悪魔の花えらび

黒坂オレンジ

第1話

ぱらぱら。紙をめくる音が聞こえる。

そこは、とある屋敷の書斎。

机の上に置かれたろうそくの炎が、薄暗い部屋の中をぼんやりと照らし出した。


書斎の奥、何冊もの本の中に埋もれるようにして、悪魔は頬杖をついて本をめくっていた。ページをめくるたび、わざとらしく吐き出される溜息。

ぱらぱら、はあ、ぱらぱら……。

「退屈だぁ!」

 本を投げ出して悪魔は立ち上がり、背中の羽根をうんと、天井に届きそうなほどおおきく、おおきく広げた。


――『魔界』。それはわれわれ人間の住む世界である『人間界』とは、また別の次元に存在する世界である。

そこには『悪魔』と呼ばれる魔物が住んでいた。


『悪魔』とは、自らの背に闇色の羽根を持ち、人間には理解できない【魔語】という言語を使用し、不思議な力である魔法を扱うことができる魔物である。

悪魔がどこから生まれ、何のために存在するのかは当の悪魔たちにとっても謎であったが、そんなことより、毎日を面白可笑しく遊びまわることの方がよほど価値あることであった。

悪魔には、人間や動物のように、命の限りは存在しない。魔界に生まれてから死ぬこともなく、心身ともに変わることもない。いわば永遠の存在。


 ――だが、そんな悪魔にも、一つだけ、悩みがあった。

 それは『いかにして、この悠久の時を過ごすか』である。

 

「いかがなさいましたか、坊っちゃん」

 悪魔の目の前に、別の悪魔がどこからともなく現れた。

坊っちゃんと呼ばれた悪魔はあえぐように答えた。

「退屈、なんだ」

「おや。それは大変ですね」

「そうなんだ。大変なんだ。……参考までに聞くが、おまえは今、何をもって暇をつぶしているんだ」

「それは、今も昔も変わらず坊っちゃんのお世話ですが?」

「楽しいか?」

「ええ」

 悪魔は嘆息した。

「じゃあおれもおれの世話をすれば暇はまぎれるか? って、そうはいかないだろ。ああもう、思いつく遊びはもう全て遊び尽きてしまった。本を読むのも飽きたし、悪魔共と踊り狂ったり、どんちゃん騒ぎしたりするのにも飽きた。魔法で競って戦うのも、もう沢山だ。おい何か……何か他に良い暇つぶしはないだろうか?」

 すると悪魔は、何やら思い出したように提案した。

「そういえば。坊っちゃんは以前、何やら壮大な計画を立てていらっしゃったではありませんか。どうですか、これを機にその計画を実行してみる、というのは?」

「――言われてみれば、昔々にそんなことを考えていたような気がする。確か、ここに例の本が……。よし、」

 悪魔はにやりと笑った。

「では出かけるぞ、人間界へ!」

「はい、坊っちゃん」


◇◆◇


町のはずれに、深い深い森があった。

森の奥には、昔ここに住んでいた物好きが建てたのだろう、おんぼろ小屋が

あった。

今ではそこに、毛むくじゃらのおばけが住みついていた。


朝、目覚めると、毛むくじゃらのおばけは、小屋の近くにある湖まで足を運んだ。辺りはいつも仄暗かった。

ず、ず、ず……。

毛むくじゃらのおばけが歩くたびに、足元まで伸びた黒い髪が地面に散らばってこすれる音がする。あまり視界が良くないのだろう、両手両足をぎこちなく動かし、転ばないよう注意しながら、ゆっくり前へ前へと進んでゆく。ぼさぼさにふくれあがった髪の毛は、自らの身体を上から下まですっぽり包み込んでおり、遠くから見ると黒い毛玉のようでもあった。

目的地の湖に辿り着くと、水辺のそばでしゃがみ込み、そっと小さな手を水面につけた。湖の水は冷ややかで、気持ちがいい。毛むくじゃらのおばけはいつもここで水を飲み、顔を洗った。湖の水面には、ぼさぼさ髪に隠れた少女の顔が映っていた。少女は自らの顔を見つめ、ぽろりと涙を流した。


毛むくじゃらの少女はこの森で、ずっと独りぼっちだった。


遠くで風が強く吹いた。がさがさと森じゅうの樹々がざわめき始める。

鳥が飛び立ったのか、近くで力強い羽ばたきの音が聞こえた。

毛むくじゃらの少女は、不思議に思って音のした方へ振り返ろうとした。

――瞬間、

【捕まえた!】

無邪気な声が辺りに響いた。と同時に毛むくじゃらの少女は、自分の体が何者かによって抱き上げられたことに気付いた。毛むくじゃらの少女は、じたばたと手足を動かして必死に抵抗した。しかし、自分を掴み上げるものの力は強く、どうにも振りほどくことができない。

少女の頭上から声が聞こえた。

【こら、ちょっと落ち着けって。別におまえを痛めつけようってわけじゃないんだからさ。空飛んでたら、ちょうどあんたの毛玉みたいな姿が見えたもんだから。色々と調べてみたくなっただけなんだ】

毛むくじゃらの少女は喉をふるわせ、悲鳴を上げた。久しぶりに出した声は人間の話すような意味ある言葉にはならず、ただただ吠えるように叫び続けた。

【そんな暴れるなって。落ち着け】

 困惑しきった声が先ほどから少女の耳に届いているのだが、その声が何を伝えようとしているのかが理解できない。少女の知る言語ではないようだった。

すると、近くで控えていたらしいもう一つの気配がかすかに動いた。

【この姿……。もしかして、人間では?】

【人間? まさか、こんなところに?】

 一瞬間が過ぎ、こほんと咳払いの音がした。

「おい、おい。人間、わかるか?」

「えっ?」

突然理解できる言葉が聞こえてきて、毛むくじゃらの少女はぴたりと動きを止めた。ずっと独りで、誰かと会話することもなく生きていたため、久しく使っていない言葉だったが、聞けばすぐにわかった。

「お、通じたか?」

「えっ……な、なに? なんで?」

 戸惑う少女に、声の主は無邪気に笑った。それに誰かが小声で注意した。これも、少女のわかる言葉であった。

「坊っちゃん、そろそろ下ろしてあげたらいかがですか?」

「それもそうだな。また暴れられても困るし。――あ、もちろん逃げるなよ? おまえには色々と聞きたいことがあるんだからな」

自由になった少女は、うんと顔を上げて自らの前に立つ二つの影を見上げた。

銀色の髪に、空色の髪。そしてその背中から生える、二翼のツバサ。

彼らの姿から、少女はふと思い当たった言葉を口にした。

「あなたたちは、もしかして、……『悪魔』?」

「大正解」

 そう答えた悪魔は、先ほど『坊っちゃん』と呼ばれていた悪魔だった。

彼はふふんと得意げにふんぞり返った。透き通るような銀色の髪に、切れ長の獣のような瞳、高く通った鼻筋、とんがった耳、鋭く光る歯。

後ろに控えていた悪魔も大体は彼と同じような姿をしていたが、輝く空色の髪や目の色などが彼とは微妙に異なっていた。が、どちらも人の世では決して目には出来ないほど、美しい男の顔をしていた。

そんな彼らの姿で何よりも特徴的だったのは、彼らの背に、背丈と同じくらいの大きさの蝙蝠羽があったことである。蝙蝠羽はまるで自身が呼吸をしているかのように、のびやかにふくらんでは、ばさばさと羽音を立てた。先ほど少女が鳥か何かと聞き違えた音は彼らの羽音だった。

「あ、悪魔……ほんもの?」

「そうさ」

すると突然 銀髪の悪魔はぐっと体をかがめて、少女の顔を観察し始めた。髪が邪魔でよく見えなかったのだろう、彼は何の断りもなく、彼はこの毛むくじゃらの髪を思い切り掻き上げた。

「な、なにするの……!」

「確認だよ、確認。ほんとに人間かどうかっていうな」

悪魔は、あらわになった少女の鼻や頬を軽くつっついた。

「眼がふたつに、鼻がひとつ、口も舌も動いて言葉が話せる。ちょいと毛が伸びすぎてはいるが。人間だな」

 悪魔は満足げに頷き、

「それにしてもなんでこんなところに居るんだ? 人間は一人では生きていられない生き物だろう? おまえ以外にも人間が住んでいるのか?」

 少女は悪魔に触れられたところを押さえながら答えた。

「い、いやしないよ。わたしだけだよ」

「そりゃどうしてだ?」

「どうしてって……」

 毛むくじゃらの少女はもごもごと口の中で声を出しつつ、

「だって、だってわたし捨てられたんだもん」 

 これを受けて、悪魔はうれしそうに声をあげた。

「へえ! おまえ、捨て子なのか! そうかそうか、そりゃ好都合だ」

銀髪の悪魔は上着のポケットに手を突っ込んで、一冊の本を取り出した。

革表紙に金字といった、豪華な装丁がなされた本だった。彼は大事そうにその背表紙を撫でた。

「こいつは昔、知り合いの悪魔から譲ってもらった本なんだ。その名も、『悪魔のための人間辞典 ~人間育成編~』。ここには、人間の生態に関する用語が分かりやすく簡潔に記載されている。――これを読んでおれは思った。一度でいいから、自らの手で人間というものを育ててみたいものだ、とな。

だがしかし。よく考えてもみろ、人間を育てるといっても、まずはどの人間を選んで育てるのか、など考えなくちゃいけないことが山ほどある。面倒。至極面倒だった。――そんなところにちょうど、身寄りのない哀れな人の子が現れた。ここで見捨てるなんて、例えおれが悪魔だとしてもあまりに酷じゃないか。仕方ない、これもめぐり合わせというものだ、拾ってやろう。見目は少々小汚いが、……まあ、洗えば何とかなるだろう」

 彼の話を毛むくじゃらの少女は慌てて遮った。

「ちょっと待って、ということは……何? わたし、あなたに……悪魔に、拾われちゃうってことなの?」

「つまりはそういうことだな」

悪魔はにやりと口角を上げた。

「安心しろ。少なくともここよりは良い暮らしをさせてやるから」

「でも……」

「何を渋ることがある。ここで一人で暮らしていたいのか?」

悪魔の何気ない言葉に、少女の心は揺れた。悪魔の申し出など受けるべきではない、何をされるかわかったものではないのだ。――しかし、少女はさっと顔を伏せ、悩んだ。――しかし、だからといって、このままずっと森の中で一人、暮らしていたいわけではないのだ。

考え込む少女を見て、悪魔はやや残念そうにつぶやいた。

「嫌なのか? 嫌なら他を当たるが」

 意外なことに、人間の少女に選択をゆだねたのである。自分が知っているおとぎ話の悪魔はこんなにやさしかっただろうかと少女は戸惑った。と同時に、断るなら今だと思った。今ならきっと、彼もゆるしてくれるだろう……。


悪魔という未知の存在に、警戒心や恐怖心が無いわけではない。本当はここから逃げ出したくてたまらないはずだった。

ただ。少女は独りでいることに、心からうんざりしていた。誰かと一緒にいたい。少女は何よりもそれを望んでいた。たとえ一緒にいてくれる相手が、おぞましい悪魔だったとしても。

 少女は恐る恐る尋ねた。

「い、いじめたりしない?」

「もちろん。」

「悪口も、言わない?」

「言わない、言わない」

少女が自分を守るために考え付いたことは、前もって悪魔と約束を結ぶことであった。といっても、どう考えてもこれはただの口約束で、破ろうと思えば破れる簡単な約束であった。が、少女は何故かはわからないが、彼はこの約束を守ってくれるだろうと心のどこかで思っていた。そう思わせる何かがこの悪魔にはあったのだ。

 少女は思いつくままに約束させた。

「と、途中で捨てちゃったりしない?」

「悪魔だからってみくびるなよ」

「一緒に遊んでくれる?」

「お安い御用さ」

「仲良くしてくれる?」

「お望みならな」

 えっと、と言葉に詰まった少女は、これ以上は特に何も思いつかない様子であった。少女はひとまず頷き、最後に念押しした。

「ぜんぶ、約束できるよね?」

「約束しよう」

「忘れない?」

「悪魔は人間のように忘れたりしない」

 銀髪の悪魔は、にやりと笑った。

「これで決まりだな?」

 そう言って、彼は自らの手を少女に差し伸べた。

「うんっ!」

 少女はぎゅっと力を込めてその手を握った。こんな風にだれかと触れたのはいつぶりのことだっただろう。少女の表情から思わず笑みがこぼれた。


今。独りぼっちの少女の世界が、色を変え、動き出す。


◆◇◆


人間世界とは別次元の世界、――魔界。

毛むくじゃらの少女は、悪魔に導かれるがままに、彼らが魔法で出現させた、魔界に繋がる巨大な門をくぐった。一瞬にして、少女の視界は闇に呑まれ、何も見えなくなった。が、次の一瞬には今度は眩い光が少女を包み込んだ。

「ようこそ、おれの屋敷へ」

悪魔の声が聞こえる。光にくらんだ目を何度か瞬かせると、今までいたはずの森は消え、とある屋敷の中に少女は立っていたのだった。


「――よし。おまえはまず、風呂からだ。とにもかくにも風呂に入れ!」

 銀髪の悪魔は何より先に、汚れきった毛むくじゃらの少女を風呂場に押し込んだ。

抵抗する間もなく連れて行かれた風呂場は、今まで見たことのないほどに豪奢でけがれ一つない所で、少女は思わず尻込みした。しかし、少女がまごついている間に少女のまとっていた布きれが全てはぎ取られ、魔法によって全身くまなく洗われてゆき、気づいた時にはつるつるぴかぴかの肌ができあがっていた。少女は理解が追いつかず、驚きに目を瞬かせた。

魔法が出してくれた服は柔らかで、いたるところから花の甘い香りがした。興奮と未知への恐怖がない交ぜになった少女は、風呂からあがるとすぐに、自分を拾ってくれた悪魔のもとへと急いだ。

彼は上等そうなソファに足を組んで座り、例の分厚い本のページをぱらぱらめくっていた。

「ね、ねえ! まっ、魔法が、魔法がわたしを洗ってくれたよっ! す、すごい! 手も髪もどこからでも好い匂いがする! わあ、すごい! すごいけどこわい! 魔法ってこんなに色々できちゃうものなの?」

 興奮しきった様子の少女を見、彼は「んん?」と首を傾げた。

「髪が真っ黒のまんまじゃねえか。ちゃんと洗ったのか?」

「元々がこんな色なの!」

「なんだ、まだ泥がこびりついているのかと思った」

 おもむろに立ち上がった彼は、一歩下がって、少女の姿を上から下までじっくり眺めた。

「うん、ちょいと長いな。毛玉さんよ」

 少女は少し落ち着きを取り戻した。

「長いって、髪の毛のこと? うーん、あんまり考えたことなかったなあ」

「どう考えても動きにくいだろ」

 そう言って彼は、一つパチンと指を弾いた。すると次の瞬間には彼の手に、髪切りばさみが収まっていたのだ。少女は驚くと同時に、目を輝かせた。

「ね、それも魔法? ちょっとみせてっ!」

「見せる前に切ってやるから大人しくしてろ」

 彼は前髪と垂直に鋏を入れた。

「これくらいでいいか?」

「いいよ」

 ジャキン。切った黒髪が床にこぼれ落ちた。

「さ、今度は後ろだ。ほら振り返ってみろ」

 毛むくじゃらの少女は、髪を落し、人間の姿に戻った。悪魔は満足そうに息をついた。切り落とした髪は、かつらが出来そうなほどにこんもりふくれ上がっている。肩にも届かないほどの長さまで切った髪は、何だか落ち着きがない。少女は何度も髪に手をやっては、軽くなった頭を右に左に揺らした。

「なんか、へんな感じ……」

「そのうち慣れるだろ」

少女は前髪が短くなったことで、かなり視界が広がった。きょろきょろと辺りを見渡し、自分が今いる屋敷のことを色々と観察し始めた。

銀髪の悪魔が住むというこの屋敷は、いわば貴族の豪邸のような造りであった。至る所が無駄に広くて、装飾も豪華で金ぴかである。天井は遥か高く、床は上質そうな絨毯が敷かれていた。

今、少女がいるのは応接間兼居間のような場所であり、奥の方には階段があった。おそらく、上には彼の寝室等があるのだろう。少女はくるくると回りながら、素直な感想を口にした。

「とっても大きなお屋敷ね! 家の中で迷子になりそう。それにとっても綺麗……。まるで、おとぎ話のお姫さまが住んでるお城みたい」

「まあな」

「あなたがこのお屋敷の主なの?」

「そう。そしておまえも今日から、この屋敷に住むんだからな」

 ふかふかのソファに沈みながら、ご機嫌な悪魔はちらりと少女の方を見た。

「座らないのか?」

「……いいの?」

「特別だ」

 少女は喜んでソファの方へ駆け寄った。が、さすがに悪魔のすぐ隣に座るのは抵抗があったのだろう、ほんの少しだけ離れて座った。彼は少女の何気ない行動に気付いていたが、何も言わずに本を読み続けた。

 少女は思い出したように口を開いた。

「ね、あなたは、名前があるの?」

「おれか。おれはレイア」

「じゃあ、レイって呼ぶ」

「好きにしろ。で、おまえの名は?」

「捨てられる前に呼ばれていた名前ならあるよ、一応。アミルっていうの」

「アミル、か」

 少女アミルは呼ばれて「はい!」と元気よく返事をした。人から名前を呼んでもらえるのは本当に久しぶりのことだった。こんなに長い事だれかと話すことも無かった。アミルは話している途中何度も絡まりそうになる舌を、もどかしい気持ちで動かし続けた。レイは少女の名を呼ぶ度に返事するのを面白がって何度も呼んでやった。アミルも喜んでそれに応じた。

「そういやアミル、おまえの歳はいくつだ?」

「十四? だったと思う」

 アミルは問い返した。

「レイの歳はいくつなの?」

「四千と十五歳かな」

レイはにやりとした。「おれの方が年上だな」

 呆気にとられるアミルを可笑しそうに眺めつつ、レイは質問を続けた。

「それにしても、おまえはなんで捨て子になったんだ?」

「なんでって……」

 アミルはうーんと悩み出した。どこから話すべきか迷っているようだった。

「わたしが捨てられたのは十一、二歳の頃だったんだけどね。生まれつきもの覚えが悪いし、わけのわからないことばかりするしで、散々だったんだって。わたしは、あんまり覚えていないんだけど……でも、みんながわたしのことをなんて呼んでたかは、覚えてる。『できそこない』、だって。

……毎日つらかった。だっていつもわたしの悪口ばかり言うんだもん。家族みんな、周りのひとみんな、わたしが『できそこない』だから、嫌いになったんだと思う。そんな日々が捨てられるその前日まで続いてた。で、ある夜、みんんはわたしが寝ている間にあのひとけのない森に運んで、そのまま置いて行っちゃったのよ。――捨てられたんだ、ってしばらくしてから気付いた。

森には水場もあったし、あんまり美味しくないけど木の実もあった。だから、ちゃんと生きていられた。でも、捨てられてからはずっと独りだった。……独りぼっちは辛かった。だけど、誰からも悪口言われなくなったから、ちょっとうれしかったんだ」

「へえ、」

 レイは退屈そうに頬杖をついた。

「人間の世界っていうのは窮屈だなあ。アミルもそう思わないか? おれたち悪魔から見れば、どいつもこいつも大差ない人間だっていうのに」

「そう言うレイたちは、どうなの? 広い世界で生きてるの?」

「悪魔は、比較的自由だぞ。確かに、人間の言う【社会】に近いものも中にはあって、形だけの階級制度なども残ってはいるが、ほとんど意味をなさない」

 アミルは不思議そうにした。

「そうなの? でも、その中でもレイは偉い悪魔になるんでしょう? だってこんな大きなお屋敷に住んでるわけだし」

「ま、階級は上の方だが、これくらいの屋敷なら魔法ですぐ造れるから、屋敷の大きさは基準にならないな」

 レイは少し笑って、

「おれたち悪魔は、必ずしも人間のように他の者に依存しなくてもいいようになってるんだ。ほら人間は、睡眠や食事などが生命維持に必要なのだろう? だから、寝不足だったり、食事が満足にできていないと心身に異常が出て来るし、下手すれば死ぬと言うじゃないか。――その点、悪魔は命を維持するために努力する必要がないから、楽といえば楽だな」

 レイは不敵に笑った。

「悪魔はいいぞ? 人間のように寿命というものがないから、不死だし、時間は無限にあるし、魔力がなくなることもないから魔法は使い放題。永遠の象徴とは、すなわち悪魔なわけだ」

それを聞いたアミルはきらきらと目を輝かせた。が、言った後、何か思い当たったのか、レイはどこか遠くを見つめて、

「時間が余りすぎても、面白いばかりではないんだがな」

「そう? 好きなこといっぱいできるでしょ? いいことじゃない?」

「好きなこと――そうだな、確かに今は人間について色々と調べてみたいことがあるから退屈ではないな」

 そうして二人は笑い合った。気付けば、座る前にアミルがわざと空けた距離も、いつの間にかなくなってしまっていた。一つのソファで寄り添い、悪魔のこと、人間のこと、レイ自身のこと、アミル自身のことなどを互いに話した。もともと会った時から波長の合う者同士だったのだ。

 話が一段落して、アミルはふと辺りを見渡した。

「ねえ、レイ。このお屋敷にはレイ以外に悪魔はいないの? さっき一緒にいたきれいな悪魔さんは?」

「ああ、トーマのことか。そう言えば紹介がまだだったな」

 レイは手を叩いて、屋敷中に散らばっていた悪魔たちを集めた。

「トーマ、ロジー、ミクリ」

 呼ばれた悪魔はしゅん、と風を切るような音を立てて、彼の周りを囲うように姿を現した。アミルは突然のことに驚いて、レイの腕に縋りついた。レイはなだめるように言った。

「そんなに怯えることはないぞ。こいつらはおれの屋敷の召使みたいなもんだからな。基本的に温厚な悪魔ばかりだよ。おまえが言っていた悪魔はトーマって言うんだ。あの水色の悪魔な。あとは各々自分で名乗ってくれ。

ちなみに。屋敷に住んでいる悪魔はおれとトーマとロジーだけだが、他にもミクリみたいに臨時で訪れる悪魔もいる。臨時のやつらは大体遊びに来てるようなもんだがな」

 紹介された三魔(魔:悪魔の数え方)は礼儀正しくお辞儀した。アミルもぺこりとお辞儀を返した。

顔を上げる際、ちらりと、並んでいる悪魔の顔を盗み見たとき、アミルの目に山羊の頭が見えた。アミルは思わず声を上げた。

「やっ、山羊だ! レイ、山羊が二本足で立ってるよっ!?」

 これにたまらず吹き出したのは、トーマの側に立っていた悪魔である。

「ちょ、ロジーさん! 何してんの、人の子がびっくりしてるじゃん、だめでしょ、驚かしたら!」

 腹を抱えて笑い出した悪魔は、レイやトーマと同じように人間の顔を持っており、橙色の短髪がよく似合う、活発そうな悪魔だった。しかし人間と同じなのは肩から上までで、その下、彼の手や足には鷲のような鋭い鉤爪が生えており、その周りを背中の羽とは違う色の羽根が覆っていた。たとえるなら、鳥が人間になる進化の途中、といったところだろうか。

一方、山羊の悪魔は、頭がそのまま動物の山羊であるが、首から下は何ら問題ない足であった。物言わない山羊人間。アミルたちの会話の内容はちゃんと理解しているようだったが、もしかすると話せないのかもしれない。アミルはもう一度ロジーという悪魔を観察し直してみた。よく見ると愛らしい、つぶらな瞳をしている。

二魔とも、レイやトーマと同じように漆黒の羽が背中から生えている。これはどの悪魔にも共通のものらしいが、彼女の見る限り、レイのような人間に近い悪魔もいれば、ロジーと呼ばれた悪魔のように動物に近い者もいるようであった。

悪魔にも色々な種類がある。アミルはひとまずこのように納得することにした。わからないことは恐ろしいが、そういうものだと割り切れば不思議とこわくなくなった。

一通り笑い終えたミクリという悪魔が、無邪気な笑顔を浮かべて話し掛けてきた。

「ロジーさん、山羊だからびっくりしたでしょー? ……あ、自己紹介まだだった。おれはミクリ。きみは何ていうの?」

「えっと、アミルって言います」

「アミルっていうのか! よし、覚えた。どうぞよろしく! おれ、人の子とあんまり関わり持ったないからさー、その、一緒に遊ぶときとか手加減間違ったらごめんね!」

 彼の笑顔に応えようとしたアミルの表情が瞬時に固まった。ごめんでは済まない。アミルは慌ててレイの後ろに隠れた。ミクリは特別気に留めずに、屋敷の主に話し掛けた。

「主はアミルをどうするんですか?」

「まずは人間がするように、育ててみようと思う」

 レイは自らの思い付きに満足げに頷いている。ミクリはぴゅうっと口笛を吹いて、主の考えを賛辞した。

「悪魔が人の子を! それ、めちゃくちゃ面白そうじゃないですか! 主、おれも手伝ってもいいですよね? ね?」

「もちろん、いいとも。しかし人間は傷つきやすいんだから、そこのところ気を付けてくれないと困るぞ」

 それから悪魔たちは興奮した様子で、今後このアミルという人の子と、どのように接していくべきかについて熱心に相談し始めた。アミルは呆気に取られた。

そんな彼女の様子を見かねて、側で控えていたトーマがさりげなく提案した。

「それでは私が、アミル様の御部屋をご用意致しましょうか」

「ああ! 部屋のことをつい忘れていた。うん頼んだぞ、トーマ」

 レイはアミルに向き合い、トーマを指さした。

「こいつがおまえの部屋まで案内してくれるってさ。何、不安がることはない。トーマはおれより何百年も長く生きてる悪魔だから、安心してついて行けば良いんだ」

「……ほんの、数千年でございます」

 美しい微笑みをたたえながら、トーマは流れるような動作でアミルの側にひざまずき、彼女との視線の高さを合わせた。アミルは彼をじっと窺うように見た。この悪魔のことを信頼していいのか。彼女のそんな不安はお見通しかのように、トーマは優しく見つめ返した。

「御安心ください、アミル様。貴方はレイア坊っちゃんの大事な人の子。最高のおもてなしをさせて頂きますので」

 それを見ていたミクリはこそこそと移動し、アミルに耳打ちした。

「怒ると怖いから気を付けてね!」

「――聞こえてますよ?」

 ミクリは引きつった笑顔でごまかした。


◆◇◆


 アミルは部屋を後にした。延々と続く廊下を前に、落ち着きなくきょろきょろ視線を動かした。しばらく歩き続けているはずなのに、景色が一向に変わらない。不安に思うアミルに、トーマが一言、

「ここからは空間が無限に繋がっていますので、迷子にならないようお気を付けくださいね」

 それを聞いた瞬間、アミルの表情がさっと青くなった。アミルは縋るようにトーマを見上げた。

「あの、トーマさん。手をですね、つ、つないでもよろしいですか……?」

「手を? ふふ、人間は不思議な生き物ですね、歩くと手を繋ぎたくなるのですか?」

「だめ?」

「構いませんよ」

 そう言ってトーマが差し出した手は、水晶を削って作ったかのように硬く、冷たい闇色の手でだった。悪魔の手だ。アミルは驚きつつも声には出さず、遅るそそるその手を取った。

アミルが歩きやすいようにと、トーマはさりげなく歩幅を小さくして進んだ。アミルは疑問に思っていたことを色々聞いてみることにした。

「悪魔って、いろんな悪魔がいるんだね」

「ええ、そうですね。アミル様にわかりやすいよう分類するなら、人間型、動物型などでしょうか? ああ、植物型などもいますね。なかなか種類が豊富でしょう? 興味がおありなら、すぐにでもお呼びいたしましょうか?」

「い、いい! 今はいいよ、ちょっと気になっただけだから」

 アミルは慌てて話題を変えた。

「ねえ、トーマさんたちはさ、わたしなんかを拾うことに反対とかしたりしないの? 今までの話を聞いてると、わたしを拾うことは、レイがその場で勝手に決めちゃったことみたいだし。そりゃあ、屋敷の主が言うなら仕方ない、ってところもあるのかもしれないけどさ」

 トーマは可笑しそうに笑った。

「反対などしませんよ。むしろ大いに賛成です。――坊っちゃんのお考えは、いつも私どもの思い及ばぬところにありますから。だからこそ、私どもが悠久の時を捧げるにふさわしいと判断したわけでありますが」

 と、言ったところでトーマは足を止めた。

「さ、着きましたよ。こちらがアミルさまのお部屋になります」

 そう言って示された場所は、変わらず白い壁しか見当たらないところであった。

「何もないよ?」

「今からお造りしますので、少々私から離れて頂いてもよろしいですか?」

アミルは握っていた手を離し、二、三歩彼から離れた。トーマは両の手のひらを壁につけて、目を閉じた。

「内装はいかが致しましょう。何かご希望でもございますか? ――特にご希望がないようですので、こちらでご用意致しますね。何か不都合があれば後ほど仰ってください。

まずは良質な睡眠を得るための寝具に、書き物のための机、椅子、インク、ペン、紙束。それに加えて、アミル様の御召し物に、それを仕舞うためのクローゼット、チェスト、出歩くための靴、書物、床には綺麗な絨毯を敷きましょう。他にもあれやこれを置きましょう、少しでもアミル様が快適にお過ごしになられるように。あっ、壁紙の色はどうしますか? 人間の好む色というのは、人それぞれ異なるものだと存じております。気に入りの色はございませんか? もしか気に入らなければお気軽にお申し付けくださいね。いつでも変えられますから。――さて、大まかにはこんなところでしょうか」

 そうして手を離し、パンパンと手を払うと、何もなかったはずの壁に小さな扉が取り付けられていた。アミル呆気に取られた。

「今、ドアノブをご用意しますね」

 トーマは扉を優雅な手つきで撫でると、そこから金色のドアノブが現れた。彼はそれをひねって、扉を開けた。

「どうぞ中へお入りください」

 部屋の中は、アミルの背丈にぴったりの、小ぢんまりとした可愛らしい部屋だった。アミルは感動のあまり言葉を失った。まるで夢の世界を眺めるように、ふらふらと部屋に置かれたものを見て回った。彼が先ほど用意すると言っていたベッドや机椅子、クローゼットなども無駄なく美しく配置されていた。彼の遊び心であろうか、枕のそばには丸が縦に二つくっついた不格好な人形が置かれていた。アミルは瞳を輝かせながら、あちらへ行ったりこちらへ行ったりとせわしなかった。

「これ、もしかしてわたしのお部屋?」

「もちろん」

 トーマはにこやかに頷いた。

「他に御入り用のものがあれば、いつでも仰ってくださいね」

 トーマは部屋を出て行こうとした。そこでアミルははっと我に返り、慌てて問いかけた。

「こ、これからわたし、どうしたらいいの?」

「はて? 坊っちゃんからは、特別ご指示は頂いておりませんので、ご自由にお過ごしくださいませ」

「ご、ご自由にと言われましても……」

 アミルはすっかり困ってしまった。それを見て、トーマは優しく微笑んだ。

「部屋の中をもう少し見て回ってはいかがでしょう? ただし、屋敷から出る場合は屋敷内の悪魔に声を掛けてくださいね。お一人だけでお出かけになってはいけませんよ?」

「一人で外に出たらどうなるの?」

「――知り過ぎても毒ですよ」

 トーマはそっと自らの唇に指を据えた。さっと血の気が引くのを感じながらアミルは何度も頷いた。


 そして静かに扉は閉められた。ひとりになったアミルは、何よりもまず部屋に置かれたベッドの方へと歩み寄っていった。こんなにもふかふかそうなベッドは生まれて初めて見たのだ。アミルは絹のようにさらさらの天蓋に触れて、そっとベッドの上に乗り上げてみた。これが自分の寝床なのか、うれしくてたまらない。ゆっくり手足を伸ばし、身体から力を抜いて倒れ込み、肌触りのよいシーツに頬をうずめた。 

なんて、きもちいいベッドだろう。今までの緊張が一瞬にしてゆるんで、アミルは気付けば夢の中へと旅立ってしまっていた。



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