幕間:鳥取しゃんしゃん祭

EX:1話 帰郷

 しゃんしゃん祭と言えば、県内外問わず観光客が訪れる一大イベントだ。

 前夜祭にオープニングパレードとすずっこ踊りパレード、それが終わるとメインの”一斉傘踊り”という毎年約四千人もの大所帯で送る最大の行列が市街地を踊り歩く。

 傘踊り体験コーナーなるもの催しは、外国人観光客には特に人気だ。

 フィナーレには、祭りと言えばの納涼花火大会が待っていて、五先発もの花火が鳥取の夜空を彩る。


 鈴傘しゃんしゃん夜一では様々な屋台が軒を連ねて飲食を楽しめたり、やぐら太鼓逢鷲太鼓連では力強いパフォーマンスが見れたりと、昼夜通して冷めない盛り上がりを見せる。


 そんなビッグイベントが開催される鳥取県は、僕の地元だ。

 その中でもとりわけ田舎な方の出身である僕からすれば、県内あってもそれは、一人では近寄り難い雰囲気を持っていた。

 しかし幼少の頃、その行列があまりにも綺麗で格好良くて、新聞紙とセロハンテープで傘を模した物を作って遊んでいたことを思い出した。

 祖母は笑って「器用や」「凄いな」と褒めてくれていたけれど、今となっては恥ずかしい思い出である。


 今僕ら――隣で大人しくチョコレートをつまむ葵と連れ立って、ヴェネツィアでの熱が冷めやらぬ内から新幹線で鳥取県を目指していた。

 チョコレートは、出立前に桐島さんから貰ったものなのだけれど――


「まことの分、なくなっちゃった」


「今まさに言おうと思っていたんだけど、まぁいいか」


 確かパッケージに十二個入りとあったそれは、新幹線による移動を開始してから今までの二十分程度で全て葵の胃袋へと収まった。

 別に僕に気を遣う必要はないのだけれど、そのスピードで甘い物ばかり食べていると――とは言うまい。


 女の子に太るは禁句だ。


「まことの地元まではどれくらいかかるの?」


 最後の一つを口の中で弄びながら葵が尋ねる。


「あれ、言って無かったっけ? 途中から特急電車に乗り換える必要はあるけど――そうだな。五時間くらい」


「熊本やイタリアに行ったことを考えると、短い」


「はは、確かに」


 そうは言いつつ、葵はフードをかぶって早くも居眠りの体勢に。

 呆れたような僕の笑いは、それを視界に捉えてしまったからかもしれない。


 そんなことを話している内に、気が付けば葵の返事が返ってこなくなった。


「早いな。もうちょっと付き合ってくれたっていいのに」


 と思いながら本当は、時差ぼけが祟っているのか、葵がずっと眠そうにしていたのは分かっている。

 眠いのであれば正直に、ちょっと寝るから話しかけないでと言ってくれればいいだけの話だ。

 ストレートにそう言わないのは、葵の美点ではあるけれど。


 実に四ヶ月ぶりの帰郷は、日帰り故に両親や祖父母の元へと行くかは分からないけれど、不思議な緊張感を抱かせてくれる。

 しばらく離れている間に、街並みとか変わってなければいいけど。

 などと思うのも、都会の環境に慣れてきてしまっている所為だろうか。


「って、僕は何を…葵を連れて親元には流石に行けないよな。下手をすれば姉さんも帰っている可能性だってある。そうなれば――いや、それだけは考えないようにしよう」


 記憶堂へと赴いた初日に披露した持論。

 中学になって、その話の中で桐島さんに伝えた”近所の女の子”を自宅に招いた際、姉はまるで揶揄うように「まことが女連れ混んでるー」と楽しそうに笑っていたっけ。

 今振り返れば、女連れ混んでるって――姉さん、中学生にとんでもない言い方をしないでくれるか。


「はぁ…」


 数時間後のことを思って溜息を漏らすと、


「う、ぅ……すぅ――すぅ…」


 もぞりと動いて体勢を変えた葵が、再び可愛らしい寝息を立てて夢の中へ。


 岸家でも見たけれど、眠りについている時の葵の表情は、本当に子どもみたいに幼い。

 よく見れば童顔で、加えて肌も艶やかな所為か。

 玉肌美人とは、ともすればこいつの為にあるのではなかろうか。


「なんて」


 葵に告白をしてからというもの、僕の基準が変わりつつあった。

 恋は盲目、とはよく言ったものだ。




 片道五時間。

 しかし、長いものだ。


 そして不幸なことに、僕はなんて計画性の無い人間なのだろう。日帰りはしんどうだろうということで結局一拍することになったのだけれど、ホテルの予約を忘れていて、やむなく自宅の最寄りまで来てしまっていた。

 親にどう言い訳をしよう。

 いや待て、今日帰ることすらまだ伝えていないのに――と、あれやこれやと思考だけが巡って。


 そんな僕の胸中や知らぬ葵は能天気にも、


「まことの家って、どこ?」


 などと聞いてくるのだ。

 宿を取り忘れた僕を責めるでもなく、ただ純粋にそれが気になって、好奇心だけで。


 しかし、それもこれも全て僕の準備不足が祟ってのことではあるだけに、


「こ、こっち…」


 先導する他なかった。


 ローカルの電車に乗り換えて、駅を越えること数十分。

 くだらない話で時間を潰してやってきたのは、変わらぬ懐かしい風景が並ぶ地元だ。


 ここまで来てしまえば、あとは徒歩で数分進むだけなのだけれど――


「どうしよう、胃が…」


「大丈夫?」


「いや全く。どうしよう、姉さんに何て言えば……」


 友人だと、わざわざここに来るのは可笑しい。

 しかし恋人でも、尚更姉さんのワクワクを加速させるだけだ。


 と、頭を抱えて悩む僕に、うーんと一瞬間だけ悩んだ葵が一言。


「大丈夫じゃないかな。行こ」


 妙案でも出してくれるかと期待した僕が愚かでした。


 久しぶりの我が家も、やはりと何も変わっていなかった。

 遠目に見える屋根の色、防火水栓の看板、背の高い塀。数ヶ月で劇的な変化があればそっちの方が怖いけれど、やはりしばらく離れて見る分にはとても懐かしい。

 倉庫を通り過ぎ、車庫を通り過ぎ、見えてくるのは玄関――


「おかえりなさい」


 ふと聞こえたそれは、幻聴かと思えるようなタイミングで耳を打った。


 曲がって見えて来たのは玄関ではなく、その前に立つ母親の姿。

 見慣れたロングのスカートを履いて前で淑やかに手を組んで、優しく微笑んでいた。


 しかし、どうしてだろう。

 たまたま見かけて「いつ帰って来たのあんた」なら分かるけれど、これはどう考えても事前知っていた様子である。

 僕は話していない。葵は僕の家の番号等知らない。

 ではれば、残る可能性は自ずと一人に絞られるが――。


 僕は手早くスマホを操作して、その心当たりに電話をかけた。

 珍しく一コール目で応答した相手に、食い入るようにして聞く。


「どうしてうちの電話を…!?」


『出立時、あれやこれやと確認していた神前さんの口から、一言も”ホテル”と出なかったものですから、もしやと。番号を知っていたのは、初対面の時に交換した神前さんの情報に含まれていたからです』


「助かりましたが……いえ、それならそうと、こっちにも連絡を寄越してくださいよ」


『そこはほら、サプライズということで――』


「不要な気遣いです…!」


『まぁまぁそう言わずに。せっかく、落ち着いた再開へと臨ませてあげたのです。葵さんのことも私の方から言ってありますから』


 それはそうだけれど。と返す間もなく、桐島さんは強制的に通話を切った。

 何て言おうと考えている間に、変な沈黙が空間を支配して――


「お邪魔します」


「どうぞー」


 遠慮なく母親の脇を通り過ぎた葵の愚行を、流石に見逃すわけは無かった。


「人の家だよ、岸家でもそうだったけれど、葵はもうちょっと遠慮ってものを…!」


「”葵”?」


 ギラリと鋭い眼光でそう問うてきたのは。


「私の部屋に来んさい、色々聞きたいことがあるけ!」


 どこからともなく現れた手が、僕の腕を掴んでそのまま家の中へと引き摺り込む。

 抵抗の余地なく玄関を抜け、階段を昇り、辿り着いたのは姉さんの部屋だった。


 独立してからというもの、僕と同じであまり家に帰っていなかった部屋の中は、当時のほぼまんま。姉さんのキャラには合わない可愛いぬいぐるみやCDが埋め尽くしている不思議空間だ。


 そんな部屋の中央に設けられた丸机を挟んで、僕は姉さんと向かい合って腰を降ろした。


「可愛い子やん、どんなして知り合ったん!」


 流石はミス・奔放、僕の意見や言わせる隙もなく、自分の欲望を満たしにかかる。


「ば、バイトで――」


「何のバイトしてるん!」


「……人助け?」


「ほほう。そんなら、その一環で助けた子なんやな。へぇ、凄いね」


 そんな大層なものでは。

 僕からというよりは彼女が自分から依頼を持ってきて、僕は桐島さんという金魚の糞として手伝って、たまたま解決できて――というだけだ。

 凄いと言うのなら、行動した葵自身。


「何ヶ月?」


 と、またも唐突な姉。


「何が?」


「あほ、付き合ってやんか。デートとかしとらんの?」


 まさか。

 これはどうしたものか。期待を裏切るようで大変申し訳はないのだけれど、


「ごめん、付き合ってないよ」


 と答えるや、漫画である効果線のようなものが視認出来る程の衝撃を受け、前のめりに倒れて手をついた。

 事実は事実。後にどうなるかは分からないけれど、今はまだ、何もない。


 姉さんの期待する返答を裏切った時、彼女は決まって「何だつまらんなー」と返してくるのだが。


「……そうなん」


「あれ、今日はやけに大人しい」


「いやぁ、そのバイト先の偉い綺麗な声の人とお母さんが話してんの、今朝たまたま聞いたのよ」


「桐島さんと母さんの?」


「うん。『一緒に着いている子は、とてもいい子ですから』って」


「そうなんだ」


 それはそれで、何だか気恥ずかしいのだけれど。


 それから姉さんは、一目見た葵の印象を語った。

 ちんまくて可愛い、髪サラサラで可愛い、声も可愛い、ショーパンが似合って可愛いと、ただそれだけを連呼していた。

 姉さんにとって下は男の僕しかいないわけだから、独身である身としては、ある種妹か娘のようで新鮮に思えたのだろう。

 可愛くなかったからなぁ、昔の僕。


「好きではないん?」


「……答えると思う?」


「それ、自爆やけん」


 しまった。


「じゃあ何で付き合っとらんの?」


 そうあっさり聞かれても。

 それに応えるには、諸々と語りつくさにゃいかんことが多すぎる。


 しかし、このまま姉さんのペースで終るのも癪だ。


「葵は――葵のことは、好きだよ。告白もした」


「……え、ほんと?」


「ほんともほんと、つい数日前だ」


「へぇ、やるじゃん。そこでフラれたの?」


「いや、そうじゃない」


 どこから話したものかと一瞬間頭の中で整理して、先ずは四月の事から話した。


 諸々の経緯があって、通潤橋への道すがら既に葵から告白を受けていたこと。

 考える時間が欲しくてその日は返答を流して、濁して、来たる数日前にこっちから告白をしたこと。

 しかし、彼女は今まだ十八だということで答えを延期してもらったこと。


 そんな素直な気持ちと行動を、流石の姉も無下にはしなかった。


「そっか。何だか変わったね、まこと」


「そう?」


「うん。ちょっと大人っぽくなった」


「自分じゃ分からない」


「そういうものよ」


 姉さんははにかんで、私もそろそろ良い人見つけなきゃなーと大きく伸びをした。


 それと同時に、下から母が僕らを呼ぶ声が聞こえて来た。

 一応昼食あるけど、と言われ、そういえばまだだったことを思い出して、空腹をほったらかしにしていた葵の元へと急いだ。


 すると、部屋の扉を閉めようとしたところで、


「ねえ」


 と声を掛けられ、立ち止まる。

 何? と振り返ると、


「あんたら、きっと良い仲になるよ」


 姉さんは、珍しく優しい言葉をかけてきた。


「悪い物でも食べた?」


「しっつれいな弟ね。付き合ってもないのに名前で呼び合って、わざわざこんなとこにまで来てくれるようないい子、他にいないって話よ。それに、向こうもあんたのこと気に入ってるみたいだし」


「分かるの?」


「逆に分からないの? 初対面の母さんにびっくりしたのか知らないけど、さっき玄関先で、あの子ずっとあんたの方見てたのよ。信頼してる相手でもないと、あんなにじっと一人の方は見ないわよ」


 それは知らなかった。

 いや、自分より後ろに控えさせていたから、確認のしようがなかった。


「受験が無事終わるまではどうなるか分かんないけど、その時はちゃんと大事にしんさい」


「……言われなくても」


「よね。あんたからもちゃんと告白してるんだし」


 今日の姉さんは少し不思議だ。

 変わったというなら、貴女の方ではなかろうか。


 そんなことを思っている内、足はずっと止まったままだった。


「行くよ、せっかくだからあの子の話も聞きたいけん」


「人見知りだから、あんまり取り囲んで質問攻めにはしないであげてね」


「加減は知ってる大人よ、安心なさい」


 その発言が既に事件を起こしているも同義なのですが。


 姉と連れ立って狭い階段を降りると、いつもの味噌汁の香りが鼻をくすぐった。


「せっかくの来客は豪華なものに――とはいかず、どうせなら家庭の料理を味わってもらいたいからって、いつも通りの食事らしい」


 姉からの差し込みは、母さんの気遣いそのもの。

 来客を下手に困らせるよりかは、そちらの方が幾分良い。


 リビングの引き戸を開けると、早くも箸と食器を持って口をもぐもぐさせている葵の姿が視界いっぱい覆いつくした。


「岸家と同じ……」


「ち、違う、聞いてまこと…! これはまことのお母さんが良いって言ったから――」


「そうよ、私が許可したんだから。気にせず食べて頂戴、葵ちゃん」


 と早くも下の名前で呼ぶ仲。

 女同士のコミュニケーションって凄いなとたまに思う。

 いや、それは置いておいて。


「なら別に構わないんだけどさ。それならそうと、僕らが来るのを待たないか――って、そうか。ごめん」


「いいよ、大丈夫」


 意味深な短いやり取りを終えると急に静かになる僕らに、母さんと姉さんは疑問符を浮かべる。


 語るべくではないからこのまま黙っておこう。

 そう思う僕とは対称に、葵は自らのことを手短に話した。


「両親いなくて、兄貴はバイトで家にいない日が多いから。一人で勝手に行動する癖が抜けてないの――ないんです。ごめんなさい」


 そう言うと、母さんは少し苦しそうに笑って、姉さんは明るく微笑んで、


「じゃあ遠慮はいらないね。ここにいる間、私は葵ちゃんを妹やと思って面倒見るけん」


「それなら私にとっては娘かしら」


「え、ちょ……え?」


 予想だにしていなかった切り返しに、葵は固まって口をぱくぱくとさせている。


 そうだった。

 姉さんもさることながら、母さんもノリは良い方だったのを忘れていた。


「ま、まあそういうことだから、遠慮はいらないってことなの…かな?」


「……………………」


 葵は黙ったまま、目を見開いて固まっている。


「どうしたの?」


「……琴葉と乙羽の時もそうだったけど――どうして、こんなに良い人たちばっかりなの?」


「苦手?」


「ううん。何だか、申し訳なさ過ぎて、有難過ぎて、胸が苦しい」


 それは結構なことだ。


「なら楽しみな。ここは多分、葵を一人にはしないと思うし。特に姉さん」


「……うん。ありがと」


 そんな短いやり取りを終えると、今度はさっそくと祭の話になった。

 そうだ。僕らは元より、その為にここに来たのだった。


 一泊するからと、今日は流して明日の祭りを見学しにいくつもりだったのだ。


 その旨を伝えるや、遠慮なく部屋を使っていいから、代わりとして一緒にお風呂に入りましょうと姉さんが提案した。

 葵は勿論はじめは嫌がったが、やがて「入るだけなら…」と、後に起こる悲劇を想像出来ない葵は、姉さんの誘いを受けた。


 怪しい顔をしてガッツポーズをしていたことは、葵には悪いけれど黙っておこう。


 葵絶賛、久方ぶりの母さんの昼食を摂り終えると、少し田舎の空気に触れてみないかと、短い時間でもいいから散歩をしてみようという運びになった。

 キャリーを空き部屋へと運び込み、軽くなって外へと出ると、改めてここの日差しの強さを実感した。


 眩しそうに手で目元を覆う葵にきゃっぷを貸して、しかし強がってしまったと今度は僕が目元を守りながら散歩がスタートした。


「澄んでるね」


「お、分かる? 都会を馬鹿にしてるわけじゃないけど、やっぱり違うでしょ?」


「うん。気持ちいい」


 葵は立ち止まり、吹き抜ける風を、両手を広げてその身に受けた。

 その拍子に、緩んでいた片方のヘアゴムが外れ、風に流されて遠くの方へと転がっていってしまった。


「あらら。取って来ようか?」


「いい。一つにする」


 そう言って、葵は慣れた手つきでもう片方も解き、一つに束ねてポニーテールを作った


「やだ、どんな髪型でも似合う」


 姉さん、激しく同感です。


 ふざけた姉弟とその母、客の一人の計四人の奇妙な珍道中は、やがて僕らが蛍川と呼んでいる小さな川へと落ち着いた。


「この季節、夜になると沢山のホタルが出て来るんよ」


「ほたる…?」


「そ。都会っ子はあんまり知らんやろうけん、今晩また連れてきてあげるね」


「ほたる……うん、見たい」


「ふふ」


 好奇心に目を輝かせる葵の様子を見て満足した姉さんが笑う。


 少しそこで足を止めて和むと、すぐにまた歩みを再開させる。

 あっちの川、こっちの川、広場に空き地と、田舎ならではの何でもないスポット紹介しては、葵と姉さんは楽しそうに笑っていた。


 家に戻ると、畑仕事を終えた祖父母と丁度玄関のところで鉢合わせた。


「おぉ、その子が電話で話しとった?」


「あ、えっと……」


 言葉を詰まらせるのも無理はない。

 初対面には、身内贔屓にも強面だからなぁ、おじいちゃん。


「高宮葵。バイトのちょっとした知り合いだよ」


「そうかや。まぁゆっくりしていきんさい。夕飯は採れたての野菜で料理作ってあげるけん」


「作るのは私ですけどね、お父さん」


 隣から突っ込むおばあちゃん。

 軽く会釈だけ残して、そのまま家の中へと入って行った。


「び、びっくりした…」


「はは。怖かったろ、おじいちゃん。あれでも中身は馬鹿ほどいい人なんだけどね」


「そうなんだ?」


 ちょっと擦り剝いたらおろおろして、ちょっとこけてもおろおろしては、絆創膏じゃだめだ、救急車を呼ばな――と大袈裟にしていたな。

 懐かしい。


 過去を懐かしんで足を止めた僕に、隣から母さんが「さて」と切り替えた。


「夕飯まではとりあえず自由かな。何なら、まことか香織かおりの案内で、もうちょっと散歩してきてもいいけん。葵ちゃんの好きなように時間使いんさい。私は二人の手伝いしてくるけん」


「はーい」


「ほーい」


 軽く挨拶を返すのは僕と姉さん。

 葵は堅苦しくも礼儀正しく「ありがとう、ございます」と言って軽く頭を下げた。


「ふふ。そいじゃ、また後で」


 そう言って、母さんは家の中へ。

 僕らはどうしようか、という話になると――


「ま、家の中でいっか。今日は特に暑いらしくて、昼過ぎからは三十四度まで上がるって言ってたし」


「それは焼けそうだな。葵、クリームとか持ってきてたっけ?」


 隣で大人しい葵に尋ねると、首を横に振る動作で以って応えた。


「そうよね。汗ばんで透けた服の上からいやらしい目でまことに見られたくないものね」


「ちょ、馬鹿姉…! 葵はそんな冗談通じ――」


「……やだ」


 ほら見たことか、どうしていつもいつも悪者は僕なのだ。

 今のは明らかに、姉さんが百で悪いだろう。


「まぁまぁカリカリしない、皺増えるわよ」


「誰のせいだ、だれの…!」


 と憤慨する僕を姉さんはひらりとかわして、流れ弾にも程がある怯えようを僕に向ける葵の手を引いて家の中へと入っていった。


 そんな態度で――知らないぞ、風呂でどうなっても。


 という呪詛は、やはりと現実のものになって。

 夕食後、入りは仲良さそうに向かっていった葵の顔が、帰りはげっそりと生気を失って僕の部屋へとやって来た。

 ほら見たことかパートツーだ。


 そしてそのまま、僕の布団を占領してうつ伏せに倒れた。

 まだしばらくは眠る気も起きないので構いはしないけれど。


 やがて聞こえて来た寝息を機に布団をかけてやって、ようやくと僕も風呂へ。

 部屋を出た瞬間「変な気が起きても大丈夫、姉さんイヤホンガンガンで知らないふりしとくから!」と変な気遣いをする愚姉を軽くあしらって、脱衣所を目指した。


 祭りは明日。

 大きなキャリーに詰められた浴衣は着るまでのお楽しみ――とお預けを喰らっているから、どんな風に葵が姿を変えるのか、明日が楽しみだ。

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