第12話 夕餉とお話
母親からの死刑宣告を受けた二人は、僕と葵を連れて家に向かう道中、ずっと黙ったままだった。
感情の昂りに比例するかのように飛び出した方言で放った内容は『そういうことなら、おばさんに任せときなさい。お客さん二人には夕食を食べておいてもらって、脳みそ壊れるまでしっかり叱っておいてあげますから』と穏やかなものではない。
近い近い未来で起こる惨状を想像して、とても食事どころではいられそうにないなと思った。
と、そう思っている間に、歩いていれば無常にもそれは近付いてくるもので。
気が付けば二人が『岸』と表札のある家の前で立ち止まった。
「ま、窓から入ろうかしら…!」
「い、いいや、ここはマックで時間を潰すっていう手も…!」
なんと往生際の悪い二十過ぎか。
僕ら二人を連れている時点で、貴女たちがここにいることはすぐにバレようというもの。
「マック、近いのは二キロ先」
葵が短くそう言ったことで、二人はようやくと観念して一歩ずつ重い足を進めた。
恐る恐る、少しだけ開いた扉から琴葉さんが中の様子を伺う――と、その顔が一瞬にして青ざめた。
南無、と手を合わせる僕の前では、その様子を見ていた乙葉さんまでもが固まってしまっている。
そうして完全に開かれた先では、エプロンを着けたままで姿勢を正し、微笑みを浮かべる長身女性の姿が。
なるほど、怖い。
背後に一瞬、般若が見えたのは僕だけではないのだろう。
不出来な娘二人の奥に僕らの姿を捉えると、深く、深く頭を下げて、
「いらっしゃい。そして、どうもすいません。今回のこれ以外にも、さぞや振り回されていることでしょう?」
沸々を怒りを募らせながらそう言った。
あまりの気迫に気圧されてあわててかぶりを振って否定する僕と違って、葵は隣で不満そうな表情をしていた。
あれを思い出してしまったのだろう。
と、途端にお母様の表情も変わり、文字通り”鬼”のような形相に。
二人の首根っこを掴んで、
「リビングに夫とお鍋が待っております。お二人はそちらへ」
「は、はい…!」
「お邪魔します」
客である僕ら二人の返事を聞き届けるや否や、ゴミ袋のように二人引き摺って二階へ。
この威圧感に動じない葵のマイペースさは、もはや流石の一言だった。
靴を脱ぎ、揃えて立ち上がると同時に、廊下の奥の方から漂ってくる白湯スープと思しきものの香りが鼻腔をくすぐった。
そういえば大学では飴玉一つしか食べていなかったなと、一瞬にして腹の虫が五月蠅くなり始める。
「おっきな音」
「うるさい。行くよ」
わざわざ声に出して恥ずかしさを冷静にいじくって楽しむ葵の手を引いて、その香りがする方へと足を進めた。
辿り着いた廊下最奥の右手の扉の奥では、部屋の灯りが点いている。後ろ、手前の部屋の一切が真っ暗なであるということは、ここがリビングで間違いないのだろう。
先の琴葉さんとは別の意味での緊張感を纏い、思い切ってスライド扉の持ち手に手を掛けた。
「お、お邪魔します……」
顔だけで覗き込んで中の様子を確認すると、
「いらっしゃい」
ソファに腰掛けてテレビを観ていた男性が立ち上がって振り向いて、僕らの顔を交互に見つめて優しく言った。
そうしてそのまま少し歩いてこちらにやってきて手を差し出す。
「娘たちが世話になっているようで。父、
「ご、ご丁寧にどうも…! 神前真、それとこっちが本題の高宮葵です」
手を取り、余計に葵の名乗りまで入れて自己紹介。
お父様は穏やかに微笑んで、僕から話した手を葵にも差し出した。
「よろしく」
「よろしくお願いします。高宮葵、十七」
「丁寧にどうも」
葵にも優しく笑ってみせた後で訪れ静寂の後ろでは、お母様の怒号が飛んでいた。
お父様は苦笑いして一息、僕らを席に着かせるよう促した。
決まってはいないが、と前置いて、今はいない三人がいつも座っている椅子だけ教えてくれる。
四角い机の一方にはお父様一人、右側はお母様、その対面には姉妹二人。
友人と食事をすることが多いからと、余った一辺には二つの椅子が設けてある。
自然、僕らはその二つを引いて腰を降ろした。
「積もる話はおいおい。好きに取って食べておくれ」
「は、はぁ…ありがとうございます」
「いただきます」
「少しは遠慮しなよ」
「良いって言った」
「それはそうだけど。せめて礼の一つでも…」
大黒柱を前にしても動じない葵。
マイペースさ前回で、早くも用意してあった箸を手に持っている。
「はっはっは。何、いいとも。真くんも遠慮なく」
「俺が言うのもなんですけど、すいません」
「気にしなくていい。ほら」
と、僕の前にあった皿を取って、こともあろうか取り分けてくれる。
ここまで親切で優しいと、むず痒くて逆に居心地が悪い。
深く礼を言って、取り分けて貰ったそれを受け取る。
隣では既に、葵が食事を始めていた。
人参に白菜に白滝と、容赦なく食べ進めている。
お父様はお父様はお父様で、僕のものに遅れて自分のものを取り分けて食べていた。
「い、いただきます」
控えめにそういって一口。
美味しくて頬を緩めていると、目聡くそれを見ていたお父様が「母さんのオリジナルだ」との情報を寄越してきた。
わざわざ手羽から出汁取りまでしていたのか。
味付けは完璧、僕好みの過ぎない程度の濃さだ。
「美味しいだろう? 母さんの腕はちょっとしたものだ」
「ええ、とても。おかわり、頂いてもいいですか?」
「全部食べる勢いで構わんよ。具材に余りもある」
促されて取り分けて、戻る際横目に見えた葵皿にはまたこんもりと具材が盛ってある。
既に新しい一杯を……恐ろしい速さだ。
二杯目に手を付けている最中、遅れてやってきたお母様と姉妹。
息も切れ切れ、満身創痍といった具合にへたったまま席についた。
一体どれ程の――と心配したのも束の間、飴と鞭式にお母さまが取り分けたそれを一口食べるや、すぐに機嫌を直して幸せそうな笑みを浮かべる。
呆れた様子でお母様も自分の皿によそって、最後に「いただきます」と箸を握った。
「お口に合うかしら?」
「大変美味しいです。ガラから出汁取りまでしたと、お父様から伺いました。すいません、わざわざ手間をかけさせてしまって」
「別に、趣味みたいなものよ。時間をかけて美味しい料理をするのが好きなだけ」
「それはまた、いいご趣味ですね」
「あら。二人のどっちかと結婚でもすれば、ずっと食べさせてあげても良くてよ?」
そう言う口の付いた顔は、悪戯に染まっている。
「謹んで遠慮を」
「あらあら」
わざとらしく頬に手を添えて、ふふふと微笑むお母様。
と、遠慮などどこ吹く風といった様子で三杯目に箸をつけていた葵が手を止め、手を膝に。
「お招き、ありがとう…ございます。とても、美味しい」
敬語になれていないのか、途切れ途切れの感謝の言葉は、ぎこちなく頭を下げる動作も相まって、カタコトの日本語を話す外国人然としている。
今度は悪戯でなく優しい笑みを浮かべて「気にしないで、沢山食べて頂戴」とお母様、「敬語でなくとも構わんよ」とお父様。
フレンドリーさ溢れる姉妹同様、種類は違うが付き合いやすいご両親だ。
それを受けた葵は「じゃあ」と置いて、再び食事に没頭し出す。
お母様は「よく食べるのね」と笑うとすぐに、僕の方に目をやった。
「真くんも、遠慮なんて一切いらないのよ? 葵ちゃんと同じくタメだって構わないわ」
「それは流石に、僕の中の倫理感と言いますか…そんな感じの何かが許さないので」
「真面目なのね。まぁ、何でも好きにしてくれて構わないわ。あ、っと、そうだわ。葵ちゃんは娘たちの部屋に泊まってもらって、真くんは空いてる一部屋に布団を敷いて――って、行った方が早いわね。食後に案内するわ」
「何から何まですいません」
来てしまったからには断れないけれど、場所さえもらえれば、念のためにと持ってきていた寝袋で眠ろうと思っていた。
が、自然体で優しさ溢れる二人の前は、どうも断れる雰囲気ではない。
結論、甘んじてそれを借り受け、部屋の提供までしてもらうことに。
それからは、締めの雑炊にデザートのリンゴを頂いて、夕食は終了。
片付けまで全て任せてしまう訳にもいかず、皿等の場所は指示を貰いながら手伝うことにした。
葵は二人に連れられて部屋へ。
他人の両親二人だけしかいない空間の居心地が悪くない不思議は、きっとこの人たちの温かさだ。
「丁寧に洗ってくれて助かるわ。お父さんもたまに手伝ってくれるんだけど、洗い残しの多さに定評があって――」
隣ではずっと、お母様が楽しそうに話している。
背後少し離れたところから、お父様も参加して「お母さんが綺麗好き過ぎるんだよ」と。
仲の良さが伺えるそんな会話に、緊張の糸などとうになくなっていた。
「そういえば」
僕が洗い終えて手渡していく皿の水気をふき取りながら、お母様が呟いた。
聞けば、先の電話でのやり取りのこと。
お母様に代わる前に聞こえた”直接関わりはない”というフレーズが気にかかっていたらしい。
どうして、サークルのメンバーでもない僕が、同じくメンバーでない女の子と一緒になって天文部と繋がったのか。
「言っても良いのかな……葵に関わることなんですけれど――」
人の事情や私情を、易々と他人に話す趣味はない。
しかし、僕のことを語る上では今回の仕事について、どうしても触れる必要がある。
と、渋っていた僕の言葉を遮るようにして部屋に入って来た葵。
お手洗いに降りてきたら、静かな廊下に立つと偶然中の会話が聞こえたらしく、渋る僕に話させるのも悪いからと入ってきたのだと言う。
僕にはそのまま皿洗いを続けるよう命じて、葵はテレビの前に設けられたソファへ。
画面を正面に、まるで独り言のように訥々と語り始めた。
「去年、おじいちゃんが亡くなった。そのもっと前に両親も事故で向こうに行ってて、おじちゃんはその代わりをしてくれてた」
そんな衝撃的な導入文句に、二人の表情は一切の同様も見せない。
恐らく葵も、視界の端それを捉えているだろうけれど、こちらもトーンを変えずに続ける。
「いつだったか連れて行ってもらった所があって。凄く綺麗な場所で、おじいちゃんといっぱい話した、一番思い出深いところ。でも、あんまり世間を知らない私だから、多分一回二回は聞いたんだろうけど、そこがどこにあるか、何て名前だったか覚えてなくて……そんなある日に見つけたのが、とある小さなお店。そこの若い女の店主は、写真を見せた瞬間に一目でそこが何だか見抜いた。それで私がその場所に行くってなったら、まこ――お兄さんも着いて行くことになって」
正確には、着いて”来させる”ことになって、だが。
葵の方から勝手に言い出したことを、もう忘れたのだろうか。
嫌な気はしないし、今必要ではないから言わないけれど。
葵の語りに、お母さまは「そう」とだけ優しく言って、お父様含め、そちらからはそれ以上の言及はしなかった。
一気に沢山喋って喉が渇いたのか、ふらっと立ち上がって机の方へ。
夕食時に使用していたコップを手に取り、傍らにあったピッチャーから既に生ぬるくなってしまっているお茶を注いで飲み、ふぅと溜息を漏らした。
遥さんが言っていたけれど、葵が自分から強く何かを願うことはないらしい。
昔から祖父の状態のことを知っていて、残った祖父が親代わりになってくれて、悪化していく症状に何も強請りはしなくて。
長い年月を遠慮遠慮で過ごしてきたものだから、その意思が強く根付き、部活すらも進学に必要ないと見て中学高校と入っていないと言っていた。
やがて、お茶を葵が飲み終える。
それと同時にお父様の方が、
「辛かったろう、なんて簡単には言わん」
と呟くように一言。
次いで葵の目を正面に捉えて、
「だが、なら尚更のこと何の遠慮もいらん。存分に頼ってくれていい。その目的を果たすために、私も母さんも努力を惜しまんと約束しよう」
葵は目を見開いて固まった。
滑り落ちたコップから僅かに滴るお茶の一滴二滴には目もくれず、ただお父様と向かい合う。
「初対面だが、君は素直で良い子だと私は思う。神様の巡りあわせに感謝だな」
「え…と」
「明日はよろしく、高宮葵さん」
再び差し伸べられる手。
葵はそれを強く握って、薄っすらとではあったけれど、確かに笑って見せた。
短く一言だけ放って以降黙って見ていたお母様は、目を伏せていた。
本当に、なんて……なんて、温かい家庭なのだろう。
ともすれば、葵の表情に涙の色すらも伺えそうだ。
「あと一枚よ。終わらせちゃいましょうか」
「え……? あ、は、はい…!」
言われて気が付けば、デザートに出されたリンゴを載せていた皿一枚だけがシンクに残っていた。
急いで、しかし雑にならないように洗って手渡す。
「ありがとう」
「いえ、このくらいは…お母様には、わざわざ手料理まで振舞っていただいたこともありますし」
そう返すと、
「その、お母様っていうの。それだけは、何だか固くて好かないわ」
「え、では何と…?」
「おばさんでも、普通に下の名前で呼んでくれてもいいのよ?」
「下の――って、そう言えばお名前、まだ聞いてませんでした」
「そういえばそうね。コホン、では改めて――」
わざとらしい咳払いを残して、拭き終えた皿を置いて向かい合う。
「
「よ、よろしくお願いいたします」
遅ればせながらの自己紹介を終えて、その瞬間呼び名は”紗織さん”に、後ろから「自分も名前で構わん」と言うお父様の方は”誠二さん”に決まった。
そうして諸々を終えた頃、時刻は既に十時前。
風呂を沸かしてあるからと、僕らを先に入らせてくれようとするのだが。
男と女、どちらが先に入るべきなのかを議論しながらリビングの扉を開けて廊下に出た瞬間、視界に飛び込んで来たのは目元を涙で濡らす姉妹二人。
お手洗いの場所を伝えていなかったと、一拍置いて葵の後を追いかけてきて、僅かに聞こえた室内の会話に入るタイミングが掴めぬ内、全て聞いてしまったのだそうだ。
しかし、
「なんで、二人が泣いてるの?」
尋ねたのは葵。
もっともな疑問だった。
嗚咽すら交ぜながら涙を流す二人。
すぐに言葉が出てこない年上を、葵はそっと両腕の中に収めた。
「そういえば、話してなかった。心配、かけた?」
瞬間、二人揃って糸の切れた人形のように膝から崩れた。
「事情知ってたら、もっとちゃんと色々と……帰るって怒りだした理由、知らなかったから…」
「別にいい」
「よくないよ…! そんな葵ちゃんを、初対面なのにあちこち触って……胸も――」
「それはほんとにいい、忘れて」
「うっ……うぅ…」
感情を素直に言葉で吐露する琴葉さん。
ただ静かに涙を流す姉の乙葉さんの言い分は、妹と同じなようだった。
「あ、りがとう……ありがとう、乙葉、琴葉」
葵も、正直な言葉しか出てこない。
出会って計画まで立てた後の、順序が逆になった正直と正直。
せっかくのそんないい雰囲気も、「今なら…」と泣きながら伸ばした乙葉さんの手を避ける葵の華麗なステップによって見事、悪くない台無しに終わった。
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