第11話


            ◇◆◇


「フローラ楽長!」

 非常に焦った様子の団員たちが落ち着かない様子で楽長を取り巻いた。

「リリーがいなくなったの!」

 フローラは何も言わず、仕事場へと足を進めた。

「楽長!」

「それがあの子の選択だ。私らが引き留めることもましてや探すことなんてしてはいけない。放っておきな。あんたらはいつも通り仕事すればいいんだよ」

 冷たく突き放し、フローラは調理場へと足を向けた。早朝、昼、遅晩。食事作りは当番制にしてはいたが、自然と下働きの彼女に任せきりになっていた。仕方ない今日だけはとフローラは台所に立ち、はっとする。

 そこには、朝昼晩の三つの種類の料理が作り置きされていた。どれもすべて冷めてしまってはいたけれど、見映えはよく、美味しそうだった。実際、普段と同じようにどれも美味しいのだろう。リリーはいつ、これを作ったのだろう。ふと視線を向けると、パンプキンパイまでもが盛り付けてあった。――これは。フローラは綺麗に折り畳まれた包装を見て、静かに思う。

(渡せなかったんだね、リリー)

 そこから一本のリボンを抜き取り、そっと抱きしめた。

(別にあんたが嫌いだったわけではないんだよ、私も、皆も)

 もう伝えることはできないけれど。


            ◇◆◇


 馬車から降りたシャルルは幼い子供のように辺りをうろついては、あれは何これは何と忙しない様子で従者に数え切れない数の質問をぶつけていた。これはなにもこの街へ入ってからのことではない。馬車の中でも、王宮から一歩外を出てから既に質問の嵐にカルロは巻き込まれていた。すっかり興奮した王の姿に、カルロは人知れず苦笑する。こんなにも弾けんばかりに喜ぶのなら、もっと早く連れ出してやるべきだった――。黙って仮面を取るカルロを見て、シャルルは驚き目を丸め、じろじろと彼の顔を見た。

「なんだ?」

「いや。カルロが仮面を取ったところ、初めて見たから。――その目の傷はどうしたの? やられたの?」

「やったんだよ」

「え、それどういうこと?! 自分で傷をつけたってこと?」

「おいおい、もう質問はたくさんだ。勘弁してくれ」

「ねえどういうこと? 教えてよ!」

 尚もつっかかってくる王に、カルロは内心余計なことを喋ってしまった、と自分の失敗を省みる。王を適当に宥めながら、話題を彼の召し物にすり替えてみる。試みは成功した。

「一応お忍びだからな、召し物は庶民風になるわけだが。どうだ、着心地は」「何だかごわごわするよ」

「あと名前。いつもみたいにシャルルと呼んでもいいんだが、もしも勘の鋭いやつに気づかれたら色々面倒だからなあ。万が一の話だが、可能性があるならできるだけ避けといた方がいいだろ。いい感じに顔が隠れる帽子もあったから、これも被っとけ。で、なんだ。呼ばれたい名前とかあるか?」

「別に何もないけどなあ。じゃあマシュウで」

「なんで」

「さっき見た看板に書いてあった」

「うんじゃあそれで」

 輝く瞳であちこちを見渡す。カルロは一応尋ねてみる。「どっか体調が悪いとか無いか? 疲れてるなら早く言えよ。休む場所も探さないといけないからな」

「全然! 楽しくって仕方ないよ。……ね、僕らは今日劇団を見に行くんだよね? 面白いの?」

「まあな」

「君が言うならそうなんだろうね! 待ち遠しいよ、いつから始まるんだっけ?」

「教会の鐘が真昼を告げた時にですよ、ムッシュ・マシュウ?」


            ◇◆◇


 小さな少女が複数の男たちに囲まれ、ちょっかいを掛けられていた。人通りの少ない街角でのことだ。少女は何も反応せず、どこか違う方向を見つめっ放しで、男など相手にすらしていない。金髪に瑠璃色の瞳。その危うい雰囲気に思わず悪寒を感じた。何故だろう。

 いつまで経っても動かない少女に焦れた男たちがどこかへ連れて行こうとした。この寒空の下、早朝によくこんなことを。数少ない通行人はよくある事だと言いたげに見て見ぬふりをする。中には助けようとした人もいたが、少女はずっと無言を貫いているので助けを求められているのかさえ定かでない。それを見ていたピエールは、とある思いが頭を掠め、それが離れず、ついにはその集団のところへおずおずと近寄っていったのだった。周りのとりまきは不安そうに彼を見守っていた。なぜなら彼の体つきは貧弱で、とても腕っ節が強そうにもみえず、男たちの思うままに殴られるのが明白だったからだ。そしてそれは正しかった。その彼の騎士気取りが気に障ったのか男たちは容赦なく彼を殴りつけた。鼻が嫌な音を立てて、曲がった。ピエールは必死に頭を守った。蹴りが拳が飛んでくる。「逃げて」彼の叫びにも少女は動じなかった。ぼんやりとした瞳でこちらを見ていた。そこに何の感情も映っていかったことが、何より彼の心を乱した。怯えも恐れも、悲しみも何も無い。中身が空。穴のような目。

 しばらくして気が済んだのか男たちは唾を吐き、去って行った。周りの人々が弾かれたように助けを呼んだり、「大丈夫だったか」としゃがみ込み、手当してきたりした。ピエールはふと視線を上げた。そこには湖水のような静かな双眸で彼を見下ろす少女が。彼は力を振り絞って声を出した。

「アルテ……劇団に、行って、僕のことを」

 少女はここで初めてちいさく口を開いた。囁くような吐息のような声だったのにも関わらず、ひとつも漏らさず彼の耳に届いた。「どうしてたすけたの」

 少し迷って、彼は言った。「ごめん。……あんまり、格好いい理由じゃない。君を助けたくて、助けたんじゃないんだ。……今日は、劇団にとって大切な、いわば運命の日で、僕にはまだ、主役なんか……早くて。だから、君を助けて、ぼろぼろになって、大義名分を得て、逃げようとしたんだ。ごめん、ごめんね。君を、理由に使ってしまって」

「いいよ」 

 少女はわずかに首を振った。「きもちはわかるから」

「え……」

「あなたは逃げれたんだね。わたしは、逃げられなかったけれど」

 問い返す余裕も与えず、少女はどこかへ消え去ってしまった。

 食料の買い出しに出ていたサーシャが、血相を変えて彼に駆け寄ってくるのは、もう少しあとのことになる。


            ◇◆◇


「ピエールさんが、倒れました……!」

 劇場に駆け込んできたサーシャが先ほどの事件のあらましを告げたことにより、場が刹那にして凍りついてしまったのをアーサーは身をもって感じた。ジャンヌは口元に手をやり、どうしてよいか分からず立ち尽くしている。この場にルイスらはいない。彼は何人かの団員たちとリリーを探しに出掛けている。アルダシールも「大事な劇で自分が出られないのをみるのは辛いだろう」というアーサーの強い勧めで精神病を主に取り扱っている医師に診てもらうために隣町へ早朝に出発してしまった。この日のために働き詰めとなった団員たちには特別に休みを与え、劇場にいる役者は数少ない。ジャンヌの顔はすっかり青ざめ、絶望の色をたたえている。

「ちょっと、どうするのよ今日……。即興劇だからって今更劇の内容まで変更することなんてできないわよ、だって私たち『ピエロットの悲恋』用の練習しかしてないもの――。主役がいない劇なんてありえない、一体どうすれば――」

 アーサーははっとしてブルーノに振り返った。

「副団長はピエロット役できないのか?!」

「無理だね」

 ブルーノはすぐさま否定する。「俺はパンタローネしかできない。なぜなら俺の役作りが、お前らみたいな〝創り上げ〟の形じゃないからだ。俺は俺自身をパンタローネとして動かしている。だから、演技はぶれない、パンタローネという役限定でな」

「うそだろ……」

 言葉を失うアーサーに、ブルーノは自嘲ぎみに嗤った。「つっ立ってるだけでいいんならやるけどな」

 それにジャンヌが半ば悲鳴のような声で否定した。

「だめよ、ブルーノさんはいつもパンタローネの役で出てるわ。観客は王様だけじゃあないのよ! 皆、変に思うに決まってる!」

「それに体格もおかしいからな」

「笑ってる場合か! 開演まで全然時間が残ってないんだぞ! 客はもう中に入ってる。――王もその中にいるかもしれない。今から団員が出て行って誰かを捕まえに行くにしてもまず間に合わない……。くそ、何でこんな時に限ってピエールのやつは!」

「ピエールを責めたって仕方ないじゃない! 不慮の事態のことを考えなかったあたしたちのミスだわ。誰も責めることなんてできない――」

「最悪サーシャを舞台に上げるか?」

「そんな! 絶対無理ですよ! その場で卒倒してもいいんですか――!」

 アーサーは唇を血が滲むほどに噛んだ。どうしてだ。あともう少しだったのに。どうして。出世への成功への幸せへの道が、今すぐそこに見えているのに。こんな機会もう二度と恵まれない。どうする、どうする――。


 そんな時、皆の集まる楽屋の扉を、控えめに叩く音が聞こえた。アーサーはもしかしてルイスたちが帰って来たのかと扉を開けると。そこには。

「アーサー」

 わずかに口元に笑みを浮かべた少女の姿が。

「リ、リ、なんでこんなときに――」

「うん。大変なときなんだよね。わかってるよ」

 そうして、リリーは子供のようにおおきく首を傾げた。「それで? 今日は何のおはなしをするの?」

「ちょっと何この子、相手してる場合じゃ――」

「黙れ!」

 アーサーは怒鳴った。それを見たブルーノが、何を思ったのか演目の話を説明し出した。ジャンヌとサーシャは部外者相手に何をしているのかと全く理解が追いつかない。リリーは頷いて、アーサーを見た。

「できるよ、わたし。ピエロットの役」

 ブルーノ以外のそこにいる者は全て声を失った。唖然として少女に一直線に視線を向ける。リリーは少し息を吸って、演技した。

「『あの満月の月が落ちてきたらどうしよう。ぼくの体は、ぐしゃぐしゃに押しつぶされてしまうのかな。それとも、ぼくの体に触れた途端、一緒になって溶けてしまうのかな。それとも落ちた瞬間に空気と同じものになってすぐさま消えてしまうのかな。ぼくだったらどうしよう。そうだな、一瞬のうちに消えてしまいたいかな。どちらかと言えば空気よりも、水に溶かしてもらいたいな』」

「見てよあれ……、この前アルダシールさんがやってたピエロットの台詞と全く同じ――」

「動きも一緒ですよ――。信じられない、もしかして教えてもらったんですか? まさか全部見て覚えたなんて――」

 リリーは動かしていた体を止めて、にこりと微笑んでみせた。

「見て覚えたんだよ。だってずっと見てたもの」

「嘘だ……」

 これには誰よりもアーサーの方が戸惑ってしまった。あそこまでの演技を数回見ただけであれほどまでに再現できるだなんて――。そこで彼の脳裏に才能という文字がよぎる。恵まれない事柄に対する才能。夢に要る才能以外いらないと涙を浮かべた彼女を思い出す。

 ブルーノは彼女の細い肩に手をやり、頷いた。

「君に、ピエロット改め、ピエロッタ役をお願いしたい。頼む、我々を助けると思って。勿論、礼はするつもりだから」

 リリーはブルーノや周りにいる人々を一切視界に映すことはしなかった。ただ、一人。彼だけを見つめて。

「やります」

 そして視線を落として。「それに助けてもらったから。お返し」

 彼女の了承を受け、それを合図に人々はめざましいくらいに動き始めた。リリーは白いだぼだぼのピエロッタの服を着させられた。顔には真っ白の、仮面。黒のアルルカンとは対照的な白。心配そうに窺うアーサーにリリーは小さく手を振った。そして舞台と観客席とを区切る布の後ろに立った。もうじきに幕が上がる。劇開始を知らせるラッパが構えられる。アーサーは一言だけ口にした。

「おまえは立ってるだけでいい、あとはおれが何とかするから」

 そしてラッパの音色が、高らかに響いた。


            ◇◆◇


「ああ、白い花。ああ、白い空。ぼくの心もこんな風に真っさらにいられたら。夢想しすぎ? 詩的すぎ? それでもいいさ、それがぼくだもの。月と華と雪がすき、それがぼくだもの」

 舞台はまず、主役であるピエロッタの台詞から始まる。そこにアルルカンがやって来て、暇つぶしに彼女をからかうのだった。久しぶりだな。最近どうだ?

 そしてここで、アーサーは致命的な失敗を冒す。 

「好きな女でもできたか?」

 今までピエロットに対して練習をしていたため、その癖が抜けずにピエロッタに対し恋慕の相手を同性に向けてしまったのだ。これにはアーサーも言い終わった後にすぐに気づいた。彼は自分の間違いを訂正しようと開口した瞬間、ピエロッタは観客の方へ体を向けて、内緒話をするかのように両手を口にあて、独白した。

「実はね、アルルカンはぼくのことを男だと思っているんだ。ぼくっていう一人称のせいかな? もちろん、皆ご存知のようにぼくは女なんだよ? 可笑しいよね! おもしろいからもうちょっとだけ黙ってようかなぁ」

 アーサーは呆然とする。即興。それも、物語の筋を大幅に変えてしまうほどの即興。舞台裏からジャンヌが小声で彼の名を呼んだ。そこでようやく我に返って、練習通りに物語を進めていく。

 いい女がいるとアルルカンはピエロッタに、コロンビーヌという女性を紹介する。ピエロッタは面白がってその女性に恋をしたと告げる。それに気をよくしたアルルカンは、では自分がその仲介役、二人の愛を繋いでやろうと申し出た。その辺りから、だんだんピエロッタの表情が曇っていくのが、観客にも伝わってきた。「どうしたのピエロッタ!」「何かあったの?」口々にそんな声が飛んでくる。それにピエロッタは、俯きながらもこくこくと頷きを返している。アーサーにも彼女の意図が全く伝わっていない。しかし、何度も尋ねてみても「だいじょうぶ」と返されてはそれ以上掘り返すことはできない。流れに、リリーに任せる他無かった。

 ついにピエロッタはコロンビーヌと対面する。が、コロンビーヌには違う男が好きだから諦めてくれと告げられる(ここまでも筋書き通りだ。しかしジャンヌの顔にも不安の表情が浮かんでいる)。ピエロッタはそれを彼に告げ、そして、

「ねえ、アルルカン?」

 何かを告白しようとした。アルルカンは彼女の言葉を心から待った。が。

 そのときに、コロンビーヌの前に勢いよく馬車が突っ込んでくるのをピエロッタは目にしてしまう。「危ない!」次の瞬間には自分の身を擲ってコロンビーヌの命を助けた。その代わり、彼女自身は命を落としてしまうこととなる。アルルカンはピエロッタに駆け寄り、抱きかかえた。

「大丈夫、お前の意思はきちんと受け継いでみせるから」

 この台詞に、彼女は彼の全く予期していなかった演技をみせたのだった。

「アルルカン……実はね」

 目の奥の瞳が、涙に覆われて、そうしてこぼれ落ちた。

「実はぼく、ぼく、きみのことがすきだったんだあ」

「な」

「ぼく、実は、女なんだよ? なのにきみ、ずっとぼくが男だと思っててさあ。ちょっと意地悪しちゃった、ごめんね? コロンビーヌさんはね、きみのことが好きなんだって。きっと幸せになるよ。幸せにしてあげなよ。ぼくの分まで。ぼくの命の分まで」

 そうして彼の首に手を伸ばし、そっと抱きしめた。

「さようなら」

 ピエロッタは息絶える。アルルカンは呆然として辺りを見渡す。するとコロンビーヌが静かにこちらへ近寄ってくるのが見えた。彼女なりの即興であり、助け船でもあった。そして彼女もまた膝をつき、アルルカンを抱きしめた。

「あなたは私たちの橋渡し役のつもりだったのかもしれないけれど。彼女の方がよっぽどすてきな恋の天使だったんじゃないかしら」

 このままでは悲劇的に終わってしまう。あくまでアルテ劇団は喜劇を。アーサーは瞬時に考えた結果、会場いっぱいに響き渡るよう大声で高く笑うことにした。滑稽に、自らの愚かさを自嘲しながら。狂気に、頭がおかしくなったかのように。悲嘆に、犯した過ちの大きさに涙する。

 その笑い方は聞いているとだんだん可笑しさがこみ上げてくるほどに滑稽じみていて、観客たちの中で次第に笑いの渦がうまれていった。ジャンヌはほっと安堵する。幕が下りる。惜しみない拍手が彼らに送られる。姿がみえなくなってもまだ、彼の笑い声は響いていた。それが演技ではなく、自然と出てきたものだと知ったら、人々はどれほどの驚愕を表すだろうか。


 シャルルは大いに感動し、周りの観客たちと同様に立ち上がり、拍手を贈った。本当に、素晴らしかった。彼はカルロに話しかける。

「凄かったよカルロ、本当に、よかった」

「それは何よりだ」

「――ねえ。彼らをいつか僕の宮殿に呼びたいな、いいかな、ねえカルロ?」

「勿論だよ。……また、手配しておくからな!」

 シャルルは無邪気に笑った。

「ありがとう! そのときはね、是非、仮面を取るように言ってくれる? 僕、彼らの顔を見て劇を見たいな。折角素晴らしい劇を見ているんだもの、その人の顔を見て楽しみたいもの」


 幕が完全に下り切ったのを確認してから、ジャンヌはすぐさま体を離した。しかし、リリーはしばらく彼にしがみつくようにしていた。ジャンヌが促すと、彼女は少し駄々をこねるようにしたが、すぐに立ち上がり、仮面を取り、アーサーを見た。

「どうだった?」

 これにはアーサー以外の団員たちが声をそろえて返事をした。

「素晴らしかったっ!」

 サーシャは涙し、ブルーノは嬉しそうに笑っている。劇の途中に帰ってきたルイスは彼女に駆け寄り、感動とねぎらいとを同時に口にした。

「リリーちゃん! 君のことをずっと探していたんだよ、……大丈夫、だった? でもここに君が戻ってきてくれて本当に良かった――。ピエロッタという女性の立場を利用して、物語をより深いものに展開してくれたんだね、そのお蔭で悲劇的な表情を持つ喜劇として、とっても素晴らしい劇となったよ。ありがとう、きみはこの劇団の救世主だ――本当に、ありがとう」

 団員たちが輪をなす中に、アーサーの姿はなかった。 彼の心中では激しい思いが胸の内でせめぎ合っていたから。動けず立ち尽くしていたのだ。

自分が貶し、侮っていた少女が今、自分を絶望的状況から救い出してくれた、 その事実に対する羞恥、申し訳無さ、自分への憤り、罪の意識、そして激しい後悔。彼女はいつだって優しく、こんな人間として最低な自分に繰り返し歩み寄ってくれた、なのに。おれは彼女にどう接した? 差し伸べてくれた手を何度も拒んで、あろうことか暴言を浴びせかけて滅茶苦茶に言葉の刃を振り回し、彼女の心にいくつもの深い傷を、刻みつけて……! 

 自分は彼女に対してなんと非道なことをしたんだろう。今になって悲痛なくらいの後悔に苛まれた。

 彼は、自分が彼女の演技に魅了され、心奪われたことを痛感し、そのことを言い訳なしに素直に認めていた。ここに素直さが出てくることで、彼が今に至るまでいかに真摯に芸事に打ち込んできたかがわかるだろう。

 また同時に、彼女の慈悲深さに心から感謝する気持ちも強く抱いていた。何より自分を絶望的苦境から救い出してくれたこと。そのことへの純粋な有り難み、喜び。――なんて身勝手な話なんだろうと非難されて当然だ。むしろ非難しない方がどうかしてる。今までしてきたことを思い返せば、そんなこと、口が裂けても言えるはずがないのだ。けれど。彼はどんなに口汚く罵られようとも、自分の中に目覚めた思いを、二度と拒むことはしないだろう。否、もう、できないのだ。ようやく彼女によって自分の抱えていた真実に気づかされた。知らないふりはできなかった、その思いが持つ温かさに、触れてしまったあとでは決して。――彼はここで初めて、彼女を愛するという気持ちを解することができたのだ。それも揺るぎない、確固たる愛を。もう否定しない、嗤ったりしない、あとは受け入れるだけ。それは彼が思っていた以上に簡単で、幸せなことだった。

(一生を賭してでも、謝罪し続けよう)彼は決意する。(受け入れられなくても構わない。むしろ当然だ。あんなことをしておきながら、今さら、愛してるだなんて。都合がいいにも程がある。でも)

(今日、助けてもらったから初めて好きになったというわけじゃない気がするんだ。そう、今日の出来事で初めて胸の内にあったものを気づかされたみたいな……)

(正直に言えばまだよくわからない。だって、初めて、人を愛したのだから)

(でも。もしかしたら。おれはきみの歌を聴いたときからずっと、本当はずっと――)

「リリー、」

 アーサーはぎこちない笑みで彼女の名を呼んだ。もう仮面は必要ない。アーサーとして彼女に語りかける。

――彼女になら、自分の過去だって話せるかもしれない。いきなり全部は、無理かもしれないけれど――。

 衣装を着替えたリリーは小首を傾げた。ざわついていた辺りが静まりかえったのがわかる。アーサーは一語一語区切るように言った。

「少し、話がしたいんだ。いつもの場所で。いい、かな」

 程無く、返事が返ってきた。

「いいよ。わたしも話があったから」

 二人は歩き出し、劇場をあとにした。二人が去ったあと、場は待ちかねたようにざわめき始めた。

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