第18話


            ◇◆◇


 アルテ劇団には副団長が二人、そして不在の団長が一人いる。アルダシールは言った。

 その団長は、自らの子を殺そうとした罪を償うため、自分の身は潜ませて、私たちに立ち上げた劇団を託し、今は王宮に身を置き、劇団が発展する機会を生み出そうと努めてきた。そしてそれがついに功を奏した。王自らが我らが劇団を訪問なさったんだ。君も少しは知っていると思う。君がピエロッタを演じてくれた時の公演がその運命の日だったんだ。――。

 彼は自分がしたことをこれ以上なく後悔し、父親とは二度と名乗れないかもしれないけれど、何とか自分の過ちを償おうとアーサーを見守り続けてきた。

 ……親子というのは本当に似るものなんだな。彼らは同じ過ちを繰り返して。――。

 そして、彼はついに自分の正体をあらわにし、心から謝罪しようと思ったんだ。どんなに罵られても彼は受け入れると言っている。それが定めだと。

 もし父親が王宮にいると知ったら、アーサーは君のお蔭で大きく変わったとしても、他でもない君に言われたとしても、おそらく彼とは会わないと言うだろう。でも。彼の今までの頑張りは本物なんだ。命が危うくなることだって日常茶飯事で、傷だらけになって帰ってきたことも一度や二度じゃない……私はちゃんと向き合って欲しい。もう、親子と呼ぶことはできなくなっても。その手助けを、彼の心の支えになってやってほしいんだ、リリー。


 あなたは、今、お父様と会うことができたのでしょうか。

 きっと辛い事だと思う。一人で立ち向かわせるなんて惨いって思うかな。

 ――でも、わたしが居たら、きっと向き合うことをやめてしまうと思うの。 わたしは一度逃げてしまったけれど、ちゃんと帰って来れたよアーサー。だから。どうか。


            ◇◆◇


 アーサーは喚いた。ありったけの拒絶を彼にぶつけた。その名で呼ぶな。おれを殺しそうとしたのによくもまあ、のこのこと姿を見せることができたな。お前のせいでおれは、おれは人を信じられなくなって――。

「大事な人を、殺したんだぞ……」

 アーサーは崩れた。彼のトラウマの核を突いたのだ。冷静でいられるはずもない。ここから、こいつから植え付けられた傷の、痣から全て始まったのだ。恐ろしい。恐怖に心が塗りつぶされる。

「出て行け……今すぐここから出て行けッ!」

 彼はおとなしくそこから出て行った。一人になった空間の中で、彼は無茶苦茶に叫んだ。そうしてしばらく経って、小さく丸まって震えた。誰も帰ってこなかった。何だ、皆知っていたのか。じゃあ、リリーも? 知っていたのか。皆おれを騙したのか、裏切ったのか。底知れない怒りが沸々と込み上がってくる。どうして今、あいつが目の前に現れるんだ。もう少しで、おれはおれらしくなれたのに。理想には程遠いけれど、アルルカンに縋ったりしない、おれになれたのに。全部台無しだ。どうして。


 部屋から出たカルロに、アルダシールがそっと声を掛けた。

「他の皆には全て説明した。今頃、ブルーノの方も、皆に説明してると思う。庭園に行かせて劇の最終練習をさせてる。……それで王は、まだ待ってくれているのか」

「ああ」

 

 リリーと出会ってすぐ、慌ただしい様子で王宮に帰ってきたシャルルは、一目散にカルロのもとへ急ぎ、彼の過去を尋ねた。

「僕は国王として、君たち国民を救っていかねばならない。いや、救おうと思う。だから、まずは身近の人々の苦しみから取り除いていきたいと思うんだ。君の話を聞かせて。そして僕に出来ることなら何でもするから、何でも話してよ。……君は今まで僕を助けてくれたんだ、今度は僕が助ける番だ。そうだろ、カルロ?」

 そうして彼は今までのことを隠すことなくすべて打ち明けた。王はカルロが王族に身を寄せた理由のくだりではさっと表情を曇らせたが、それ以外は熱心に相槌を打ち、そうして頷いた。

「君をその子供さんと話し合う場所を作ってあげるよ」

 でもひとつだけ訊かせて。王は言った。「僕に近づいたのは、利用するためなの?」

 甘いな、と思った。こんな風に問えば、その場しのぎの嘘をつくことだって可能じゃないか。いや、違う。王は信じているのだ。カルロは正直に答えた。

「最初は、そのつもりだった。けれど。お前と親しくなるにつれ、お前のことが大事になっていった」

「……その息子さんと同じくらいに?」

「お前が許してくれるのなら、俺はお前の父親だと名乗りたいくらいだ。父親失格の烙印が押された俺だがな」

「……っ、この上ない言葉だよ。カルロ、大丈夫。息子さんだってわかってくれるよ。息子の僕が、保証するから」


 扉の向こうから、悲痛な叫びが漏れる。

「やっぱり俺は黙っていた方がよかったんじゃ――」

「お前、シャルル王にここまで背中押されてきたんだろ。どんなに苦しくてもふんばれ」

「……お前みたいに凜々しく生きたかった」

「ふん」


            ◇◆◇


 アーサーは胸元を引きちぎるように開けて、包帯を掻き毟るように解いていった。この一生消えることのない痣を見てみろ。そうすれば、ずっと胸の内に封じていた憎悪が、あふれんばかりの憎悪が、そう思って鏡を見た。

「え……」

 そこには、あの醜い浅黒の痣はどこにもなかった。思わず口の端から笑い声が漏れる。最初は、わずかばかりの可笑しさが、滑稽なまでにふくらんでいき、気づけば大声で笑い出していた。なんだこれ。リリーがしたのか、こんなこと。

「なんだよ、これ! ハートのつもりなのか?」

 アーサーの首には真っ赤なハートが浮かび上がっていた。赤く染色された粉が人の手形を覆い隠すように塗られていた。包帯の裏には赤い粉が付着している。リリーだ。あの時目を瞑らせたのはこの為だったのだ。

「ばかだあいつ、こんなことでおれが、おれが――」

 赤。その時何故か、その不細工にゆがんだハートが、目に見えないはずの愛の形のような気がして、さらに笑いがこみ上げてくる。

「参ったよ。リリーには一生かなう気がしない」

 そうして、鏡の前で飛び切りに笑ってみせる。「いいよ。向き合ってやるよ。それがお望みなんだろ、リリー。おれの女神様は我が侭だなあ……」

 そうしてアーサーは扉を勢いよく開けた。そこには目を丸くする父親の姿が居た。よく見ると右目がつぶれている。

「もしかして罪滅ぼしにつぶしたの、目」

 アーサーは包帯を回して、不敵に笑った。

「おれもあんたとそっくり同じ罪を犯してしまってさ、まあ一生背負うつもりなんだけど。でも、その唯一の女がおまえと向き合えっていうから、言う通り従ってやった。何だかもうよくなった。恨むとか、憎むとか、おれの唯一は一切口にしなかった。だからおれも、そういうのは止めにする。まだ親とは思えないけれど、今はこれで勘弁してほしい。……カルロさん、で合ってる? 何となく、あんたの名前な気がしてさ。もしそうなら今までありがとう」

 そうしてアルダシールの名前を呼んだ。

「アルダシールさん。皆を呼んでくれ。王様をお待たせしたみたいだ。早く公演して、それで、帰ろう。おれやっぱり、リリーがいないと駄目みたいだ」

 アルダシールは彼を呼び止めた。

「仮面はどうしたんだ」

「いらない」

 彼は笑った。

「もう、いらない」


            ◇◆◇


 フローラ楽団の会場前で馬車を止めてもらうと、アーサーはそこから飛び降りてリリーに会いに行った。結局王様にごねられて三ヶ月ほど滞在してしまったが、そのお蔭で政治にも意欲的になってもらえたみたいだし、半年に一度都へ劇を見せに行くという条件で再びこの街へ帰って来られたわけだし、まあ仕方ないと息をついた。

 リリーには既に手紙で帰る日を伝えておいた。返事には『楽団のところまで来て』と書いてあった。


 楽団の会場の扉はぴたりと閉ざされており、そこにリリーの姿はない。不思議に思って周りを見渡すと、アニスとエウリカといった女が不服そうに近寄ってきて、「大遅刻! 本当最低な男ね! こんなののどこがいいんだか」「わたしたちまだあんたを許したわけじゃないんだからね!」と口々に文句を垂れて、彼の腕に手を差し込み、さながら連行するように会場の扉の方へと走った。

 待ってましたとばかりにネムは扉をわずかに開けて、彼の体を滑り込ませた。アニスはチケットを握らせ「真ん中の列の、真ん中の席です。高級席よ」と告げ、エウリカはハンカチを握らせ、「お客様のご迷惑にならないように。きっと感動して見てられないでしょうから」と耳打ちした。


 中はしん、と静まり返っていた。舞台の方から声がする。そこには何人かの女性が台詞を口にしている姿があった。歌ではない。まるで劇のような台詞回し。楽器は見当たらない。しかし舞台で繰り広げられている場面に合った音楽が流れている。アーサーは女たちに指示された場所へと足音を忍ばせて歩いて行く。「すみません」不快そうに眉を顰められ、アーサーはしきりに頭を下げた。訳がわからない。ようやくたどり着いた場所に座り、顔を上げた。

 すると。舞台の上には、小柄な少女の姿があった。彼女は最初、真っ黒の仮面を被っていた。が、すぐにその仮面を取って、笑顔を浮かべた。そこには見慣れた少女の笑顔があった。

「リ、リー……?」

 彼女は舞台にいた女たちに言い詰め寄られ、それを飄々とした様子で言い返し、けたけたと笑う。そうして、ゆっくりと息を整え、彼女は舞台の前へと歩いて行った。堂々としている。何より、その表情が遠くからでもわかるほどに輝いていた。嬉しそうに、楽しそうに。

 音楽がぴたりと止んだ。彼女以外の登場人物は退場する。

 リリーは口を開けた。そして歌を歌ったのだ。


 主旋律すらない、彼女の歌声のみがそこにあり、会場に染み渡るように寄り添うように神秘的に響いていく、彼女のアリア。他の音につられるならば、はじめから、無ければよいのだ。歌だけでは忍びないのなら、自分の得意を詰め込めばいいのだ。後にこれはオペラという形になっていくのだが、まあ、今はいいだろう。


 彼女の言った〝対等に立つ〟という意味が、ようやくわかった気がした。

 そして、自分が愛した歌が、戻ってきたことに彼は何よりの喜びを感じた。 これだ。これに感動したのだ。彼女のすべてが込められた、この歌に魅了されたのだ。


 静かに涙が伝った。それをエウリカが渡したハンカチで拭っていたが、次第に間に合わなくなって、堪えようとして、でも堪えきれるはずもなくて、そのまま泣き出してしまった。

 あまりの急なことに隣の客は驚いて「大丈夫ですか」と声を掛けてくれたので、こみ上がってくる嗚咽を必死に押し殺そうと唇を噛み締めて何とか答えた。 けれども、うまくゆかず声は漏れてしまう。

 自分を煩わしそうに見ているのはわかったが、涙を止めることはできない。

「あの、本当に、すみません。うるさくして」

ようやく声が出て、謝ることができた。客は心配そうにこちらを覗いた。

「大丈夫ですか?」

「はい。……つい、こらえきれなくて」

「そんなにいいですか、彼女の歌は」

 そう問いかけられ、アーサーは答えた。

「はい」

彼はそっと囁いた。

「俺はこの日を、決して、忘れないでしょう」


            ◇◆◇


 舞台が終わり、幕が下りた。人々は誰からともなく立ち上がり、熱い拍手を贈った。アーサーも立ち上がって、誰よりも大きな拍手を贈った。


 すると下りたはずの厚い幕から、ちいさな少女の顔が覗いた。アーサーはすぐさま席から立ち上がって、少女のもとへと駆け出した。

 そうして二人、かたく身を寄せて、抱き締め合ったのだ。

 そんな熱い抱擁を交わす若い二人に向けて、その場にいた人々は、更なる大きな拍手を贈ったのであった。



            了  

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道化師のアリア 黒坂オレンジ @ringosleep

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