3話 それは朱く、赤く――
俺は目の前の光景を現実のものとして受け入れることができなかった。
当たり前だ。こんな状況を即座に受け入れられる奴は頭がどうかしている。
さっきのサイコ不審者ですら、現実として受け入れるのはかなりギリギリだ。
朱色の肌。薄群青の髪と真っ白な角。耳まで裂けそうな口に、反り返るように生えた牙。
『鬼』なんてもの受け入れられるわけないだろうが。
あのフードの不審者から必死に逃げておよそ10数分。さすがにスタミナ切れで走れなくなった俺は、それでも気力を振り絞って前へと進み続けた。
ほんの数時間前までの暴飲も相まって、体は油の切れた機械のようにガタガタだった。
そうして進んでいった先に、やっと月光以外の光を見つけ、俺は警戒しながらもゆっくりと慎重に、まるで引き寄せられる蛾のように近づき様子を伺おうとした。
そして――これだよ。
ぱっと見10歳ちょっとの少女が、2体の鬼に襲われている。
まともな人間ならば自身の正気を疑うか、これは夢だと思うだろう。
だが、ここに来るまでにできたミミズ腫れや打ち身、全身を襲う疲労感が、これは決して夢ではないと俺に告げてくる。
やはり俺は狂ってしまったんだろうか。
「あ……あ……」
自分の体を遥かに上回る巨躯の鬼2体に囲まれ、座敷童のような着物を着た栗色の髪の少女は腰を抜かして座り込んでいた。足元には灯りとして使用していたのであろう提灯のようなものが落ちている。
なんでこんなところに少女が?
鬼? そんなわけないよな?
つか重ね重ねここどこだよ?
色々な疑問が頭の中をぐるぐると回っているが、一つはっきりとわかっていることがある。
――まだ、誰も俺に気づいていない。
2体の鬼は、まるで少女を品定めでもするかのようにしげしげと見つめていた。
今ならば、気づかれないままこの場を離れられる……!
少女には申し訳ないが、あんな得体のしれない化け物相手に向かっていくような度胸も力も俺にはない。
人生最悪の1日を経て、俺は自分が心身共にただの凡人であることを嫌というほど痛感した。
俺が蛮勇奮って飛び出してみたところで、ただ死体が増えるだけだろう。
俺には、あの子を救えない――
すっ、と鬼の1体が少女に近づき、ゆっくりと手を伸ばした。
「ひっ……!」
少女が声にならない悲鳴を上げる。
(ごめん)
俺は罪悪感から目を背けるように、踵を返して立ち去ろうとした――
「助けて! お姉ちゃぁん!!」
ああ――
なんで
なんで俺は
意思に反して体が動いたのは一瞬で、自分でも驚くのがワンテンポ遅れるほど、反射的に、無意識に駆け出していた。
走り出してから鬼に辿り着くまでのほんの数秒の間に、自分の行動の動機として思い当たったのは、あの少女が自分の妹と同じくらいの歳じゃないかと、その程度しか浮かばなかった。
ボロボロの体に鞭打って、全速力で駆けた俺は、その勢いのまま少女に手を伸ばした鬼の側面に飛び蹴りを放った。
ドッ!
まるで、分厚いトラックのタイヤでも蹴ったかのような鈍い感触。
なんとなくわかっていたことではあるが、やはり熊や虎なんかと同様に筋肉の塊らしい。
ほとんどダメージを与えられていないのが、感触だけでわかった。
蹴られた鬼はまるで静止画のように固まり、そしてゆっくりとこちらを睨みつけた。
当然もう1体の鬼も俺に気づき、同様に睨みつけている。
俺は体と顔を鬼に向けたまま、視線だけを少女に向けた。
栗色の髪を短く切り揃えた着物の少女は、何が起きたのか理解できていないのか、俺と鬼どもを交互に見ては「え? え?」と声を漏らしていた。
「……どう見ても似てはいねぇよなあ」
少女を見て、こんな状況にも関わらず俺は苦笑してしまった。
だが、不思議と後悔も恐怖もほとんどなかった。
さっきのフードの人物にはあれ程の恐怖を感じたのに、もっと強大で絶望的な相手を前にしても、今俺の中にあるのは『この子と2人でなんとか逃げる』という決意だった。
そうだ。勝てなくていい。
今大事なのはそこじゃない。
大事なのは生きること。
俺が、この子が、生きてこの場を離れること。
どう考えても俺じゃこんな化け物2体も倒せない。
だけど、逃げるだけなら。いくらでもやりようはある。
なんでこんなところに少女がとか、なんで鬼なんてものがいるんだとか、ここがどこだとか、とりあえず後回しだ。
今、目の前の状況にだけ集中しろ。
「グアアアアッ!」
蹴りを入れられて怒ったのか、辺りを揺るがすような唸り声を上げて鬼の1体がその重い腕を振り回してきた。
「つっ!」
その巨体に似合わないスピードで迫ってきた腕を転がりながらもなんとか回避した。
想像以上のスピードとプレッシャーで少し焦ったが、攻撃前のモーションが結構でかい。
ケンカなんてあまりした事がない俺でも、これなら読みと反射神経でなんとかなりそうだ。
「怪我はない? 走れる?」
「え!? あっ……」
さっきの回避で俺は少女の近くに移動していた。
相手は複数。片方を相手にしている時に、もう片方が少女を襲うかもしれない。
ならば近くで、守りながら逃げるのが1番いい。
「は、走れます!」
「よし……!」
俺は少女の足元にある提灯のような明かりを拾い上げた。
「俺が合図したら、走って。俺はその後についていく」
「は、はい!」
2体の鬼が、こちらに近づいてくる。
どうやら瞬発的な速さはあるが、移動のスピードなどは遅いらしい。
これなら、いける!
鬼の1体が腰を落とし、突進の構えを取った。
もう1体は一定の距離を取ってこちらの様子を伺っている。
ダァン!
足場にした木の根がへこみ、とてつもない速さで鬼が突進してくる。
俺はその突進を避けながら、先ほど灯りとともに握りしめた、土や砂を鬼の目に向かって投げつけた。
間髪入れずにもう1体の鬼に向かって灯りを放る。
「走って!」
合図と同時に少女が走り、俺はそのあとに続いた。
少女は一度通ってきた道だからか、灯りがなくてもすいすいと進んでいた。
(よし、逃げ切――)
瞬間、俺たちの目の前に大きな火柱が上がった。
「は!?」
思わず俺たちは足を止める。
「ま、魔術……!」
少女が火柱を見て、そう呟いた。
(魔術? 刀を持った不審人物に、鬼に、魔術!?)
「ゲームかよ……! っつ!」
動きを止めた俺の右足に激痛が走り、俺は思わず膝をついた。
見ると、右足のふくらはぎがぱっくりと裂け、血が噴き出している。
後ろを振り返ると、先ほどの鬼2体がゆらりと姿を現した。
ヤバい。これはヤバい!
俺はもうこの足で動けない。
少女だけ逃がそうにも、火柱が俺たちの前方左右を囲うように燃え盛っていた。
そして、後ろからはゆっくりと鬼が近づいてきている。
考えろ! 考えろ!
後先考えないで動いて後悔するなんていつものことだ。
そんなの後でいい。
今は、考えろ! 必死で生き残ることだけを!
先ほどまでは遅く感じた鬼の動きが、焦りのせいかえらく早く感じる。
既に鬼は俺たちの眼前に迫っていた。
「くっ……!」
俺は傷ついた足でなんとか立ち上がり、鬼どもを睨みつける。
ここで俺が見苦しく暴れて、少しでも隙を作れば、この子ぐらいは逃げられるか?
考え終わる前に、また体が勝手に動いた。
鬼が腕を振りかぶる姿が見えるが、かまわず突撃する。
この足だと多分タイミングはギリギリだ。
間に合え――!
鬼の肌の焼け爛れたような朱。
燃え盛る炎の赤。
そして、おびただしい鮮血の紅が、俺の視界を埋め尽くした。
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