第16話 キューピッド、始動

 やはり、流石はサン・マルコ広場。世界一美しいと称されるだけのことはある。何度見ても飽きない。

 そんな広場に堂々と構える鐘楼。リルはまた、その一点を見つめていた。


 四大天使が一人、ガブリエルの彫像。

 自身を祭られて、街を見守る象徴として崇められて、どんな気分なのだろうか。

 ミケーレ島での僕らの会話を知らない桐島さんと葵は、一緒になって見上げて「美しいですね」なんて言葉を漏らしてリルの頬を染めている。


 先までの張り詰めた空気の一切なくなったまったりとした雰囲気の中で、ふとリルが「ごめんなさい」と口を開いた。

 いよいよか、と思った僕の期待を、


「夕飯、遅れちゃう。もう帰らないと」


 悪くはないギリギリのラインで裏切ってきた。


 僕の口から言うつもりは毛頭ないけれど、この二人の前でよくそんな自然な表情で嘘がつけるものだ。

 釘を打つように葵はとても心配していたぞ、なんて言ってやったというのに堪えていないのだろうか。桐島さんに至っては、どれだけ自然体だろうが無意味だというのに。


 しかし、何か考えでもあるのか、桐島さんはその嘘には全く触れず、「そうですか」と自然な笑顔で対応してみせた。

 それすら知らないリルは、


「また明日、会えたらよろしくね!」


 なんて言って、葵と強く抱き合った。

 天使とハグしていたなんて知ったら、葵は一体どんな反応を示してくれるのだろうか。

 リルが人でなくて残念がるか、面白い凄いと喜ぶのか。見ものだ。


 強く抱きしめ合っていた両腕を離すと、今度は桐島さんの方へ。同じくぎゅっと抱き合って、さようならと言った。


「ん?」


 そして今度は僕の方へ。

 確かに、流れではやらないと不自然ではあるけれど。


 偽りの無垢な笑顔で両手を広げたリルの中に、納まってやった。

 すると、


「明日、いつでもいいから溜息橋前まで来てください」


 耳元まで顔を寄せて、僕にも聞こえるかどうかくらい小さい声でそう言って離した。

 いつでも良いからって――今日の続きでもするのだろうか。


「じゃあ、またね!」


 ひと際明るい笑顔を残して、リルは広場奥の方へと去っていく。

 葵は手を振って見送った。


 曲がり角を曲がって、その先では――


「確認すれば一発だろうね」


「うん。だから、行かない」


「それがいいよ」


 葵は眉根を下げて言った。


 そろそろ時間も時間だから宿に戻ろう、という桐島さんの言葉を受けてふと見やった時計は既に夕刻。のんびりとした観光だったからか、昼食を摂るのも忘れて楽しみ、葵に限っては落ち込んでしまっていた。


 僕が、そしてリル本人が、本当は幽霊ではなく天使なのだ――とは一言も言っていないだけに、まだ葵は何も知らない。

 どうして触れるのか、どうして墓がないのか。


 まだ話すべきではない。いや、話して良い物かすらも分からない。

 キューピッドだなんて、もはや悲しくも何ともない、可笑しな話だ。

 葵には悪いけれど、せめて明日の呼び出しを終えるまでは黙っておこう。


―――


「といったプロローグがあったのでした」 


「誰に言ってるの?」


 時刻の指定なく呼び出された僕は、翌日、昼食を摂り終えた後に「ちょっとお土産を」と誤魔化して宿を出てきていた。桐島さんにはバレていようが、昨日のリル相手同様に詮索はしてこなかったので、葵にはバレなかっただけ良しとしよう。


 当のリルは既に溜息橋前に居て、何やら楽しそうに独り言を呟いているところに声を掛けたというわけだ。


「わっ!」


 自然、驚いて慌てて振り返るリル。

 僕の顔を見るや溜息を吐いて、


「襲われちゃうかと思いました」


「こんなに人の往来するところで、そんなことあるわけない」


「そこは是非とも『ち、ばれたか』くらい言って欲しいものです」


 無茶を言うな。

 君は僕をどうしたいんだ。


 今のリルの比ではないくらい大きな溜息を吐いて気持ちを切り替え、さっそくと本題に入ってもらうこととする。


「言った通り、私は恋のキューピッドですから」


「帰っていい?」


「あぁ、話は最後まで聞いてください…!」


 踵を返して去っていく僕の裾を慌てて掴み、あわや破れようになるくらいの強さで引っ張られ、僕は戻る以外の選択肢を奪われる。

 無意識なのだろうが、こちらからすれば強硬手段にも程がある。


 もう一度だけ息を吐ききって、話だけはと向き直った。


「実はですね。私にはあまり時間がなくて」


「と言うと?」


「鐘楼にあるあの彫像。あれ、もう少しで新しい物に代わってしまうんですよ」


 リルの言う、大天使ガブリエルの彫像。

 今あるあれは実は二代目で、一八二〇年に作り替えられたものだ。


 しかし、変更だなんて、そんな話は聞いたことがない。

 ここにいる人たちも、特別な感情でそれを眺めているわけでもないようで――と、ここで今その話を掘り下げても、話が長引いて面倒そうだ。

 僕はリルに話を合わせ、先を行く。


「それでですね。その変更に伴って、あの像そのものである”この”私は消えてしまうというわけです」


「ほう」


「ちゃんと聞いてます?」


「聞いてるよ。アニサキスの話でしょ?」


「そんなに壮大なスケールのボケはいりません!」


 なんと、葵と同じ突っ込みが返って来るとは。

 桐島さんならどんな返答を、と少し気になってしまう。


「えっと、話を戻しまして……そう、だからその前に、キューピッドらしいことを最後に一つしておきたくて」


「それで僕ら?」


「はい! 見たところ、貴方と葵さんのお二人は相思相愛。でも、まだくっついてはいませんよね?」


「いや待て、誰が葵のことを好きだって?」


「え、違いました!?」


 さも予言者のような口ぶりで言っておいて自分で驚かれても困る。


 しかし、そうは言ったものの、僕は確かに葵のことは好きだ。初対面であるリルにあそこまで思いやりを向けられるようないい子はそういない。

 まして告白する側ではなく”される側”だなんて、する側だったとしても人生初の出来事で舞い上がる程に嬉しかった。

 ただ、あの時に『あとでもう一回聞いてあげるよ』などと言ったのは、嬉しかったが突然過ぎて答えが分からなかったというのも勿論あるが、あれで葵は直ぐには告白をしてくれないだろうと踏んで、遠いいつかでまた告白された時――その時には、答えが出せる筈だと思ったからだった。


 と思っていたのだけれど。

 しかし大きな問題もあって。


「……僕は葵に告白されたことがある」


「でしたら…!」


「ただ、ちょっと違うんだ。あいつは確かに『恋ではなく羨望』だって言った。それって、そういう意味の好きではないんじゃないかって思って」


「そ、ういう微妙な状況だったんですね。すいません」


「謝るな、余計悲しくなる。そも、それが恋だったとして、君はどうやってそれをキューピッドしてくれる腹づもりだったの?」


 そこが一番需要な話だ。

 恋のキューピッドを自称するなら、それなりに――


「分かりません!」


 ということだとは分かっていた。

 無計画もいいところだ。と、突っ込む気力すら失せてしまう程に期待通りだ。


「ただ…微妙とは言いましたが、葵さんは確かに、貴方に恋をしていると思いますよ?」


「根拠」


「好きでもない相手の布団に潜り込んで、一夜を共にしますか?」


「言い方に気を付けてここ外だから! それに、後から自分の所に戻ってたし! ていうか何で知ってるの!?」


 と聞くや、


「そりゃあまあ、天使ですから!」


 とふんぞり返る様は天使の展翅を見ているようだった。


「ふと思う。好きだからって、その次には付き合うことが正しいかって、それは違うって。現状維持って言い方はあれだけど、今が幸せで、もしその答え次第で未来が壊れるかも知れないって思うと、やっぱり別に今のままでいいのかなって」


 リルは腕を組んで考えこんだ。

 しかしすぐに「うん」と結論を出して、一言。


「貴方って、馬鹿なんですか?」


 それは憤慨した。開口一番馬鹿とは何事かと。


 同時に、認めてもいた。

 壊れる壊れないなんて、先が分かりもしないのに言ってどうなるのかと。


 そんなことを思う僕に、しかしリルは全く異なる意見。


「何のために言葉があると思ってるんですか?」


 半ば呆れ気味に、諭すように、教育するように。

 僕の目を正面に捉えて、濁りの無い瞳で以って僕に言い放つ。


「気持ちを伝える為に言葉があるのです。声を出せない人には文字、文字を書けない人には声、両方だめな人にはテレパシー」


「最後のは違くない?」


「心の在りようです。ただ人と付き合う為だけにあるのではありません、ただ人を貶す為にあるのでもありません。気持ちを伝えてこそ言葉で、人なのです。気持ちを伝えて、また伝えて貰って、そうして理解し合っていくことが大事なのです。そこに至ってすらいないというのに、何を甘いことを言っているのですか?」


 教育なぞ生ぬるい、もはや説教だった。

 説教であるが故に、心にはしっかりと刺さった。


 そう。先延ばしなんて言い訳だ。僕はただ、逃げたんだ。

 現状に対する保留。どう答えたらいいか分からなかったからと先延ばしにして、分からないという気持ちを伝えなかった臆病者。恋ではなく羨望だって伝えてくれた葵の言葉は、偽りない葵の”気持ち”だった。

 それを無碍にして、逃げて、答えないままで――とんだ大馬鹿野郎。最低だ。最低の低だ。


「お気付きですか。お気付きですね。他人の私でも、言われなくても、それだけははっきりと分かりますよ」


「そう、だね……うん、逃げてたよ」


「そうでしょう。同時に、葵さんは貴方にちゃんと”恋”をしていますよ」


「……え?」


 そんな話はしていな――いや、逃げていたのは事実だけれど、確かに葵は違うと言っていた。


「いや待って、それは違うでしょ」


「そうでしょうか? ではどのように告白されたのか、言ってみてください」


「それは恥ずかしいって…!」


「まあ言わなくても分かりますけど。優しいところが好き、でしょう?」


「心を読むな妖怪!」


「天使です!」


 と、意味のない言い合いをして。


 結論、リルの読心は間違っていなかったので、僕は折れて全てを話した。

 すると不敵な笑みを浮かべ、否にやついて「そうでしょうそうでしょう」と漏らす。

 妙にイラっときて、同時に恥ずかしくて、僕は咄嗟にそっぽを向いた。


 リル曰く、それはどちらも本心である。

 本音と建て前を同時に置いて、自身の頭の中を埋め尽くす恥ずかしさの緩和を図ったのだそうだ。


「出会って一週間だぞ?」


「一目惚れという言葉はご存知ないですか?」


「いや、そりゃああるけど」


「でしょう? しかし何より、葵さんは具体的な項目まで挙げているんですよ。それを恋を呼ばずして何と呼びますか」


「だから羨望って――」


「恋です!」


 くわっと前のめり。

 息がかかる程に顔を近付けて、強い圧でそう言った。


 言わんとしていることは何となくは分かるのだけれど、どうにも納得は出来ない。


「何をうじうじと。ウジ虫ですか」


「どこの世界にこんな毒舌天使を祀ってるんだ。何だこの国は」


「失敬ですね! ともあれ、進展しない問題は貴方にあると見て間違いはなさそうですね」


 リルは僕を指さした。


「私が消えてしまう前に、貴方には何としてでも素直な言葉を一つは伝えていただきます!」


 勝手なミッションが更新された瞬間だった。




 そんなこんなで満身創痍。

 恋だ何だといった話だけをして別れた後、出て来る前に言っていたことを思い出して、安いボトルを一本買って宿に戻った。

 そんな僕を出迎えてくれたのは、同じく一人で取材に出た桐島さんを除いた葵一人。

 扉を開けるなり、子犬のように近寄って来た。


 素でなのか恥ずかしさを堪えてなのか、葵は僕の手を取って中へと引き込む。


「ちょ、近いって…!」


 何を意識してか、いつもと変わらぬ距離感が、やけに居心地悪く感じた。


「何を今更……それより、窓とかガタガタいって、昼間なのに怖かった」


「桐島さんが――って、いないんだった。なら葵も一人でふらついて来ればよかったのに」


「……まこと、すぐ帰るって言ってたから」


 そんな言葉をかけられただけなのに。

 言ったことを復唱だれただけだというのに。

 男とは、どうしてこんな単純な生き物なのだろうか。


 葵の、見た目ではなく中身の愛らしさに触れたようで、どうして動機が止まらなくなる。


 これはどうやら本当に、リルの言う通り僕が腹を括らなければいけないのは僕の方――


「って、怖かった?」


「うん。ずっとガタガタ言ってて」


「年季の入った建物だからなぁ。ガタが来てるだけじゃないかな?」


「でも…」


「あーもう分かったって、今日はもう出かける予定ないから」


「うん、良かった…」


 葵が安心そうな顔を浮かべた刹那、心臓が高鳴った。

 大人な雰囲気の桐島さんに対するあれとは全く異なる、言いようのない――心なしか、体温の上昇も感じる。額に汗が滲んできている。


「まこと、汗…風邪ひいた…!?」


「え!? え、あ、いや違っ! 何でもない、何でもないから!」


 ひとまとめにそう言って、葵に追従を許さぬようベッドにダイブ。

 頭まで布団をかぶって小さく丸まった。


 今思えば、”まこと”と”葵”で呼び合っているのって、相当に――


 無性に恥ずかしくなって、僕は目を強く閉じて円周率を数え始めた。

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