第16話 やっと

 ようやく辿り着いたそこは、文字通りの絶景だった。

 ゲリラ的な豪雨もすっかり止んで、雲間には光も差し込んでいる。

 数字では高さ約二十メートルだと書いてあったのを見ていたけれど、イメージではこれの半分くらいの大きさを想像していた。

 遠目にも巨大だと分かる橋は、近付けども近付けども、寄っていっている心地がしない程、荘厳で重厚な体躯でもってそこに存在している。


 葵は、橋が視界の端に入るや言葉を失って目を見開き、かと思えば肩にかけていた椅子を僕に放り投げて寄越して走っていき、今、


「おじいちゃん――」


 写真と同じ辺りに立ち、その思い出に直面していた。


 祖父の話になると途端に饒舌になっていた葵が、それを通り越して無言に。

 そこに立って目を閉じ、心で対話して、祖父と繋がっている。

 幻想的とも思えるそんな光景に、僕は幾何か目を奪われていた。


 しばらくそうしていると、葵はふと思い出したように「違う」と言った。


 何が違うのか。


 葵が立つ場所は、写真と同じ位置辺りのアングル。

 が、その周囲――いや、この通潤橋という場所そのものに、写真で見たような二つの膨らみがないのだ。

 それは桐島さんがはっきりと断言していたことだったけれど、葵本人はおろか、僕だって信じているようで信じられていなかったことだ。

 桐島さんが嘘を言っているとは思っていない。それでも、きっとどこかに、よく探せばあるのではないかと、少しばかり期待をしていた。桐島さんが見落としているだけだって、信じたかった。


 しかし、現実とはこれ無慈悲なもので。

 実際にこの目で見ると、それは何よりはっきりとした証拠となって突き刺さる。


「やま……二つの、膨らんだやつ――どこ、ねぇまこと…!」


 辺り一帯、ばらばらに目を送りながら葵が問いかけて来る。

 倣って僕も眺めているのだが、それはやはりどこにも存在しない。

 橋の下を流れる川辺には岩場があって、その上に少しの土があって、草が生えていて、それが広く続いていて――この自然だけが分布している空間に、抽象的にも見えたあれは見当たらない。


「おじいちゃん……まこと…! ねぇ、どこ……おじいちゃんがいないよ…」


 思い出の地に間違いないこの場所に、その影はなかった。

 同じ景色を眺めても、祖父と見た、祖父が視たその場所に立たなければ、その心に触れたことにはならない。

 桐島さんに「二つ目の依頼は叶わないかもしれません」と言われた時、それでも良いと言っていたのは――ただの強がりだったのだ。


 絶対に見つけよう、なんて言葉では格好良く言っておいて、自ら触れたここでは役に立たない。 

 誰の目にも明らかな現実は、言葉を越えたダメージを残して離れない。


「私が、ここに来たのは……おじいちゃん…」


 鋭い刃となって、尖った槍となって、細く頑丈な矢となって、葵の心を壊していく。


 見るに見かねて、僕はただ椅子をそこに設置した。

 役に立つかは分からないけれど、と葵が語ったそれだ。

 手早く広げて置いた椅子は存外小さく、小柄な葵が座ると”二人用”という文言が嘘のように埋まってしまう。


「ちょっとだけ、休みな。温かい飲み物も持ってきてるから」


 と偉そうに渡したのは、紗織さんから貰ったお茶の入った魔法瓶。

 自分で準備したのではないそれを自分の手柄のように渡して、しかし葵は口をつけないでいた。


 長旅もあって相当消耗しているのか、程なくして葵はこっくりこっくりと頭を揺らし始めた。


 お疲れ様。

 そう思っても言葉に出来ないのは、それが今は相応しくないと分かっているから。

 まだ一番の目的を達していないというのに、お疲れも何もないというものだ。


 実は凄く遠くの方から拡大して撮ったものではないか、といった安直な考えの元、僕は葵の元を離れて一人探索を再開した。

 ちらと振り返る度、葵の肩が沈んでいくのが分かる。


「どこだ…はぁ、はぁ…どこ……!」


 五十メートルは離れたか。

 どこまで行っても、同じ緑が広がるだけ。

 黒い二つの山など、どこにもない。


 それでも何か、何か似たようなものはないかと我武者羅に歩いている内、到着した岸家と桐島さんが、消耗した葵を敢えて避けて迷わず僕の方へと走って来た。


「見つかった?」


 そう声を上げたのは乙葉さん。

 勿論何も成果は得られていないので首を横に。

 桐島さんは、やっぱりといった、しかし複雑な表情をして溜息を吐いた。


 五人を巻き込んで、宛てどなく走り回る。

 奥へ、手前へ、遠くへ、近くへ。

 念のためにと対岸に渡って、同じように奥や手前え行ったり来たり。

 何が正しいのか分からない、堂々巡り。


 やはり、無駄だったのだろうか。

 覚えていることが全て”絶対”である桐島さんが無いと言うということは、本当にそれはなく、だとすれば葵が言ったように、ここに来た意味とは――。

 これでは本当に、手ぶらになってしまう。


「もう三十分が経ちます。神前さん――」


「まだです…!」


 僕は断った。

 桐島さんがその後に、休憩しましょうと言い出すことは分かっていたから。


 体力とか、そういう話ではないのだ。


「目が覚めてまたこれを見たら、葵は何も得られないままだ。また、何もないと涙を流す……それだけは絶対に、ダメなんです…!」


「冷静になれば、妙案だって思いつくこともあります」


「それを否定しているのは貴女の記憶力だ」


「いいえ。肯定しているのです。数値や図面には決して現れないもの。それが”心”です」


 桐島さんは僕の進路上に立ちはだかった。


「いいですか、神前さん。仮にそれを、運よく君が見つけられたとします。その時、誰が喜びますか?」


「それは……僕は、葵のために…!」


「いいえ」


 首を横に振った。

 力強く、全否定。


 そして僕の肩に手をやると、諭すように、促すように、ゆっくりと、


「高宮篤郎は、高宮葵の祖父です。神前真の祖父ではありません」


「そんなことは――」


「分かっている筈です。だから、どうか抑えて。私が「力になれず申し訳ない」と言った意味、もうお分かりでしょう?」


 それは、一週間前。

 場所を特定し、行くことは難しくないと伝えた後。


『お力になれず、申し訳ないです』


 そう、桐島さんは確かに言っていた。


 知らない。そこにはない。実在しない。

 そんな意味を込めた言葉だと、僕は思っていた。

 しかし、その実は――人の心に触れて良いのは、その人と関わりのある、思い出のある、確固たる繋がりのある者のみ。部外者の干渉は、返って対象を傷つける結果をも生みかねないということ。


 どこかで、分かっていた。

 葵の為にと思っていることは、本当は僕の自己満足でしかないということを。

 でも、そうでもしないと、葵は――せっかく遠い地まで足を運んで、はい無かったで終わらせていいわけがないのだ。

 それでは、とても浮かばれない。


「僕は――」


「神前さん」


 桐島さんは遮るように呼んだ。

 僕が何を言うのか分かっていて、それを上書くように、


「今の君は――混色です」


 混色。

 桐島さんの言うそれは”ぐちゃぐちゃ”だということ。

 色覚を感じる目で見た、今の僕の色。


 そうか。

 焦っていたのは、葵だけじゃなかったのか。

 焦る葵を見て、取り乱す葵を見て、僕にすがる葵を見て、一番焦っていたのは――


「さっき別れた時の君は……少なくとも、濁ってはいなかった筈です」


 そうだ。

 僕は、葵の為に――


 思いは変わらない。

 変わっていたのは、心の在り方だけだった。


「桐島さん」


「はい」


 目が覚めた葵に、しっかりと現実を見せて。

 その上でもう一度、探そう。


「僕にも椅子をください。少し休んで、その後に」


「えぇ、分かっていますとも。琴葉さん」


「は、はい…! はいこれ、まこっち」


「…ありがとうございます」


 琴葉さんが持っていたそれを受け取って開いて、葵からはやや離れたそこに設置して、一旦心を落ち着かせようと深く、深く座った。


 気持ちに反してそれは、意外にも効果的に心を落ち着かせてくれて。

 辺りを眺めていると、少し穏やかになった。


―――


 二十分くらいそうしていた頃だろうか。

 葵が椅子を引いて僕の横に来て、黙ったままでその場に留まった。

 何も話しかけてはこないので、僕も黙ってただ存在しているだけ。


 空気が美味しい。

 風が心地いい。

 葉の擦れる音が耳に楽しい。


 そんな感覚すら覚えてしまうくらい、ゆったりと、ただ時間だけが過ぎていく。


「うっ…うぅ…」


 不意に、小さな嗚咽が耳を打った。

 右耳――葵が陣取っている方からだ。


 それは次第に、振り返る必要もないくらい、明らかに泣いていると分かるよう耳に届いて、僕はどうにも言葉の掛けようが見つからず、それを受け止めるばかり。

 アクションを起こさない僕に、しかし葵もそれ以上何も言わないで、ただたまに鼻水をすする音だけ混ざって聞こえて。


 それ以上酷くも、逆に弱くもならない状態が続くと、やがて葵は僕の方へ倒れて頭を預けてきた。

 泣きすぎて、顔に力を入れ過ぎて、嗚咽を漏らし過ぎて、頭も居たくなったようで力がない。

 重力に負けたかのようにふらりと倒れてきた葵を受け止めて、自然、そのまま膝に持ってきた。

 華奢な身体に見合った、細い首筋から伸びた小さな頭部は、先日助けた子猫よりも軽く思える。

 これで本当に人間の頭なのかと、不安にすらなるくらいだ。


「うっ……おじいちゃん…」


 目元を伝って零れた涙がズボンに溶ける。

 染みて伝わった肌は冷たいけれど、それは確かに、慈愛に満ちた温かみを帯びている。


 それだけで、この休憩が終わった後のやる気にも火が――


 と軽く意気込みかけていたところで、つい先ほど桐島さんから受け取っていた葵のスマホが鳴った。

 表示されたのは”新着メッセージ:兄貴”の文字。


 中身は見ないままで葵に渡そうと手を伸ばすと、


「こっち、見ないで……今、絶対きたない顔してるから」


「人のズボンを散々濡らしておいて何を。はい、遥さんからだよ」


「……こっち見んなぁ…貸して、自撮りカメラですぐに――」


 強引に取り上げ、顔を確認するからとカメラを起動させた時、葵の表情が一辺した。

 目を見開き、呼吸を止めて、ただその画面に食いついて固定されている。


 と、葵が呟くように、


「いた……」


 震える唇を頑張って動かして、確かにそう言った。


 いた。

 居た。


 祖父が。


「そっか……私、おじいちゃんと話してるうちに寝ちゃってて……それで…思い出した……思い出したよ、全部」


 また、微かに嗚咽を浮かべながら。

 ただそれは、先程までのものとは違って。


 葵が正面に構える、カメラを起動したスマホ画面が写しが出すそれには、その先にある通潤橋が中央全部を陣取っているのだが、その画面左。


「あの時……そう、あの時、私はこうやっておじいちゃんに……」


 携帯電話を縦に構えた状態の人が寝転がると、それは自然と映り方が変わって。


「なるほど――」


 画面は横向き、か。

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