なつにふるゆき

には

夏の轍

カストロールの匂いにつつまれて

 日本でバスケットボールをやっている者ならば誰もが『彼等』のことを知っているであろう。小学校からやっているのであれば尚更だ。そう、例えば【NBA】のとあるプロバスケットチームと契約を果たしたこの私でさえも。


 明日、私は日本を発ちアメリカに行く。明日は私の二十歳の誕生日なので門出には丁度いいと思えた。ふと、カーテンを開け窓の外を見てみると深々と雪が降り積もり始めていた。明日の飛行機は大丈夫かと不安になって、天気予報を見たが何て事は無かった。関西空港がある大阪は晴れの予報だし、成田空港の方もどうやら晴れみたいである。太平洋側が晴れるのは毎冬の事で、雪が降るのは何時も決まって日本海側だ。そう言っても私が今いる場所は京都市内ではあるが、市内でも雪も降れば積もる時もある。

 私はアメリカに発つ前に実家がある京都に里帰りしていた。やはり故郷と言うものは落ち着くもので、不安と重圧で押し潰されそうになっていた私の心は幾分か軽くなり、やる気と闘志が沸き出て来ていた。母の温かい手料理を食べたおかげで真冬だが体は暖かいし、外の世界に行く不安は親父の言葉で払拭された気がする。勇気付けてくれたのは地元の友人達であった。


 小学校を卒業した私は、単身秋田県にある全寮制のある中学に通った。心細かったが、何よりバスケが強くなりたかった。やるならとことん最後までやり通せと言う親父の教訓もあった。おかげで中学三年の時には主将としてチームを引っ張り、我が中学は全中を優勝し、高校も全国常連の高校にお声が掛かった。そして私こと、秋永涼あきながりょうはその素晴らしい功績を認められ、明日アメリカに行く。天才バスケ少年と昔から謳われ、神童バスケット中学生とも言われた事もある。今や日本バスケットボール界の希望の星らしい。しかし、自分でそう思った事は全く無い……。

 私は何も自分が天才だなんて思った事も無ければ、周りに持ち上げられて自分自身に驕った事も無い。私は、負けるのがとにかく嫌であった。大嫌いであった。負けるのは何よりも嫌であったのだ。


 だが“私は負けたのだ”。あの日、ミニバスの地区大会の決勝で私は『彼等』に負けたのだ。まだ小学六年生だったあの日、私達のチームは彼等に惨敗した。およそ決勝戦には相応しくない試合内容を残して。58-8……今でもあの得点版を覚えている。そして彼等のチームは全国大会へと行き、見事に全国優勝を果たした。

 あの日の生涯の負けを忘れる事無く、私は秋田県の中学を選んだ。やがては秋田の強豪校、秋田明島川工業高校あきたあけしまがわこうぎょうこうこうに行く為だ。先程書いた全国常連の高校とは此処の事だ。

 しかしとて、全国中学の舞台に『彼等』は現れなかった。予選で敗退したのかとも思い、地元の友人に連絡を取ったが何も分らないとの事であった。そして私は中学を卒業後、明島川工業に入学したのち、現在に至る。

 何故今私が『彼等』の事を、いいや、を思い出し、此処に書こうと思ったのか。恐らくそれはこの雪のせいだと思う。何故なら、“あの日”の決勝戦前夜も今日みたいなが降っていたのだから――。





 今日も朝の八時に起床。目覚まし何て必要無い。部屋から出て二階のリビングへ。机の上に一万円札が一枚置いてある。多分、一週間分の食費だろう。いつもの様にTVをつけて、緑茶を沸かして、食パン一枚食べて、また緑茶を飲んでは飲み干して三階の部屋に戻って、お気に入りのMDを流しながら煙草に火を点けて一服。窓の外を見ると嫌に空が青かった。でも、窓ガラスに反射した左耳のピアスが何だか光輝いていた。

 兄の香水を勝手に拝借して良い香りに満たされた所で、重い腰を上げて家を出発。時間はまだ午前十時だ。MDウォークマンを聞きながら自転車にまたがり、ペダルをゆっくりと漕いだ。目標は公園のベンチである。そこでもう一回寝るのが俺の日課であった。寝るのがこの世で何よりも好きであったから。



「あいつ今日も来るのおせーなぁ」

「大体いつも昼過ぎには来るだろ」

「また公園で寝てんのか? 好きだなぁ、あいつ」

「その後はコンビニでいつも雑誌読んでるからな、あいつ」


 上代翔かみしろしょう星野翔太ほしのしょうたは、何時もの様に誰もいない教室で堂々と煙草を吸いながら、未だ学校に来ない友の話をしていた。


「ところでさ翔太、次の授業何だっけ? プール?」

「お前まだ、五月だぞ。どんだけ女子の水着見たいんだよ。体育だよ、体育」

「早く更衣室入りてーよなぁー」

「どういう意味だよ。普通プール早く入りて―だろ」

「所で体育って何すんの?」

「あ? ああー、確かバスケ……」

「……帰るか。カラオケでも行こうぜ」

「だな」

 二人はさながらいつもの如く吸殻を窓から捨てては、だるいだるいと言いながら教室を後にしたのであった。五月の少しだけ乾いた風が後の教室のカーテンをなびかせていた。



 公園のグラウンドでゲートボールをしている老人老婆達の声で前を覚ます。携帯の時計を見ると、時刻は丁度正午。公園での最後の一服を済ませていると、いつも犬の散歩をしているババァに声を掛けられた。


「あんた、はよぉ学校いきやぁ」

「今から行く所」

「寝煙草はしんときや、火事になるから」

「わかってるって。じゃあ行って来る」

「行ってらっしゃい」


 この様な会話を毎日している。決まって同じ内容だが、学校に行けと言う話と、寝煙草の話は必ずしてくる。何でも一度娘が寝煙草をしてしまい、大火事になりかけたとか。金髪パーマ頭のババァだが、俺のババァよりはいい奴だと分かる。俺の事を気に掛けていてくれる。それが分かる。

 MDウォークマンのMDを入れ替えていつものコンビニに向かう。昼飯を買う為だ。いつも買うの決まっている。サンキストのオレンジジュースに、百円のクリームパンだ。後はマイルドセブン。全部で五百円もしないから超経済的。一週間で三千五百円、晩飯はカップラーメンと自炊で済ませれば、一週間で五千円程。一万円貰っているから、五千円は俺の手元に入って来る。一週間で五千円だ。俺はこれで幸せになれる。あとは雑誌を一通り読んで、うんこして学校のすぐ近くの駅に行く。ちなみに月曜日が一番忙しい。読む雑誌が色々と多いのだ。週刊誌を読むだけでも小一時間掛かる。

 それからようやく学校近くの駅について、自販機でトロピカーナのフルーツジュースを飲みながらもう一度一服。ついでに言うと、俺はコーヒーを飲めない。あの独特の苦みがどうしても無理なのだ。なので、カフェオレも飲めない。100%のオレンジジュースと緑茶が何よりも大好きで仕方がなかった。


 煙草を吸い終えて学校に行こうとした瞬間、同じ中学校のしまに声を掛けられた。

「おー、洋介ようすけ今から学校か?」

「おう、しまか。お前は?」

「俺はもう帰る。ふぁー、眠くてな。昨日オールで石上さんらに付き合わされた」

「うわーつれぇな。また街まで?」

「そ、街迄。あの人等元気過ぎな。あ、もう翔も翔太も帰ったぜー」

「あいつ等もう帰ったの? 早過ぎだろ」

「お前が来るの遅すぎるんだよ。じゃあ、また週末にな」

「おう、またな」


 島はバイクにまたがって自分が今きた方向に帰って行った。俺はこのまま学校に行くかどうか考えたが、翔も翔太も帰ったのではクラスで喋る奴もいないので行かない事にした。というか、何故学校に来ているのかも分からない。最早行く意味は無い。なのに何故? 何となしに行ってみようと思い、足を向けたが遠くの方にある体育館からドリブルの音が聞こえてきたので引き返す事にした。しかし行く宛も無かった俺は駅のホームで煙草を吸いながら、ずっと聞こえてくるドリブルの音を聞いていた。其れを掻き消してくれるはずのMDウォークマンの電池は丁度切れていた。



――毎週金曜日の夜になると、俺達はいつも中学のすぐ横にある駅に集まる事となっていた。別に金曜の夜だけではなく、平日も何時も待ち合わせに使っているし、何かとあればこの駅に集まるのだ。要するに、地元の不良の格好の溜まり場だ。何より、集会の場所としても持って来いの場所でもあった。


「おー島、相変わらずいかんしてんねぇ、その単車」

「いい音するだろ翔? モリワキ管よモリワキ管! ま、兄貴のだけどな!」

「兄貴に怒られねぇのかよ、しらねぇーぞ」

「だいじょーぶだって! 何せ兄貴はもう車乗ってんだから」


「おう島ぁ! お前、今日も先流してポリ引っ張って来い!」

「あ、石上いしがみさん! 了解っす!」


「若輩者が単車持つと大変だねぇ。斬り込み隊やらされんだから。今日も俺等はケツ持ちかな翔太?」

「俺等がって言うか俺がだろう。翔は俺のケツに大人しく乗っとけ」

「50ccの?」

「125ccな! ボアップしてんだよ! 登録が50ccなだけだ!」

「登録も何も無免許じゃん」

「そんな事言ったら、大体皆無免許だろうが!」

「おうっ! バカ翔コンビ、ケツ持ちちゃんとやれよ!」

『うす! 石上さん!!!』

「“バカ翔”コンビ頑張ってねー」

「うっせーよ洋介、お前のスペシャルベスパは?」

「今日は調子悪い。あきらの後ろにのっけてもらう」

「そーいや明は? 遅いなぁ。鷹峰たかみねもまだ来てねーし」

「ミネはまた女じゃない? 明はもう来るっしょ、ほら来たじゃん」


 俺達はいつも週末になると南の繁華街へと走り出す。北から南に、帰りは南から北に。それが何時もの俺達のお決まりのコースだ。何時からかは分からない。でも何時からか、それが俺達の当たり前の日常に為っていた。それが今の俺達の青春であった。情けない青春である。でも確かな青春であった事は確かだ。


「おう明ちゃーん、相変わらず甘い顔してるじゃねーか。ずっど学校も来ないで何してたんだよ?」

「仕事。こいつのローンあるから」

「はは、イカスねぇヨンフォア。翔太の50ccとはやっぱり違うよな。段違いだ」

「てめ! 翔は黙っとけよ!」

「明。今日、うしろいい?」

「いいけど、洋介お前のベスパは?」

「んー多分プラグがいってる。混合比間違えたかも」

「なんだそりゃ。まぁベスパじゃ走りは向いてないか」

「んな事ぁねーよ、フォアより速い」

「アホ抜かせ」


「おうっ! お前等、準備はいいか! 行くぞ!」

『うすっ!!!』


 バイクに乗るのは楽しい。何より速い。初めてバイクに乗った時、何処までも何処までも行ける様な気がした。この足では無く、このバイクでなら俺達は何処まで行ける様な気がしたんだ。どんな遠い場所にだって、どんな所にだって行ける様な思いがしたんだ。俺のこの足では、きっともう走る事すら出来ないのだから。

 それが俺達の青春であった。夜に走る事が俺達の唯一の自由な時間だったから。全てのしがらみから解放される唯一無二の……。キラキラと輝く青春では無いかも知れないけど、紛れも無い青春であった事は確かだ。

 中学三年生の五月の夜、2ストエンジンの音とカストロールオイルの甘い匂いが俺達を包んだ。ギラギラと輝くテールランプを必死に追いかけながら俺は思う。来年からは俺達の代だと。と自分に言い聞かした。必死に必死に言い聞かした。だけど、“足首の傷”は疼いて疼いて仕様が無かった――。





――私が小学校六年生の時である。


 ミニバスの全国大会で『彼等』は見事に全国優勝を果した。小学生最強の座は彼等であった。決勝の試合を観客席で見ていた私は、唯、唯、悔しかった。何よりも私もその決勝と言う舞台に立ちたかった。自分がいかにちっぽけな存在であるかと痛感させられた。天才バスケット少年と言われ、いい気になっていたのは事実だ。自分自身が神童と思っていたのも事実だ。私は彼等に出会うまで驕りに驕っていた。そして、上には上がいる事を思い知らされた。私は負けた。今まで築き上げてきた誇り諸共砕け散ってしまった。

 だがしかしだ。私は負けるのは絶対に嫌なのだ。いいや、この時初めて負けたからこそ、そう思ったのかも知れない。もう辞めようかとも何度も思った。悔しさで眠れぬ夜も続いた。しかし、そこで蘇る親父の教訓だ。“やるならとことん最後迄やり通せ”。その通りである。私はもう負けない、私はもう負けはしない。いつか必ず勝つ、次こそは必ず勝つ。

 熱く燃え滾る思いを抱きながら全中(全国中学バスケットボール大会)を迎えたが、『彼等』は一向に現れなかった。彼等程のがである。かなりの失望を抱いた記憶があるが、高校に進学するとそれも段々と薄れて行った。私はどうやら男子バスケットボール界の期待の星らしい。当時、次なる目標も決まっていた。アメリカ留学だ。そしてゆくゆくは日本人初の【NBA】選手である。必ず為る、もう決して驕りはしない、全力でアメリカでもやってやる、そう思っていた矢先の日のこと。


 それは、私が高校三年生となった初夏の日の事だった。インターハイの予選が全国で行われ、私達の秋田明島川工業高校あきたあけしまがわこうぎょうこうこうは難なく秋田県の予選を戦い抜き、全国への切符を手にした。

 “番狂わせ”があったのは私の地元の京都である。京都予選決勝で全国常連中の常連であり、インターハイ過去最多出場を誇り、最多優勝を飾るあの『京都洛真高校きょうとらくしんこうこう』が敗れたのだ。当時、歴代最強とも謳われた洛真を破ったのは『無名の高校』であった。



 ミニバスの大会で全国優勝を果たし、名を馳せた『彼等』であったが全中の舞台には現れず忽然と姿を消した。しかし高校最後の夏に、誰もが彼等のことを忘れかけていたその夏に、彼等は再び現れたのだ。

 その中心にいたのは十番のユニフォーム着た男。であった。エースの名前は『山岸洋介やまぎしようすけ』。私こと、『秋永涼あきながりょう』が人生で唯一勝てなかった男の名前だ。

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