Fragment:6「春の雨」
ひどい雨だった。頭上には黒い雲が低く垂れ込め、靄と巻き上がる飛沫のために大地との境界はもはや定かではなかった。広々とした新緑の原野は色を失ってどこまでも曖昧に広がっている。
大きな雨粒が激しく地面を叩く音のなかに一際うるさく水を跳ね上げる二頭分の馬蹄の音が混ざる。馬上で自らも雨に打たれながら、それらに耳を澄ませていたエルマーは背後の気配が遠ざっていることに気づき、すこし手綱を引いてヨシュカを待った。
「ヨシュカ、大丈夫か」
「……ちょっと、寒くて」
ヨシュカはただでさえ白い頬を青褪めさせていた。彼の外套とその頭巾はしとどに濡れて雨粒が絶え間なく伝い落ちている。
――あの騎士の言うことを聞いておけば良かった。エルマーは憂鬱な気分で朝の出来事を思い返した。
「ハルトヴァールを観に行くつもりなら、今日はやめておいたほうがいい」
馬の用意をしていたエルマーに忠告したのは近衛騎士アーデルベルトだった。
「なぜです?」
「雨が降りそうだ」
エルマーは空を見渡してみたが、雲ひとつない晴天の空にそれらしき兆しは見つからなかった。
「なぜそう思われるのですか」
「ここに長く暮らしているからな」
エルマーはアーデルベルトの顔をまじまじと見つめた。彼はいつもと変わらず少々不機嫌そうな表情でエルマーを見下ろしていた。
「信じないなら好きにしろ」
素っ気なく言い放ち立ち去ろうとして、ふいに傍でおとなしくしていた馬に目をやると、彼は何気ない動作で鼻革の留め具を締め直した。
「そういうわけではなく……あまり先延ばしにしたくないのです」
実際は彼の真意を判断しかねただけだった。エルマーがこの国に来てから、彼女たちに対するアーデルベルトの態度はおそらく誰の目から見ても友好的ではなかった。
「十分注意することにしましょう。ご忠告感謝します」
アーデルベルトは冷たい水色の瞳でエルマーを一瞥してから背を向けた。
「あの丘は雨が降ると厄介だ。幸運を」
肩越しに無感情な声をのこして去った彼が見えなくなると、エルマーは小さくため息をつき鐙に足をかけたが、思い直して先程アーデルベルトが締め直した留め具を確認しなおした。
意外だが、善意の忠告だったかもしれない。せめて案内役を頼むべきだった。目的の台地は城の高みからは広々とした平地の向こうに見えており、それほど難儀する場所とは思われなかったのだ。
実際、ハルトヴァールを目前にして急に雲が湧き予言通り雨が降り出すまでは、乾いた原野を軽快に馬で走ることができた。しかし激しい雨でみるみるうちに土が緩むと、すぐに蹄鉄を滑らせる場所が多々あることがわかった。彼が「厄介」と言ったのはこのことだろう。結局、雨の中慎重に台地を見て回ったが半分ほどで諦め、常足で帰路を辿ることにした。
慣れない北国の春の雨は冷たく、外套ごしに少しづつ体温を奪って行くのがわかった。視界も悪くなり、流石に危機感を覚える。エルマーは自らも首を伝う寒気を感じて外套の合わせを搔きよせた。
舗道に戻るのは諦めて、雨を避けられる場所を探した方が賢明かもしれない。しかし見渡す限り、宿ることができる場所があるようには見えなかった。はたして石の壁に穿たれたわずかな凹みを探すために台地へ戻るべきだろうか。それよりも、台地からすこし離れたことで地面の性質がすでに変わっていると見做して馬を走らせるべきだろうか。風を受けるのはヨシュカには酷かもしれないが……
エルマーがめずらしく逡巡していたその時、彼方から馬のいななきが聞こえて二人は思わず身を固くした。しかしすぐに音の方向へ馬首を巡らせて目を凝らす。そして泥を跳ね上げる音を先触れに近付いてくる騎馬の影を認めると、エルマーは静かに剣の柄に手をかけた。しかしややあって二人の前に現れたのは、アーデルベルトと彼の美しい芦毛の馬であった。それとわかった瞬間エルマーは思わずヨシュカと顔を見合わせた。
「落馬して馬に踏まれでもしたかと思ったが、無事のようだな」
「迎えにきていただけるとは……かたじけない。あなたの忠告を聞くべきでした」
「……勘違いするな。陛下の命で迎えに上がったまで」
馬上からやや非難めいた目線をエルマーたちに浴びせながらもアーデルベルトはヨシュカに目を留め、彼が寒さで震えているのを認めると自らの外套を取り払って彼に差し出した。
「それではあなたが凍えてしまいませんか」
「お前たちほど深刻ではない」
エルマーの言葉にアーデルベルトは半ば嘲り気味に言葉を返した。見れば彼の外套の下の長衣は密に織られた絹で裏張りもあるらしく、エルマーたちよりもたしかによほど暖かそうではあった。
「……ではありがたく借り受けます」
エルマーが素直に礼を述べるのを聞いて、鼻息荒く突き返すつもりでいたらしいヨシュカは露骨に顔をしかめた。しかしその外套が自分のものより暖かいことはすぐに分かったので、複雑な面持ちで小さく礼を述べて体に巻きつけた。
「この辺りは雨が降ると馬も足を取られる。だが道を知っていれば問題ではない。ついてこい」
その時になって彼の後ろから灯を携えた彼の従者が姿を現したが、アーデルベルトはすでに馬首を転じて拍車をあてていた。
従者が慌てて馬の向きを変えるのを見ながら、エルマーも彼を追うべく馬の腹を蹴った。戻ったらもっと暖かい服を仕立ててもらおうと心に決めながら。
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