παρελθόν 8(13)
その日から丁子は任を終えると工房を訪れてはピアノに触れた。夢中だった。
クラブサンと違って鍵盤は重い。しかし弦を爪弾くクラブサンとは違い、ハンマーで弦を叩くピアノは力強く奥行きのある音を響かせる。左腕の怪我も治ったので包帯を解き、素肌で鍵盤に触れるのは気持ちが良かった。
手段を変えるだけでこんなにも結果は変わるのだな。クラブサンの音色も好きだがピアノの深い音はそれ以上に好きだ。丁子は偶然とはいえ、ピアノに出会えた事を感謝した。
しかし工房を訪れる理由はそれだけではなかった。
男に会うのが楽しかった。丁子がふらりと夕方の工房に現れると彼は作業の手を止めて、ピアノがある左奥の部屋へと彼女を案内した。彼の逞しい腕が背に触れると丁子は頬を染めて瞳を伏せた。
時々連弾もした。男の隣に座す際、丁子の口角は常に少し上を向いていた。丁子は隣で鍵盤を叩く血管が浮き出た大きな手を眼の端で眺めるのが好きだった。昔は大好きだった父の大きな手を想い出した。
そして鍵盤を見つめる男の熱っぽくも優しい瞳が好きだった。心からピアノを愛している、と丁子にも伝わった。そんな情熱的な瞳を向けられ何かを問われると、丁子はどう答えていいのか分からず、少女のように口籠った。
馴染みの作曲家に貰ったという楽譜を男は丁子に貸してやった。丁子は仕事の合間や帰宅後に幾度となく目を通した。
大切な楽譜や愛するピアノを快く貸す男に丁子は礼をした。ハデスから支給される食料を半分分けてやった。
工房を後にする際、丁子は男の逞しい腕に干し肉やチーズが入ったずだ袋を押し付けた。
男は袋の中を改める。平民には手が届かなくなってしまった高価な食料が入っていたので眼を見開いた。
「ねぇ、君は一体何者? 高価な物を……貰えないよ」男は眉を下げる。
「私は私だ。……貰えないのなら私はここに来る資格がない」両腕を抱いた丁子は瞳を伏せた。
「そんな事無い。君と連弾するだけで楽しいんだ」
頬を染めた丁子は、自分の血液が付いた男の布靴の先を見つめ黙す。彼女は小さな溜め息を漏らし自分を戒めると首を横に振った。
男は床を見つめ黙した。唇を真一文字に引き結び思案する。
「……貰わなきゃ……もしかして気が済まない?」
丁子は頷いた。
小さな溜め息を吐くと男は苦笑する。
「分かった。貰うよ。だけど一緒に食べて行って欲しい」
丁子は首を横に振る。ルビーのピアスが揺れる。
「それは無理だ。私の取り分は家にある。全て消費して欲しい」
「じゃあ今度来る時はそれも持って来てよ。一緒に食べよう」
「何故?」
丁子が問うと男は困ったように微笑む。
「君と一緒に居たいから」
「あ、そう」頬を染めた丁子は肩をすくめて溜め息を漏らすと工房を後にした。
帰宅した彼女は外套も脱がずにベッドに横になった。
頬が上気して暑い。心臓が早鐘を打つ。しかし心地良い。
あの日も今日も男に『一緒に居て欲しい』と存在を求められた。育ての母であるペルセポネに存在を求められた時とは違う暖かさが胸に広がっていた。私を女として求めているのか、それとも友人として求めているのか分からない。いや、カミサンを亡くしたばかりなんだ。しかし隣を許されるのは嬉しいものだな。
……何を考えているんだ。もう直ぐ死ぬ人間……しかも自分が死の切っ掛けを与えなければならない者なんだ。そんな命短き者と親しくなれば傷つくのは自分だ。関係を切るなら今だ。
死の切っ掛けを与える時まであの工房を訪れるのはよそう。
丁子は歯を噛み締めた。
しかし瞳を閉じれば丁子は男を想い出した。瞳を輝かせて生き生きとピアノを語る男を、隣で連弾する男を。
綺麗な表情をしていたな……余っ程ピアノが好きなんだな。
幼い自分を無理矢理犯した男達の表情とは違い、あの男の表情や眼差しは熱っぽくもあり氷のように静謐でもあり魅力的だった。
あんな綺麗な表情をする人間もいるんだな。
丁子は左手の薬指を咥えた。
何かに情熱を注げる男が丁子は羨ましくなった。
……死が免れない運命ならば……例え短命であってもあの男の側に居たい。側に居なければきっと後悔するだろう。ここまで関わってしまったのだ。死を見届ける際に自らが傷つくのは目に見えている。
いつだったか『名前を教えて欲しい。呼び辛いから』と男が尋ねたが丁子は首を横に振った。名前を知れば辛くなる。期日までに爛れた右手で触れて『死の切っ掛け』を与えなければいけない。
しかし好意を抱けば名を知っているよりも知らない方が後悔するだろう。側に居なければ後悔するだろう。どちらにしても苦しみは免れないのだ。だったら少ない方が良い。
必ず死神としての務めは果たす。……いつか自分が死ぬ為に。
強く誓った丁子は瞳を閉じた。
彼女は翌日の夕方も都合をつけて、食料を詰めたずだ袋を抱えて工房を訪れた。
薄汚れた窓から西日が射す。治具や組み掛けのピアノが長い影を落とす。静かな工房に男は居なかった。
しかしピアノがある奥の左の部屋では話し声が聞こえた。男の声の他に別の男の声が聞こえた。ボソボソと声を潜めて話している。遠方の声まで聴ける地獄耳の機能を有していても丁子はそれを駆使してまで聴こうとは想わなかった。そんな事をするなんて男に対して失礼だと想った。
出直そうかと丁子が踵を返した途端、奥の部屋のドアが開いた。
「誰だ!?」男の怒声が響いた。
振り返った丁子と男の視線が合う。男は眉間に皺を寄せて物騒な顔つきをしていた。突然の訪問者が丁子だと気付いた男は眉を下げた。
普段穏やかな男の豹変振りに驚いた丁子は狼狽え床を見つめた。視界に男の布靴が入る。爪先に血の染みがあった。丁子は息を吐くと男を見据える。
「驚かせてすまない。……いつも声を掛けなくても平気だったから。先客が居たようなので帰ろうとした所なんだ」
「そう……」
男は長い溜め息を吐いた。
丁子は作業台にずだ袋を置くと踵を返した。
男は遠ざかる丁子の背に声を掛ける。
「待ってくれよ」
丁子は少しだけ振り返る。男は逆光に目を細める。日差しが邪魔して鮮明には見えなかったが丁子の頬に光の粒が伝わるのが見えた。
直ぐに丁子は顔を背け、工房から駆け去った。
大通りに出た彼女は空を仰ぐと長い溜め息を吐く。
故郷のじじ様やかか様が疾っくに死んだと考えられる程の長い時間が経ったって、私は未だに弱虫だな。独りになれば弱虫で、泣き虫で甘ったれな自分が出て来る。
丁子は唇を噛み締める。
……男に暖かく受け入れられるのが当たり前だと錯覚していた。あさはかだった。自分を求めてくれた男に溜め息を吐かせてしまった。男にとって不都合な事をしてしまった。
嫌われた。
このまま家に戻ると泣きそうだ。誰かに痛みを聞いて貰いたい。
顎を引いた丁子はステュクスへ向かう為に河辺へと向かった。
バーカウンターの椅子に座す丁子の他に客が居ない店内でパンドラは彼女の話を聞いてやった。
「……暫く丁子様の足が遠のいたと想っていたら……素敵な出会いをなさっていたのですね」陶器の杯を拭きつつパンドラは瞳を伏せ、微笑んだ。
カウンターに片肘を突き、頭を支えた丁子はパンドラを見上げた。
手を止め、慎ましやかにパンドラは笑う。
「その殿方はきっと美しい方なのでしょうね。何かに情熱を注ぎ、精力的に活動なさる方程、美しい方はいらっしゃいませんもの」
「でも私は……情熱を注ぐあいつを邪魔した。酷く怒っているように見えた。初めて怒鳴られた。きっと嫌われた」視線を逸らした丁子は洟を啜った。
「まあ。嫌われただなんて」
いい大人なのにも関わらず初めての恋に怯え、戸惑う丁子にパンドラは微笑した。
「笑わないでくれよ……これでも落ち込んでいるんだよ」丁子は長い溜め息を吐いた。
白くしなやかな手で口許を覆ったパンドラは瞳を伏せる。
「失礼致しました。……しかし『落ち込んでいる』と仰るとなると、丁子様はその殿方に好意を抱いている事をご存知なのですね」
「それが分からない程子供じゃないよ。少なくとも友人として好きだ。……この事、ペルセポネ妃に言わないでおくれよ。心配するだろうから」丁子は眉を下げた。
「無論です。この店の主として守秘義務が御座いますもの。……明日、都合をつけてその殿方にお会いしたら如何でしょう?」
丁子は首を横に振る。
「嫌だ。……そんな勇気ない。それにまた嫌な顔をされたら……。今だって胸が張り裂けそうなのに、これ以上苦しくなると想うと耐え切れない。狂いそうだ。弱虫でいいよ、私は……」
「何かを得ようとするなら何かを失わなければいけませんよ。それにその殿方は丁子様に腹を立てていらっしゃる訳ではないと存じます。『待ってくれ』と引き止めようとなさったのでしょう? きっと丁子様に見せられない不都合な事があって、それを知られそうになったから焦って険しい顔をなさったのではないでしょうか?」
丁子はパンドラを見上げる。ルビーのピアスが揺れる。
「……そうかな?」
「そうでしょうとも」パンドラは満面の笑みを咲かせた。
深く息を吸い胸に溜まった空気を吐き出した丁子は居住まいを正すと、両手で頬を打った。
「ん。分かった。取り敢えず工房に行くだけ行ってみる。やらぬ後悔よりやった後悔の方がまだマシだ。……会ったら逃げた事を謝るよ」
「その意気ですよ、丁子様」
丁子は微笑んだ。
パンドラも微笑み返すが表情を直ぐに戻す。
「人も神も様々な傷や隠し事を抱えて生きています。愛し合う者同士なら大きな傷や苦しみに満ちた過去を見せても互いを受け入れられます。例え相手が死に瀕していても手を取れます。しかし他の隠し事の場合、関係を破綻させる可能性が高くなります。それを忘れないで下さい」
丁子は頷いた。パンドラは瞳を伏せると言葉を続ける。
「……丁子様、どうかくれぐれもお気をつけ下さいね。その殿方が焦った原因が……丁子様に見せられない不都合な事が、私は引っかかるのです。それに恋は愚者を賢者にさせ、賢者を愚者にもします。……相手は死を控えた方です。どうか神の務めを忘れずに……」
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