第2話
◇◆◇
帰ってきたアルルカンに、同じアルテ劇団の団員らの質問が素早く飛び交った。今まで何してたの。えらく遅かったじゃない。何か悪いことがあった? お前のことだからどうせ、適当な場所でズルして休んでたんだろ?
その中でも低く野太い声が響いた。
「ずいぶん遅かったじゃないか。遠くまでご苦労様ってところか?」
その声の主である太鼓腹の男は、酒がなみなみ注がれたコップを片手に、彼に話しかけた。アルルカンは肩をすくめて「疲れてるんだ。きみが客を取れない分をぼくが補わなきゃいけないからね」と嫌味っぽく返した。
そしてアルルカンが部屋へ下がろうとした時、
「そうだよ、こんな遅くまでお仕事なんて珍しいじゃないか。何かあったの?気になるな。理由を教えてよ」
目の前にひとりの青年が立った。歳は道化師と同じ十八歳くらいだろうか。アルルカンは渋々名を呼ぶ。
「エヴァンズか」
「ちょっと、その呼び方嫌だっていつも言ってるでしょ――ってまあ、今はいっか。どうしてこんなに遅くなったの、アルルカンさん?」
道化師は沈黙して、無理やりにでも進もうとした。しかし穏和そうな青年が、にこやかにその進路を遮った。眉を顰めるアルルカンに、青年は言う。
「質問に答えたら。通してあげる」
「……残業だよ。ただの残業」彼は適当に話す。「女の子が一人で泣いてたから、慰めてたんだ。それに時間くっただけさ」
「へえ? 君が誰かを泣き止ませるのに時間がかかるとは。意外だな。いつもの君ならどんな子でも一瞬で笑顔にしてみせるのに」
「別にいいだろ」
「ふうん?」
「――早く退いておくれ、ぼくは寒いんだ。このままでは風邪をひいて、稼ぎ頭が不在になるぞ? いいのか? 商売あがったりだぞ?」
そう詰め寄られ、青年は素早く身を避けた。彼はすぐさま奥へと引っ込む。
「アーサー、早く仮面取りなよ」
先を行く足が止まった。声が、刹那にして凍てついてしまったかのように冷えた。
「――仮面を付けてる時は、その名で呼ぶなって言ってるだろ」
「はいはい」
青年は立ち去る彼を見送った。そして後ろ指をさす。
「僕の要求は認められないのに、アーサーの方は認めなくちゃいけないってひどくない?」
太鼓腹の男が大口を開けて笑い出した。
「莫迦だなあ、ルイ。あいつの機嫌が悪い時に絡むからさ」
◇◆◇
アルルカンと出会った日の夜、宿舎に帰ってからも始終落ち着きの無かったリリーに、楽員たちは好奇心をむきだしにして彼女を問い詰めた。今まで何してたの? 急に飛び出すからびっくりしたのよ。何かいいことでもあった?
それらの質問にただ一言。リリーは高らかに宣言した。
「わたし、劇を見に行くのよ!」
そして飛び切りの笑顔を咲かせた。
「とある人から、チケットを貰ったの。わたし今から楽しみで待ちきれないのよ――とっても素敵な劇なのよ、見なくてもわかるわ、だってあの人が出るんですもの。素晴らしいに決まってるわ――」
フローラ楽団に所属する者たちは、楽長の意向でほとんどが女であった。楽長によると、単純に娘が欲しかったからという理由らしいが、実際のところ詳しいことは伝えられていない。ただ、楽長の過去が深く関係しているということだけはわかっていた。
また、フローラ楽団多くはこの街に住んでいるので、夜になると皆、それぞれ自分の家に帰っていく。しかしリリーを含めた何人かの団員たちは、身ひとつでルテジエンにやって来たのだ。そんな彼女らのために楽長が、友人に頼んで用意してもらった宿舎があった。そこを使わせてもらって、彼女らは仕事を分担しながら生活していた。リリーはその中でも一番年下であったので、皆から妹のように可愛がられていた。
ベッドに腰かけて、じっとチケットを見つめ続けるリリーに、姉代わりである女たちが近づき、何があったのか、特に誰と会ったのかとしきりに尋ねてくる。彼女らにはもうリリーが『素晴らしい殿方』と出会ったのが、女の勘のようなもので既にわかったみたいだ。甲高い声により辺りが騒がしくなる。
その中でもアニスとエウリカという、リリーと特に親しい二人がじゃれるように身体を密着させて、尋ねてきた。
「ねぇそれ、実は誰か素敵な殿方から貰ったんじゃなくって? じゃないとこんなに大はしゃぎするはずないものね」
「私もそう思う! ほらリリー、隠してないで白状なさい。姉様たちには全てお見通しよ。一体、どんな方から頂いたの?」
じわじわと伸びてくる二人の魔の手から逃れようとベッドを飛び降りるリリー。――何となく、あの夜のことは自分と彼だけの秘密にしておきたかったのだ。
しかし、結局は姉達に捕まり、ほとんどのことを告白させられたのだが。――ただ、彼が自分に掛けてくれた言葉は決して口には出さなかった。せめてもの抵抗といったところか。
リリーは寸劇を見るこの日の為に、溜まっていた仕事をすべて、完璧に片付けてこの場所へやって来た。辺りは、最近引っ越してきた劇団であり尚且つ子供の料金は無料、ということもあって大いに混雑し、騒然としていた。
アルテ劇団の劇場はドーム型の建物で、比較的新しいものだった。劇場の周りは、花やリボン、バルーンなどの彩やかな飾りでうめ尽くされており、華やかな雰囲気を見事に作り上げていた。
高鳴る胸に手をあて深く深呼吸してから、リリーはゆっくりと人だかりの中に入っていく。そこからは人の流れに身を任せ、少しずつ劇場の方へと進んでいった。
扉の前では仮面を被った団員が、チケットの受け取りを行っている。ようやく扉の前に出て来て、その人におずおずとチケットを渡すとそれは無造作に回収されそうになって――咄嗟にリリーはその紙を譲ってくれと声を上げた。団員に怪訝そうな表情をされたが、リリーは気にしなかった。
(一生の宝物にしよう)
胸に抱きながら、リリーは思った。
中に入るとそこは、奥にある舞台を中心に、円を描くように観客席が設けられていた。すり鉢状になっているので、席は舞台をまさしく真上から覗き込めるようになっており、これによりどの席からでも十分演劇を楽しめるようになっていた。現在、舞台は分厚いカーテンによって仕切られているが、向こうの方でおそらく団員たちが忙しなく動いているのだろう、朱の布が気紛れに翻る。
辺りは常にざわめき、人々の興奮が辺りへ次々に伝播しているのを直に肌で感じた。リリーもそわそわと指定された席に行き、腰を下ろしたもののしきりに佇まいを直し、落ち着かない様子だ。劇場に足を運ぶのはおろか、何かの見せ物のチケットを得たことさえ初めてだった。彼女がどれほど夢に打ち込んでいたのかがわかるだろう。
リリーは視線を忙しなく動かした。隣の席には、彼女よりも小さい子供たちが楽しそうに話をしている。ふとその会話に惹かれて耳を立てていると、そのうちの一人がじっとこちらを見つめているのに気づいた。
「おねいさん、初めましての人?」
無邪気に尋ねられ、リリーは戸惑いながらも頷く。「え、ええ」
「へー、そうなの。ま、どうでもいいけどね」
訊いておいて何だといわんばかりの態度に、リリーは少なからずむっとする。そしてちら、と彼らの身なりに注目する。宝石のうめこまれた生地の服に、ふくよかな体型。金に不自由しない家庭の子達である様子。きっと、この劇団以外にもありとあらゆる娯楽をめいっぱいに楽しみ、満ち足りた生活を送っているのだろう。それを思うと、いささか――いや、かなり羨ましかった。そんな彼らを恨みがましくみつめていると、それを察したのか子供たちが大声で騒ぎ出した。否、彼らは彼らの考えでしか動いていなかった。これはこれくらいの歳の子なら誰しもそうだろう。
「おねいさんはきっと初めて来たばかりでよくわかんないから、ぼくたちが説明してあげよっか!」
あまりに見当外れな発言に思わず苦笑するが、そういえば物語や登場人物さえも知らなかったことを思い出し、せっかくだからと彼らの申し出に甘えることにした。
「初めてだもんね、ちゃんと分かってないと楽しめないしね、任せてよ! ぼくら、アルテ劇団が違う国にいた時から通ってたからよく知ってるんだ!」「え、なになに、何があったの?」「このひとにアルテ劇を教えてあげるのさ」「じゃあまずはキャラクターから説明しないとね!」
矢継ぎ早に飛び交う会話に戸惑うリリーを放って、彼らは思い思いに話し始めた。
「今日の話は『女神の像』ってお話だよ」「サンタっていう教会にいる男の人――何だっけ?」「司祭さん」「そうそう、その司祭さんが出て来て女神像に悩みをいう」「パンタローネっていう、悪者がいるんだ。金持ちの商人で、髭が生えた仮面を被ってる。そいつがサンタを騙す。あ、でもその前にはさ――!」「あのね、コロンビーヌって女のひともいるんだよ! すっごく美人できれいなひと!」「ばか、今日は出て来ないだろ」「いや、ちょっとだけ出るよ、ほら、最後の方で」「あ! ネタばらしだ!」「あっ」
各々盛り上がる子供たち。リリーは必死に理解しようと頭を働かせるけれどあまりの会話の早さについていけず、ましてや子供同士の会話なので常に話題が転換し、大きく脱線するので教えるどころの話ではない。
ついにはどのキャラクターが一番好きかに論点が移ってしまった。
――その時。
ブオゥ、と低いラッパの音がした。リリーははっとして音の方に顔を向ける。開幕の合図だと子供たちがざわめく。舞台の幕が徐々に上がっていく。ちいさな子供たちだけでなく周りの多くの観客達が、一斉に割れんばかりの拍手と歓声を上げた。リリーは手を叩きながら期待に胸を高鳴らせた。
幕が完全に上がった。
広い舞台の上には、羽根の生えた女神像が置いてあった。これが、今回の劇の鍵になるのだろうか。すると像の方へ向かって司祭の格好をした一人の男性が歩いていった。その様子は深く何かを悩んでいるようで、「ああでもない。こうでもない」としきりに独りごちている。
「あれがサンタだよ」
子供の一人が耳元で囁いた。
「うん、わかる」
彼女は大きく頷いてみせた。
サンタの独白から物語は始まった。
「――ああ、神よ。天に召します我等が神よ。この世はとかく難しく、わからないことが多すぎる。正しい道にいざ進もうとしても、道を違わせようと悪がはびこる世界。惑わされまいと思っても、悪は時に大義名分を得て、悪を正義と思わせてくる。正しいと思うものが、実は正しくない。真理だと思ったものが、実は虚偽の塊に過ぎなかったりする。ああ、どうかひとつ、明白な揺るがぬ真理を示して頂けたら、どんなにか、どんなにか心が安らぐでしょうか。それが得られれば私は、迷うことなく貴方様を信じ、命を賭してでもその道をゆこうとそう思いますものを……」
そしてふらふらと覚束ない足取りで女神像の前で跪き、祈る。
「どうか私めに揺るがぬ道をお示しください」
そこで、新たな役者が物語の中へと入ってくる。
「……おや、なんと。素晴らしく良い事を聞いた!」
耳に手をあて、ぐっと重心を前にかけてサンタの言葉に頷き、わざとらしくこちらにウィンクを寄越す道化役。彼女は彼を知っている。彼から自分の姿は見えているだろうか。リリーは息を大きく吸って彼の名を呼ぼうとした、
(わたしは、ここにいるよ)
まさにその瞬間。
「アルルカンだっ!」
それこそ最初の割れんばかりの歓声と同じくらい、いやそれ以上の音量で場内が大いに沸いた。きっとこの劇を観ている客らはアルテ劇団を古くから知っている者たちばかりなのだ。リリーは出後れてしまったように感じ、開きかけていた口をそろそろと閉じた。そして力無く俯く。膝の上においた手を強く握る。――わたしだけの道化師ではなかったのだ。当然だ。どうしてそんな誤解を起こしてしまっていたのか。彼が掛けてくれた言葉はすべてあくまで〝道化師〟としての言葉だったのだ。
(ばかだ、わたし)
途端に彼が遥か遠い存在に思えた。
隣の子供たちが興奮気味に「あれがアルルカンなんだよ! すっげえ面白いの!」「たまに格好いいんだ! でもいっつもドジを踏んじゃうんだ」「この劇団一の人気者なんだよ!」と盛んに騒ぐのに、今度は顔を火照らせてちいさく頷いた。自分の身の程知らずさにたまらなく恥ずかしくなった。勘違いも甚だしい。彼にとってわたしは、どこにでもいる客の一人だったのだ。……わたしにとっては――違ったけれど。
「どうかした? おねいさん」
「……ううん、なんでもないよ」
今すぐにここから逃げ出したく思った。でもせっかく彼が招待してくれたのだ。せめて最後まではと思い直してぐっと前を向いた。
舞台の上で道化役のアルルカンは、悪知恵を働かせてサンタの言う『神』とやらになりきることにしたところだった。つまり女神像の後ろに隠れて、サンタに〝神のお告げ〟を行う。しかしそのお告げは、すべてアルルカンの欲望を満たすためのものだ。
女神像なので、アルルカンは甲高い声で応えた。その声もまた可笑しくて、劇場は大きな笑いに包まれる。
アルルカンはサンタに食べ物や服、宝石や金そのものを順に要求する。それを神の言葉だとすっかり信じ込んでしまったサンタは、疑いもせずにアルルカンが望んだものを用意し、渡していった。
「こりゃあいい!」
アルルカンはすっかり有頂天になって、帰路へと急ぐ。が、途中でパンタローネという、金儲けに目のない老商人と出会う。彼の両手いっぱいに抱えた金貨を見て、それをどこで手に入れたのかをしつこく問い詰めてくる。興奮し口調が荒くなるパンタローネも意に介さず、アルルカンは飄々とその場を後にしようとするが、何か思いついたらしく、態度を一変させて懇切丁寧にその金儲けの仕掛けを教えてやった。それを知ったパンタローネは疑う素振りも見せずに早速実行しようとするが、それを押し留めて少し時間をあけるように指示し、アルルカンはというと狙われた司祭のもとへと急いだのだ。
彼は善良人を演じ、サンタに告げる。
「司祭さん司祭さん、お気を付けなさい。貴方の金をパンタローネが狙ってる」
「なんですって!」
彼から話を聞いて驚くサンタだったが、アルルカンは持ち前の悪知恵をもってして、パンタローネを罠に嵌めようとするのだった。
「すべてはぼくに任せなさい。ぼくがきっと、好いようにしてあげよう。貴方は、パンタローネの言うことを従順に聞いてあげる振りをするんだ。いいね?」
そして場所を変え、再びパンタローネのもとへ戻ってきて、告げる。
「きみはまず、司祭に大きな箱を用意させるんだ。とっても大きな箱だよ? そうだな鍵つきのがいいね。とびきり頑丈のやつだ……。それから中身が空か、きみがちゃぁんと確認してから、金を入れさせるんだ。いいね?」
二人は彼の指示通りに動いた。女神像の前には大きな箱が用意される。少し確認するから席を外すようパンタローネは彼の言った通りに命じて、ひとりになってから箱が空かどうかを確認するために、ぐっと身を乗り出し覗き込んだパンタローネ――の後ろから、物陰に隠れていたアルルカンが登場する。それを見た観客は各々にその場に立つキャラクターに向かって言葉を投げ掛けては笑い転げている。役者たちはそれらの声に対して とぼけてみせたり、静かにしろと口に指をあててみたり振る舞って即興的に応える。そしてついに、アルルカンはパンタローネの広い背中を思い切り押してやった。パンタローネは悲鳴を上げながら箱の中へ飛び込む形となり、最後にアルルカンらは二人がかりで蓋を閉め、鍵を掛けて閉じ込めた。アルルカンはサンタから今まで以上に高額なお礼の金を受け取り、話は完結した。
幕が下りていく間も下りてからも、人々は興奮冷めやらぬようで、拍手に負けない皆の笑い声が辺りに響き渡り、おさまる気配がない。リリーは笑い涙を拭いながらもそのことに深く感動し、拍手を送った。
「楽しかったね! おねいさん、また来る?」
「ええ、ぜひまたね」
「じゃあ、今度もいろいろ教えてあげるよ!」
そう言って帰ってゆく子供たちに手を振って、もう一度だけ劇場を見渡してから外へ出た。
外には先程まで舞台に立っていた役者たちが見送りに出てくれていた。リリーは役者一人ひとりに、丁寧にお辞儀をしながら前へと進んでいく。
「あっ」
目の前に探していた道化師の姿が見えた。リリーは彼に、今日の感想を少しでも伝えたくて急いで彼のもとへと駆け出した。――が、彼の周りには既に多くの人が集まり、一種の壁を作り出していた。それも。彼を取り囲んでいるのは、豪華な洋服に身を包んだ女性たちばかりであった。リリーは自身の粗末な服と女性とに目を交互にさせて、自分の立場を知った。身分違い。場違い。自分がひどくみじめになって、たまらず逃げ出した。道化師の横をリリーは駆け抜けた。
あとから振り向いたところでもう遅い、彼女の姿はすでに人混みに紛れてしまった後だった。
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