九蓮宝燈

 “九蓮宝燈ちゅうれんぽうとう”――という麻雀の役がある。役満の中でもかなり難しい役であり、見た目が華やかで綺麗な事から、麻雀役の王様と呼ばれている。しかしその成立の難しさから、九蓮宝燈でアガると死ぬとも言われている曰く付きの役でもある。その出現確率は0.00045%。正に天文学に近い数字である。更に九蓮宝燈には“純正九蓮宝燈”というものが存在する。麻雀牌に於ける一から九までの全てが“待ち”となる形である。そしてこの純正九蓮宝燈となると、その役は麻雀の中でももっとも難しい役と言っても過言ではない。そう、それは正に天文学的な役となる――。





 とにかく六百秒、あと六百秒で試合は終わる。点差は二十六点差。いまの僕達がやるべき事は分かり切っている。皆が出てくるまでに相手の癖を見つけ出す。尚且つ点差も詰める。同時に秋永君を止める。あはは、無理難題が過ぎるなぁ。でも、でもそれをやらないと勝てないんだ。勝たないと此処まで来た意味が無いんだ、だから絶対に僕達は勝たないといけないんだ。皆がね、負けるのはもう嫌なんだ。だって君達は、君は、皆のヒーローなんだから。だから絶対に負けられない。泉先生にも言われたんだ。“君を支えろ”って。だから……その為に僕は“此処に”いるんだ!


「士郎君! こっち!」


 うん、横井士郎君はやっぱり凄い選手だよ。良いパスを投げるもんだ。さすが山岸の後輩だね。さすが、山岸君を尊敬している事だけはあるよ。これなら、行ける。欲しい時にボールをさえ貰えれば、こんな僕だって抜ける!


「サトルが抜いた!」

「一気に二人抜きかよ、あいつ!」

「サトルは出来る奴だ! 普通がどれだけ難しいか! なぁ、サトル!」


 うん。やっぱり秋永君は追いつくかぁ。本当に凄い選手だ。

 だけど、だけど僕は君より凄い選手を知っている。今は少し舌足らずだけどね。でも本当に凄いんだよ? きっと君はこの後、“それ”を知る事となる。


『――滝沢悟たきざわさとる。君は?』

『俺はやまぎし、山岸洋介やまぎしようすけ。お前、なんかふつうの名前だな』

『なに、ふつうの名前って。それより今日からドッジボールじゃないんだ』

『見た目も名前も“ふつうってかんじ。そう、今日からはバスケットボール。知ってる? バスケ。一緒にやろうぜ』

『うん、別にいいけど――』


(最初から偉そうで、でも何処か好きだった。惹かれる“何か”が君にはあった)


 この時、眼前に迫る秋永涼を前に、滝沢悟の視野は広域に手を伸ばす。極限の集中状態による“フロー”が彼にも現れていた。シュートモーションに入っていたが、視野が広がった事によりパスを選択。渡った先は大喰らいの玉木宏たまきひろしであった。ボールを受け取った玉木宏は、その体型からは想像だにしない機敏な動きをし、確実なるシュートを決めた。洛連高校、久しぶりの得点である。


(ずっと、ずっと僕がね、何故君と仲良くなったのかが分からなかったんだ。でも今なら分かる。あの時、僕は君を必要としていた。でも、君もどこか僕を必要としていたんだ。それが“いま”なんだ。本当に君は天然で凄い人間だよ。君が、本当に天然ならばだけどね――!)


「タマ君ナイッシュ!」

「サトル君も、まるでNBA選手みたいだったね」

「あはは、じゃあ僕達はもう、NBA選手だよ」

「うん、そうだよ。今だけはNBA選手だね」

「そうだね。やっと来たよ。泉先生が言っていた僕達の“舞台”」

「若干、悠花先生が混じってるね」

「うん、たしかにそうだ。でもこんな時だけど、なんだか楽しいよ」

「僕だってそうさ」



 破竹の勢いで進む秋永涼を追いかける洛連高校だが、その差は一向に縮む事がなかった。入れても入れても、入れ返され、点差は動く気配を見せない。しかし、洛連高校の選手達は。入れては入れ返され、また入れる。試合は何時の間にか、スピード展開になり、奇しくも彼等が得意とするラン&ガンの形になっていた。それでも秋永涼の独壇場である事は変わりなかった。

 そして洛連側で一人の脱落者が出た。先ほどから秋永涼を相手に何回も対峙していた滝沢悟である。彼の体力は最早底をついていた。それもそうだろう、覚醒した秋永をマークしていたのは彼なのだから。おまけに終盤で走るバスケットである。天才バスケット少年に一切臆することなく、勇猛果敢に立ち向かった彼がコートを去ったとき、会場から大きな喝采が響いた。――この時、会場内の雰囲気が少しだけ変わりつつあった。判官贔屓ほうがんびいきという言葉がある。負けている者に同情し、勝って欲しいという日本人の独特の感情が会場を包んだのだ。



「お疲れ様、滝沢君。本当に、凄かった。なんかごめんね、私、こんなことしかいえなくて……でもなんだか本当に」

「――悠花先生、ありがとう。なにも泣かなくても。僕の役目を果たしただけです。やっと、やっと僕の役目を果たせました。僕の“出番”が終わりました。一生で最後の“素晴らしい出番”が」

「はい、大変良くやりました。あとは――」

「山岸君」

「お、おう」

「普通に生きるのも、結構難しいんだよ」

「そ、そう。うん、ししってる」

「そっか。じゃあ良いんだよ」



 滝沢悟の後に入った選手は、上代翔かみしろしょう。ここでも少し会場が沸く。なぜなら彼のプレーは速く、そして速攻から繰り出されるアリウープは、そこだけは誰がどう見てもNBA選手並みだからだ。観客はそういった派手なプレーも望んでいた。

 所謂、王者一強ではなく、それに抗う者達、それに期待しているのだ。これは対洛真戦の試合と非常に似ている。観客の心理は、絶対に勝たないといけないのは、明島川あけしまがわである。しかし、“ぶっち切り”の試合を人は望まない。望むのはギリギリのクロスゲームである。人の心理としてそう為ってしまうのである。“ぶっち切り”の試合を望む人は、唯の変人か狂人か、独裁者で在ろう。



「残り七分。サトルが全力でやって、三分しか持たなかった奴か。果たして俺に務まるかな」

「何を弱気な事を言ってるんだい、上代君。務めてもらわないと困る」

「ディフェンス時は俺が付く。ゴリポンとタマがいるからな。だけど、オフェンス時は」

「わーってるよ、タマ、ミネ。オフェンスんときに抜かせるのは、現状俺しかいねー」

「そうだ、そーいうことだ」

「お前だよ」

「上代君だよ」

「そうだ俺だ。洋介じゃねー、この俺だ。俺は先生に“そう言われた”んだ」

「じゃあ、行くぜ」

「翔先輩、今の俺の技術じゃ中に入れません。空中戦でいきますよ」

「だれにモノ言ってんだ、士郎。高さも俺が一番なんだよ」

「じゃあ、僕が見やすくしてあげるよ。空を」

「タマ、お前は詩人だなぁ。まぁ任すわ。残り何秒だっけ? ああ、きっと五千秒だ」

が。よっしゃ、行くぞ!」



 バスケットボールを始めたのは痩せたい為である。否、違う。憧れていたんだ、速く走れる事に。じゃあ“速く走れる”ってなに。長距離のマラソン? それとも短距離? 違う、ただ一瞬の瞬発力に憧れた。僕は50メートル走を六秒で走るより、1メートルを0.0001秒で走りたかった。それに太っているのに、やたらと早いデブってなんだか格好いいじゃんか。それに僕は“速い人”に憧れていた。だからバスケットボールを始めたんだ。勿論、山岸君や鷹峰くん、中島君に滝沢君と一緒に遊んでいたって事も関係はしているよ。

 誘われるがまま入った(山岸君が無理やり誘った)ミニバスチームに、僕の人生で天啓とも言える人と出会った。名前は上代翔君。隣小学校のやんちゃ坊主な子であった。彼は、馬鹿であった。しかし、その足の速さは随一を誇っていた。とくに瞬発力や跳躍力、それはチーム内で一番であった。


 彼はあの時、間違いなくチームのであった。鷹峰君より凄いバスケの素質を持っていると、当時誰もが感じていたと思う。山岸君が“心の解放”をするまでは――。


「よっしゃあ、きた! ブチ抜いてやる!」


 素行は一番悪く、口も軽くて早い。おまけにすぐに手が出るから、中学ではいつも先輩と喧嘩をしていた。そんなイメージ。自分の実力に“確かな自信”を持っていて、傲慢で不遜だ。……だけど、そんな彼が弟とお母さんを一番に心配しているのも、知っている。酒飲みの父親を尊敬しているのも、僕は知っている。なぜなら、家庭の悩みを一番最初に相談してくれたのはこの僕だったから。代償は毎日のお昼ご飯だった。

 星野君が一時期学校に来なかったとき、僕は上代君の話をずっと聞いていた。ずっと二人で話していたんだ。なんでなんだっけ? ああ、山岸君と島君の事故のあとだ。だから僕は知っている。上代君がどれだけ、バスケットが好きなのかを。そして“僕は彼の苦悩も知っている”。悩みを。“それ”が原因でエース達がバスケットから遠ざかろうとしている“現実”を。

 誰もが皆、自分が一番だと信じていた。この世に於いて自分は至上であり、上はいない。いても潰す、必ず潰す。上代君然り、皆はそうやって生きてきた。だけど皆の“天上天下唯我独尊”の考えはある日を境に一方的な“現実”によって潰された。

 僕は知っている。皆も知っている。“それ”が何かを知っている。泉先生がそれを皆に教えてくれた。事実、僕達は目の当たりにしている。決して在り得ない現象を、それを体現させた人間を。ミニバスの“決勝試合の数分間”で、僕達はそれを目の当たりにした。“彼は化け物”だ。そう表現するしかなかった。そして誰もがそのプレーを見て思ったんだ。「ああ、こいつには絶対に勝てない」と。化け物の名前は山岸洋介君。


 ある日、中学校のバスケ部顧問である泉先生は僕にこういった。

「ええか、あれが主役や。玉木、滝沢、だからお前等は脇役や。あれには勝とうとするな。そしてあれに勝とうとする“主役共エース”を“支えろよ”。バスケットには、世の中では、お前等がいないと成り立たない。悪い言い方やけどなぁ……良い言い方をすれば――」

「もう、分かっています。“面倒を見ろ”ってことですよね」

「みますよ、みますとも。だって僕達、エースが好きなんですから」

「NBAが好きですから」

「そうです、皆はNBA選手ですよ。必ずなる、そうなると僕も信じています」



 最速で、且、今大会、最高到達点を記録した上代翔の跳躍は失敗に終わる。

 止めたのは言わずもがな、秋永涼。それはつまり、歴史上で一番跳躍したのは秋永涼であるという現実。そして観客の脳裏に過るのは。戦いは、ラン&ガンを踏まえ、NBA並みの空中戦を望んでいた。そして期待するのはダンクシュートの合戦。事実そうであった。上代翔と秋永涼はその入れ返しをしていた。ただ、秋永涼は更にその上をいつもいく。


 彼は正にバスケットボールの天才であった。そして日本のバスケットボール界を回天させる人物であった。


 試合時間残り五分。得点版は42-62と記されていた。猛追を掛ける洛連だが、覚醒した秋永涼を中心とした攻撃には追いつけず、点差は未だに二十点としていた。残り五分、つまり三百秒。これは絶望的な点差であった。





「はぁ。追いかけても追いかけても逃げていくなぁ」

「なんで向こうはタイムアウトを」

「しらねー。秋永を交代させるためじゃね。もう必要ないっしょ」

「いいえ、向こうは必ず出てきます。恐らく、勝ちたいのでしょう。ぶっち切りで」

「ああ、なるほど。いやな奴らだ」

「あと何秒?」

「五分だから、三百秒」

「あの“気になった”んだけど、君達は何で分を秒単位で――」

「じゃあ、三百秒を“割る二十四”したら?」

「わかんねーよ、香澄さん何秒だ?」

「え、十二秒と少し……」

「ほう、それは二十四秒があと十二回あるということ」

「じゃあ、。俺達のオフェンスに残された回数は」

「単純計算するとな。つまり、攻めの時間は百四十四秒くらいしか残されていない」

「それで、あと二十点?」

「ああ、そうなる」

「君達、そういう計算は出来るんだね。てっきり数学は苦手だと」

「数学じゃねーよ、残り時間と現実だ。一日と一緒でバスケは二十四秒だ」


「でもその計算は間違っている。俺達にはも必要ない。泉先生からは、そう言われている」


「ちげぇねぇ。半分でも余りある時間だ。六秒だ、ワンプレー六秒で決めたらいい」

「ディフェンス、もな。二十四秒待つ必要は無い。それこそ

「まぁつまり。あとは、お前だよ」

「ああ、お前だ」

「つーか、お前しかいねぇ」

「ディフェンス三秒は前代未聞だ。でもお前がいれば行ける」

「ドライブは任せろ、洋介!」


 全員の、全体の空気を読み取り、彼はその時すこし小さく頷いた。その瞳はきらきらと輝いており、そしてまた何処か楽しそうな眼をしていた。


「聞いたか洋介。オフェンス六秒、ディフェンス三秒。バカげた数字だ。でも、それにはお前が必要だ。お前の本当の“舞台”だ。洋介が真に世界に行きやがる、その舞台だ。何時までベンチにいるつもりだ。何時まで観客席で見ているつもりだ。お前はもう片足を突っ込んでいるぞ。いまや、


 山岸洋介は、キャプテンである中島敦にそう言われ、この最終クォーターに再度出場する。つまり、千秋楽の舞台に立った。残り時間は五分。スコアは42-62。点差は実に二十点。もう一度言おう、試合残り時間三百秒。だが、それは彼等には十分過ぎる“秒数”であった。そしてそれは『山岸洋介やまぎしようすけが“世界の舞台”に立つ初日』を意味していた。


「――先生。あれはなんだろうか」

「あれは、紛れもない天才です。努力の天才。確実なる天才。バスケットボールの天才」

「では、俺は何なんですか」

です」

「誰に?」

「さぁ」

「そう……。では行ってきます。先生、俺の事を嫌いにならないでね。どうやら世界は言うに、俺の事をらしい」

「皮肉を言えるようには回復したんだね。“だったら見せてよ”、私に。もう、一致したのかな、心と体は」

「皮肉って、だったら“俺なりの最高の皮肉”を言ってもいいのかな」

「ええ、どうぞ。言ってみなよ、言えるなら、覚悟があるなら声大きく叫びなさいよ。普通はそれを言えないのよ」


「俺なら、言える。何時でも言える。だから言ってくる。行って来ます、先生」

「期待しています。本当に」


(“最後に”私の名前は呼ばないか。でも……それが君か。じゃあ、よーく見してもらおうかなぁ、洋介君。私の愛より愛されているという、君のバスケットボールからの愛を。私より愛されているのなら、きっとこんな点差は雑作も無いはずでしょう? ああ、私って本当に……なんでこうなるんだろうなぁ? だから、愛されないのかなぁ。だから愛されなかったのかなぁ。うるさいなぁ、“それは私が一番に知ってるよ”。そろそろ黙ってはくれまいか、バドミントン!)





 第四クォーター、残り“三百秒”。最後の笛は鳴る。この笛の音は、当事者なら誰でも覚えているであろう。ここから二十点差を追いかける洛連高校。彼等が、彼等世代が何故、黄金世代と謳われたか。それはこの試合があってからこそなのである。この“劇的”な決勝試合があったからこその黄金世代なのである。そしてこの日こそが、後世に続く『バスケットボール維新回天の日』なのである。これは事変ではない、政変である。間違いなく、世界を変えたなのである。私たちはこの日、それを目の当たりにしてしまったのだ。


【『誇るべき日本のバスケット、維新回天の日』桐村孝きりむらたかし著。前書より一部抜粋】





「むかし、あいつらに無理やり麻雀をやらせてたよなぁ、間中まなか

「ああ、だっけなぁ。いまいちルールも分かってもいねーのによ。鴨だっだぜ、あいつ等は」

「はは、鴨だったなぁ。その中でも、一番に麻雀を分かっていなかった奴、それが“あいつ”だったよなぁ」

「ああ、“あいつ”だ」

「覚えてるか、あの日」

「忘れる事はねーよ、マジで伝説だ」

「麻雀分かんねーで、俺等に金取られまくって、あそこまで、ばかで、“ってる”やつは未だにいねーよ」

「なぁ。それで必死になって、金取られたくねーからって、教えて、同じ様な牌を揃えたって言いだして。この役は成立していますか? ってな」

「――“九蓮宝燈”だもんなぁ」

「しかも“純正”のな」

「それを。何者なんだよな、あいつ」

「なぁ、そうだよなぁ。きっとそれを、天才って言うんだろうなぁ」

「……あの秋永よりもか? 天はあいつに才能を与えすぎだろう」

「でもよ、マジで世の中にはいるんだよ、山岸みたいなやつが。マジで……“いやがる”んだ」

「ああ、“そうだなぁ”。知ってるよ」

「そういや、九蓮宝燈の別名知ってるか?」

「ああ、なんだっけ。多分知らねー」



「へー。何だかよく分かんねーけど、“あいつぽい”じゃんか」

「なぁ。あいつ“ぽい”よなぁ」

「意味は?」

「たしか、わざとらしさがなくて、それでいて綺麗だとか」

「なるほど。確かに“あいつの為の言葉”だなぁ。俺はよ分かるぜ、石上ぃ。マジでよ。それにな? そもそも甲子園は大人になったら行き放題だ。それを野球球児達に教えてやれよな。お前よ、きっと良い少年野球の監督になるよ、マジで。九蓮宝燈で二回も上がった、お前ならな

「ばぁーか。天然と男前には、勝てねーよ」

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