好きを好きになった日
それが、どの話かはもう忘れてしまっている。もう七歳とか八歳の頃に読んだ話しだから。
俺が小学生二年生だとかそこら辺の頃だ。バスケットを題材にしたアニメが放映されていた。放送時間は確か夕方頃だ。そのアニメの原作が漫画だと知り、早速、父にお願いをしてその漫画を全巻買って貰った記憶がある。ああ、父じゃない。サンタクロースにお願いをしたんだ。そしたらクリスマスの日にその漫画をプレゼントしてくれた。起きたら、枕元に置いてあったんだ。今思えば優しいサンタクロースだ。そして今思えば、古本だから安く済んだ事であろう。古本によく貼ってある二百円とかのラベルシールが貼りついていたからだ。少しだけ大人になってからサンタクロースは親だと分かり、それと同時にそのラベルシールを見てその意味と親の優しさに改めて気付いた十歳の冬。
話は変わるけど、その漫画の主人公は良く跳んでいた。どの話かはもう忘れている。それでも一番印象に残っているのは、主人公がフリースローラインから跳んでダンクシュートを決めようとするシーンがあった。子供ながらに、その瞬間何故か心を奪われた。
そして俺は親に頼み込みBS放送を見れる様に頼み込んだ。所謂、BSアンテナの設置である(結構費用が掛かる)。目的は【NBA】の放送を見る為。そして俺は、アニメでもなく漫画でもなく、実写として映像として、その瞬間を目の当たりにしてしまう事となる。
確かに、NBAには幾人かいた。この世には本当にいたのだ。フリースローラインから跳んで直接ボールをゴールに叩き込む化け物が。そしてまるで空中の階段を駆け上がる様を見て、人々はこう言った。『エアーウォーク』と。
高い身長と長い手足。そして驚異的な体のバネと身体能力。彼等は一種の化け物だ。俺が小学生の時、フリースローラインに初めて立った時、NBAの選手達がどれ程異常か身に染みて分かってしまった。フリースローラインからゴールまでは“あまりにも遠過ぎる”のである。改めて、あのTVの中のNBAの選手達は人間ではないと実感した十一歳の春。
だが、それでも。日本人があの世界に立ち入る可能性は零ではないと先生に教えて貰い、俺の地道な努力がいつの日か実になると気付いた十三歳の夏。
当時、俺の“垂直飛び”は七十センチメートルを超えていた。それはあの
「何とか前半はこちらのリードで終える事が出来ました。立ち上がりは少し不安でしたが……君達やっぱり凄いですね。私、少しだけ驚きました」
「少しだけかよ! もっと驚けよ!」
「だからお前は声がうるさい、バカ」
「悠花先生。俺に言う事があるでしょー? 褒めてもいいんだよ?」
「それより上代君。お腹空いたんだけどカツサンド返してよ」
「僕はお腹が痛い。誰か正露丸とか持ってないかな?」
「いやだから、タマ。俺のおにぎりがあるからそれ食えよ。安心しろ、握ったのはお袋だ」
「ミヨちゃん、俺は唐揚げが食べたいな。ミヨちゃんの唐揚げが食べたい。もう食べてもいいかな?」
「えっ、今食べるの? 別にいいけど」
「試合中に唐揚げは良くないんじゃないかな、
「香澄さんの言う通りだ、島。フルーツにしとけ、フルーツに。しかしよー、それでも二点差リードだ。こっからだろ本番は。あ、香澄さん俺は蜂蜜レモンね」
「明の言う通りだ。敵はあくまであの洛真だ……ってかお前等全員うるせぇよ」
「ねぇ、誰か正露丸は……」
「はいはい、皆静かに。後半をどう立ち回るか、ここからが大切なのですよ。先も言った通り、これで洛真は君達をこう認識したでしょう。“只者ではない”と。それは観客も同じです。そして微かに全員の頭に
「まぁそりゃあ」
「見てる方はそっちの方が楽しいだろうな」
「ってかまさか、あそこでオールコートで来るとはなぁ」
「確かに。あれは監督の指示か?」
「それより、監督の横にいる姉ちゃん可愛いくねーか?」
「あ、島それな! それ俺も思った! あ、いや別に普通だったかも」
「なんでお前はそこで言い直すんだよ、それも悠花先生の顔を見ながら」
「うるさいな、ミネ。お前が一番うるさいから」
「“アウェーをホームに変えろ”。昔……私は恩師にそう教えられたわ。君達もかつての恩師にそう教わったのでしょう? いいかな、観客は確かに君達を認識してこう思っているのかもしれない。『もしかしたら洛連はあの洛真に勝つんじゃないか?』って。もしかしたら何かじゃない、絶対に勝つのです。それもぶっち切りで。ギリギリのクロスゲーム? こちとらそんな試合をするつもりはありません。ここから突き放しなさい洛真を。ここから走り続けなさい、王者を蹴とばしなさい、此処から叫びなさい、高校バスケットボールでの一番は自分達だと」
「悠花先生――」
「よっしゃあぁ! 行くぞお前等! そう言われたら何か燃えて来たわ! 先生後半はそろそろ俺達を!」
「急にでかい声出すな、ゴリポン! 鼓膜が破れるじゃねーか!」
「ははは、すまん洋介。つい嬉しくてな」
「中島君、凄い気合いね。そう、メンバーチェンジです。山岸君と上代君、後は星野君は下がって。変わりに玉木君と中島君。それから司令塔は、滝沢君お願いね」
「また中が厚いな。まぁ洛真のプレー見りゃあ分かるか。センターはこっちが優秀だな」
「ミネはともかく、ゴリポンは凄いからねー」
「引っ掛かる言い方しやがって、文句があるなら言えよ。この“カマ野郎”」
「ああ? センターは優秀ってガードも優秀だろうが、悪口だけは聞こえるんだな、この“ノッポ野郎”」
「ミネも洋介も夫婦喧嘩は辞めろ。もう聞き飽きた」
「ねぇ、上代君カツサンドは」
「だからもうねぇーって! 俺が食べたから! ごめんって!」
「それより誰か正露丸を……」
一大決戦の後半は始まろうとしていた。だが、その始まりは前半の始まりとは全く異なる雰囲気であった。当初、誰もが信じて疑わなかった絶対王者の勝利。それもそうだ。何故ならば、全国一の強豪校と全く無名の公立高校だ。だがしかし、前半の試合内容によってそれらは覆されようとしていた。
人々の頭に過るのは『もしかしたら洛真が負けるかもしれない』という一つの可能性。そして現状の接戦である。だが王者の意地と、その潜り抜けた修羅場の数、そして何より、洛真には負けてほしくないと言う思いが会場をより一層熱くしていた。言ってしまえば、接戦になればなる程、無名校が頑張れば頑張る程、観客は心の内で王者を応援し、王者はその期待に応えるのである。それが絶対王者たる洛真高校であり、王者たる所以なのである。
そして奇しくも、今年の男子高校バスケットボールは“群雄割拠”とも言われている。一番の理由はあの『
さらに面白い事に、秋永涼を擁する全中を優勝した
そして同時に、各地に散った泊山中学の同志もその才能を開花させ、その名を全国に轟かせていた。東京第一、福岡天神、他各強豪校も格段に強くなっていた。勿論、それに感化された他の者達も。日々熱くなる高校バスケットボール界、それを見て桐村さんがこう言ったのを覚えている。正に『黄金世代』と。
ドラマがあったのは一年前。二年前にその座を久しく奪われた王者洛真が、天才率いる明島川を食い返したのである。それも接戦であった。斯くして王者は王者に返り咲き、“歴代最強”とも謳われた。何せ、あの天才バスケットプレイヤーを破ったのだから。
そしてドラマとは、当時から洛真の
この発言に皆が寄ってはすがりつき、報道各社は大体的に報道した。そしてそれまで“知る人ぞが知る真実”が浮き彫りになりはじめた。……これがゆえに
だがしかし。ドラマはそれだけに留まらなかった。
『昔、負けた事がある』。天才が言ったさり気ない一言を拾ったのは私の上司の
それよりもだ。常々、私は思う。天才のこの一言が無ければ、彼等は表舞台には現れず、この“物語”も始まらなかったんじゃないかと。私は彼等を、かれを見た時、そう直感してしまった。そしてこうも思った。事実は小説よりも奇なんかではないと。そして事実は小説よりも、もっともっと、面白いのだ。だってそうでなくては事実が面白くないのだから。だから小説が面白くなるのだから。私の小さな世界の予定調和をブチ壊す求心力が、私の目の前には確かに存在していた。
何時だって物語には主人公がいて、主人公を軸にして話は進む。そうでなくてはいけないのだから。人生が物語だと言うならば、その主役はいつだって自分でなくてはいけない。そしてその自分が主役になる物語には必ず脇役がいる。それがいないと物語が成立しないからだ。
だが時に、その
ドラマは終わらない。知る人ぞが知る“彼等”。果たしてこの場にいる誰が、あの秋永涼に勝った事があると知っているのであろうか。果たして誰が、あの洛真監督の山岡鉄心と彼等の接点に気付いているのか。
果たして誰が、たった“二人の男の約束”を知っているのであろうか? 今はまだ誰も知らない。知っているのは当事者とその親族だけだろう。そしてこの会場で知っているのも、私と桐村さんと、元オリンピック代表候補に選ばれた事もある彼女だけだ。恐らくではあるが……。
(くそがっ! “こいつら”予選の動画を見た時とは動きが段違いだ! 一体どうなってやがんだよ!)
「センター二人かよ。しかも洛連の四番。滅茶苦茶巧い。あいつがエースか?」
「いや明らかに五番だろう」
「ってか」
「ああ、全員が“エース級”だ」
「それも何かに突出している。監督の読み通りだ。化け物かよ、こいつら」
「……おい。時と場合によってはこっちも現場の判断で行くぞ。じゃなきゃ、勝てねー。お前等、頭を切り替えろよ。こいつら、確実に去年の明島川以上だ」
「第三クォーター、残り僅かですか。まさかここまで離されるとは。村井君達も頑張ってはいますが……実力は明らかに」
「向こうの方が上だな。途中交代のあの三人……基本が出来過ぎている」
「はい、それも怖いくらいに。それも向こうの四番、さすがキャプテンですね。試合を完璧に把握して、回している。それも今までの予選とは段違いの動きをしています」
「他の子達もだな。“さすが”、と言うべきか」
「どうするのですか? もう詰みですか?」
「まさか。でも久しぶりだ。全力で考えて、負ける事を考えているのも」
「……またあの十番が出て来たら? 欠点は見つかりましたか?」
「欠点なぁ。バスケットが下手くそな所ぐらいしか」
「何でそんなに嬉しそうなのですか」
「おお、嬉しそうな顔をしているか?」
「ええ、それはもう」
「……押切君。“彼等”は私の親友の約束の塊だ」
「はい、存じております」
「おや、君に言った事が?」
「あら。昔、酔っぱらっていた監督が私に仰っていましたよ? いつか必ず現れると、それを信じていると、そしてあいつは約束は破らないと」
「ははは。そうだったか。それはそれは、すまんなぁ。でだ、押切君。あの十番の子。彼は先程何をしようとしていたのか……君には分かるかね?」
「はい。それはもう……体勢が崩れボールは明後日の方向に行きましたが」
「“届く”と思うか?」
「監督は届いて欲しいのですか?」
「まさか。在り得ない。決して超えられない壁だ」
「ですが一秒を超えています。私の体感ですが」
「だが、それ以上は無い。決してだ」
「……もし彼がフロー状態になったとしたら? 可能性は零ではありません」
「その時は、親友が私に今生の敗北を刻んだ瞬間だ。つまり、私の負けだ」
「そうですか。では、勝ちましょう」
「ああ、今度こそ勝つさ。いつも負けてばかりいたからなぁ」
「ですが、それは大切な芽を潰す事になりますね」
「“ここ”で潰れる様なら、それはどうせ咲かない芽だ」
第三クォーターは終わり、スコアは48-56となっていた。俺達がリードしているが、さすがの洛真だ。王者は追い越しても執拗に追いかけて来やがる。そのしつこさが王者たる所以なのかもしれない。いいや、負けず嫌いなのだ。とくに“一度負けた奴”はとくに負けず嫌いとなる。そして強くなるから厄介だ。次こそは必ず勝つと誰もが思うからだ。
人は負けたら強くなる。最初から強い奴なんていない。先生はいつもそう言っていたっけ。沢山の負けと、挫折があったからこそ、今となって分かる言葉がある。
……これは俺と先生だけの【秘密】である。決して誰にも言えない二人だけの秘密の話である。それは“真夏のある日”の事。先生は俺にこう言った。『大洋を超えろ』と。そして、その上で咲けと。
『在り得ない現状を変えろ、固定概念に囚われるな、“心と体の同一解放”をしろ。さすれば今は変わる。お前が言った言葉を信じろ。言葉には言霊が宿る。在り得ない瞬間を想像してみろ。クリスマスツリーは夏にあってもいい。夏の空から雪が降ったっていい。とにかく想像しろ、それがお前の力となる。向日葵が海の上で咲いていたとしても何も可笑しくはない。いいか、
『何だよ、それ。よく分かんないから。言霊ってなに? ってか口の中の血が止まらないんだけど』
『言葉の力や。ようは、思い込みの力や。もう、血は出てへんと思ってみろ』
『思った』
『どや。止まったやろ、血は』
『全然。ちょー出てる。むしろ古傷が開いた』
『それはお前が悪い』
『先生が殴ったからだろ、ふざけんな』
『山岸。お前は“エースの資質”を持っている。この北辰中学バスケ部でお前がエースなんや。そうなるべきやったんや。周りを巻き込む力、求心力をお前は持っとる。お前が自身が望めばお前の環境は変わる、良くも悪くもやが』
『そんなの誰だってそうだろ』
『それがそうじゃないんや』
『ねぇ、先生。もう夜の八時超えてるんだけど。早く“家に帰らしてよ”』
『家に帰りたいのは俺も一緒や。子供が、娘二人が俺を待っとる』
『じゃあ帰ればいいじゃん。俺は帰るよ』
『待て、山岸。バスケットは好きか?』
『……好きってなに? 好きってどーゆう事?』
『好きとはか……。それはな、恋や、山岸。それは言葉には出来ない。家族は好きか? 今は嫌いだろう?』
『だからなに』
『恋して、いずれ愛に変わる。愛は時に、好きなものを嫌いになったりもする。今のお前みたいにな』
『家族がバスケットと一緒だって事?』
『似たようなもんや。いずれお前にも分かる。手放して、初めてその存在が自分をどれだけ支えてくれていたか……』
『もうやらないよ、バスケは。家族も嫌いだ。先生だっていらない。今はバイクに乗っている方が楽しいから』
『そうか。それでもなぁ、よぉ聞けよ山岸。これが最後や。俺から伝える最後の言葉や。……例えどんな困難が目の前に在ろうとも、それを乗り越えろ。例えどんな状況でもそれを打破出来る人間になれ。立派な大人になれ。為って見せろ。お前はバスケットが上手い奴には限りなく上手いのだから。いいか、自分の中の何かを信じろ。“エース”はお前なんや、お前みたいな奴なんや。そしてお前にはその“資質”がある』
『一番下手な俺がエース?』
『そうや。お前がエースや』
『……ふぅん。そっか』
『山岸、バスケットを好きならば辞めるなよ。例え辞めても、せめてその思いだけは永久に心に残しとけ』
その日。先生は、“確かな楽園”を見た俺達に、圧倒的な暴力と圧倒的な愛の言葉を俺達クソガキに教示下さった。個別に呼ばれ、個別に殴られた俺達はその時先生の真意を微かに感じ、そして前に歩き始めた。それは失敗となったあの事変もあったからだろう。
『“私は此処にいる”。俺は昔、お世話になった先生に周りにそう言えと言われた。だから何時の日か、お前等もそう叫べ』。生徒指導室を出る時、泉先生は俺にそう言った。
平成十五年の七月十五日。その日こそが、『七月十五日の復讐と化した蒼きプール政変』が起った日。後になって申し訳ないが、紐解いたこの日こそ俺達の歴史の教科書で政変とも言われる所以である。
二十一戦中、零勝と二十一敗。それは、いつか必ず勝つと、バカと誓い合った七月十五日の夏の夜の事。そしてバスケットボールが好きだと微かに思い出した十五歳の夏の日の事。
それこそが後世に語り継がれるべき俺達の歴史的な変、通称七月十五日の政変である。
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