いつかまた君と、ここで

 見上げれば青い空。視線を下げると水平線が横に長く伸びている。海は空よりも青い。

 さらに視線を下げると、海岸線が見えた。白い砂浜ではなく、洗濯板のような岩が広がっている。

「『鬼の洗濯板』と呼ばれてたらしいよ」

 篤志の目線と同じ高さに展開している仮想ディスプレイに、この場所の説明が表示されていた。

 ここは、かつて九州南東部にあった宮崎県の景勝地の一つだという。

「洗濯板なんて映像資料でしか見たことないけど、確かに似てるね」

 ガードレールにもたれ掛かって、美帆は眼下の光景を眺めていた。

「ねえ。もっと近くで見てみよう」

 美帆は、篤志の返事を待たずにガードレールを乗り越えた。その先は断崖絶壁になっているが、美帆は軽々と地面を蹴って飛び出した。

「美帆!」

 篤志がガードレールに両手をついてのぞき込むと、美帆が軽やかに『鬼の洗濯板』に着地したところだった。

「仮想夢の中なんだから、大丈夫に決まってるじゃない」

 篤志を見上げ、美帆が笑う。

「そうだけど……」

 いきなり飛び降りられるのは心臓に悪い。

 ここは仮想夢の中だ。仮想とついているが、夢と同じようなものなので、現実ではできないようなこともできる。けがをする心配もない。

 篤志は、一定の距離を保ってついてくる仮想ディスプレイを手を振って消すと、美帆と同じように崖の向こうへ飛び出した。


 仮想夢は、地下都市〈高春〉で最近流行っているレジャーである。

 詳しい仕組みを篤志は知らないが、ヘッドギアを装着して、リクライニングシートに座りリラックスをすると、意識は仮想夢の中へ移動していた。いや、移動するのではなく、装着者の意識が仮想夢世界とつながる、という説明をされた気がする。

 ともかく、その仮想夢は精巧に作られていて、現実と錯覚するほどだ。

 篤志と美帆が体験している仮想夢の世界は真夏の設定になっていて、肌を刺すような強烈な日差しと熱気を感じる。

 この圧倒的な現実感と、失われた地上の光景が売りであり、流行の要因なのだろう。

 数百年前に起きた自然災害による環境の激変で、人類は地上に住めなくなってしまった。今は地下都市で生きている。人体に有害な大気が充満しているので、もはや地上に出ることすらかなわない。

 自然災害の影響や地下都市への移住期に起きた混乱で、地上の景観は、人類が地上にいた頃と激変しているという。

 二人が見ているのは、遙か昔、地上に存在していた過去の光景だった。

 地下都市は広いが、地上には到底かなわない。広い空も白い雲も青い海も、疑似的に作られたものは〈高春〉にもあるが、本物には及ばない。

 本物は、もはや映像資料や仮想夢の中にしか存在していないが。

 地上に住めなくなっても、地下で生まれ育って地上に一度も行ったことがなくても、だからこそ、地上へのあこがれを抱く者は一定数存在する。

 篤志と美帆も、失われたものへのあこがれを抱いていた。もう二度と手に入らないゆえに、触れてみたくて仕方がなかった。

 用意されている仮想夢世界には様々な時代や場所があり、さらには現実世界だけではなく、空想世界もあるそうだ。

 まさに、手軽に旅行気分が味わえる。

 手軽とはいっても、高校生がデートで行くには、少々奮発しなければならないが。仮想夢体験は時間制で、二人の小遣いでは一時間がやっとだった。

 篤志と美帆が今いるのは、二十一世紀初頭だ。肌がぴりぴりとする日差しだが、天気は良くて風も穏やかだ。美帆と並んで海を眺めていたときには、海面で飛び跳ねるイルカを見つけて興奮した。

 目の前に広がるのは果てしなく青い海と空で、世界は本当はこれほど広かったのかと、ただただ喫驚した。一時間しかいられないのに、二人してしばらく見とれていた。

「すごい! 本物みたい!」

 美帆が、洗濯板といわれている岩の表面をなでて歓声を上げる。

 崖の上からだと、映像資料にあったような、人が手で扱う大きさに見えた。

 だけど、これは『鬼』の洗濯板だ。近くで見ると、一つ一つの幅は大きい。階段より幅があるだろうか。この岩で洗濯をする鬼は、見上げるほど巨大なのだろう。

 篤志もざらりとした表面をなで、潮だまりで小さなカニを見つけた。それを美帆に教えると、目を輝かせてやって来て、小さい、かわいい、とはしゃいだ。

「波も水も、本物としか思えない!」

 仮想夢体験は、二人とも今日が初めてだ。

 想像していた以上の現実感と、未だかつて見たことがない青空と大海原に、高揚しっぱなしだ。

「本物の海も空も、俺たちは見たことないけどな」

 篤志が少々意地の悪いことを言うと、わかってるよ、と美帆は頬を膨らませた。

 それから、しゃがんで両手で海水をすくう。まさか飲むのかと思ったら、その水を篤志の顔にかけた。

「うえっ、しょっぱい!?」

「でも、本物とそっくりじゃない」

 してやったり、という顔で美帆が笑う。

〈高春〉の人工海水浴場に行ったことはあるが、水は塩辛くなかった。

 それに比べたら、ここは全然本物だ。目にも少し入ったようで、痛い。こんなところまで本物らしいとは。

「ああ、もう我慢できない」

 くるぶしまで海水に浸っていた美帆が、いきなりブラウスを脱ぎ捨てた。

 放り投げられた淡い緑色のシャツが、波間にたゆたう。

 篤志はぎょっとしながらも、美帆をここまで大胆にさせるこの世界の開放感に感謝し、すぐにがっかりした。

 美帆は、ブラウスの下に濃い緑のタンクトップを着ていたのだ。

「冷たい。気持ちいい!」

 白いスカートの裾を大きく翻し、美帆は沖に向かって走っていく。すぐに腰までの深さになって、スカートは海中でふわふわと揺れていた。

 篤志は気をつけろよ、と言いながら、揺れるスカートのあたりに視線が釘付けとなる。

 波と光の反射で、確かな輪郭が見えそうで見えない。お、と期待した瞬間に水面が揺れて、美帆の輪郭は大きく揺らぐ。

「篤志も、海、入ろうよ」

 美帆が大きく腕を振る。タンクトップの脇から、やはり見えそうで見えない。

 美帆の声に誘われたのか、見えそうで見えない状況にしびれを切らしたのか、その両方なのか。

 ともかく、篤志は吸い寄せられるように海に入った。

 ジーンズが海水を吸ってあっという間に重くなり、足にまとわりつく。早くと美帆がせかすが、これは動きづらい。

 どうしてこんなところは本物そっくりにしているんだ、ともどかしくなる。

 崖の上から飛び降りても平気なのに、海の中で服を着たままだと陸上と同じように動けないなんて。設定がおかしくないか。

 しかし、その設定のおかげなのか、スカートは相変わらずゆらゆらと悩ましげに揺れているし、まるで誘うように美帆は腕を振っている。

 これはなんとしてもたどり着かなければ――。


 目の前の光景が、ぶつりと途切れてなくなった。

 うたた寝から目覚める時のように、篤志はびくりと震えた。自動音声案内が、体験時間の終了を知らせている。

 ヘッドギアを外すと、隣にいた美帆と目が合った。

「もっとあっちで遊びたかったね」

 彼女はちゃんとブラウスを着ていて、どこも一滴も濡れていない。篤志も、もちろん同じだ。

 こちらが現実なのに、リアルな夢から覚めたばかりの時のように、現実感が乏しい。日差しの熱も、濡れたジーンズの重さと動きにくさも、まだ鮮明に覚えている。

 けれど、この目で見て、この体で感じたすべては、もうどこにもなかった。

 はじめから現実には存在していなかったのだが、頭と体にはしっかりと刻み込まれていた。

「……また来よう。バイトして、お金貯めてから」

 美帆の手を握り、リクライニングシートから起き上がる。

 見えそうで見えなかったものを、見るためにも。

 ただそれは、現実の方でもいいかもしれない。いや、断然現実の方で見たい。

 けれど、ここではない世界でというのも、悪くない。

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