第17話 お疲れ様
どこかで、いつからか気付いてはいたのだと思う。
写真は横長。携帯でもデジカメでも、もしそれを手に持って構えていたのだとしたら、その下の方に何かが映る筈はない。
では持っていなかったとしたら。それにも、映り込む筈はない。
その黒い二つの膨らみ以外、他に写真上には何も入ってはいない。三脚固定なら尚更あり得ないし、なら、地ではないどこかに固定し、シャッターを切ったということだ。
地ではないどこか。
祖父と話をしている内に眠ってしまった葵は、その前後でシャッターを切った。
睡魔と戦いながら、あるいは起き抜けの寝ぼけ眼を擦りながら。
葵は探し求めていたものは、その地にはなかった。
あったのは――
「おじいちゃんの膝……だったんだ…」
その人の、温かさだけだった。
とどのつまり、一番求めていたのはこの場所ではなく、祖父と触れ合った思い出の欠片。
これが町中の河原でも、雑居ビルの屋上でも、廃墟の中でも、例え自宅であっても、その二つの膨らみの正体が分かったのなら、場所を問う必要はなかった。
大きな橋下にあった小さな謎は、大切な人に貰った愛情から出来ていたのだ。
「おじいちゃん…うっ、ひっく……」
葵の涙は止まらない。止まることを知らない。
一気に溢れ出した感情と共に、全てを思い出しているかのように、流れ、伝って、僕の肌を通して心を揺さぶる。
熱いとさえ思えるほどの愛に彩られた涙。
これだけ曝け出して、声を荒げて泣けるなら。
葵から受けた依頼の二つ目。
ここに、達成された。
「なんて…」
口をついて漏れた言葉に、葵が振り返った。
みっともなく流れ続ける涙も鼻水も気に留めず、隠す素振りもなく僕の目を見る。
「いや、ちょっとね。葵は今回、自分の力でここに至れた。諦めることすら視野になかったから、至ることが出来たんだ」
「まこと…?」
「葵が、自分の力で、自分の意志でここに来たがったから、それが実現した。きっと、僕らは――むぐっ!」
言いかけた途端、葵の両手によって挟まれる頬。
それは徐々に力を増し、少しばかりの痛みも蓄える。
そんな葵は、僕の目を鋭い眼光でもって射抜いていた。
眉を寄せる目元は困っているようで、力の入った口元は怒りを孕んでいるようで。
やがて、はっきりと開かれた口から零れるのは、
「私、まことが好きだよ」
先に受けたものと同じ言葉を纏った、全く異なる感情。
「優しいまことが好き。小さいことを意外と捉え損なってないまことが好き。晩ご飯に誘ってくれるまことが好き。出会って間もないけど、確かで正直な感想」
「気持ち、とは置いてくれないんだね」
「うん。愛とは少し違う。羨望の眼差しだよ」
葵はきっぱりと言い捨てた。
しかし、それだけでも、それだとしても、僕には過ぎたる言葉に違いはなかった。
なかった筈なのに。
でも、と繋げる葵の言葉に、僕はようやく現実を見る。
「すぐに謝るまことは嫌い。自分を非力だと主張するまことも、何も出来ないと思い込んでるまことも、嫌い」
「それは…随分と手厳しいな。自分に自信がないのなんて、当たり前じゃないか?」
と問えば。
葵はノータイムで首を振って両手を離し、起き上がった。
「正当な働きには、それに見合った自覚も必要だと思う。ただ他人から認められても、自分が信じてあげなきゃ本物じゃない」
「……っ……」
「悪いところは悪いところ。でも、良いところも悪いところだと思っちゃうのは勿体ない。良いところを良いところだと自覚して、認めてあげなきゃ――いつまでたっても、何をしても、きっとずっと報われない」
葵は諭すのは、僕の幼少よりの悪い癖だ。
才能のある母親、秀才で成功もした父親、そんな二人の下に産まれた、平凡で非才な僕。
思い知った極めつけは桐島さんとの出会い。
皆、僕にないものを持っていて、僕が持っているものは当然のように持っている。
我武者羅に手に入れたものなんてないけれど、元々持っているものは全て。
それを認めてしまったから、受け入れてしまったから、自分で自分は無力だという評価を下して、新しいことを享受してこなかったから――。
「藍子さんは凄いよね。何でも知ってるし、覚えてるし、綺麗だし胸も大きいし眼鏡だしサラサラだし」
「後半の妬みは何かな。胸なら葵だって――」
「五月蠅い」
一刀両断。
斬り伏せて、間を置いて、また涙を浮かべて。
「藍子さんは凄い。でも、ちょっと違う。心がないって言ってるわけじゃないけど、まだちょっと心には触れてくれないの」
それは――。
気付いていながら敢えて離して、遠ざけて、自分自身でそれに触れて欲しかったから。
一番最初に見つけるのは、他でもない、探し続けた本人であって欲しいと願ったから。
それを知らずか、知った上でか――葵は、少し寂しそうな表情。
「私の勝手な色眼鏡なのは分かってる。分かった上で言うけど……まことは、私の心に触ってくれた。無理だって言われたことに付き合って、断らなくて、一緒になって汚れてくれて」
「それは…」
「うん。当然なんだよね。それが普通だと思ってるから――それが”特別”だって自覚がないの」
「特別…?」
「特別だよ。それを辺り前だと言える人なんていない。少なくとも、私の知ってる人の中には、誰もそれを当たり前だなんて言わない。見返りを求めて、恩賞を求めて、ただ効率の為にその皮をかぶってるだけ」
一度決壊した抑制は脆く。
再び込み上げた感情の波は、何に阻まれるでもなく溢れ出した。
「前に言った、まことの思いやりが嬉しいっていうの、あれは本当の本当。兄貴の膝だって借りたことない。まことだから、まことだったから、今日おじいちゃんにも会えた」
「それは――いや違う、桐島さんがこの場所を…!」
こういうところなのだろう。
葵が嫌う、僕の弱さ。
自分の働きの一切を自覚せず、周りの天才たちが成したことに無理やり繋げる愚行。
しかし、だからといってそれが自分をプラスに評価できる素材ではなく。
「僕は……僕は、同情だとか思いやりだとか、そんなもので動いたんじゃない。気がする……何となく放っておけなかったから、ただ着いて来ただけだ」
後でもう一度受けてやると言った告白も、本当なら受け取れる立場にない。
桐島さんが透明だと言った内面も、本当ならもっと違い色の筈だ。
自身が持てないわけではない。
自身を持てる素材がないのだ。
プラスされない点数には、同点かマイナスしかない。
「それは――」
葵が呟いて、
「とっても素敵なことだよ」
と。
どこが素敵だと言うのだろう。
自分を捨てて他人だけ正当化する、これのどこが。
「素敵って、いや、どこが?」
「うーん……分かんない」
「へ…?」
「分かんない。でも、それでいいと思う。人間、これが正しいこれが悪いって、綺麗に分けられる境界線がないんだから」
「それはそうだろうけど…」
「なら、それを決めるのは自分。自分勝手に決めちゃって、いいんだよ」
「自分勝手に――」
「うん。勝手に仕切ってその中で自分を認めて。それくらいが人間らしいよ」
それが可能なら、人間の脳はとっくに電子化されている。と葵は括った。
まったく、その通りだ。
曖昧であるからこそ、曖昧に決めてしまえばいい。
本当に、まったくその通りな意見だ。
身近にいる天才たちをボーダーだと決めて、それに対して己を評価していたのが間違いだった。
いや、正しかったのだろうけれど、間違いでもあったのだ。
その境界線は、好き勝手に変えていいものなのだ。自分にはこれくらいしか出来ないと思うのではなく、これだけ出来るのだと主張してもいいのだ。
ものは言いよう。
自分で言っておいて、それに他人から気付かされるとは。
まったく、情けの無い話だ。
「すぐに変わるのは、難しそうだ」
「いいじゃん、ゆっくりで。どうせまだ十八なんだし」
そうだ。そうだった。
葵が年下で、何だか危なっかしくて、どこか兄心地になっていた節があったけれど――僕らは一つしか変わらなかった。
平均年齢まで生きられるとして、まだまだ先は長い。
「やっぱり、難しそうだな。葵の言い分だと、変わらなきゃ好いてくれる女の子も出来そうにない」
「まあ、そうだろうね。過剰なのも嫌だけど、自分も認められる人じゃないと」
「手厳しいな。程々に、自分なりに変われたらいいか」
「そういうこと。その時になって彼女の一人もいなかったら、もう一回告白してあげるよ」
「そ、れは……嬉しいけど、何だか慰められているような気が――」
「ふふ」
葵は悪戯に笑って、また僕の膝に頭を預けてきた。
そのまま、再び構えたスマホのシャッターをパシャリ。
パシャリ、パシャリ。
数枚撮って、ポケットにしまった。
「って、いい雰囲気なとこ悪いんだけどさ」
「何?」
「いつから、僕のお悩み相談室になったんだろう」
「言われれば。せっかくおじいちゃんと再会できたのに」
葵は膨れて僕の膝を叩く。
「痛い痛い」
「お詫びとお礼を兼ねて、あと一時間は貸して貰うから」
「痺れた時は開放してくれると助かる」
「ふん、嫌だよ」
べ、と控えめに短く舌を出して、通潤橋に向かい合う。
好きなだけ堪能してくれ。
それから程なくして集まった他の五人。
気が付けばいつの間にか眠っていた葵を起こさないように「しー」と人差し指を立てると、後で何があったか教えろと言い残して、それぞれこの場の観光へ。
桐島さんは少し離れた所から僕らの様子を観察し、夫婦は下から橋を眺め、姉妹は上からその風景を見下ろす形で一望していた。
安心したように寝息を立てる葵の髪を昨日のように撫でてやると、少しばかりの身動ぎの後で、
「おじいちゃん…」
と呟いた。
それは、昨晩見せた涙を含んでおらず。
意識の届かない夢の中で、悲しさではない感情で祖父と向かい合っている。
やっと、ちゃんと会えたんだな。
どんな夢で会っているのだろう。
場所は通潤橋だろうか。
当時のように祖父の膝を借りて、眠っているのだろうか。
今の姿で立ち会って、ここに来たよ報告でもしているのだろうか。
考え出すと止まらず、幾つもの幸せで素敵な場面が想像出来て、
「お疲れ様」
ようやく口に出せたその一言とともに、一滴の涙が僕の頬を伝った。
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