愛する者と愛される者の世界
当時、天才と謳われたこの俺が五十点差で負けるなどあってはならない現実だ。この俺の道理を破りやがったんだ。決して破ってはいけない俺の道理を。いやバスケットボールの道理をお前達は破った。勝ち進んだミニバス全国大会決勝のスコアをお前達は覚えているのか? 覚えていないだろう? 68-18。あってはならない現実だ。決勝戦だぞ? それも全国大会の決勝戦だぞ。どれだけぶっちぎりで勝ちたいのだ。これは全てのバスケットボール少年に対しての冒涜である。
当時、ミニバスをやっていた者達はお前達を決して忘れないだろう。忘れる事なんてできないはずだ。誰もが感じたお前達との絶望的な力量差。その悔しさを胸に刻んで、挑んだ“全中”でお前達は何をしていた。誰もがお前達との再戦を夢見ていた。だが、お前達は現れなかった……。聞けば、バスケから離れてうつつを寝かしていたと言う。そんな身勝手な話が許されるとおもっているのか? 煙草を吸っていた? バイクに乗っていた? お前達に負けた者達が、あの日から“どれだけ練習”しているのか知っているのか? それも血が滲むような努力を積み重ねてきたのかを分かっているのか。悔しさで眠れぬ夜が続いた事を知っているのか? 知らないだろうな、分からないだろうな、お前達は“天才”なのだから。
「初見では、お前達には勝てないだろうな」
「ああ? 喋ってねーで早く来いよ、天才君よぉ」
「努力の天才だ。生まれながらの天性は俺には無い。
「なんだそれ、“たられば”かぁ? 勝ったから俺達は“ここにいる”んだ」
「対策をすれば、勝てると言っているんだ。勿体ねーな、島もそうだけどお前達は。中学でもやり続ければ、絶対王者はお前達だったろうに。だけどそれをしなかった。逃げた代償が個性のゴリ押しとはな。……悪いが高校バスケは、“ここ”はそう甘い世界ではない。ここはプロへの入り口だからな」
「随分とお喋りになったじゃねーか、お前。とにかく来いよ、かかってきやがれ。努力の天才だか何だかしらねーけど、俺に勝てる訳ねーだろ」
「スコアを見てみろよ、20-36だ。第三クォーターも残り七分だ。超攻撃型なんだろ? そんな点数でいいのか? ここまできて、まだ二十点だぞ?」
「うるせーなお前。こっからなんだよ俺は」
「……あの日の得点版を今でも覚えている。五十点差まで、あと三十四点か。まだ結構あるな。まぁ、いけるか」
「お前、マジで舐めてるだろう。どこの世界に決勝で五十点差で負けるチームがいるんだよ」
「そうか、やっぱり覚えていないか。教えてやるよ。“ここにいる”。行くぞ、本気で行く。なにせ俺は【NBA】に行かないといけないからさ」
「来いよ、自称天才が!」
天才バスケットプレイヤー
明島川が唯一天敵としていたのが、彼の王者“京都洛真高校”である。同校とも選手の質は同じである。いや、秋永涼がいる分、明島川に分配が上がるが、指揮官の差では少し洛真に分があった。洛真高校監督、
「本来バスケットとは……決勝戦になればなるほど、指導者、指揮官、監督の采配が重要になってくる」
「そうですよね。だけど……」
「ああ、洛連にはそれがいない。
「バスケットに於いては無意味」
「そう、畑が違う。洛連高校、唯一の欠点は監督が素人であること。あとは――」
「単純にバスケットの基本スキルですね。明島川相手では敵わない」
「だな。だが、洛連が初見殺しなのは間違いない」
「あら、言い訳ですか監督。初見じゃなければ私達も勝てたと?」
「いや勝てなかったの私の責任だ。あの日、私が“やけ”になっていなければな。どちらにせよ、たらればだよ」
「ですね。……もう一つ、もしを聞いても?」
「ああ」
「洛連監督がですね、あの場所に、『泉広洋』がいたとすれば?」
「洛連高校はこの舞台にはいない」
「それはどうして?」
「予選決勝で負けているからだ。洛真に、この私に負けているであろう。私が広洋に負けるはずがないのでな」
「それこそ“たられば”ですよ、監督」
明島川は超守備のチームだ。五番のガード、
六番のセンター、
七番の
八番の
そして四番である
「中島君、何か手はあるかしら」
「……考えているのですが、いまのところは。ですが、洋介は下げないといけません」
「ごめんね。私はバスケットは分からないから。これでも勉強したんだけどな」
「“悠花先生”はここまで俺達をつれてきてくれました。導いてくれました。十分ですよ。……俺は、俺はキャプテンですので、出来ることを尽くします」
「うん、お願い。ねぇ、洋君大丈夫かな」
「分かりません。でも、動揺しています。心が折れかけています」
「だよね。秋永君ですか……洋君を上回る本物がいたとは」
「……先生、あれは何ですか?」
「プロの世界でもね、秋永君みたいな選手はいるの。“本物の中の本物が”。正直、かなり驚いています。きっと彼はそれを後天的に身に付けたのでしょう。並大抵の努力じゃなかったはず」
「そうですか……」
一秒がかなり長く感じてきたな。あと何分で終わる? ああ、一分か。まだそんなにあるのかよ……。いま、何点差だ? 見たくねぇな。ああ、22-46か。ああ、いよいよやべぇな。まさか
「“満身創痍”だな、山岸洋介」
「はぁ? な、何でもいいから早く来いよ。勝った気でいやがって」
「点差、見えねーのか? ああ、見たくもないのか。教えてやろうか?」
「う、うるせー。お前には負けねーよ」
「“負けねーよ”か。俺も昔お前にそう言ったよ。抜けるまで抜いてやる、と」
「はぁ、はぁ、だ、だったら早くこいっつてんだろ」
「抜きに抜かれまくった感想は? 自慢のディフェンスは? プライドが砕け散った感想は?」
「う、うるせー」
「なんか、お前どもってないか? まぁいいか。そろそろ終わりにしよう。そして膝を地につかして謝らしてやるよ。それでも“お前達の冒涜を”皆は許しはしないからな」
何言ってんだよ、こいつ。訳が分かんねー。つーか何者だよ。上手いとかってレベルじゃねー。人ではない化け物だ。こんな動きできるやつ、見たことがねー。ああ、いやいたか。【NBA選手】だ。こいつの動きは正しくそれだ。マジかよ、NBAってそんなに遠いのか? 海の向こうはこんな奴等ばかりなのか?
『おお! 秋永がボール運びだ!』
『北原と変わったな。ようやく本来の“ポジション”にか』
『明島川と言ったら、秋永と北原の二枚ガードだもんな』
『でも、なぜこのタイミングで? 何時もはもっと終盤なのに』
『分からせる為、だろうな』
『格の違いを、ですか。ここでその差を実感させられたら、洛連の十番は立ち直れませんね。さっきからまるで歯がたっていないのに、自分の得意分野でも“負け”を痛感させられたら再起不能ですね。やる事がえげつない。星野監督の指示ですか?』
『いいや、恐らく選手達の判断だろう。確かに、えげつないな。秋永涼とはそういった部分も兼ね備えている。対抗出来るのは、鋼の意思を持ったうちの村井徳史くらいだよ』
『……村井君、監督に似ていますもんね』
「――お前! マジで舐めてるよ! ふっざけんな! 来いよ、相手してやる、昔は俺に負けたくせによぉ!」
「何時の話してんだよ、だからお前は俺に勝てないんだよ。ガードでもこの俺が上って事を教えてやる」
「やってみろってんだ!」
低く構えた秋永涼の目は瞳孔が大きく開いていた。光を吸収した瞳はキラキラと輝く。本当にバスケットをしているのが楽しいのであろう。この先の未来が楽しいのだろう。心を躍らしているのだろう。未来を見据えた瞳をしていた。この目をしている奴には到底敵わない。この瞬間にいる奴にはかなわない。それを俺は知っている。俺だけは、知っている。
大きく――左右に“右足を揺らす”。ということは、軸足は左である。つまり秋永は、左利きである。それはこの試合で初めての事である。ずっと右利きだと思っていた。でも違ったんだ、そう思い込まされていたんだ。
そんな事とかを考えていると、あっと言う間にこかされる。相手の重心を崩す“アンクルブレイク”だ。そしてこう思った。ちがう、こいつは両利きなんだ。ああ、見事に騙された。ポイントガートとしての勝負も出来やしなかった。俺は、ガードとしての勝負の前に、それすらもさしてもらえず、負けたんだ。嫌な奴だよ、本当に。『ああ、そっか。思い出した。こいつのさっきの点差がどうのこうのって、昔の俺が秋永に言った言葉だ』。それで、あいつずっとそんな事を俺に言ってやがったんだ。なんだそれ、性格悪いなぁ、あいつ。やっぱり大嫌いだよ。大嫌いだ。俺は俺より上手いやつが大嫌いだ。
そして第三クォーター終了の鐘が鳴る。スコアは24-50と、大きく明島川がリードしていた。第三クォーターでの洛連の得点はわずか“数ゴール”である。明島川の超守備を前にまるで歯がたたず、洛連の特性は完璧に封殺されていた。そして、秋永涼の覚醒である。彼は、この後半で才能を確かなものとして、日本中に認めさせたのである。誰もがこう思った。『秋永涼は本物だと』。
「みんなお疲れ様。結構離されちゃったね。もう、ぶっちぎりは難しいかな……」。遠藤悠花は、息を切らしながら下をうつむいている“五人”に声を掛けた。しかし、五人からの返答はなかった。本来、掛けるべき言葉は今のような言葉ではない。違うのは分かっているが、それしか出て来なかった。自分の引き出しの少なさに、彼女は自分自身に嫌気がさした。
(私も、指導者としては、まだまだか。今だけは色々な経験が欲しい、この瞬間に言える経験が欲しい。悔しいな。これも自分の事ばかり考えてきた事の末路なのかな)
「悠花先生、とにかくインターバルは一分しかありません。第四クォーターのメンバーを決めてもよろしいでしょうか」
「はい、私は打ち止めです。本当にごめんね……」
「謝んなよ、悠花先生。不甲斐ないのは俺達だ」
「“これが全国決勝かぁ”。対策されて何も出来ないのは、俺達の実力不足か」
「地方予選は、悠花先生が隠してくれたから何とかなったからなぁ。感謝してるよ」
「なぁ、悠花先生のお陰だよ。ここまで来れたのは! なぁ洋介」
「え、ああ、う、うん」
(ああ、いよいよやばいな洋介。俺等が悠花先生と言っても反応しない。それに、“どもってやがる”。これはまずいやつだ)
「鷹峰、最後まで出れるか?」
「ああ、出れるぜキャプテン」
「ありがとう。悠花先生、センターは俺と鷹峰で行きます。サトルとタマも頼む。ガードは士郎、行けるよな?」
「はい、全力で」
「頼むぞ。状況はわかっているか、みんな。俺達で、この控えメンバーで勝てないのは“明白”だ。残り十分、つまり六百秒。六百秒で二十六点差を追いかけなければならない。先ずは主力を休ませる、そして点差を詰める。それが俺達の仕事だ。……困った時に、困難が訪れた時に、助けをかけてくださる先生の言葉はもう無い。だけど“ずっと”聞いてきていた言葉はあるだろう。それを忘れるな。俺達はその言葉を忘れてはならない。悠花先生と真理さんの努力を、泉先生の思いは忘れはしない、そうだろう? あとは、残された俺達でやるしかないんだ。やりきるしかないんだ」
「分かってるよ中島君。食い意地が張る僕だけど、ここが正念場ってことくらいは分かる。ねぇ、上代君。下を向いている暇はないよ。向こうは皆の欠点を熟知しているんだ。そこを攻められているんだ。……ならば今の上代君達が何をすべきかなんて、それこそ明白なはずでしょ。見といてよ、“僕達の本気のバスケット”を。それに“今年で最後なんだ”。皆でやるバスケットボールは、今日で最後なんだ」
「タマ、おまえ……」
「カツサンドは京都発祥である。だから、いつか返してよね」
「帰りの新幹線が心配だったけれど、勝てばそれも紛れるかもしれない。それに玉木君が言った通りだよ。小学生から一緒だった僕達だけど、もう今年で最後なんだ。そう考えるとさ、なんか不思議な気分だよね。中学ではあんなに離れていたのに、また一緒になって。そして皆のおかげでここまで来れた。何もない僕がここまで来れたんだ。普通なら一生出来ない“経験”だよ。――だから、だから京都に帰った時は泉先生にこう報告しようよ。『ぶっちぎりの点差を、ぶっちぎりで追いかけて、ぶっぎりの優勝しましたって』。そうしたら僕は、新幹線でもなんでもロケットだって乗れる気がするよ。だってね、皆がいるから」
「サトルの言うとおりだ。帰りはロケットで帰ろう。勿論、勝ってからな。では、行ってきます先生」
「うん、お願いします。……何も出来なくてごめんね」
「何を何回も。ここまで来れたのは悠花先生がいたからです。おい、洋介」
「うん、ごめん」
「何を落ち込んでいる。お前はあの天才に勝てると本気で思っていたのか? 向こうはお前に負けてから必死で練習してきたんだ。普通に考えたら勝てるはずがないだろう。だから、笑え、洋介。お前は“ミネ”にあの時言われただろう? それを忘れるな」
「あの時? どのとき?」
「どのときって――」
「ああ、ゴリポン。わりぃ、言ってねぇ。てか、多分だれも言ってねー」
「え? そうなの?」
「心の中で言ってたわ。いま、言うか?」
「いや、今じゃないだろう。でも……どうだろうか。先生! 秋永のあれは何と言うんです。本物の本物と言うのは」
「アレは一種の病気です。心のね。私からすれば欠陥人間だけが入れる病気だと思っている。“フロー”と言われているわ。スポーツとかだと“ゾーン”と言われている。秋永君はそれに限りなく近づいている」
「ですか。洋介、どうせ聞こえてはいないだろうが、聞けよ。今の秋永涼は確かに化け物だよ。でも、お前が、お前も昔から偶にそうなるじゃねーか。“心と体のバランス”だろう? とにかく見とけよ、タマやサトルが言ったように。それに、あと六百秒で俺達の高校バスケは終わる。だから、笑えよ洋介。お前とバスケット出来て良かったよ。あの日、俺をバスケットの遊びに誘ってくれてありがとうな。感謝している。じゃあ行ってくるかんよ。ゴリポンかぁ、その愛称をつけてくれて、ありがとうな洋介」
「洋君。君は、本当に良い友達に恵まれていますね」
「は、はい」
「見ましょうか、良い友達の最後の雄姿を」
「はい」
自己認識の低下。それが山岸洋介君にも始まっている。フローに入る兆候か。
極限の集中力が続いた状態を人は“フロー”とか“ゾーン”と言う。それに入りやすい人は確かに一種の病気だと思う。だけど、案外誰だって入れたりするのがフローです。そう、誰だってそういった経験はあるはず。私だって、勿論ある。
私が求めているのはその先。それは“ゾーンを超えたゾーン”では無い。“フロー”状態の中の“フロー”でも無い。私が求めるのは、他者をも巻き込む究極の集中状態。スポーツでその状態になるには難しい。だってスポーツの本質は闘争だから。他者と自分の考えを共有するのは難しいの。……だけど確かに前例はある。他者をも巻き込むフロー状態がスポーツでもあったのを君達は知っているかな?
一番“その状態を”、分かりやすいのが何かを教えますね。それは、ここだけの秘密ですからね? 私がきみたちにずっと言ってきた言葉で、比喩として表わしてきた言葉がありますよね。それはね、『大衆舞台演劇』。
舞台はね、本当に素晴らしいものです。一人がフロー状態になれば、それを周りに伝染させます。舞台上の全ての演者にです。
そして――舞台は演者だけで成り立つものではない。“観客あってこその舞台”なのです。それが『大衆舞台演劇』なのです。
――バドミントンに疲れた私が、ある日にふと立ち寄った小さな小劇団の公演。その公演は本当に素晴らしくて、一人の演者がフローに入った瞬間、私達は空間を共有した。演者も裏方も観客をも巻き込んで。私は、泣いた。私が求めていたものがそこには確かに存在していた。
帰り際に、小劇団の演出家と少し話を出来ることができた。私はすぐに聞いた。あれは何ですかと。するとこう返ってきた。その言葉を聞いて、私はその言葉を体現させたくて、こうして“此処”にいる。
『“すごいでしょう”。まぁ、私達からすれば、あなたもかなり“凄い”ですがね。一人がなるとですね、ああなるのが舞台のいいところでございまして。それが、エンターテイメントってやつですねぇ。偶にね、いるんですよ、周囲を巻き込む役者が。台風の目みたいな役者が。だから舞台役者なのでしょうね。正に天性の才ですよ。わたしたち業界ではね、そのような役者をこう呼んでいます。【天衣無縫】の者と』
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