちらも准将の地位にあり、私のように戦場を経験しているわけではなく、広報や軍医といった後方の幹部軍人として活躍している。勿論、所属の能力差がはっきりしているお陰で他国にありがちな女性軽視という風土は殆どないが、諸外国を表敬訪問した際や大使の護衛として付き添ったときに女性将校が相手国の男性武官に軽く見られることはある。
(まあ一部の人間種の国にありがちな男尊女卑が極端な国になると、女性そのものが軍隊で働いていることを許さないところもあるけれど……)
酷い国になると女性は子供を産むだけの存在に成り果てているところもあるので、私の悩みなんて贅沢そのものなのだろうが……
「アゼレア様。
本日の予定の確認ですが、今日は一日中[魔研]での転移魔法の実験にお付き合いいただくことになります。 その後は技本の医務室でお身体の健康診断をされて、異常がなければそのまま宿舎にお帰りいただけることになるかと」
「そう。 宿舎に帰る前に参謀本部に行きたいのだけれど……」
「かしこまりました。
もしアゼレア様が参謀本部のどなたかにお会いになられたいのでしたら、こちらで先に面会のお約束を取り付けておきますが?」
「それは結構よ。
ただ単にリグレシア皇国の動向を聞きたいだけだから。
あそこは最近、一種の不夜城と化してるから、作戦局か情報部に行けば誰かいるでしょうし……」
「分かりました。
一応、参謀本部にはアゼレア様が実験の後に訪問される旨を伝えておきます」
「お願いね」
『失礼します。 閣下、もうすぐ[魔研]に到着します』
「分かったわ」
フレアと今日の予定を話していると不意に御者台の方から声が掛かる。
どうやら本日の目的地に近付いて来たようだ。
(あと二回で今回の実験も終わりなのね……)
魔研こと[魔法技術研究本部]から[保安本部]へ魔法実験に関する招聘要請があったのが約半年前。それに応じて予定を調整して実験に参加したのが一ヶ月ほど前だが、結局のところ今回行われた転移魔法の実験で得られたのは『高魔力保持者は転移魔法に適さない』ということと『転移魔法は軍の兵站に影響を及ぼすほどの影響力は無い』という今までと同じ実験結果だった。
(まあこういう実験は地道に回数を重ねて行くしかやりようはないし、一見無駄に見えてもそれ自体は貴重な研究の礎の一つにになればこそ失敗という文字はないのだしね……)
私自身も軍人の傍、魔法の研究を行ってきたから分かるのだが、魔法の基礎実験というものは長い道のりを必要とする。寿命の短い人間種は早く成果を出そうと焦るが、はっきり言ってそれでは碌な成果は期待できない。
早く成果を出そうと焦るあまりに失敗を失敗として何の検証を行うことなく切り捨ててしまうのだ。何処に成功へと繋がる手掛かりが転がっているか分からない以上、失敗を失敗として切り捨てるのではなく、何故成功しなかったのかを検証していく必要があるのだが、寿命が百年に満たない人間種ではいちいち検証している時間がないのだろう。
(そういったことに時間を使っていたら、人間達はあっという間に老いてしまうものね)
魔族と違って寿命が短い人間種ではひとつひとつの実験をじっくりと検証していては研究者はあっという間に老いて亡くなってしまう。こういう寿命による制約があるお陰で人間種は魔法技術において常に魔族や長耳族の後塵を配してきた歴史がある。しかし、一方で寿命が短いからこそ魔族や長耳族とは比べものにならない速度で発展してきた歴史も同時に持ち合わせている。
(まあ、魔族と人間……どちらの文化や能力にも一長一短があるからこそ、我らが魔王陛下と先王陛下は人間種を国民に迎え入れることに決めたのだろうけれど……)
ふと、馬車の窓から外を見ると田畑が広がっていた。
場所は魔王領の首都ヴィグリードを抜けて既に郊外になり、馬車は首都から郊外へと繋がるよく整備された石畳を走っている。
[魔研]の所在地は軍用魔法の実験の安全上、市街地ではなく郊外に建てられており、訪ねるにはかなりの距離があるため徒歩ではなく馬車や馬、騎竜で行く必要がある。そして時折車内から見えるのは冬の寒空の下で畑の土や石垣を整備する魔族と人間の姿、他にもすれ違う馬車に同乗している魔族と人間、獣人や長耳族の姿が目に入る。魔王領では見慣れた光景だ。
私達魔族が祖国である魔王領はバレット大陸に存在する魔族が主体となる国家の内の一つであるが、他の魔族国家と違い、上・中級魔族が集中している国であるがために子孫が増えにくいという問題を抱えている。そのため、先代魔王陛下こと先王陛下はこのままでは国力が衰退することが目に見えていたのだろう。他種族の者達を国民として迎え入れることをお決めになられたのだ。
――――魔族
特に上級魔族ともなれば子を成すのことは非常に重要な問題だ。昔、領土問題や種族問題で対立していた人間の軍が便宜上設けた魔族の識別階級で言えば、『伯爵級』から上の階位にある上級魔族という存在は魔族全体から見ても絶対数が少ないのが常識であり、子供を作りにくい体質にある。
これは今でもはっきりとした原因が分かっていないのであくまで推測の域を出ないのだが、上級魔族の持つ高魔力が一因だと言われている。と言ってもこれは上級魔族の魔力が膨大だからという共通点だけを見ているからであって、高魔力が子供を成すのにどんな作用を及ぼしているのかわからない。
しかし、長耳族であっても王族級や貴族級のような高魔力保持者達も同じような境遇にあるので、一概に高魔力が原因では無いと言い切れない側面もある。しかし、絶対数が少ないがために上級魔族は今も昔も数が多い中・下級魔族達の頂点に君臨し、その膨大な魔力と武力を持って各魔族国家の要職に就いている者達も多い。
(仮に私の魔力が並以下だったり、クローチェ大公家に生まれていなかったら……ここには居ないのでしょうね)
父や先王陛下がまだまだ現役だった数千年前の時代、魔族にとって『力』こそが全てであり、魔族の頂点に位置する者は[魔王]や[魔神]と呼ばれて武力で国を統一していたと聞く。だが、各大陸で人間種を筆頭とした『知』を尊ぶ種族が台頭し、次第にその勢力圏を拡大していくと『力』しか誇るものがない魔族は次第に押されていくようになる。
いくら強大な『力』を持っていようとも、頭が馬鹿であったら十全にその『力』を的確に発揮出来ないのは子供でも分かることだ。当時、早々に人間達との争いに見切りをつけたいと思っていた先王陛下らは上級魔族達の『種の保存』という問題を回避するためにも人間種国家の指導者達と和睦し、魔族の集まっていた単なる辺境だった地域を『国家』として独立させて人間種を含む他種族を迎え入れて帰化させ、魔族の『力』と人間種を筆頭とした他種族達の『知』を組み合わせて国力の増強に注力した。
そのお陰で『魔王領』は世界でも有数の列強国として名を馳せ、魔族国家の雄として目覚ましい発展を遂げるに至った。だが、国家が発展しても上級魔族の絶対数が劇的に増えるということはなく、高魔力を持つが故に一部の長耳族や人間魔導師達と同じ『種の保存』とはまた別の問題を未だに解決出来ないでいた。
(上級魔族は転移魔法が使えない……か)
この事実は余程のことがない限り、これからも変わることはないだろうとアゼレアは考えていた。しかし、何がきっかけで技術が進歩するのかわからないのが魔法というものだ。今は無駄でも後の時代には今回の実験が役に立っている可能性も大いにあるので、面倒とは思っても手を抜く気は更々ない。
(皆は元気にしているかしら?)
自分に割り当てられた邸宅で働く者たちの顔が浮かぶ。
料理番に侍女に掃除係といった邸宅で働く者たちは全員、軍が身辺調査と面接を行なって雇われた邸宅付きの準軍属扱いではあるが、皆親切でとても気さくな性格をしているので、任務の関係で実家から離れて暮らしている自分にとっては半分家族に近い存在となっている。
(何かお土産を用意しておかないといけないわね?)
邸宅は本来の勤務地である魔王領北部の都市[スプリングフィールド]にある。首都[ヴィグリード]から北部の山岳地帯の麓にあるスプリングフィールドは同じ山岳部にあるバルト永世中立王国違って冬も穏やかで過ごしやすく、一部の地域では温泉が湧いてるので魔王領でも人気の避暑地だ。
(仮に私たち上級魔族も転移魔法を利用できるようになったら、ヴィグリードとスプリングフィールドを自由かつ容易に往来が出来るのにねえ……)
「そうなれば今回のように実験が終わるまで軍の士官用宿舎に長期滞在しなくて済むのに……」とアゼレアは内心嘆息する。まあ、その為にも今回の転移魔法の実験に参加しているのだが。
「アゼレア様、もうすぐ魔研の検問所に着きます」
「わかったわ」
フレアの呼びかけにアゼレアはそれまでのんびりとしていた姿勢を正して気分を切り替える。するとそれまで穏やかだった若い女性としての表情は一瞬で上級魔族のソレに変わり、彼女の持つ魔力の片鱗が周囲に漂い始めて独特の凄みが現れる。
何の前触れもなく現れた強烈な威圧感と魔力に馬車を操っていた御者とフレアと曳き馬に一瞬緊張や恐怖が走るが、さすがに慣れたのか直ぐに平静を取り戻して普段通りになる。
(うーん、あまり周囲を威圧してしまうのも気が引けるんだけれど、でも舐められるわけにはいかないし……難しいわね)
本来の勤務地であるスプリングフィールドの保安本部出張所内であれば、気心の知れた部下だけしかいないのでそこまで気を張ることはないのだが、今向かっている魔研のような全く知らない将兵たちがいる場所では話が違ってくる。軍において階級は絶対であるが、その階級とは別に将官個人が無駄に下級兵士に舐められるわけにはいかない。舐められると親しまれるのでは意味合いが全く違うのだ。
(ただ四六時中気を張るのも疲れるのよね……)
兵に緊張感を持たせるのは良い。
いつ
しかし、将官たるアゼレアもそのために四六時中気を張っていては気が滅入るのだ。
(実験終了まであと二回……主よ、本日の実験も何事もなく安全に終わるようにどうか我を見守り下さい)
窓越しに見える徐々に迫って来る魔研の巨大な研究施設を見つめていたアゼレアは、そっと目を閉じて今日の実験が何事もなく安全に終わることを心から神へと静かに祈っていた。
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