第15話
◇◆◇
それから。アーサーは劇団にも復帰して、アルルカンとして動き始めた。
「あんまり休みすぎて芸が錆びたら困るから」
まだ言葉にどもったり、口が回らなかったりはするけれども、少しずつ勘を取り戻し始めている。ただし、彼は劇が終わるとすぐに仮面を外すようになった。アーサーとして、生きるようになっていたのだ。
食事も、仕事の合間を縫って、極力リリーと一緒に食べるようにした。その時には今日の出来事を面白可笑しく語り聞かせ、少しでも彼女にまた笑ってもらおうと努力した。彼が舞台に上がっているときは、他の団員たちが積極的に彼を支援した。週に二度来る、フローラ楽団の者たちも率先してリリーの世話をした。
朝は誰よりも早く彼女の部屋を訪れ、時間が許すまで楽しく話をし、夜は誰よりも長く一緒にいて、彼女が完全に寝付くのを待った。自分にできることは進んで行った。髪をといたり、時々女団員から髪飾りを譲ってもらって、リリーに飾り付けてやったりした。そうして彼女の容姿を褒めちぎり、にこにこと笑ってみせたのだった。彼はよく笑うようになった。リリーはその笑みをじっと眺めていた。
ある夜、悪夢にうなされて勢いよく起き上がった彼女は、何となく空恐ろしい感じがして、ベッドから降りて部屋の戸を開けた。すると、向かい側の部屋から明かりが漏れていた。ずいぶんと夜遅いのに。リリーは弱々しい手で扉を叩いてみた。すると、ばたばたと騒がしい音を立てて、アーサーが戸をこれまた大きな音で開け放った。
「どうかしたのか?!」
リリーは面食らってしまったが、すぐにふるふると首を振った。するとアーサーは安堵の息をついて壁にもたれ、そうして彼女を部屋へと送り、ベッドに寝つかせた。
「悪い夢でも見たのか?」
ゆるゆるとそっぽを向いた彼女にアーサーは声をあげて笑ってから、彼女の髪を撫でて、
「寝付くまで側にいるから、だから安心して寝なよ」
と言った。リリーはゆっくり彼の方を向き、問うた。「ずっと、起きてたの」
「ちょっと……ね」
「眠れないの、いつから」
言葉を濁す彼の態度で、悟った。頭に置かれた手を握り、「もういい。眠って」と請い縋った。
「大丈夫だよ」
「わたしが、だいじょうぶじゃない」
有無をいわさぬ視線に、彼は「じゃあここでちょっと目を閉じとく」と言った。不服そうな彼女の表情が最後に映った。それに、彼は人知れず喜びを感じる。本当に少しずつではあるが、表情が豊かになった。そのことが何よりもうれしい。
「アーサー、」
「ん?」
「わたし、あなたを憎んでいないからね」
ぜんぶ、わたしの弱さがしたことなの。あなたは関係ないのよ。
彼女に自らの傷をみせたあの日から、彼女は幾度となくこの言葉を繰り返した。これが、彼女が彼の目を見て語られていたならば、彼はこれ以上ない救いを感じただろう。
しかし、彼女の視線はいつだって真っ直ぐ、彼女の机の上に置かれたナイフに注がれているのだ。見なくともわかる、いつものことだから。アーサーは何度でも同じことを繰り返し言おうと思って平然と答えてみせた。
「だとしても。リリーがいなくなるなら、おれも一緒にいく。変わらないよ」
おやすみリリー。彼女は握られた手を、もう一度握った。彼女の目は、始終彼に注がれていた。
◇◆◇
アーサーの提案により、できるだけ食事の時は、皆と一緒に食卓を囲むことにした。アルテ団員は少なくはあるものの、以前演じた劇に感銘を受けた者たちが劇団に入団を申し込んできたりしたこともあり、食堂と定められた場所は結構な人で埋まっていた。食べる時間は決められておらず、団員たちは好きな時に自由に食べることが出来たが、早く行かないと食事に有り付けないので、調理場から好い匂いが漂い出すと、自然と皆集まって席に着くのだった。
食事は一週間、当番制で回していく。今週はアーサーが当番であったから、彼は早くからリリーの席を探し出してそこに座らせ、自分は彼女の前に席を取り、調理場へと慌ただしく駆けて行った。
しばらくするとブルーノが彼女の右隣にどしんと座り、にやりと笑いかけた。
「アーサーの飯は美味いぞー。あいつ小食のくせに味にはうるせえから、他のやつがあんまりまずい飯を作ると、自分でもう一回作り直すんだよ。そのお蔭で料理の腕を身につけたんだ。ん? そのまずい飯はどうしたかって? 作ったやつの責任だよ。皆アーサーの飯に食らいついてたから、一人でしんどそうに食ってたけどな、はは!」
「ブルーノさん、朝から声が大きいですよ」
サーシャは朝が苦手なのか、目を細めながらリリーの左隣に座った。「あ、でもアーサーさんの食事はおいしいです。それはほんと。だからこんな早い時間でも結構集まってるんです」
「そうそう、サーシャの料理はかなりまずいから、できあがっても人が全然いない、ってな!」
「ちょっとブルーノさん! それでも最近は人けっこう多いですよ」
「それは熱いうちにかき込んで、うやむやにするためだよ」
アーサーが食事を運んで、二人の会話に入ってきた。サーシャは顔を真っ赤にして反論したが、アーサーは笑って受け流した。運んできた皿をリリーの前に置いて、自分の席につく。調理場はできあがった料理の凄まじい争奪戦が行われており、サーシャとブルーノは出遅れたとばかりに勢いよく立ち上がった。それを楽しそうに見送り、リリーを見た。
「ゆっくり食えばいいからな。残せばいいから」
彼女はスプーンを握って皿に盛られた食事を眺めた。トマトの煮込みスープに、焼きたてのパンに、炒めた野菜もの。素朴な料理ではあったが、湯気が快い香りをともなわせて鼻孔をくすぐる。
「食べやすいものからでいいよ」
アーサーに促され、リリーはゆっくりとスープを口に含んだ。それを数回繰り返していると、山盛りに乗っけられた料理を手に二人が戻ってきた。
「いっぱい食べないと元気出ませんから!」
「いやおまえはもうちょい体重とか気にしたらどうだ?」
「きゃーっ、ブルーノさんの鬼! 女の敵!」
両隣の凄まじい食欲に押されつつも、リリーはちょっとずつ、食事を体に流し込んだ。パンを細かくちぎり、スープと一緒に口にする。咀嚼のため、しばし手を休めていると、それをもう食べきれないものだと判断したブルーノが「食ってやるよ」と手を伸ばした。アーサーも無言で感謝した。サーシャはずるいと自分も手伝ってやろうとしたところを、リリーの悲痛な叫びによって遮られた。
「たべる!」
もぐもぐと一生懸命食べながら、二人の手から料理を守った。そうして途中でスープの皿を持ち、椅子からおりた。アーサーは呆気にとられて、
「どこに行くんだ」
「……もうちょっと、もらうの」
「お、おれが! ちゃんと入れて来るから、リリーは食べてたらいい」
リリーの手から器を受け取り、アーサーは群がる団員たちを押しやって進み、姿を消した。ブルーノとサーシャはお互いに顔を向き合わせ、堪えきれないとばかりにリリーごと互いの体を抱きしめた。間に挟まったリリーが窮屈そうにしたが、ほんの少し笑っているように思えた。
たった今起きてきた様子のジャンヌとルイスはそんな三人の様子を、不思議に思いながら、アーサーがスープを走ってこぼしながら持ってくる様子を見ながら、アーサーの両隣に座った。持って来られたスープが、リリーの席に置かれたのを見て、ようやく状況を理解したのか、ジャンヌとルイスは彼の肩を思い切り叩いてやった。
「よくやったわね、アーサー!」「よかったね、アーサー!」
アーサーは俯いている。ジャンヌは泣き笑いを浮かべながら、もう、と怒ったような声を出した。
「泣いてるの? ちょっと、やめてよ、あたしまで泣けてきちゃうでしょ……」
「大変だったねアーサー。でも、本当、よかった。ここまで変えてくれたリリーちゃんにはなんてお礼をしていいのか……。ありがとう、こんなことになって本当にごめんね……本当にありがとう」
「ほら。アーサーも何か言ったら?」
アーサーは、くぐもった声のまま、呟くように言った。
「焦らなくていい、ゆっくりでいいから、少しずつで全然かまわないから、無理しなくていいんだよ、ただ、生きてくれればそれで、おれはそれだけで――」
リリーはぐっと顔を上げた。スープが口の端にはねていたが、気にせずアーサーを見つめた。
「おいしいよ、アーサー」
その場は、温かい拍手によってたちまちに包まれて、アーサーはそのまま顔を上げることができなかった。
◇◆◇
アーサーは偶然ぽっかりと予定が空いたので、ルイスとともに市場へ出掛けた。市場は定期的に行われており、服やアクセサリ、新鮮な食材や美しい絵画など様々な色鮮やかな品物が置かれていた。先日降った雪が辺りを一面に覆っており、すっかり白銀の世界が出来上がって、子供たちが楽しそうに走り回っている。
「ルイス」
「何、アーサー」
「……おまえには、本当助けられた。――ありがとう」
「急にそんなこと言わないで。おれだって、失敗ばっかりだったし。――それに、僕だって君に助けられたんだから」
アーサーは怪訝そうに眉を顰めた。
「おれが、おまえ助けたことなんて……あったか?」
「あったよ忘れたの!? 僕にとっては君は僕の救世主でさあ――」
ほら、とルイスは身振り手振りで話を始めた。
「僕が貴族の生まれでさ、エヴァンズ=ブライムという名のもとでしか人間性を認めてもらえなくて、それでたまたま〈薔薇の国〉にやってきた旅一座に頼み込んだだろ?」
「――ああ! 屋敷抜け出して、『こんな身分や立場や一々の挙止動作に神経質にならなきゃいけない世界はもうたくさんだ――』って言ったやつな。おれは何でわざわざ金持ちが貧乏生活覚悟の上でこんなところに来たか全然理解できなかったな」
「……僕はとにかく逃げたかったんだ。僕という人間を認めて欲しかった。だから、このままどこかへ行こうとした。――でも君が、『ちゃんとお別れは言ってきたのか』って。『このままだと絶対後悔する』って、言ってくれてさ」
「『おれは別段どうでもいいけど』って言っただろ? 今思えばかなり突き放した物言いだよな」
「ううん。君に全く関係無いことなのに、そう声をかけてくれた、それだけで十分だったんだ。僕は恐る恐る屋敷に戻った。……そうしたら、いたんだ。門の前に、僕が出て行った姿を見た妹が、今日みたいな冬の寒い日に、寝間着のまま、僕の帰りを待っていたんだ。僕は言った。ここを出て、生きていくんだと」
ルイスの妹は言った。
『母様や父様はきっと怒って兄様を閉じ込めてしまうと思うから、話は私からしておくね』
妹は、そうして微笑んだ。『お兄ちゃんがどこか知らない世界を旅したいってずっと幼い頃に言ってたの、私ちゃんと覚えてるよ。それからずっと、息苦しい世界でたくさん努力しながら、お兄ちゃん、ずっとその夢を諦めずにいたよね。私、わかってた。お兄ちゃんがいつかどこか行っちゃうって知ってた。だから、だからね』
――私がちゃんと見送ってあげる代わりに、お兄ちゃんはエヴァンズ=ブライムの名を、捨てないでいて。他の名前をつけてもいい。でも、どんなに嫌でも、ブライム家の名だけは語り継いでいって。そうしたら、会いたい時にエヴァンズ=ブライムの名を追いかけて会いに行けるでしょう?
「僕は、ブライム家を捨てた男だ。――それでも、妹は僕に家族という繋がりを残してくれた。だから、君には痛い話かもしれないけれど、僕はそれで生きていけるし、これからも生きていくんだと思う」
「いや――いい話だと思う」
ルイスは唖然として、そうしてくすくすとアーサーを見た。
「変わったね、アーサー。とっても、いい方向に」
「リリーが変えてくれた」
アーサーは照れもせず、揺らがぬ答えを返した。
「リリーはおれにとって、唯一の女なんだ」
「……それ。彼女に言いなよ。僕に言わないで、照れる」
「お前に言ってねえよばーか!」
ようやく、ピエールの怪我が治り、劇団へ帰ってきた。アーサーは最初、こっぴどく叱りつけたが、よく戻ってきたと背中を叩いた。あまりの豹変具合に戸惑うピエールだったが、彼らに起こったことを全て聞いたとき、涙もろい彼は机に突っ伏して泣き出してしまった。
リリーは自らの足でピエールのところに立った。「前は助けてくれてありがとう」
「あなたが、リリーさんでしたか」
アーサーは怪訝そうにした。「なんだ、おまえリリーのこと知ってたのか」
リリーは隣に立つアーサーの服をつまんだ。
「わたしを助けてくれたの。それで、怪我したの」
ブルーノは大口を開けて、げらげら笑った。
「女助けてお前は大怪我か! 喜劇だな」
アーサーはつとめて冷静に礼を言った。リリーも頭を下げた。
それから、アーサーはピエールを部屋の隅へ連れて行き、耳打ちした。
「おまえ……リリーのこと、どう思ってるんだ」
「どうってどういう意味ですか……?」
「命張って助けるくらいなんだから、それだけ好きなのかって話だよ」
ピエールは内心にやりとした。どうも彼は自分を恋敵だと勘違いしているらしい。普段からいじめられていた彼は、復讐心がうずいた。少し、懲らしめてやろうと彼は、唇を尖らせて空とぼけた。
「さあ。どうでしょう」
――すると。アーサーは予想外の反応をした。なんと、瞳を潤ませ、飛び上がらんばかりに大喜びし出したのだ。これにはピエールも驚愕する。
「よかった! おまえみたいに、ちゃんとしたやつがリリーと一緒にいてくれたら、リリーも幸せになれるはずだからな!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! ど、どうして僕がリリーさんと――? アーサーさんがいるじゃないですか!」
アーサーは黙った。そうして、地面に視線を落とし、呟いた。
「おれが、リリーの隣にいられるはずなんかないだろ。今は大分回復してきたけれど、おれはリリーを殺したんだぞ? そんなやつが、リリーのことを幸せにするなんておこがましいにも程がある。おれが出来るのはせいぜい、その幸せの道を作ってやることだけだよ」
「……じゃあ、彼女に恋人ができたら、あなたはどこかへ行ってしまうんですか」
アーサーは不思議そうに、逆に問い返した。
「どうしてだ? おれは一生、リリーから離れるつもりはない」
「は?」
「ずっと陰から見守ってる。リリーの恋人がリリーを傷つけたら承知しない。引っ越したら一緒についていく。リリーが死んだら、おれも死ぬ。一心同体だ。リリーの幸せを、おれは守るんだ」
ピエールは、はああ、とそれはもう深い溜息を吐ききった。そして、あんまり呆れてしまったので、怒鳴る気力も無くし、力なく首を振るばかりだった。
「――ずれてる」
「え?」
「根本からしてずれてるんだよ……! 君は、彼女を助けるために力を尽くしたんだ。そうして、絶望の淵から彼女を救い上げたんだ。確かに君が犯した過ちは許されるものじゃない。けれど! それが君の彼女への思いを制限していいわけではないんだ。辛苦を共にした君以外の誰が、彼女とともに歩めると思うんだよ……」
まだ納得していない彼の様子に、ピエールはわかったと一つの提案をした。
「僕以外にも、アルテ劇団の男女関係なく、リリーさんに贈り物をしよう。制限は何もない。ただ彼女にあげたいと思ったものを選んで贈るんだ。それで、誰の贈り物が一番喜んでいたか、君はちゃんと見ているんだよ。勿論、君も参加してもらう。いいね!」
「なんでそんなにピエールさん怒ってるんだ……?」
「君が恋に疎い大莫迦者だからだよ!」
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