第13話
◇◆◇
それからが、大変だったのだ。
リリーは空き部屋をあてがわれた。アーサーの部屋と真向かいの場所。何かあっても彼が気づけるように。彼の強い希望だった。荷物は彼女が劇場に来てそうして出て行った時に置きっ放しになっていたので、必要最低限のものはそろっていた。
アーサーは彼女の心を取り戻すために、生まれて初めてここまで必死に、献身的に世話をした。まず、食事を取らせようとした。ここで早速問題が起きた。
「リリー?」
「……、」
彼女は何ものも口にしようとしないのだ。食べ物だけでなく、水も一滴たりとも摂取しようとしない。うわごとのように彼に死を懇願するのだった。時には涙を、時には責め句をもってして彼に詰め寄った。
「食べてよリリー、食べてくれよ」
食べ物を口に運ぼうとすると、彼の手を払って頑なに拒んだ。その拍子にスプーンが宙に跳び、床を汚した。そんなことが永遠と続いた。彼女がみるみるやせ衰えていくのも当然のことである。アーサーだけではとても扱い切れず、ジャンヌやサーシャといった主に女性の団員がリリーの命をぎりぎりのところで保っていた。それでも、目に見えて細くなっていく彼女に、アーサーは苦痛を感じないはずがなかった。
ジャンヌはひどく重い溜息をついた。
「ねえこれって意味あるの……? リリーちゃんはいつ行っても『死なせて、しなせて』ってしか言わないし、何も食べようともしないし、このままじゃ本当に死んじゃうわよ……」
ブルーノは今の状況を思い巡らせた。
「アーサーの方も深刻だな。精神がひどく衰弱しちまってる。ありゃしばらくはアルルカンなんて出来そうもないな」
「だとしても、アルルカンが一番人気な道化役なわけですし、そう長く休ませているわけにはいかないのでは――」
サーシャの意見に、アルダシールはその通りだと頷いた。しかし、とブルーノは二人の会話を遮った。
「それでも決めたじゃないか。あの子を責任をもって、救ってやるって。――いつも人と壁作ってばかりいたあいつが初めて愛した、おそらく最初で最期の女なんだ。大事にしてやろうぜ」
「言われなくとも」
ジャンヌは立ち上がった。「助けてやるわよ。……だって本当、見てられないもの」
「た・べ・な・さ・い! リリーちゃん!」
ぎゅっと固く結ばれた唇を開けようと、女が二人がかりになって押さえ込む。それをアーサーは非常に不安そうに見守っている。
「いやぁっ!」
リリーの悲痛な叫びに、アーサーは堪えられない。「もう、もうやめてくれ、やめてあげてくれ!」
彼の愚かしい発言にサーシャは苛立ちまぎれに言い返した。
「リリーちゃんがこれ以上痩せたらどうするんですか!? 死んじゃうんですよ、そんなのだめでしょ、アーサーさんっ!」
「――ちょっとルイ、あいつをどこかへやってしまって」
「わかったよジャンヌ。あとは頼む」
ルイスはいつものように彼の手を引いて、その場から遠ざけようとして、リリーの口から「ころして……」と涙ながらに歎願される。アーサーの足がぴたりと止まる。これ以上はたまったものではないとサーシャはリリーの両肩を掴んだ。
「いい加減にしてください! アーサーさんは、自分の命を擲ってまであなたを助けたじゃないですか。それなのにずっと死にたいとか、殺してとか、そんなことを言ってもらいたくてアーサーさんは――」
「おい」
一気に空気の温度が下がった気がした。憤怒を押し殺した声。冷淡で、恐ろしいほどまでの激情を含むそれに、サーシャは背筋が凍る思いがした。
「リリーは何も悪くない」
悪いのは、
「おれ一人だけだ。だから、罵倒するならおれだけにしろ。絶対にリリーを傷つけるな、頼むから」
「うっ、……う、はい」
サーシャは顔を隠して、部屋から出て行った。ジャンヌは彼女を追って、部屋を出た。すれ違う際、
「あんた、破綻してきてる」
と言い放った。
「これが本性だよ」
揺るぎない瞳で、ジャンヌを一瞥した。
「本当、見てらんないわ」
◇◆◇
「食べろよリリー。お願いだから」
リリーは無言のままだ。二人はどこかへ行ったきり帰ってこない。ルイスは彼女が暴れた拍子にひっくり返った器を洗い、もう一度食事を入れるために席を外した。
アーサーは自らの手でリリーの口元にスプーンを向けてみる。が、力なく首を振られてしまう。そんな彼女に業を煮やしたアーサーは、禁断の言葉を口にすることになる。これが、彼に考えられる唯一彼女の命を繋ぎ止められるものだった。アーサーはぐっと息を呑み、言った。
◇◆◇
帰ってきた女二人が見たのは、必死な形相でスプーンをかき込むリリーの姿と、その部屋の前にしゃがみ込んで俯いているアーサーの姿だった。彼女らの後ろから、その様子を目にしたルイスは大いに喜び、「やったじゃないかアーサー!」と彼の肩を叩いた。が。彼はくぐもった声色で「違うんだ」と答えた。
「何が違うんだ」
「違う、戻ったんじゃない」
アーサーは両手で顔を覆った。
「これを食べ切ったら楽に殺してやるから、だから今は食べろって言ったんだ――!」
絶句。辺りにいる誰もどうしていいのかわからなかった。ただ、彼女が死にもの狂いで食物をかきこむ咀嚼の音が、むなしく響いているだけだった。
◇◆◇
ついに。アーサーはとんでもない行動に出た。リリーの部屋の扉が半開きになり、二人の、アーサーの一方的な会話が聞こえてきた。ルイスはそっと中を覗いた。ベッドに腰掛けているリリーの前に座り込んで、アーサーが何やら渡して身につけさせている。それが何か悟った時、ルイスはすぐに中へ飛び込んだ。
「きみ、一体何して……」
「ああ、これか?」
アーサーは笑っていた。しかしそこに精気は無く、表情は虚ろでどこに心があるのかわからない状態だった。放心状態に近い、狂気へまた一歩近づいた彼の姿であった。
彼の手には高価そうな宝石や耳や髪の飾り、ドレスの類いが、ベッドや床を占領するかのように広がっていた。その中のひとつを拾い上げてはリリーの手に持たせて、力なく落ちた手からこぼれた宝石をアーサーは「気に入らないんだな」と呟いて放り投げた。そうしてまた、新たなものに手を伸ばしていく。 ルイスは紛れもない畏怖を感じていた。まさかここまでおかしくなってしまったなんて。堕ちていく親友に、ルイスは戦慄の感を否めない。それでも、今度は自分が救いの手を差し伸べる番だと決めたのだ。ルイスは尋ねた。
「その宝石とか、アクセサリとか、一体どうしたの」
「もってきたんだよ」
「っ、ま、まさか盗んだのか?」
「盗もうとしたが、人がいたからやめた」
狂ってる。ルイスは心が砕けそうになるのを懸命に堪えた。
「そ、れでどうして手に入れたの」
「借金した」
「は」
何気なく。子供が親に正直に答えるように言い切った。そうして、ルイスの方を向いて、ひひ、と笑ってみせた。
「女ってやつはさあ、金とか宝石とか、そういうきらきらしたものが好きなんだろ? だからリリーも好きだと思ってさ、持ってきてやったんだけど、なかなか気に入ったのが無いみたいなんだよなあ。何でだろうなあ。おまえ、わかる?」
「……借金って君、一体いくら――。それってちゃんと返せる額なのか? なあ、なあ!」
「辺り構わずもってきたからわかんねえわ」
ルイスは、眩暈を感じた。もう、駄目かもしれない。彼の闇はここまで深かったのだ。これを取り除こうなんて考えた自分が浅はかだったのだ。リリーが自ら命を絶ったっておかしくないのかもしれない。自分も、これ以上彼と一緒にいると狂ってしまうかもしれない――。
『僕、自分の家から出てしまいたいんだ。家柄とか、裕福とか、そういう余計なしがらみの無い世界に行ってしまいたいんだ』
『ふうん? おれは劇団に誰が増えようが、何人増えようが、どうでも構わないが――』
後悔するぞ、おまえ。
過去の彼の声にはっとする。そうだ。何を弱気になってるんだ。可能性を信じろ。彼の不安定な心は、未来へ変わるために必要な今を暗示しているんだ。ルイスは周りにあった高価な品をかき集め、団員たちに声をかけて、これらの返品のために街を駆け巡った。当然店主からすれば納得できないことであり、頑なに拒んだが、必死の頼み込みが功を奏したのか、ほとんどのものは再び店のところに受け入れられた。その他は、ルイス自らが金を払い、この事件を強引に解決した。
ジャンヌは帰ってきたアーサーとルイスの頬をぶった。
「まずアーサー。あんた、女がそんな単純な生き物じゃないってどうしてまだわからないの? 気持ちのこもってない贈り物なんてごみ屑と同じなの、価値なんてないの、わかって!」
そうしてルイスと向き合う。
「ルイ。あたしが許せないのは何かわかる? その金で解決しようとする態度よ。今回は仕方ないとはいえ、何でもそんな風に振る舞われたらとっても不快なの。まだ、エヴァンズ=ブライムの時の自分が抜けてないんじゃないの?」
「……言葉もないよ」
「でしょうよ。――あたしや他の子たち、劇団にいる人たちのほとんどが、裕福でない家庭に生まれてやむを得ず役者として何とか生計を立てているの――。そのことを、ちゃんとわかって」
「うん。ごめんね。ジャンヌ、本当に」
目を擦りながら、ジャンヌは少し微笑んだ。
「そこを直してくれたら、そこそこいい男なのにね。ま、あたしはブルーノさんとアルダシールさんしか眼中に無いけどね」
「そんなあ」
「――さて。アーサー、ちょっと気分転換に出てきたらどう? ほら、ちょうど昼の鐘も鳴ったことだし、適当にお腹でも膨らませていらっしゃいよ。リリーちゃんのことは任せて、ね。あんたが前みたいに余計なことしたら彼女も迷惑なのよ? ねえ。ちょっと外の空気を吸ってくるだけでいいのよ。ここはちょっと……空気が澱んでる気がするわ。掃除もやってしまおうと思うから、つまり、席を外してくださる?」
有無をいわさぬ物言いに、気づけばアーサーは一人劇場の前に立っていた。片手には、アルルカンの仮面。その紐を結ぼうとは思わないが、顔を隠す程度には使おうと思った。彼はやることがないので、少し道化を演じてみようと思ったのだ。ずいぶんとアルルカンと離れてしまった。けれども、昔のように彼に執着する気持ちはすっかり薄れてしまった。
通りがかった子供を呼びかけ、少し話をしようと試みる。子供はアルルカンの仮面をみるなり嬉しそうに顔を輝かせ、口火を切ったように喋りだした。久しぶりのせいかうまく回らない舌に戸惑いながら何とか会話すると、子供は不思議そうにこちらを窺った。そして、眉をひそめて叫んだのだ。
「何このアルルカン! 全然おもしろくない! すぐ考えこんで喋らなくなるし、質問ばっかりしてくるし! きもちわる! 変なの!」
そうしてどこかへ走り去っていった。アーサーは仮面をもった手をだらんと下ろした。リリーは、こんな風に笑ったりなんかしなかった。
リリーはどんなに長く沈黙しても、おれが再び話し出すのをずっと待ってくれていた。その目が慈愛にあふれていたのを、アーサーは思い返して、項垂れた。
愛は、自分にとって恐怖でしかなかった。何より自分に不釣り合いで不似合いで、縁のないものと思っていた。それがまた、苦しくもあった。皆がもっているはずの親から受ける無償の愛、友情、愛情。どれも自分には無い物。でもそれを得るために努力するにも、あんな腐った両親からもらったこの心体では適わないだろう。だから。理想の人間としてもうひとりの人格を作った。
それが彼にとってのアルルカンであった。
理想像として打ち立てたアルルカンは彼にとって何よりの支えであった。彼の性格はひねくれ、ジャンヌの言うよう破綻していた。それは最近まで変わらなかった。そんな自分を変える努力をする代わりに、仕方のないことだと受け入る努力をした。そうしてアルルカンの仮面を被っている間は、なりたい自分――欲しい物を手に入れられる自分を作り出した。アルルカンになると、不思議と友達に優しく出来た、親を愛する心がうまれた。観客をいとおしいとさえ思えるようになった。彼は自分が愛を手に入れたのだと思った。そうして仮面を取ると、それらは幻想となってたちまち彼の前から霧散してしまうのだった。そこで彼は思う。これは、仕方の無いことなのだと。
彼が愛に拘るのは、ひとえに彼がそれに羨望を抱いていたから。
彼は誰よりも愛という存在を罵倒し莫迦にしながら、誰よりも愛に飢えていた。しかし愛を獲得できるのはアルルカンただ一人だけだった。だから、彼にとってアルルカンは唯一の拠り所であったのだ。――なのに、それを壊すものがいた。彼はアルルカンの得られる愛に固執するあまり、新たに愛を与えてくれる、アルルカンではなくアーサー自身を愛してくれる貴重な人物を拒絶した。
「リリー……」
どこに行く当てもなく彷徨っていると、三角形の屋根が天高くまで聳え立つ建物の前にたどり着いた。細かい装飾が施されており、荘厳でかつ神秘的な雰囲気を纏っていた。注意して見てみると、その天辺に青の鐘がはめ込まれており、余韻に震えている。彼はその鐘を知っていた。いつも朝と夜の十二時を告げる鐘だ。アーサーは視線を落とし、重々しい扉が大きく開かれているのをみつけた。気まぐれだった。今更、神に祈るだなんて、今まで一度だって神の存在を信じたことない自分が教会にまで縋りつくとは。
「末期だな」
それでもいい。リリーの笑顔が帰ってくるのなら。そこまで考えて、アーサーは悟った。
自分はこれほどまでに、彼女を愛していたのだと。
――遅すぎると、心の中で誰かが言った。
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