第36話 愛を捧ぐフール

 決して結ばれない運命と知っていながら、それでも愛さずにはいられなかった。

 前世過去なんて覚えていなければよかった、なんて思った事は一度や二度ではない。


 この恋は、きっと誰も幸せにしないとずっと分かっていた。

 分かっていながら、自分がどんな愚か者になろうとも愛している。


 あんなに私を大事にしてくれて、あんなに私を想ってくれて、あんなに私個人を見てくれた人はいなかった。

 それは今世いまも同じだ。


 青空のような碧眼は、暗い室内でも輝きを失っていない。襤褸ぼろのようなものを被った下には、緩いウェーブの掛かった柔らかそうな金髪があるのを知っている。


「ファウスト……様」

「遅くなってごめんね。ーー迎えに来たよ。君を」


 片手に持った鍵束で窓を開けたのだろう。部屋の隅の窓が少し開いていて、重そうなカーテンが翻った。

 ファウスト様は足早に距離を詰めると、私の傍にしゃがみ込んで、容態が重そうなサヴェリオ様フォティオスお兄様の額と首筋に触れる。


「セウェルス伯爵が睡眠薬を飲ませた、といったような事を言っていたんです」


 フォティオスお兄様は、半ば閉じかけた瞳でファウスト様を見上げる。その様子を見たファウスト様は眉間に皺を寄せた。


「……なるほど。ただの睡眠薬ではなさそうだ。ラウル」

「はい」


 いつの間にいたのか。

 人混みに紛れるとすぐに埋もれてしまいそうな、そんな印象のない男の人が私達のすぐ近くに立っていた。

 その人がフォティオスお兄様を運ぼうと、手をかける。


「……クラリーチェ。昔、お前は幸せだと言った。クリストフォロスに愛されているから、と」

「……はい」


 エレオノラが死ぬ前、フォティオスお兄様と交わした最後の会話だった。

 意識も朦朧としていて辛いはずなのに、フォティオスお兄様は最後の意地とでもいうように私に問い掛けた。


「お前の幸せは今、どこにある?」

「私の幸せは……」


 今世の私は男爵の愛人の娘で、誰にも必要とされていなかった。でもファウスト様と再会して、彼だけが私を望んでくれた。彼だけが、私の今世の唯一の存在意義だった。


 だから、ファウスト様の為に自ら身を引こうと思った。

 足でまといにも、嫌われたくもなかった。醜くて愚かな私の存在も、知られたくはなかった。


 それだけファウスト様が好きで、大事だった。


 答えはもう、とうの昔、クリストフォロス様がエレオノラの婚約者になっていた時から出ていたのだ。


「私の幸せは、ファウスト様と共にあります」

「……そうか」


 幸せになれ、と満足そうにフォティオスお兄様は微笑んだ。そしてファウスト様に、「許せないけど、妹を、頼む」と告げると、糸が切れたように目蓋を下ろした。


「大丈夫。眠っているだけだ」

「フォティオスお兄様……」


 悲鳴を上げそうになったのを察知したのか、ファウスト様は私の背中に手を回し、宥めるようにぽんぽんと叩く。

 ラウルと呼ばれた人はフォティオスお兄様を背負って、空いた窓から外へと抜け出ていった。そのまま医者の所に運び込むらしい。


 それを二人で見送り、さて、とファウスト様は私の方へとクルリと向き直った。

 ファウスト様は私と視線を合わせるように、高い背を屈める。私へ向ける彼の広い空のような瞳は、いつでも優しいのを知っている。


 反乱はどうなったのか、行方不明になったんじゃなかったのかとか、どうしてその様な格好をしているのかとか、聞きたい事は沢山あった。

 でも結局、出てきた言葉はたった一言だった。


「生きていて、よかった……!」


 彼の存在を確かめるように彼の頬に触れる。

 真っ白な肌に指を滑らせると、ファウスト様はくすぐったそうに私の手に自身の手のひらを重ねた。


「どうやら心配を掛けたようだね。僕は何ともないよ。大丈夫」


 苦笑した彼は本当に何もなさそうで、ひとまず私はほっと胸を撫で下ろす。

 ファウスト様と二人きりが不味いとか、そんな事は頭の中からなくなっていた。


 ただただ、会えた事が嬉しくて。


「君の方こそ大丈夫だったかい?軟禁されていた事は知っているよ」

「ええ。私は大丈夫です。乱暴な事はされなかったわ」

「そうか……」


 ファウスト様の骨ばった手のひらが私の頬に触れた。

 存在を確かめるように、私の輪郭をなぞる。


「ファウスト様。私、ファウスト様に言いたい事があるんです」


 イオアンナが背中を押してくれた。

 フォティオスお兄様が認めてくれた。

 二人共、私の幸せを思ってくれていた。


 誰もが眉を顰めるような、大それた願いだった。

 それだけ、今世の私とファウスト様の身分差は大きかった。


 どうしても、二人一緒になって幸せになれる未来なんて見えなかった。


 だから私は、自分の幸せを諦めた。


「ファウスト様。ずっとずっと昔から、私は貴方を愛しています。貴方が私のことを愛して下さっている事も、分かっています」


 だけれど、と続けようとして、私は唇を塞がれた。

 触れるだけのそれは、今まで何度も重ね合わせた彼の唇。


 数秒だけだったキスには、ファウスト様の気持ちが全て詰まっているようだった。

 ぺろりと唇を舐める彼の碧眼は、隠しきれない熱が宿っている。普段の穏やかさをどこかにやってしまったファウスト様は、私の腰に手を回してグッと自身に密着させた。


「やっと、〝今の僕〟に言ってくれた」


 妖しい雰囲気を纏いながら、少年のようにはしゃいでファウスト様は心底幸せそうに微笑む。

 その無邪気な笑みに、罪悪感がつのった。


 私は、今世は私を諦めて幸せになって欲しい、と続けるつもりだったから。


「ねえ、クラリーチェ。君はずっと僕との身分の違いとお互いの婚約について気にしていたね?」

「ええ……」

「もし、それが無くなったら?君の憂いは晴れるのかな?」

「え?」


 目を瞬かせた私に、ファウスト様は笑みを深くする。


「僕が今の名前も地位も捨てて王太子でもなくなっても、僕を愛してくれるかい?」

「当たり前です。私はファウスト様が王太子様だったから、好きな訳じゃありません」


 キッパリ言うと、ファウスト様は重ね合わせままの手に指を絡める。私のより長い指が握り込んだ。


「捨ててきたんだ。王太子という地位も、名前も全部」


 まるで子供のような悪戯を告白するかのように、あっさり言った彼に空いた口が塞がらなかった。そんな重責をあっさり放り投げられるなんて。


「アルフィオも望んだことだ。だから、僕と共に来てくれるかい?」


 私の顔を覗き込むファウスト様を、縋るように見る。

 身分もしがらみもない世界で、彼と2人で幸せになりたかった。


「ーー私を牢獄から連れ出して」


 鳥籠なんて可愛いものではなかった。

 ずっとずっと重たくて、冷たい鎖で縛られ続けていた。周囲の人達も、地位も、私の羽根を飛べなくするものだった。

 今世の私の世界は、牢獄だった。


「仰せのままに、僕のお姫様」


 そうふんわりと微笑んだファウスト様は、誰よりも煌めいていて、私の、私だけの王子様だった。

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