女学生怪奇譚
仙託びゟ
スケッチブック
ギラギラとした日差しが照り付ける夏の日曜日、夕飯の買い出し先である冷房の効いた近所のスーパーマーケットから出たくなくなる気持ちを抑え、食材の詰まったエコバッグを手に自動ドアをくぐる。
外に出た途端に聞こえ出した蝉の声を無視して、店先に止めてあった自転車の籠にエコバッグを入れて自転車の鍵を外し、スタンドを上げる。黒いせいで日光を吸収し熱せられたサドルに触らないようにペダルを踏みこんで走り出した。
寮の同室である、私含め四人分の食材は、足りない消耗品を含めると意外とハンドルを取られる。特に今日は2Lのペットボトルが二つも入っているのだ。
流れてくる汗が目に入らないことを祈りながら、車道の端を自転車で寮に向かって走る。早くしないと熱で肉がダメになってしまう。
大通りを逸れて小道へ入る。歩きなら木陰を選んで通るところだが、自転車でそんなことをしたら危ないので素直に道の端を走る。
神社脇の坂道は、神社からはみ出した木陰があるのでわざわざ選ばなくても通ることは出来る。緩くブレーキをかけながら坂道を下っていく。
下り坂の終わりにある公園。ふとそちらの方を向くと、見覚えのある人影が見えた。彼女は休日になるといつもここにいるから、通るときに見る癖がついてしまった。
黒い濡れ羽色のおかっぱ頭に、決して背が高いとは言えない私よりもさらに小柄な体躯。スレンダーというよりは発育が遅いと言った方が正確だろう。着ているのは私服の白いワンピースだ。
こちら側に背を向けてベンチに腰かけているから何をしているか窺うことはできないが、彼女がここに来て行うことはいつも決まっているので、恐らく間違うことはないだろう。
彼女はいつも、ここで絵を描いている。絵の具の時もあるし、色鉛筆の時もある。クレヨンやコンテを使うときもある。水墨画だったりもする。
しかし、それを受け止めているのはいつも変わらずスケッチブックだった。
坂の終わりの曲がり角を公園のある左方向へ曲がり、公園の外の道を走る。そのうち、背中を見せていた雛菊は横顔を見せ始める。手元にはスケッチブックと鉛筆。いつも通りだ。
……あれ?
ふと、違和感を覚えて自転車を止める。私の目線の先には、変わらず手を動かし続ける雛菊の姿がある。
なんだろう、何がおかしいんだろう。何に違和感を覚えたのだろう。考える私に太陽は容赦なく降り注ぐが、むしろ気温が下がったようにも感じていた。
違和感を探すが、思い当たらない。ただ、言い様のないもどかしさだけが頭の片隅に蟠る。まるで、物品は思い付いているのにその名前だけが思い出せないときのような、そんな不快感。
結局、何も掴めないまま、私は再びペダルを漕ぎ出した。
雛菊と出会ったのは、入学と同時だった。寮の同じ部屋に入った私と幼馴染を出迎えたのが、雛菊ともう一人のルームメイトだったのだ。
二人ともそれぞれが別々の意味で表情が少な目なタイプだったので打ち解けるまでは時間がかかるかと思ったが、コミュニケーション能力カンストの幼馴染によって案外すんなりと打ち解けた。
表情は動かない二人だが、感情自体が希薄と言うわけではなかった。
雛菊は無表情ながら微笑むときは微笑むし不満そうなときは不満そうにする。表情の動きが微かながら、しかし見る方ははっきりと認識できるタイプだった。
「ん、お帰り」
寮に辿り着き、重いエコバッグを持って部屋に入ると、そのもう一人のルームメイト、
若白髪だというミディアム程度の癖毛を特に整えることもなくボサボサにしており、本人曰くまぶたの病気だという目は眠そうな半目気味、ジト目と言えば伝わるだろうか、猫のように瞳の大きい目がそんな風になっている。
顔は可愛いというよりも中性的な美人と言った雰囲気で、こちらの無表情はとにかく表情筋が固いのかまったく表情が動かない。眠そうな無表情のままだ。
やや猫背気味ではあるが、背は私よりも高い。私が150cm代後半であることを考えると、170cmいかないくらいだろうか。そうなると雛菊は140cm代か。
手足は不健康なほどに細い。肌も白いのだが、どちらかというと青白いと言った感じで、とても羨ましいとは思えない。美人だから許される、いや、美人だから尚更怖くもある。幽霊のようだと、失礼ながら初見ではそう感じたほどだ。
「今日の夕飯は何」
「豚の冷しゃぶ」
「おー、楽しみにしてる」
百花は棒読み気味にそれだけ言って、玄関から部屋の中へ戻っていった。決して荷物運びを手伝うということはない。出迎えたのも、偶然玄関近くに用事があったのだろう。トイレだろうか。
面倒くさがり屋な彼女がわざわざ私を出迎えるために玄関まで来るなんてことは天地がひっくり返ってもあり得ない。帰ってきたのが雛菊であったなら別だろうけど。
「あ……そっか」
蝉の鳴き声をバックコーラスにしながら、玄関の扉を閉め、そこで、ようやく、公園で覚えた違和感の正体に気がついた。
「蝉の鳴き声が聞こえなかったんだ」
◆◇◆
「そう言えばヒナって、昼間いっつもどこ行ってんの?」
夕飯の時に、そう切り出したのは私の幼馴染でありルームメイトの最後の一人である、
茶髪をポニーテールにした、よく言えば活発な、悪く言えば単純バカな性格で、私とは幼稚園からの付き合いになる。背は、私と同じくらいか。胸は私の方が大きいが。
雛菊は咀嚼の真っ最中で、百花には説明する気は見られない。どうやら、無視しない形にするには私が説明しないといけないようだ。
「いつもどっかで絵を描いてるよ。最近はそこの公園が多いよね」
「へー、絵かぁ。どんな絵描いてんの?」
答えた私に対してなのか、それとも再び雛菊への質問なのか、歩弥は口に豚肉を運びながら再度訊ねる。
この質問には、私も口を閉ざした。私は雛菊が絵を描いているところを見たことがあっても、実際に描いている絵を見たことはなかったからだ。
私が返答に困っていると、噛んでいたものを飲み込んだ雛菊が口を開いた。
「緑の表紙のスケッチブックには風景画、青の表紙には人物画と静物画、オレンジの表紙には抽象画」
「へー、色々描いてるんだなぁ」
歩弥が感心したように呟きながら白飯を頬張る。しかし、私は雛菊の返事に少し引っ掛かりを感じていた。何か、違和感を覚えたような、そんな気がしたのだ。
記憶を遡り何がおかしいのかを洗い出す。先程と違って、それは案外すんなりと浮かんできた。
昼間、雛菊が絵を描いていたスケッチブックの表紙の色は、茶色ではなかっただろうか。光の加減でオレンジが茶色に見えたとかではないはずだ。
何でわざわざ茶色いスケッチブックの存在を伏せたのだろうか。そう思った私が雛菊に直接聞いてみようと、口を開いたときだった。
ゴトン。
と、百花が落としたウサギ柄の茶碗がテーブルにぶつかって音をたてた。幸い、茶碗からご飯は溢れず、茶碗が割れるようなこともなかった。
百花がものを落とすのはよくあることだ。ぼーっとしていることが多いからだろうか、寝転がってスマホを見ているときにそれを落としたりなんてしょっちゅうである。
「あー……ごめん。大丈夫だから、続けて」
「もー、あんまぼーっとしてんなよモモ」
「半分寝てたかも」
「飯中に!?」
「冗談」
百花と歩弥が漫才のようなやりとりをする。いつもの光景だ。百花は真顔で冗談を言うから本当なのかどうかわからない。逆に真面目に言ってる時も冗談なのか判断がつかない。
アホなことを至極真面目に言うこともあるし、真面目なこと言ってると思ったら寝ぼけてたりすることもある。
結局、スケッチブックに関してのことは聞きそびれてしまい、自分の中でも有耶無耶になった。
ただ、なんとなくスケッチブックの話になったときの百花の目付きが、普段と違っていたような気がするのは、気のせいだったのだろうか。
◆◇◆
夕食を食べ終わり、全員の団欒中。
寮の間取りはリビング兼ダイニングとキッチン、それに寝室が二つ、私と歩弥、雛菊と百花のペアで与えられている。
時刻は夜九時頃。百花は早ければこの時間帯には眠りにつく。かと言って朝早いわけではなく、夜中に起きて何かしているようだ。そして、いつの間にか二度寝し朝を迎えているようである。
私含め他の三人は、年頃の女子高生らしくこの時間帯も健在である。雛菊は美術部の課題で絵を描いていることが多く、この時間帯には雛菊も百花も寝室に籠ることになる。
一方、私と歩弥はリビングでテレビを視たり寝室でインターネットを漁ったりで、いる場所はあまり定まっていない。今日は、二人とも学校の課題を終わらせるために寝室に固まっていた。
「あ、やばい、シャー芯切れた」
勉強机で数学の問題集の課題を進めていると、歩弥がそう独りごちた。
正直、シャーペンの芯くらいならあげてもいい。消しゴムが真ん中から折れる確率九割五分を誇る歩弥に消しゴムを貸すのには勇気がいるが、シャーペンの芯くらいならと思わなくもない。
しかし、歩弥にシャーペンの芯をあげるのには、非常に高い障害がある。歩弥の高い筆圧である。芯がポキポキいく。だから、歩弥は2Hの芯を使っているのだ。私が使っているのはHBである。
本人もそれ以外使おうとしないので、緊急時でもない限りは私から貰うよりも買いに行くことを優先するのだ。
「ちょっとコンビニ行ってくるわ」
「あ、ついでに康健美茶買ってきて」
「うぃー」
財布とスマホを持って、歩弥が寮を出ていく。私は寝室に一人になった。
数分後、寝室を出て玄関近くにあるトイレへ行った帰り。トイレから寝室へ戻るにはリビングを通る必要があるのだが、そのリビングを通りかかったときだった。
テーブルの上に、茶色い表紙のスケッチブックが置かれていることに気付いた。
それは確かに、昼間、雛菊が絵を描いていたスケッチブックだった。
何故こんなところにという疑問もあったが、それよりも強い好奇心が、私のなかで頭をもたげた。
普段、雛菊は自分の描いている絵を見られることに抵抗はなさそうだった。横から描いているところを覗きこんでも嫌そうな顔をしたことはない。
だから、私はその好奇心に従うことにした。
そのスケッチブックを手に取り、ページの半ばほどを開く。白いページが少しの間続き、最も直近に描かれた、恐らく公園で描いていたであろう絵に辿り着く。
それは、一見してみると、ただの風景画のように見えた。公園の風景を切り取った、ただそれだけの鉛筆画。
ただ、その中央に、裸足の足跡が描かれていた。
おかしいことは、何もないはずだ。地面に足跡が残っていたからそれも描いた。それだけだろう。それだけの話だろう。
そう無理やり納得しようとしている自分に、冷静な部分が疑問を呈する。あの公園の地面は、普通に裸足で歩いた程度で足跡が残るだろうかと。
濡れた足ならどうだ? こんな風に足跡がつくだろうか? あるいは、私の全く知らない方法なら? わからない。
いや、多分抽象画の類なのだろう。何かの暗喩とかで、ないものを描きこむこともないとは限らない。
自分をそう納得させながらも、背筋に走る悪寒を忘れることはできなかった。頭ではあえて怖い方向へ考えているのだと結論付けているのに、本能的な何かが違うと叫んでいる。
それ以上その絵を見ることを本能が拒んでいる。目の前にあるはずの絵が歪んで見える。私はスケッチブックを閉じて、雛菊と百花の部屋の扉を叩いた。
扉を開いたのは、雛菊だった。扉から見えるベッドには、考えていた通り百花が寝ていた。雛菊は私を見て、そのあと私の持っているスケッチブックを見たあと、また私の顔を見た。
「……どうかした?」
「あ、その、スケッチブック置きっぱなしだったから……」
「…………」
な、なんか言ってよ……
ここまで重い沈黙初めてだよ……
「……ありがと」
「あ、う、うん……」
「……中、見た?」
「ちょこっとだけ……」
私が答えると、雛菊は少しだけ考えて、スケッチブックを受け取ったあと一度部屋に引っ込んだ。
扉の隙間から何をやっているかが見える。机の引き出しを漁っているようだけど……そこは百花の机じゃない?
戻ってきた雛菊が差し出してきた手には、一つの御守りが握られていた。
「これ、持っておいて」
「えっ、でもこれ、百花のだよね」
「……モモが歩弥や道留が中身を見たら渡せって言ってた」
道留と言うのは私の名前だ。
つまり、百花は私や歩弥がスケッチブックを見たときのために何か対抗策を用意しておいたということだろうか。
……逆に言えば、対抗策を講じなければいけない何かがある、と言うことだ。私は、その御守りを丁重に受け取った。
「置きっぱなしにした私も悪いから……何かあったらすぐに言ってね。モモに」
「雛菊にじゃないんだ……」
「私に言われても何もできないから……餅は餅屋」
そう言えば、百花はオカルト趣味だったか。本人の方がよっぽどオカルトじみた格好をしているが。
結局、その日は何も起こらず、帰ってきた歩弥と課題を終わらせたあと、すぐに眠りについた。
◆◇◆
次の日。喉元過ぎればなんとやらで、私は昨日スケッチブックの中身を見たときの悪寒などまるごと忘れて、いつも通り登校した。
「おはよう、道留ちゃん、歩弥ちゃん」
「おはよーナユ」
「おはよう」
当然ながら、交友関係がルームメイトだけで閉じているはずもなく、それなりに親しい友人がルームメイトの他にもいる。ちなみに、雛菊と百花はそもそもクラスが違う。
今声をかけてきたのが、その一人である
長い黒髪の、比較的大人しそうな子。目鼻立ちはくっきりしていて、整っていると言って差し支えない。はずなのだが、目の下に出来た隈が、その印象を悪い方向へと修正している。
「今日、一時限目から教室移動だよ? 早く行かないと」
「うぇ!? 忘れてた! チル、急ごう!」
「そうね、早く行きましょう」
急いで必要な教材をまとめ、授業が行われる教室へと移動する。私たちの教室が三階の隅で、目的地が一階の逆端に位置している。
教室横の階段を一階まで駆け降りる途中、コツコツと言う上履きが廊下を叩く音が響く階段の踊り場で。
不意に妙な音が聞こえた。
ビチャッ、ビチャッっという、水を含んだ雑巾が床に叩きつけられているような、そんな鈍い水音に思わず立ち止まって周囲を見回す。
夏の日差しが当たって乾ききったリノリウム製の床には湿り気など微塵もなく、もうすぐ授業が始まるというこのタイミングだからか近くには人気もない。
ビチャッ
その音は、私が足を止めた直後にまた一度聞こえたきり、聞こえなくなっていた。近くの教室では生徒たちが話しているだろう、風も鳥もあるはずだろう。
それなのに、私の周りだけ時が止まったような、私だけ世界から切り離されたような、耳に痛い静寂がただそこに存在していた。
「おーい、チル、どうした?」
暢気な歩弥の声が聞こえ、音が戻ってきたように聞こえ始める。あの水音は、変わらず聞こえていない。
しばし呆然としていると、私の手を何かが掴んだ。ビクッと肩を震わせ、それがいる方向を振り返る。
私の手を掴んでいたのは、私の反応に驚いた顔をしている歩弥だった。
「どうしたのチル、急に止まったりして」
「いや、えっと……なんか窓のとこ変な虫いたから……」
咄嗟に、嘘をついた。
歩弥に変な人だと思われたくなかったからとか、説明する時間がなかったからとか、そもそもうまく説明する自信がなかったからとか、理由はいくつもある。
でも何より、自分で早く耳にこびりついたその音を忘れてしまいたかった。
幸い、私の嘘を歩弥も那由多も疑わず納得してくれて、時間がないから教室に急ぐことになった。
教室に到着し自分の席に座る那由多が、ちょうど隣の席に座っている。よく見ると、手が少し震えている。また、寝不足だろうか。
彼女は虚弱体質なのか、普段から寝不足気味で体調を崩すことも多い。体育の授業の際、よく見学しているのを見かける。
だから、彼女は普段優等生なのにも関わらず、授業中に居眠りすることが非常に多い。
案の定、今回も彼女は居眠りをしていた。こくりこくりと頭を揺らしている。
当然ながら、私も授業を受けている身として、ずっと彼女のことを観察してはいなかった。
ガタン!
と、那由多の座っている椅子が倒れ、彼女が起きたのは、授業が中盤に差し掛かった時だった。
全員の視線が那由多に集中する。一方、注目を一身に浴びる那由多の表情は、見たことのないような複雑なものだった。
羞恥、は何となく読み取れるが、それだけではない。安堵? 恐怖? そんな、様々な感情がまだら模様になったような、そんな表情だった。
担当の教師がお調子者であったために、那由多が叱られるということはなかった。その代わりに茶化され、さらに羞恥を深めることになったのだが。
倒れた椅子を直しながら着席する那由多に、何があったのか聞いてみようと話しかける。さっきの様子は、私には普通じゃないように見えた。
「ねぇ、那由多、どうかしたの? 顔色悪いよ?」
「ううん、大丈夫……ちょっと、変な夢見ただけだから」
「夢? どんな?」
「そこの、外の廊下を歩いてる夢。少しずつこの教室に向かって歩いてるの。それで、扉の窓から私が寝てるのを見て、その瞬間に起きた」
それを聞いて、咄嗟に私は教室の扉の方へ視線を動かした。ここから見える窓の向こうには、何もいないように見える。
「……それだけの夢なの?」
「う、うん。夜にこういう夢を見ることはよくあるんだけど、昼間にって言うのはあんまりないから……」
私は扉の向こうを凝視する。
しかし、やっぱりそこには何もいない空間が広がっているだけだった。
◆◇◆
結局、それから特に変わったこともなく。
学校が終わり寮に帰り、夕食や入浴を終えて、寝る時間になっていた。
時間は夜の一時ちょっと前。雛菊と歩弥はもう寝ているだろう。百花は、もしかしたらそろそろ起きてくるかもしれない。
その日は偶然にも、百花がバイト先で夕飯を食べてきた上に、私がお風呂に入っているタイミングで百花が帰ってきたため、百花と顔を合わせることは一度もなかった。
私は、寝る前に用を足そうとトイレに入っていた。
処理が終わり、水を流すために立ち上がろうとしたときに、それは聞こえてきた。
ビチャッ、ビチャッ。
小さく、微かなものだったが、確かに学校で聞いた、あの音だった。
声すら出ないほどの驚きだった。全身の筋肉が固まり、まったく動けない。
音はだんだんと大きくなる。いや、違う。音が大きくなっているのではない。私は気付いた。音は、だんだんと、近づいてきているのだと。
ゾッと、背筋が凍った。それは、何かの足音なのだと、それは、あの絵の足跡をつけた奴で、教室の扉の窓から見ていた奴なのだろうと、気付いてしまった。
足音はさらに近づいてきて、トイレの扉の向こう側。私からほんの1mもないその位置で、ピタリ、と、止まった。
持たされていた御守りを、私は必死に握りしめる。助かりたいという気持ちでいっぱいいっぱいになっていた。
ぴちょん、ぴちょんと、水滴が垂れる音が聞こえる。トイレのタンクからじゃない。扉の向こうからだ。他の音は、まったく聞こえなくなっていた。
不意に、何かが焼けるような臭いがした。
それと同時に、精神にかかっていた重圧のようなものが、フッと消え去った。なんとなく、もう扉の向こうには何もいないんだと、そう思えた。
トイレの水を流して外に出る。床を見てみるが、やっぱり乾いた床がそこにあるだけだった。
部屋に戻ろうとリビングに行くと、ベランダの窓が開いていて、カーテンが風邪に揺れている。その向こうに、百花が立っているのが見えた。
「……生きてる?」
いきなり物騒なことを聞かれたので、「生きてるよ」と答えながらベランダに出て顔をあわせる。
百花の手にはライターが握られており、足元には水の入ったバケツと、焼けた紙の切れ端が置かれていた。
「……もう寝た方がいいよ。明日も学校なんだから」
百花にそう言われベランダから時計を見る。短針は三の近くを指していた。そんな長い時間、トイレにいたという記憶はない。
「あの茶色いスケッチブックはね。雛がこの世のものじゃないものの絵を描いてるんだよ」
「……それって、幽霊ってこと?」
「それもある。分かってるのは、そうやって雛に描かれた何かは、あのスケッチブックに縛り付けられてしまうってこと。一種の、呪いなんだよ。写真を撮ると魂が抜けるなんて、昔言われてたでしょ? 私は、それと似たようなものだと解釈してる。本来、中身を見た程度で出てくるようなものじゃないんだけど、運が悪かったね」
百花は、真剣なんだか冗談なんだかわからない口調と表情で、そう言った。
突拍子もない、荒唐無稽な話だった。理解が追い付かず、「百花が長文喋るの珍しい」なんてぼんやり考えるくらいには。
「……だから、燃やしたら助かった、ってこと?」
「どうかな……私はこうすれば何かがどうにかなると思ったからやったんだけど……助かったの?」
「……うん、助かった」
しかし、あんな体験をした今、それを信じないわけにはいかなかった。もしも、百花に助けられていなければ、私はどうなっていたのだろう。
あるいはこの、渡されていた御守りを持っていなかったら。あれは、中まで入ってきていたのだろうか。そうなっていたら、私はどうなっていたのだろう。
わからない。わからないけど、なんとなく無事ではいられなかったような、そんな気がした。
「しかし、本来中身を見たからと言って、それに憑りつかれるなんてことはないはずなんだが……今までこういう体験をしたことは?」
「ないけど……」
「じゃあ、運が悪かったな。これからこういったことが多くなるかもしれない。御守りは、持っておいた方がいいね」
もう寝なと、百花は私をベランダから追いやった。
ベランダから出るとき、燃え残った紙の切れ端が目につく。そこには、見覚えのない絵が描かれていた。
何かの足だろうか。少なくともそれは人ではない何かで、少なくともそれは私の記憶にはなかった。
私の見た絵と別の絵なのか。だとしたら、何故それを燃やすことで私は助かったのか。
それとも、本当は、あの足跡の、足音の主がそれには本来描かれていて、私にそれが見えていなかっただけなのだろうか。
百花には、見えていたのだろうか。絵に描かれていたそれが。あるいは、トイレの前にいたそれが。
わからないことだらけだ。しかし、一つだけわかっていることがある。
あの茶色い表紙のスケッチブックは、まだ、百花と雛菊の部屋に存在している。
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