第6話 愛を知らぬフール
「婚約破棄の事例……理由はやはり、相手の不貞、両家の合意反故、相手の死亡、病気辺りしかないな……。難しいな」
幼い頃より付き従ってくれている同い年の側近は、兄に対してのみ気が荒ぶるが、それ以外では犬のように付いてきてくれる良い奴だ。
普段は滅多に我が儘なんて言わないその側近が、同い年の女の子を見初めたのかとんでもない難題を持ち出してきた。
曰く、既に決まっている婚約を破棄したいと。
他のことであればかなり歓迎できたのかもしれないが、これは相当難しい問題である。
だが、先日あったフィリウス侯爵家主催の舞踏会で幼馴染みは、まるで幽霊にでも会ったような顔をしていた。
クラリーチェ嬢が社交界に顔を出すのは初めてだったらしいが、一体どこで会ったのだろうかと疑問に思う。
ガン見されていたクラリーチェ嬢は酷く居心地悪そうにしていたが、セウェルス伯爵はサヴェリオにもクラリーチェ嬢の様子にも気付いていなかった。
いや、
ただの太った豚ではない。多分狸だろう。
幼馴染みに気にかけられているクラリーチェ嬢は、栗色の毛先の方を緩く巻き、桃色の大きな目をした非常に可愛らしいご令嬢だった。あんな肥えた狸に嫁がせるのは勿体無い位の美少女である。
まあ、レオーネ男爵の愛人の娘だというから仕方ないのかもしれないが、正妻の娘であれば正式なデビュタントを果たした後、社交界で同世代の若者に見初められて幸せな結婚をしていたのかもしれないと容易に想像出来るくらいには可愛いらしいと全員が言うだろう。
エヴァンジェリスタ・セウェルス伯爵とクラリーチェ・レオーネ男爵令嬢の婚約を破棄するのは、至難の業だ。
セウェルス伯爵とクラリーチェ嬢の父親であるレオーネ男爵の間に何があって、この政略結婚が成立したかが分からない。
想像出来るとすれば、現在水面下で行われている第一王子派と第二王子派の派閥争い位か……。
セウェルス伯爵は第一王子派だが、レオーネ男爵は中立派に近い。王太子である第一王子に付いたら将来良い方向に繋がると思ってセウェルス伯爵に娘を嫁がせた……という線が、一番有力だろう。
「第二王子である私が第一王子派をどうこうするのも、まず当事者である両家が合意してるのに横槍を入れるのもやはり難しいな……」
これまでの婚約破棄の記録にザッと目を通してみたが、特に今回の件に適用出来そうな過去例が無い。
クラリーチェ嬢が不貞をしたとかならセウェルス伯爵は流石に婚約破棄しそうだが、クラリーチェ嬢の風評被害が酷すぎる。
まず不貞なんてしそうにないが。
見た感じクラリーチェ嬢は清廉潔白そうな感じがする。
一応調べてみたが、やはり父上に相談するのが一番かもしれないと思って席を立った時、書庫に知った顔が入って来るのが見えた。
「兄上」
「ああ、アルフィオか。どうしたんだい?」
呼び止めると兄上も私の存在に気付いたらしく、柔らかく微笑む。
この王国の第一王子であり、王太子でもある兄は、生まれ以外何一つ欠点のない完璧な人間だ。
まさに天に愛されたと言ってもいい位、政治についての知識も、打ち出す政策も、皆を纏める力もある。武術は騎士並みだが、王子としては充分すぎる位だ。
コンプレックスを抱かないとは言わない。むしろコンプレックスだらけだが、全く力の及ばない反則みたいな兄に敵おうだなんて無理でしかない。
何より当の本人が争うような感じには見えない見かけ通りの穏やかな人柄なので、張り合おうとするだけ無駄なのである。
そんな兄だ。何か上手い打開策が見つかるかもしれない、と先程まで婚約破棄について調べて纏めたノートを見せた。
「これはなんだい?……婚約破棄?」
「ええ。穏便に婚約破棄するにはどうすればいいかと思いまして……」
「穏便に婚約破棄だなんて、全然穏便じゃない話だね。アルフィオは婚約者なんていなかったよね?」
「ええ。私ではなく友人の為なのです」
「友人ね……。もし良ければ誰か教えてくれないかい?婚約破棄なんて、当事者同士の問題だけではないから」
サヴェリオは兄上の事を何故かだいぶ嫌っているから、 言っていいものかどうか悩んだが、埒が明かないので素直に打ち明けた。
「実はエヴァンジェリスタ・セウェルス伯爵とクラリーチェ・レオーネ男爵令嬢の婚約の事なのです」
私の言葉に兄上は僅かに目をみはった。ほんの僅かな些細なものだったけれど、確かに兄上は動揺して顔を強ばらせていた。
「クラリーチェ、嬢の?そういえば、前に舞踏会であったご令嬢だったよね」
「ええ。実はサヴェリオがエヴァンジェリスタ・セウェルス伯爵とクラリーチェ嬢の婚約を破棄させたいらしくて……」
何故、兄上は動揺しているのだろうかと疑問に思いながら私は事の経緯を説明する。
すると納得したように、ほんの少しだけ顔を緩める。多分私が性格的に人をよく見ているので気付けた、そんな程度のものだったけれど。
「フィリウス侯爵家の嫡男がね……。クラリーチェ嬢に恋でもしたのかな?」
「さあ……、本人は違うと言っていますが、少し様子がおかしくて……」
「様子がおかしい?」
私だって、流石に今回の件は難しいものがある事くらいは感じている。
本音を言うと、エヴァンジェリスタ・セウェルス伯爵とクラリーチェ・レオーネ男爵令嬢の婚約に首を突っ込んでいい権利なんてない。
だけれど、請け負ってしまった。
「サヴェリオが、今にも死んでしまいそうな位必死な顔をしていたんです」
決して安請け合いではない。
だけれど、今まで接してきて幼馴染みがあんな顔をした事は無かったのだ。
それは、伝え聞く恋愛などという甘酸っぱいものでは無さそうだった。
もっと、深くて恐ろしいもの。サヴェリオが初めてクラリーチェ嬢を見た時幽霊に遭遇したかのような、表情を浮かべていたから、恐怖に近いものなのかもしれない。
初対面のクラリーチェ嬢に一体どんな感情を抱けるというのだろうか。
「そう……。だけど、フィリウス侯爵家の嫡男がクラリーチェ嬢をどんなに救いたいと思っていても、難しいんじゃないかな」
「兄上、第一王子派のセウェルス伯爵とレオーネ男爵をどうにかして説得出来ませんか?」
「どうやって?」
ニコリ、と完璧な微笑みを浮かべて首を傾げる兄上に、私は言葉を詰まらせながら答える。
「第二王子である私が第一王子派の貴族にどうこうなんて言えません。……言う権利がない。だから、第一王子である兄上が、ご自身の派閥に一声かけて下さればなんとかなるかと……」
相変わらず王国中に伝わる程の美しい美貌に笑みを浮かべ続ける兄上は、とても柔らかい声で残酷に告げた。
「国王になってしまえば第一王子派だの、第二王子派だのいうものなんて関係ない。誰かを贔屓し過ぎる事も、誰かに遠慮する事も出来ない。皆に等しく命令を下し、等しく役割を与え、等しく扱うんだよ」
そこまで言って、兄上の笑みが寂しそうなものに変わった。
「アルフィオ。君はまだ甘すぎる。第二
「ですが……」
「クラリーチェ嬢の事については諦めた方がいい。君の為だ。下手に首を突っ込むと、何が出てくるか分からないよ」
「兄上……」
「それに、クラリーチェ嬢はレオーネ男爵の愛人の娘なんだろう?それなら、セウェルス伯爵に嫁ぐのは彼女にとって玉の輿だし、社交界にも入れるんだよ?万々歳じゃないかな?」
そうなのだ。愛人の娘なんて地位が低い故に蔑ろにされる事なんてよくある。
現にこんなに優秀な兄上でさえ、母親が側室だからって、王太子になるのを反対されている。
主に私の母上の実家を中心とした一部の古い貴族だけれど、完全に無視は出来ない。
クラリーチェ嬢と自分の立場を重ね合わせているのだろう……と思う。ずっと兄上は寂しそうな表情をしているから。
だって、サヴェリオも兄上も、クラリーチェ嬢はこの前の舞踏会が初めてだった筈だ。
それならば何故、サヴェリオはあんなにクラリーチェ嬢とエヴァンジェリスタ伯爵との婚約を恐れている?
ずっと思っていたが、なんでだ?
話は終わったとばかりに背を向ける兄上に、私は1つだけ聞いた。
ゆくゆくは政略結婚するであろう私にとって必要のない、大事な感情について。
「兄上は恋愛とはなんだと思いますか?婚約者であるオリアーナ嬢と仲はよろしいのでしょう?」
予想外の質問だったらしく、誰の目から見てもびっくりした顔をした兄上は数度目を瞬かせた後に、どこか遠くへ想いを馳せるようにポツリと呟いた。
「恋愛ね……。自分自身が確かにここにいるって、感じられる事かな」
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