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新学年になって初めて給食が出た日の彼女も、ヘンだった。
アーイーはなぜか給食を断った。けど、おなかはぐぅぐぅ鳴らしていた。普通の女の子ならおなかが鳴るのって相当恥ずかしいらしいんだけど、彼女はちっとも気にしなかった。
「嫌いなものがあるのか、それともダイエットか?」当時はまだ美少女転校生に鼻の下を伸ばしていたロクシオ先生が、カルい口調で言いながら彼女にトレーを押しつけた。「残しちゃダメだ。ちゃんと食べないと大きくなれないぞぉ」彼女はクラスで一二を争う長身なのだが。
アーイーは目をぱちぱちさせ、自分の机に置かれたトレーを、無言で見つめた。やがて箸を取り、茶碗の米を一粒だけつまみ上げると、ゆっくりと口に入れた。噛んでいるのか舐めているのか、しばらく口をもごもごさせた後、首を傾げ、首を戻し、ごくりと飲み込んだ。
次に、手の動きが見えないほどの猛烈な箸使いでずぱぱぱと米を続けざまに口に運び(よく見えなかったけれど、やはり一粒ずつだったようだ)、噛んでいるのか舐めているのか、しばらく口をもごもごさせた後、首を傾げ、首を戻し、今度はぺっと吐き出した。それから無言でトレーを先生に押し返した。……口に合わなかったらしい。
真正面でその様子を見ていた先生は、目を白黒させるのさせないのって、それっきりアーイーに給食をあてがわなくなった。アーイーも食べたいと言い出すことはない。
しかし肉の出る日は様子が別なのだ。これがまたヘンなのである。やっぱり断りはするのだが、物欲しげな目でみんなをじーっと見ているのだ。食欲の衰えることこの上ない。で、もしおかずが余ろうものなら、彼女はそのお余りの入ったアルマイト缶の中をじーっと眺めているのだ。匂いをかいだり触ったりはしているようだが決して食べない。
そういうわけで僕らは、彼女が何か食事をしているのを見たことがない。平気でぐぅぐぅおなかは鳴らすから、家で存分に食べているというわけでもないらしい。そうするとまた、彼女は霞を食うだとか生き血をすするだとかのウワサが広がり、中でもいちばん信憑性が高いものとして広まったのは、アーイーがスズメをふんづかまえて生で食べていた、という話だった。
まったく、枚挙に暇がない。
学校へは誰よりも遅くやってきて、誰よりも早く帰っていく。遅刻は日常茶飯事で、そもそも時間の観念があまりない。玄関から入ってこないで窓から入ってくる。上履きも使ったことがなくて、中でも外でもいつもはだしだ。彼女が窓枠を飛び越えるときにふわりとまくれあがる白いスカートの……あ、これはどうでもいいや。
教室の中ではおとなしい。いつもすました顔で物静かに授業を聞いている。成績がトップだというのは先にも述べたとおりだ。ただ、静かであればいいってもんじゃない。時々思い出したように、背筋をびしりと伸ばすと、尋常でない能面で、目玉までぐるぐる回しながら辺りをきょろきょろし始める。アーイーの席は教室の一番後ろだから気がつきにくいが、これが始まると、見たくないものを見たという形相でロクシオ先生がビビり出すのですぐわかる。
その他もろもろ彼女の行動は逐一不気味で、常識のスジから一本ずれていた。
「どうしてこんなことばかりするの」問うたことは何度もある。
「ごめんね、迷惑かけて」きれいな顔でにっこり笑ってそう突き放されると継ぐ言葉がなかった。『どうして』への回答は、得られなかった。
ともかく僕は、アーイーの家に向かう。
道すがらプラニチャに会った。きこりの集落のリーダーで、とてつもなく厳しいことで有名な親父さんといっしょだった。肩にノコだのオノだの重そうな道具をいくつも担ぎ上げている。
「これから修行だ」プラニチャが言った。親父の仕事を手伝いに行くという意味だ。すなわち、絶対に抜けさせてもらえないんでいっしょに遊べないという意味だ。
「遊びに来たんじゃないんだ」僕は答えた。「センセェのせいで、アーイーの家に行くハメになって」
プラニチャに地図を見せると、彼は首をひねった。
「こんなところに家なんかないぞ」
プラニチャは僕の手から地図を受け取ると、親父にも見せた。プラニチャの親父さんも同じように首をひねった。
「こんなところに家なんかないぞ」
「最近、引っ越してきたみたいなんだけど。一ヶ月前」
「二週間前に通った。ガソくん、この地図は間違っているぞ」プラニチャの親父さんは断言した。「まぁ、険しいところじゃないし、遠くはないから、自分で行って確かめてくるといい。行くぞ、プラニチャ」
親子はさっさと自分たちの目的地に向かって去っていった。
森に一番詳しいプラニチャの親父さんが言うんだから、ほんとに険しくはないんだろう。危険と知っている場所に、子供をひとりで行かせるような人じゃない。僕は言われたとおりその場所まで行ってみることにした。
穏やかな春の森を、ぼつぼつと歩いていく。降り注ぐ木漏れ日には、若葉の黄緑色が混ざっていた。誰が踏み分けたとも知れない細い山道は、いちおう隣村に続いているはずだけど、アップダウンが多いし荷車も通れないので、人はめったに通らないそうだ。
長い長い坂を上り、岩場を乗り越えると、急に勾配がなくなり、山腹をぐるりと巡る急斜面を切り欠いただけの道に変わった。申し訳程度に備えられた転落防止の柵に手をかけると、木々の間から谷と谷底近くにへばりつく家並みがはるかに見渡せる。
そんな道の途中に、地図上にバッテンが打たれている場所があった。ちょろちょろと細い滝が流れ落ちて、飛び越せる程度に道を遮っていた。背丈のある広葉樹が何本か、斜面からにょっきり顔を出し、つる草に巻かれながら天を
僕は困ってしまった。そこにはやはり家も小屋も、人が住みうるような場所がなかったからだ。山道を通すのでさえどうにかってところだった。そりゃまぁ、下手な地図よりプラニチャの親父さんの記憶が正しいに決まっているんだから、来るだけ無駄だったかもしれない、ロクシオ先生にデタラメ渡すなとねじ込んだ方がいいのかもしれない。
けど、ただ帰るのもシャクにさわる。僕は滝の水で顔をばしゃばしゃやって、汗を流して、それから道の途中にどっかと座って考え込んだ。
だいたい、この地図がデタラメなんだったら、いったいアーイーはどこに住んでるっていうんだ。
「アーイーの、あほんだらっ」ぽそっと悪態をついたら。
頭上から声がした。
「ガソくん?」
天に衝き立つ広葉樹の、枝と枝の間から、アーイーが顔をのぞかせていた。
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