残照

@kounosu01111

第1話

(一)

 私の店は、昭和五十六年に開店した。従業員は佐久間・五味・宗像・柳瀬・それに私の5人で始めた。

宗像と五味は私の手持ちの人物であった。周囲のビルにポスティングし、駅まではチラシと共にティッシュペーパーを配り、あとは客の入るのを待つだけになっていた。

ビラ配りの際、佐久間さんが「社長は緊張してるから、私に任せてください」と言った。私は、その日は三百名の客が入ると思い、その仕込をしていた。

食パンを九ミリで切り、十人分用意した。それに加え、ツナトースト用に、イギリスパンを十ミリで切り、五十人分用意した。残りはトースト用に三十ミリの厚さに切り、五十人分用意した。それはピザトースト用と、ツナチーズ用だった。


 厨房は勿論私であった。佐久間さんは、富田氏が送り込んだ社員であった。彼が働くのも一ヶ月と限られていた。開店当初は、別に何の感慨深いものなど無かった。そんな冷静さに私自身が驚いていた。

私の調べた限りで、昼食時は満杯になるはずだった。朝は近所に住む韓国人が多く来、四・五日経つと、「ここは潰さないから!」と励まされたりした。

その彼は南さんという、在日韓国三世の人であった。私は、その励ましに心強くなった。客の半分は韓国二世や三世の客だった。南さんに至っては、「今日は客の入りが悪いナー!」と言って、同胞の客五人を引き連れて来た。

その後毎日決まった時間に現れる鈴木さんという、私の父と同年輩の人物が毎日奥様連れで集った。彼は、隣のビルに入っているザノンという貴金属会社に、品物を納品に毎日来る人であった。

私はその人にも勇気を貰った。「君は、俺の息子とは出来が違うなー」と言って私を慰めてくれた。「自力で開店させたのだナ?」と聞いてきた。

 実は、六曜館はチェーン店で、富田氏が経営していた。その富田氏と、千二百万円ずつ出資し合い、開店にこぎつけたのであった。

喫茶店の場合、従業員の開店が早すぎるのが難点であった。一ヶ月で佐久間君と柳瀬君を、御徒町の六曜館に帰し、新たに採用したのが佐々木君と高橋君だった。

佐々木君がオカマであることは、第一日目で判った。当時はフェミニストや男女雇用均等法など、まだ無い時代であった。高橋君は明るく面白い人物で、今では水道設備会社の社長に治まっているが、その彼が私の店で働き出した時は二十一歳で、己の目標は喫茶店を持つというものだった。

その彼は明治大学を出、親が歯医者をしているという人だった。その彼は、私をよく観察していたもので、「社長!社長!大変な問題が出てきてしまったんです!」と水でビチャビチャの顔と頭で、「社長!社長!私は大変な失態をしてしまったんです!」という始末。

彼は大便をしにトイレに入って、ふんばっていて、前方の配管を掴んで用を足していたらしい。大便が出た途端その掴んでいた配管を強く引いてしまい、途中で配管が抜けてしまい、その水を己が全身に浴びてしまったらしかった。

私はその話を聞いて大笑いをした。「社長の笑う顔を初めて見ました!」と彼は言った。

 その通りだった。私は何事も真剣になりすぎ、笑い方を忘れていた。そんな大笑いは初めてだった。それまでも、私は笑った記憶が無かったのだ。私に笑いをもたらせてくれた高橋君に感謝したい。

今の私も笑ったことなどない。子供を育てているときも笑ったことがないのだ。彼は、その後半年で結婚すると言って辞めていった。その彼女の親が水道設備会社の経営者だった。

彼はそこまで深く考えていなかったろうが、結婚した女性の兄が次の社長になるはずだったが、頭が悪く仕事にも熱心でなかったらしい。そこで彼が次期社長になるよう仕組まれた様子らしかった。

 その彼と、十年後にコンタクトを取ることになった。それは、真面目で大人しい宇野君の就職を頼もうとしたのだ。彼は母一人で育てられ、上の兄が身体障害者で何の仕事もできず家に臥せっているらしかった。

その彼は親に勘当されて、喫茶店もやれるのか判らなくなったらしい。大学も苦労して入ったそうだ。それにしても彼の明るさは商品だった。

 佐々木さんは同棲中の女性に「ポエム」というスナックをやらせていた。私も一度だけ彼に連れられて行った。そこは浅草の千束町だった。いわゆる色町で賑わっていた。

その彼女が身につけているものは、時計・宝石・着物等、全て百万円を越えているものだった。

私はオネエ言葉を使う彼に「こんな景気は一過性にすぎないんだから、あまり浪費するんじゃない!」と苦言を呈したことがあった。

 私が二店舗目の御徒町店を営業させて、平成五年の三月に、彼は仕事中に私に窮状を言って、私から十五万円を受け取ると、その晩夜逃げしていた。

妻のブランド物は、全て借金で買っていたという。その後に信用銀行がバタバタ潰れていった。あの頃は信用ある銀行でも株価が三百万円代の取引無しの状態だった。

その後に古橋君が入ってきて、従業員に染井君と小原君が加わって、上の店は大繁盛の成行きになるのだった。

 親が離婚し、祖母に育てられたという染谷君が来て、私は初めて楽になった。その頃から、メニューの多くはパスタになるのだった。アルデンテ、と客が言いはじめたのはその頃からだった。

私の店では、ナポリタンとカルボナール・タラコスパとバジリコの塩スパが良く食されて行った。珈琲を納品していた。日米珈琲の配達員が、「社長!今月の仕入れは、銀座の資生堂パーラーより多いですよ」等と言い私を嬉しがらせた。

それと同時に、上の店の南にあったカラシニコフという喫茶店がなくなって、チェーン店のキッチンジローが開店した。その店の影響はほとんど無かった。

それよりも問題になったのは、店から歩いて二、三分のところに出来た「タウン」という十店舗を持つチェーン店の開店だった。私はコックのとき覚えたカレーとハヤシライスとメニューに加えていた。

勿論デミソースは缶詰であったが、後の味付けは店独自のものであった。これも当たり、四合炊きの炊飯器が三大も並ぶようになってしまった。

 この頃染井さんが辞めることになった。店の出前先の社長に騙されて、家賃が十二万円のマンションに住み始めたのである。私はその社長に苦情を言うと、百貨店の多慶屋のビルの裏に呼び出され、暴行を受けたのである。

私は翌日からパンダのように、目の周りを黒くしながら仕事に就いたのであった。その社長の会社はサラ企業だった。

暴力団のような人物が事務所に出入りしていたのである。

 その頃、小原君が第一回目の辞職をしていた。第一回目というのは、彼は三回も出戻っているのであった。その度に私に「根性なし」と言われている。

彼は社会を甘く見すぎている。調理師試験には受かったものの、宅建には受からなかった。それが、彼の二度目の退職で、三度目はドトールの厳しいマニュアルについていけなかったらしい。

木村氏がサブの立場で居てくれたので私は楽だったが、小原君は嫌っていた。木村氏は、年老いた母親の介護をしていたのであった。木村氏は二人兄弟であって、二人で介護をしていたのだろうが上手く行かず、「社長!母が病院に行こうとしないので困っている!」等は私に打ち明けてくれていた。

私もその後二人の介護を助けたが、言うことを聞いてもらえず大変であった。それが小原君には判らなかったらしい。その後、小原君自身も経験することになるのだが、三十二歳の当時には木村氏の煩悩は理解しがたいものであったのだろう。

私には、木村氏が自律神経症になっているような気がした。仕事中に独り言を発するのだ。その頃、十年も前に辞めていった宗像氏が仕事を求めてやってきたり、ねずみ講式の洗剤を売ろうとする水野さんが来て、私に説教されている。

彼が勧誘したのは、豊田商事指揮のねずみ講だった。私は、彼をこっぴどく怒り、「そんなに簡単に儲かるんだったら、三百万の貯金通帳を私の目の前に持ってきなさい!」と追い返した。

その後「鴻巣さんに怒られ会社勤めを辞めずよかった」と言いに来た。彼は、六曜館の渋谷君を再生させるときの仲間だった。

 もう一人豊田商事に騙された単純な男を知っている。彼は、私がアルバイト時代を送った「舟団」の神田店の店長であった。その当時の私は二十七歳であった。若かった。若すぎた。

私はある女性と付き合っていた。現代画廊にもよく行った。私の一番輝いていた時期に当たる。その頃は、今の私のような孤貧を守る人間になるとは思っても見なかった。

意気揚々と世間の荒波に渡っていけるものと思っていた。希望と野望の塊であった。三十歳までには、自分の店が持てると思って冨田社長との共同経営も出来ると思っていた。

そこまでが難産であって、開店してしまえば、自信もあった。彼女との仲も良かった。

 そこに、田口美智子が入ってきたのである。私も、自身がこれほど作画のコレクション熱が入るとは思っていなかった。

 今の私に文章と絵が無くなったなら、生きていけないだろう。渡邊氏に掛けて見るしかない。私の人生はどこで失敗したのだろうか。

店を開店させた時か、それとも中川女史を失った時かはわからない。それでも生きる他無い。私の目の前を通り過ぎていった女性に鈴木さんがいる。彼女は大和銀行の女性営業ウーマンだった。

彼女には私が二十三枚もの便箋に手紙を認めたが、何の音沙汰もなく終わっている。当時は三畳一間の生活で、御徒町の「六曜館」でバイトをしていた。

 次の目の前を通り過ぎていったのは磯部さんだった。その頃は、荒川区の尾久の四畳半の部屋に住み、神田の舟団でバイトをしていた時であった。

彼女は「あなたを好きになってはいけないんでしょうか?」と言って通り過ぎていった。

 次は、私より二歳年上の上条さんだった。彼女は、神田の寿司屋の女将で私の店へタクシーで駆けつけてくれた。彼女は私をパトロンのように酒場へ連れて行ってくれた。

ただそれだけの思い出しか残せない、バカな女だった。彼女は六十歳になってから、生活保護を受けていたようだった。落ちるところまで落ちていった。

彼女の子供の安葉やブンチンはどうやって生きているのか気になる。気になるだけで何も考えない。彼らは彼ら、私は私。今の状況では何もできない。

 乳がんでなくなった池田女史もいた。彼女とは一度だけホテルに入ったが、私の男根が彼女の無毛な体に萎縮して役に立たなかった。彼女とはその時以上に深くはならなかった。

彼女は亡くなるまで私の店の客であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。それは、私が店を持つ前でも同じで、最後に出来た時には乳がんが末期症状だったらしい。

 一番深く付き合ったのは中川女史だった。私と同年で、船主協会でOLをやっていた。彼女は良く本を読み、映画も観ていた。彼女とはホテルや旅館に泊まったこともある。

だが結婚までには至らなかった。彼女の要求は、子供を二人生み、一人に中川の姓を与え、もう一人は鴻巣家の跡取りとする……。とのことだった。

それとも私が婿養子となり、中川姓を名乗ってほしいということどあった。その頃彼女は宅建の試験を受けようとしていた。その上、司法書士になろうとしていた。

才色兼備で、上品上情の清楚な女性だった。私が彼女を嫌ったのは、セックスを好まぬ彼女と「水商売をしてる男なんてロクな奴はいない!」と言う彼女の両親の意見だった。

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