道化師のアリア

黒坂オレンジ

第1話


            ◇◆◇


「わっ」

と、突然、隣に座っていた青年が泣き出しました。

あまりの急なことに私は驚いて思わずそちらを見やり、青年に声を掛けました。すると彼は「大丈夫だ」と、こみ上がってくる嗚咽を必死に押し殺そうと唇を噛み締めました。けれども、うまくゆかずに声はその間からうっうっと漏れているのです。まあ、彼が大丈夫だと言うのならと、私はそのまま怪訝な思いを抱えながらも放っておきました。

青年の泣き声は大きくなることはありませんでしたが、止むこともありませんでした。

私はそっと彼を煩わしげに一瞥してみるのですが、青年は始終俯いているのでそれに気づくことはありません。私は息を吐きました。仕方ない、彼のことは放っておいて自分は舞台を楽しもうかと意識を向けるのですが、どういうわけだか一度気にしたものは気になり出すと、なかなか注意が逸れず、傾けた耳がまたも彼の泣く声を拾ってしまうのです。ふと視線を上げると、彼を挟んでちょうど私と反対側に座っている客が、青年を迷惑そうに窺っていました。視線が合うと互いに苦笑し軽く会釈し合ってから、私の負けだとばかりに青年の震える肩を叩きました。

「ムッシュ、いかがなさいましたか?」

 すると彼は私の言葉に何度も頷きを返しました。けれども一向に泣き止む気配はないのです。

「大丈夫ですか? ご気分がすぐれないのですか?」

 全く、とんだ迷惑だと私は思いました。はるばる田舎からこの遠い街まで足を運び、念願だったフローラ楽団のチケットを手に入れ、意気揚々と音楽会へと足を運んだというのに。なんという不幸。

――いや確かに、この楽団の音楽は素晴らしいと思うけれど、それに感動したにしてはあまりにも泣き方が激しすぎやしないだろうか――?

「あの、本当に、すみません。うるさくして」

と、ようやく声が返ってきました。

「大丈夫ですか?」

「はい。……つい、こらえきれなくて」

「そんなにいいですか、彼女の歌は」

 青年は私の言葉を受けて、涙で濡れた顔を上げ、舞台に立つ一人の歌い手に目を向けました。そうして眩しそうに、その歌い手を黙って見つめるのです。

舞台の上に立つちいさな少女は、観客の視線を一身に浴びながら、高らかに澄んだ歌声でうたっていました。情感のこもった 温かな声色、可憐な姿、そして何よりも。人々を慈しむような優しい愛ある眼差し。

彼はそっと囁きました。

「俺はこの日を、決して、忘れないでしょう」

青年はかすかに微笑んで、静かに涙を流しました。その晴れ晴れとした彼の表情に、私は思わず息を呑みました。彼がとても貴い存在のように思えたのです。その瞳にたたえられた情熱の色を目にしたからでしょうか。

舞台の上の少女が、観客一人ひとりに向けて笑顔を贈っています。その視線はついに我々のところにもやってきました。するとなぜか、歌い手は青年の方を見て、一呼吸、間が空きました。彼と彼女は短い間ではありましたが、優しく見つめ合っていました。

その時私は、二人は知り合いか何かなのだろうかなと不思議に思っただけでしたが、後々噂で偶然にも二人の苦難に満ちた壮絶な過去を知ることとなり、そこで初めて私は彼の涙のわけを知ったのです。


私は、あの清らかな涙を不快に思った自分の愚かさに、ただただ恥じ入り、赤面するばかりでした。


            ◇◆◇


<百合の国>という豪華できらびやかな国に、ルテジエンという華やかな街があった。この街は、東西に流れるルローヌ川を境目に、北区と南区とで分かれており、橋を渡ると北と南とで風景がおおきく違ってくる。それを協調性が無いと批判する者もいれば、気に入り足を運ぶ者もいる。しかし、ルテジエンの見どころはそこだけではない。

北には広場、南には教会があり、それらを取り囲むように劇団や楽団、サーカスや見世物小屋といった娯楽を営む団体が多く点在していた。

そう。ルテジエンはこの時勢には珍しく、娯楽に関する商売に力を入れている街であった。その歴史は古く、評判の舞踊団や楽団などは、今でも高い評価を得ており、自国は勿論、他国からの高級貴族や騎士といった身分の人々までも足を運ぶほどであり、最近ではまた新たな劇団や新しい見世物が入ってきて、さらなる盛り上がりをみせている。


ルテジエンの夜を歩く、ひとりの道化師がいた。彼はつい先ほどまで北区の方まで足を延ばして、自身が所属する劇団のチラシを配っていた。成果はまずまずといったところか。日はすっかり暮れてしまっている。冬の訪れを感じさせる冷たい風が吹き、道化師の体温を奪ってゆく。道化師は足を速め、帰路を急ぐ。

すると、向こうの方からか細く声が聴こえてきた。最初は何かを囁いているように思われたが、注意して聴くとどうも歌をうたっているらしい。道化師はなんとなく興味がそそられて、そのままふらふらと、歌のほうへと引き寄せられていった。彼の行く道は人の少ない路地裏だったので足音がやけに響いた。煉瓦の道を革靴で歩いていたのだから尚更である。彼は歌い手を驚かせないように音を忍ばせ、慎重に進んでいく。

声の主はルローヌ川の橋の上に立っていた。路地に並ぶ街灯が、橙色の炎でその人影をぼんやりと照らしている。歌声はちいさくはあったが、優しい旋律のものであって、川のせせらぎと交ざり合い、安らかな気持ちにさせた。遠目からではっきりとわからないが、伏せられた瞳は慈愛に溢れ、声色がその人物の人柄を表しているように思えた。ウェーブがかった短い金髪を耳のあたりでふくらませた、かわいらしい少女だった。歳は十五、六だろうか。街灯の光を受け、俯き加減の横顔がもの寂しげに映る。

道化師はしばし立ち止まって、その歌に耳を傾けていた。それは初めて聴いた歌だったが、彼はとても気に入った。彼女のもの憂げな瞳にも、そそられた。もっと近くに行こうと一歩前へ歩み出た途端、まるでタイミングを計ったかのように歌が止んでしまった。道化師は不機嫌そうに眉を顰めた。そして建物の陰から橋の方を窺い見た。

架けられた橋の真ん中で、少女はアーチ状の欄干に腕をのせて、すっかり口を閉ざして川の流れを眺めていた。そうしてふと水に映った自身の顔の上にある、白銀の満月が視界に映ったのだろう、ゆっくりと空の月を仰いだ。

「今日は満月だったんだね」

響くソプラノは、やがて吐いた息とともに消えた。それを目を細めて見届けてから、置いた腕に顔をくっつけて再び川の流れに視線を戻す。

少女は寒い夜であるにも関わらず、透きとおった生地を幾重にも重ねて作られた薄いドレスの上に、適当に上着を羽織っているという出で立ちであった。急に外へ出てきたのだろう。体が小刻みに震えている。

少女のちいさな手や、形はよいが薄い唇、ちいさな耳や、低めの鼻も、――そして月の光を受けて輝く瞳も、どれもが一様に赤く染まっていた。少女は泣いていた。人通りの少ない裏路地を選んで、ひとしれず涙を零した。


少女の名はリリーといった。リリーは、この街の北区に音楽会場を構えるフローラ楽団の歌い手であった。

しかし実際には歌い手として舞台に上がれたことはほんの少ししかなく、主な仕事は、出演者の世話や舞台の掃除といった雑用ばかりであった。なので歌の練習は、その雑用のわずかな合間を縫って行う他無く、今のところはこれといった上達の兆しも見られなかった。

フローラ楽団とは、この街で非常に人気のある楽団である。この楽団は週に一度演奏会を開いて、歌や音楽を披露し多くの人々を楽しませていた。

そんな楽団がこの少女を入団させた理由は、一応は一抹の期待も混じってはいたが、団長の深い同情心からくるものだった。

今日もいわばその「思い遣り」により舞台に立たせてもらったリリーだったが、全く自分のやりたいように出来ずに立ちすくんでしまい、ついには観客から陰口を叩かれ、団員たちからの哀れみの目を避けて、ここへ逃れてきたのだった。

リリーは泣きたくなると、よく独りでここへ足を運んだ。人通りが少なく、尚且つ、水の流れる音が懐かしい故郷にて流れる小川を思い出させてくれるからだ。

古い知り合いさえ周りにはいない、誰もいない孤独な身の上。自分が決めた道だとはわかっていながらも、馴染みの浅い異郷の地に独りはあまりにも淋しすぎた。――。

そんな風にリリーがしみじみと故郷へ思いを馳せていると、彼女の様子を窺っていた人影がついに動き出した。物思いに耽る彼女は気づかない。

「今晩は、ちいさな御嬢さん」

 呼び掛けられ、少女は勢いよく顔を上げて声の主と対面する。そしてその丸々とした瞳をさらに丸くして驚愕し、同時に自分の状態を思い出して泣き顔を手で隠してみたり、声にならない声で弁解をしてみたりと、慌てふためいた。その様子は可笑しくかわいらしく、声を掛けた当人は満足げに微笑むのだった。

「だ、だれですか?」

少し落ち着いてから、リリーは尋ねた。

目の前に立つ人影は、顔のほとんどが何かで覆われていた。そこに二つの光が点っている。翡翠色の双眸がこちらを窺うように覗いていた。赤毛の髪が街灯の光に照らされる。リリーはその人をよく見るために目を凝らした。そこに浮かび上がったのは、歪みない微笑み。それも生き物としての表情ではなく、人工的なそれ。木でできた仮面に彫りつけられた笑顔。リリーは戦慄する。暗闇に浮かぶ笑みがひどく不気味であった。

人影は体つきからして男だろうか。しかし普通の男性にしてはあまりにも妙な格好をしていた。上はひし形のアクセサリのついたシルクハットに、生地の良さそうな分厚い上着、先の尖った革靴。上着のボタンは首元までしっかりと留められている。手には細身のステッキを持っており、彼の演じる役の雰囲気を見事に作り上げていた。

 彼は仮面を指差しながら、リリーに話しかけた。

「こんな姿だから驚かせてしまったかな。どうか警戒しないで、ぼくはここからずっと南に行ったところにある、アルテ劇団という劇団に所属している道化役のアルルカンっていうんだ。最近この街へ越してきたんだ。ここを拠点にしてぼくらの劇を披露していくつもりなんだ。以後よしなに」

そう言ってアルルカンは優雅に一礼し、リリーのすっかり赤くなった手を取り、挨拶のキスを落とした。

「道化役って……ピエロやクラウンのこと?」

 これに対し、アルルカンは流暢に答えてみせた。

「いやあ、厳密には違うんだよね。ぼくらアルテ劇団にはたくさんの道化役がいて、その中にぼくことアルルカンやきみの言うピエロがいる。クラウンはサーカスにいる道化役さ。いる場所によって名前が少し変わってくるんだ。まあ、きみの好きなように呼んでおくれよ」

そうして彼はリリーの方をみつめた。

「きみの名前は?」

「え、えと、リリー=マリアーヌっていいます」

「リリー、か。それはぼくの国では、それは百合の花を意味する言葉なんだよ。そういえば、百合はこの国の国花だったね。素敵な名だ。大切にすべきだよ」

「……ありがとうございます。そんなの、初めて言われたわ」

 照れた様子の彼女に道化師はごく自然に詰め寄った。

「ほんとう?」

あまりの自然な動きに、リリーは身を強張らせることもなく自らも自然に受け入れて、それどころか彼に対する警戒心もいつの間にかなくなり、すっかり打ち解けた様子で道化師に話しかけた。これはひとえに彼のなせる業と言っても過言ではない。リリーはくすぐったそうに笑う。

「ほんとうよ。だから、すごくうれしい」

 素直に喜ぶリリーに、道化師は目の奥でも微笑んでから、自身の上着を脱いで、そっと彼女の肩へと掛けた。気を遣わなくて大丈夫だと一度は断ったものの、男からの好意は素直に受け取るものだと諭され、リリーは申し訳無さそうに、しかし男性からの思いやりを受けたのは初めてのことだったので、嬉々の色を覗かせながらも受け入れた。


「こんなところで何をしていたんだい?」

 何気ない質問に、リリーは途端に元気を失ったように俯いてしまった。

「……泣いていたのよ」

「へえ、それはどうして?」

「別に、なんでもないの」

 そうは言うけれど、今までの悲しみを思い出した瑠璃色の双眸に、またも涙が浮かんできた。彼女は健気にも笑ってごまかそうとするが、うまくゆかない。必死に堪えようと唇を噛み締めてやり過ごそうとするが、雫が零れ落ちるのも時間の問題で。ついには体を震わせ、泣きだしてしまった。

アルルカンは慌ててリリーの隣に寄り添い、お得意のパントマイムや面白可笑しい動きをして、懸命に彼女の笑顔を取り戻そうとした。それを見てリリーは、なんとか涙を抑えたいとそう思うけれども、彼の優しさに触れてさらなる涙があふれてくるのだった。初めは彼女を笑わせようとしていた彼だったが、

「ああ、可哀想なリリー。ぼくのことは気にせず、気の済むまでお泣きよ」

 と囁いて、彼もいっしょになって泣きそうな声を出したから、リリーはたまらなくなってまた泣いた。声も上げることなく、ただ静かに涙を流した。


 ――そもそも、何故リリーがこの街に来たのかと問われれば、それはひとえに彼女の夢のためだと、答えるべきであろう。

彼女の生まれは、ここからずっと西へ行ったところにある豊かな自然に囲まれた田舎村にあった。家は牧羊を営んでおり、父と母と、下に妹がひとりいた。

リリーという名は母がつけてくれた。道化師が言った百合の花という意味ではなく、口にした時の音が綺麗だからという理由であった。

初めて夫婦の間にできた子であったから、両親に時には優しく、時にはきびしく叱られながらこれといった病気もなく元気に育っていった。

昔、リリーには祖母がいた。母方の家系の人で、リリーはとにかく祖母が大好きであった。しかし祖母はリリーが生まれた時には既に足が弱くて、あまりふたりでは外出できなかった。外に出られない代わりに、ふたりは読書や編み物、絵や音楽といった遊びで楽しんだ。幼いリリーは祖母のために、外へ行って編んだ花冠を渡したり、お菓子を作ったりして祖母を喜ばせようとした。

中でも祖母が喜んだのは、リリーの歌を聴くことだった。歌は、祖母自らが教えてくれた。彼女にとっては歌は遊びのひとつでしかなかったが、祖母が花冠やお菓子やきれいな石や本の朗読といったものよりも何よりも、この贈り物を喜ぶので、気づけば自分も歌をうたうことが大好きになり、色々な歌を口ずさんでは、祖母に披露するのであった。

祖母は熱のこもった調子で繰り返し言い続けた。あなたの歌をもっと多くの人に聴いてもらうべきだと。あなたの歌は、あなたの優しさを受けて、人々の心を慰めてくれると。

彼女としても歌うことは楽しかったので、祖母の強い言葉もあり、歌を歌うということが自然と彼女の夢へと変わっていったのだった。

リリーが十二になる頃、祖母は安らかに息を引きとった。そうして彼女は決意を新たに、自らの夢を叶えることを誓ったのだ。

 そして翌年、評判の高いフローラ楽団の噂を耳にし、両親にそこへ行きたいと頼み込んだ。両親は祖母の遺した言葉通りに彼女が望むように手配してやり、愛する娘をひとり、異国へと送り届けたのだった。


 ――ふとリリーが隣にいる道化師に目をやると、心配してくれる瞳の奥に、どこか不満げな色が隠れているのに気が付いた。

そこで初めてリリーは、親切にしてくれた彼に対してまともに説明さえしていなかったことを知り、慌てて自分の身の上を簡単に伝えた。

「わたしはここからずっと西の方にある、ちいさな田舎村からやってきたのよ。この街にある楽団に憧れて、夢を叶えるために。……でもね、うまくいかないの。憧れや夢だけじゃ、やっていけないんだって、団長にいつもどやされてるの。それがなんだか情けなくって」

 そう言ってから、乾いた笑い声をあげてみせた。そうして川の流れに目を向ける。彼の反応を見たくなかった。憐みであろうと、蔑みであろうと、そんなもの、見たくなかった。

「それでも、楽団に入ることだけでも大変だったろう」

 道化師は静かに呟いた。まっすぐ川を眺めたままリリーは答えた。

「どうかな。毎日必死だったから――。わかんないよ」


楽団をいきなり訪ねても、勿論すぐに雇ってもらえるということはなかった。「うちにはもう、歌い手は間に合っているから」と断られたのだ。

それでもリリーは諦めなかった。むしろ当然の結果だと思い、街へ着いてからは日々のほとんどを、街の広場で歌をうたって過ごしていた。人々に自分の歌を知ってもらい、自身の評判を高めて、すこしでも好い噂が流れたなら、きっと楽長も考えてくれるだろうと思ったからだった。――けれども当然、簡単にはいかなかった。うたう度に彼女は野次の嵐を受け、ゴミを幾度も投げつけられ、唾をかけられそうになったり、手を上げられそうになったりと、厳しく辛い環境にいた。また、日が経つにつれて親から貰った金も残り少なくなってきて、歌ばかりに時間を費やすわけにはいかず、人の好い店主に拾ってもらい、酒場で住み込みで働くことになった。そこでの仕事は大変だった。それでも、彼女は何とか時間を作って歌をうたい続けた。

そんな彼女の健気な頑張りに、ついには心動かされた団長は、彼女を歌い手見習いの雑用係として入団させることにしたのだった。


「やさしくしてくれて、ありがとう」

零れる涙を拭いて、リリーは笑った。これは、もう大丈夫だから帰っていいよと暗に示された言葉だった。その意図を知ってか知らずか、道化師はそれに対して何も答えずに、こう切り出した。

「きみの歌を聴かせてよ」

「え?」

 アルルカンは腕を後ろにやって、彼女と目線の高さを合わせた。

「さっき実は、きみの歌を勝手に聴かせてもらったよ。……憧れや夢だけじゃうまくいかないって諦めちゃうの、すごくもったいないよ」

「……、」

「きみの歌はさ、おそらくきっと、何かの思いがこめられた歌なんだろう。愛しい誰かに向けての、歌なんだろう。じゃあ今は、その誰かの代わりにぼくが。ぼくがきみの歌を聴くから、どうか歌ってよ、歌姫さん」

 リリーはしばらく呆然としていた。けれども、その言葉の温かさが心の中へと沁みこむと同時に熱い涙が頬を伝い、ちいさな両手をぎゅっと握りしめた。

「泣いてばかりだね」

 アルルカンはからかうように言った。

「好きなだけ泣いていいって言ったじゃない」

「そうともリリー、たくさんお泣きよ。そうして笑ってくれたら、ぼくはうれしい」

「……ありがとう、やさしい道化師さん」


 リリーは歌った。音を奏でる楽器も無い中で、旋律は外れることもなくなだらかに、心を包み込むような歌が流れていった。気づけば吹く風の冷たさも感じなくなっており、まるで辺り一帯のみは春が訪れたかのように感じられ、リリーは少し可笑しくなった。今はもう寒くない。


 歌が終わり、アルルカンはひとしきり拍手を贈ってから、

「じゃあ。次は僕の番だよ、リリー」

と手を叩き、不思議そうにするリリーの手を取った。そして早足に橋を渡って、その向こう側にあった古びた建物の階段に近づく。アルルカンはその階段の上に一枚ハンカチを敷き、そこにリリーを座らせた。準備完了と言いたげに軽く息を吐いてから、本日のギャラリーを確認する。涙で目を腫らしたひとりの少女。ふわふわの金の髪が、月光に照らされきらきらと輝いている。アルルカンは一歩下がって、片手を背中の方へ美しく仕舞い込み、優美に一礼をしてみせた。そして、快いテノールの声で流暢に話し始めた。

「リリー嬢、あなたを、今夜のお客様としてお招きします。どうか、今夜限りの余興を、お楽しみあれ」

それを合図に、彼はステッキを無駄の無い動きで真上に放り投げた。すると、それが一瞬のうちに小さな花束に変化して手元に戻ってきた。リリーは驚きのあまり声が出せずにいた。この時生まれて初めて手品というものを見たのだ。

彼は花束を手に、まさに道化師らしく大仰な足取りで、リリーに近寄って恭しくそれを差し出した。

呆気に取られるリリーに、アルルカンはほほえんでみせる。

「……すごい、あなた、もしかして魔法使い?」

「かもしれないね」

花束以外にも、一体どこに隠していたのだろう、服の中に忍ばせていたボールをいくつも取り出しては空に投げて、見事なジャグリングを披露したり、くるくる回ったり、逆立ちしたりして、彼はたくさんの芸を彼女の前で披露した。

リリーは、それらの芸が成功した場合には、体全体で「すごい!」と叫んでとびきりの拍手を送り、失敗した場合には、声を上げて笑い転げた。彼女は最初、彼が行ったわざとの失敗を、あろうことか怪我はしていないかと心配して駆け寄ろうとさえしていた。が、よくよく見ると彼の動作一つひとつが、多分に可笑しさを含んでいるのだ。それに気づくと、思わず忍び笑いが漏れた。そこを道化師は見逃さない。彼はさらに笑いを誘うような動きをする。すると可笑しさを堪えようとしても膨らむばかりで、たまらず吹き出すと、アルルカンは待ってましたとばかりに動き、彼女を楽しませた。――彼は素晴らしい道化師だった。そんな彼にリリーはすっかり魅了されていった。


そんな夢のようなひとときからリリーを目醒めさせたのは、深夜を告げる教会の鐘の音だった。リリーは一瞬呆気に取られるが、頭が冴えるなりすぐさま立ち上がった。肩に掛けていた上着が滑り落ちるのを間一髪で受け止めて、彼に感謝の言葉を短く告げながらそれを渡し、そのまま駆け出そうとして、

「どこへ行くんだい?」

 というアルルカンの声に呼び止められる。リリーは焦る気持ちはそのままに、足踏みしながら叫ぶ。

「帰らなくちゃ! こんなに遅くまで外にいるつもりはなかったから、みんなきっと心配してると思う」

「お。さながら童話に出てくるお姫様じゃないか。深夜の鐘が鳴るまでに帰らないと魔法が解けてしまうんだったっけ。うんそれならば。別れる前に貴女への手がかりをひとつ、ガラスの靴の代わりに手渡しておきましょう」

 そう言って流れるような手つきで、彼女が抱える花束から一つ 花を抜き取り、茎に触れてから指を鳴らした。すると一瞬のうちに一輪の花が一枚の紙切れに変わっていた。目を丸める彼女に目を細めて、美しい仕草でその紙を渡した。そこには、にぎやかな絵が描かれており、『アルテ劇団・チケット』とあった。アルルカンは言う。

「僕の本来の居場所は、劇場の中なんだよ。是非ともきみに見に来てほしいな」

手を差し伸べられ、反射的にその手を取ろうとしたが、リリーははっと自分の立場を思い出し、急いで手を引っ込めた。

「行きたいけど……でも、お金がいるでしょう。わたし下働きだから、その、あんまりお金は、もってなくて」

と俯き加減に呟くと、彼はゆっくりと首を振った。

「大丈夫さリリー、きみはとっても幸運だ――。実はね、近々、我々アルテ劇団のルテジエンへのお引っ越しを記念して、子どもたち限定に無料でチケットを配布しているんだ。ちょっとした寸劇を行う予定だけど、でも寸劇だからって絶対に退屈させない。少しでもいい、見に来てほしいんだ。他でもないきみに」

そう頼まれては断ることなど彼女にできるはずもなかった。アルルカンは満足そうに微笑んだ。

 名残惜しくも別れを告げ、リリーは楽団の宿舎へと急ぐ。その途中に思わずといった風に足を止めて振り返った。橋の上にはまだアルルカンがいた。彼女に気づいて大きく手を振ってくれた。彼女も大きく手を振り返す。そして溢れんばかりの喜びに、弾かれたように駆け出した。


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