死滅の国のアリス

@tantakatakatan

短編

 アリスが気づいたその時には、もうとっくに彼女は彼の地に立っていた。紫色の霧が足元に立ち込め、真っ黒に淀んだ大地はなぜだかその模様が蠢いている。泥が波を打っているようにも見えるが、彼女の足元の地盤はちゃんと固まっている。実際のところ、足元の地面の模様が蠢いているという表現が最も正しいのである。

 空気は、うすら寒いというのが最も適していた。乾いた風がうねるようにして体の表面を撫でて、首筋から、足元から、彼女の体温を奪っていく。アリスの体温を亡者が奪うかのようで、元々薄着であったアリスはカタカタと歯を打ちながら体を震わせ始めた。寒い。地平線の先まで続く真っ黒な空を見ながら、彼女はあまりの寒さとそして、恐怖に体を強張らせつつあった。

 ここはどこなのか、アリスにはそれがまるで分らなかった。けれども、立ち止まっていることだけは避けようと思い、足を一歩踏み出した。というのも、じっとしているのが何よりも怖かったからである。どうして自分はこんなところにいるのだろうか、それすらも彼女には思い出せなかった。


 思い出す?


 ふと脳裏を過った言葉に、彼女は疑問符を浮かべた。そのまま立ち止まっているのが居心地が悪いのは依然として変わらないので、方角も分からないのに前へ前へと足を進めながら考える。どうして自分は、分からないではなく思い出せないと胸中でつぶやいたのだろうか。まるで、自分がこの地に立つ理由を、本当は知っているみたいだと彼女は悟った。

 思い出せる範囲で、アリスは直近の記憶を呼び覚ましてみることにした。最期に食べたご飯は一体何だったのであろうか。豆のスープ、だっただろうか。母親が得意としていた料理だ。味は、匂いは、舌触りは、色合いは……すべて、滞りなく思い出すことができる。けれども、それら全てに違和感を感じざるを得ない。本当に、自分が恋焦がれたスープのそれであったか?

 歩いていると、地面の様相が異なる土地に出た。真っ黒な地面ではなく、茶色く枯れ腐った草原だった大地が現れた。見ると、カラカラに水分を奪われた枯れ木がポツリと立っている。


「げっひゃひゃひゃひゃひゃ!」


 バサバサと、翼を宙に打ち鳴らす音がした。そこで初めて、この世界がずっと静寂に包まれていたことをアリスは思い出した。誰も、何も口にしない。そう言えば、アリス自身も声を出そうとは一度もしていなかった。何となく、それが禁忌であると自分でも察せられ、言葉にするのが憚られたためだ。

 羽音の方に目をやってみると、そこに居たのは一羽の小さなカラスだった。小さな羽をせわしなく宙に叩き続け、よろよろとよろめき歩くような軌跡で、たった一本立っている枯れ木の枝に足を止めた。真っ黒な羽毛は本物のカラスとまるで相違なかったが、明らかにそのカラスは普通のカラスではなかった。頭だけが、羽毛どころか目も肉も何もなくて、ただただ目と、鼻のような孔がぽっかりと空いた、鳥の頭蓋骨が首の上に乗っかっていた。ふとその髑髏ガラスは割けそうなまでの勢いで嘴部分の骨を大きく開いた。


「げっひゃひゃひゃひゃっ!」


 笑っている。アリスはそう感じた。何かが、愉快で愉快で溜まらない、そう感じる声だというのはすぐに分かった。とても下卑たその声は、どこかで聞いた覚えがしてならなかった。頭の奥で、ズキリと鈍い痛みが走った。これは警鐘だ。アリスの直感が、そう告げていた。


「可愛いなあ! アリス! 可愛いなあ?」


 ケタケタと笑い、愉しそうに嘴を叩きつけてリズムを取り、それだけ言い残してカラスは去っていった。去り際に、あの汚く耳障りな独特の嘲笑を残して、だ。可愛い、そう評されたはずなのに胃がむかむかして仕方がなかった。脳髄が熱く燃えるような怒りに囚われてならなかった。

 腹が立って仕方なかった。追いかけてその翼を鷲掴みにし、羽をむしり取ってズタズタにしてやりたかった。しかし、彼女にはできなかった。

 なぜなら、背筋が凍り付くような恐怖に捉えられて、仕方なかったからだ。

 あの声の主に近づいてはいけない。唐突にその事実を思い出した。真理に一つ触れたような気がして彼女の心臓は荒れ狂い始めた。知ってはいけない。脳の奥底の鈍い痛みのサイレンが、さっきよりも強く鳴っていた。

 彼女はまた、使命感に駆られるようにして足を動かした。草原を抜け、荒れ地を抜け、ぬかるむ地面の不快さを足裏に感じ取るころ、明かりが見えた。

 太陽も無いのに何とか周りの景色は視認できる、しかし遠方は完全なる闇に覆われてしまったような世界に、唐突に姿を見せた一筋の光明。アリスは、歩き疲れた足を引きずるようにして、明かりの見えるほうへと駆け出した。明かりは、一軒の立派な家の窓から漏れ出ていた。窓の下には花壇があり、かつては色とりどりの花が咲いていたようである。儚く散った、斑に茶色くなって花弁と、力なく地に伏した茎だったものが、かつての美貌を失って打ちひしがれていた。

 その花々に、必死になって水を与えている者がいた。近づいてみるが、その顔は見えない。深くフードを被っており、口元しか見えない。それ以外といえば、金色の髪が少し首元に見えているくらいだ。彼女が水をやるその様子は、まるで枯れてしまった花々にもう一度咲いてほしいと懇願しているようで、アリスは見ていて切なさを感じた。


「お客さんかい?」


 その声に、アリスは足を止めた。じっとしたままの恐怖に耐えきれず、歩き続けた少女も、その水を遣る女の声には驚きを隠し得なかった。どうしてと、目を丸くし、瞬きも忘れて青い瞳でフードの女性を凝視する。


「滑稽かい? 笑うかい? あんたから見たら虚しいだろうね。ほんと、時の流れってのは残酷だよ」


 今じゃこんなでも、昔はもっと綺麗だったんだよ。その花壇の主はそう続けた。アリスは、そんなことないと、声にできない主張を心の中で叫んで大きく首を横に振った。今だって綺麗だって叫びたかった。けれど、できなかった。心の声は、どうしても他者に伝わる言葉には、なってくれなかった。

 アリスは不意にその場から逃げ出したくなった。もう棒のようになってしまっている足を鞭打ち、逃げるようにさらに遠くへ遠くへと走り出す。待ってくれと言わんがばかりに、花壇の主は手を伸ばした。けれども、アリスはそれを振り払って前へと進んだ。


「ごめんね、アリス……ごめんね……」


 また、後ろの方で彼女の声がした。その声は泣いているようにも、怒っているようにも聞こえた。

 アリスは、これ以上母親の声を聴くことに、耐えられなかった。

 逃げた。ぬかるみに足を捕らわれて、転んでしまっても、すぐに手をついて立ち上がり、先へ先へと進んだ。もう母親の声がしなくなるところまでずっと、ずっと、ただひたむきに逃げ続けた。気が付けば、また周囲の景色は変わっていた。

 今度の景色はまるで水晶のようなものがそこら中から巨岩のようにせり出るような場所だった。山道、それも道なき道のようなところを進んでいるような景色だった。歩きづらい、凸凹した道、せり出す水晶のせいで道自体もぐにゃぐにゃと入り組んでいた。

 もう、足に感覚は無かった。けれども、立ち止まったら追っ手に捕まりそうで、歩き続けるしかなかった。誰も追いかけてこないのに、彼女は何から逃げようとしているのだろうか。

 ずっと、もやがかかっていた。アリスは自分自身の記憶に封をしていた。それが、歩いていくに従って、髑髏ガラスの声を、水を遣る母親の声を聴くに従って、ずっとふたを被せて隠されていた、フィルターをかけて見えないようにしていたアリスの記憶が彼女の足首を掴んで引きずり落そうと迫っていた。

 前に進んでいる間は、何も考えなくて済む。つらいことから、ずっと目を背けていられる。だから彼女は、もう痛みさえ感じなくなった足を動かし続けている。

 ずっとずっと、今より自分が小さくて、物心もついていないころ、本当のお父さんは死んでしまっていた。アリスと父親が並んで映っているのは、父親の遺影を持った、黒いワンピースに身を纏った、幼少期のもの。隣には、泣きはらした目で骨壺を抱く母親の姿があった。

 母親は美しく、すぐに再婚相手が見つかった。そこから十年ほど、平和な家族だったのだ。いつから、おかしくなったのだろうか。アリスは考える。きっと、新たな義父が、母親よりもアリスに懇意に、頻繁に、下心を持って接し始めた頃からだろう。

 母親は美しく、その遺伝子を色濃く受け継いだアリスもそれはそれは美しく育った。街を歩けば男は振り返り、同性でさえその美貌に息を呑む。街で噂の可憐な娘であり、だれもがアリスの隣に立つことを望むほどであった。

 そしてそれは、義父も例外でなかった、それだけの話なのだ。それが当然で、あるべき姿なのだが、母親は年を重ねるにつれて肌が荒れ、白髪が増え、皺も見え始めた。母親よりも、若く、これからも今よりずっと美しくなり続けるアリスのことを、義父も女性として見るようになってしまった。

 義父は、真正面からアリスに求愛した。あろうことか、母とは別れアリスと籍を入れたいとまで言い始めた。アリスは断固として拒否した。アリスにとって大事なのは他の誰を差し置いてでも母親であり、母親は義父を愛していたのだから。

 嫉妬の炎というのは恐ろしいもので、それを知った母はアリスに冷たく接するようになった。好きだった母から突き放されたアリスは枕を涙で濡らし、日に日に減っていく母親から自分への言葉に悲しむ。慰めるのも兼ねて、これは好機とより一層アリスにかまう父親に、アリスも母も限界に近づいていた。

 遠くの空から、また笑い声がした。薄汚い下卑た笑い声、あの声は今となっては間違えようがない、アリスを女としてみた義父の声だった。あの時髑髏ガラスが吐き出した言葉、それは父親が力任せにアリスを押し倒そうとした時の台詞だった。

 間一髪母親に助けられて、父親はアリス達から隔離された。これでまた、母親と仲良くなれる。アリスもそう思っていた。けれども、母親はまだまだずっと余所余所しいままだった。


 息を切らしながら、アリスは走り続けていた。思い出したくない、見たくない、聞きたくない。自らの過去も、誰の顔も、誰の声も。走って、走って、走った。肺はとっくに悲鳴を上げていた。息苦しかった。けれどそれは、立ち止まっていた時もずっとそうだった。彼女はずっと息苦しかった。この世界に降り立った瞬間から、さらにはそれよりもずっと前から。

 こんなの私の記憶じゃないと、アリスは再び記憶に蓋をかけようとする。しかし、無理だった。頭角を現した、ずっと忘れていたかったその記憶はもう、アリスの腕を掴んで離さない。浸食し、アリスの心を握っている。


 母親の得意料理である豆のスープをアリスは作った。母親が何も自分に作ってくれなかったからだ。大好物のスープを啜ってみたが、そこには塩の味しかしなかった。豆の甘味など、何一つ感じなかった。母親のやさしさなど、何一つ味わえなかった。一人ぼっちの虚しさと、目から零れ落ちた涙の味だけが、自分で作ったスープの中にあった。


 いつしか、階段を上っていることに気が付いた。上り坂を駆け上がっていたような記憶もある。だが、今や目の前の景色はただただ綺麗に積み上げられた、水晶の会談だった。先ほど通っていたカーブだらけの山岳地帯ではなく、一直線に天へと伸びる階段だった。

 下の景色を眺めてみる。あれだけ真っ暗な闇に包まれていた世界だったはずなのに、これまで自分が通ってきた景色が明瞭に見えた。初めに自分が立っていた、紫の煙の這う真っ黒な大地、異形のカラスと出会った枯れ果てた草原、無心で駆け抜けた荒れ地に、母親の声を持つ女と出会ったぬかるみ地帯、そして眼下に広がる水晶地帯。

 昇りの階段も終わりへと近づいていた。もう、最後の一段が見える。その奥には平らな床が広がっているようである。もうどうだっていい、そう思いながら、最後の一段まで彼女は登り切った。達成感があった。

 そして、そこに全ての答えがあった。平らなその最上階にはたった一つ、等身大の鏡だけが存在した。艶やかな金色の髪、精巧な人形のような目鼻立ち、サファイヤのような透き通る青い瞳、青と白のワンピースを着たアリスの姿は、誰もが羨む美少女の変わらぬ姿そのものであった。

 たった一点、その首元だけを除いて。首には太いロープの跡が赤黒く残っていた。


 ああ、そうだ。


 思い出した時、目の前の鏡だったものは、鏡からスクリーンへと役割を変えた。映ったアリスの姿は鏡の前に立ちすくむ今の姿でなく、自室で一人ぼっちで、首を吊った後の姿だった。その正面で、母親は泣き崩れている。

 アリスが遺書に残した言葉と、同じ言葉を母親は繰り返していた。ごめんなさい、ごめんなさい……許してください、と。

 声が出なかった理由も息苦しかった理由も分かった。思い出したくない記憶から逃げていることも、最期の最後に現れたのが、天へと続く階段であったことも、全部合点がいった。

 ここは、死んで滅する前に立ち寄る最後の土地。きっとそうなのだろう。

 昇り切った水晶の大地、その断崖絶壁の淵に立った。もう、自分がどれだけの高みに居るのか分からないくらいに地面は遠かった。終わりくらい、自分の望むとおりに終わらせたい、アリスは強くそう感じた。

 あの、カラスのようには嫌だけれど。アリスは大地を蹴った。

 黄金を配るあの燕のように。空を切るアリスの体は加速する。周囲の景色が流れていくスピードも、ぐんぐん速くなる。

 幸福を告げる青い鳥のように。流れて流れて、世界は次第に溶けていく。もう、何も感じない。


 空を飛ぶ心地で逝きたい。

 彼女が果たして満足しているのか、もう誰も見ることはできなかった。

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