2
バッグを回収した後、ティコはシャワーを浴びにゲストルームに戻った。纏わり付く汗と湿気を洗い流すと、軽く髪と体を拭き、ショーツに脚を通す。ミニバーに入っていた冷えた缶を開け、ビールを乾いた喉に流し込む。直ぐに缶を空けるともう一缶のプルタブを起こし、ベッドに座した。
開け放した大窓から波の音とサックスの音色が聴こえる。きっとカクテルタイムのプールサイドで演奏しているのだろう。日が傾いているがこの島の明るい時間は長い。太陽が水平線に身を沈めるのはそろそろだが、天を星が飾るのはコテージに泊まるヨアンが舟を漕ぐ頃だろう。
円形テーブルに乗った書類が缶に唇を付けたティコの眼にとまる。
缶をベッドサイドスツールに置くとティコは書類を手に取る。大事な書類だが死神文字で記されているので人間は読めない。従ってルームキーパーが目にした所で理解出来ない。いつでも気持ちを確認出来るよう、その辺に放って置いた。
書類に眼を通す。
冥府の支配者ハデスの直筆で手続きを進める同意を求めた文が綴られていた。
署名の欄を見遣る。まだ空白だ。
……迷ってはいない。
気が遠くなる程昔から望んで来た。
しかし心残りがあるとすれば……。
鼻を鳴らし視線を逸らしたティコは缶を呷る。そしてベッドから立ち上がる。すると豊かな胸が揺れた。
小さな溜め息を吐いた彼女はローズオイルを手首に垂らし、首に塗る。
そして黒いリゾートドレスに袖を通した。
テラス席に通されたティコは暮れなずむ夕陽を背後に、シェリーのグラスを片手にメニューを眺める。篝火が揺らめき、視界が明滅する。メニューの文字が揺れる。ホテルのリストランテにはドレスコードがあるのでいつもの気楽な服装で食事を出来ないのは堅苦しい。より良い場所でより良い物を口にするには仕方ないルールだ。
久し振りに粧し込んだな。
ティコが微笑むと首の筋肉も動く。黒いチョーカーから下がる赤いガラスのティアドロップが鎖骨の間でちりりと揺れる。最後の教え子にプレゼントされた物だった。
休暇じゃなければこんな上品な所へは来ないんだ。普段は道端でミートパイ齧ってるか、古びたカウチに座して教え子の文句を聞き流しつつ野菜ソテーを食べてるかの生活だ。贅沢するには金以外にも対価が必要だ。
メニューを睨んでいると濃い影が字面を覆った。
顔を上げるとストライプのビーチスーツを着たマルチェロが佇んでた。
「やあ。こんばんは」
ティコは顔を顰めた。
「そんな顔しないで。……電話で呼ばれたんだよ、コンシェルジェに」マルチェロは肩をすくめる。
「……なんでコンシェルジェが私の予定をお前さんにバラすんだよ?」
マルチェロはラタンの椅子を引くと腰掛ける。
「そう思うのは至極当然。俺も驚いたよ。さっき俺の優しい女神がヨアンを母親達に会わせただろ? 実はその母親達、お礼として俺達に食事をサービスしたらしいんだ。お連れ様がここで食事をしてるってコンシェルジェが案内してくれたんだ。テーちゃんに会いたくて足を延ばしたって訳だ」
「私は別々に食事を摂っても良かったんだけどね」ティコは小さな溜め息を吐いた。
「ダメだよ。『二人に』って言ってたんだから」マルチェロが微笑むと給仕が彼にメニューを差し出した。受取ったマルチェロはシェリーを頼む。
給仕の背を見送るとシェリーに口を付けていたティコは問う。
「……それにしても何者だ、あの親子」
「知らない?」
「……お前さんは知ってるのかい?」
「素敵なドレス着て綺麗なチョーカー着けてるのにテーちゃんは服に興味が無いんだな」
「うるさいな」
マルチェロは肩をすくめ小さな溜め息を吐く。
「彼女達は世界的なアパレルブランドの社長とデザイナーだよ。公私共にパートナーらしい。養子がいるってのは聞いてたけどまさか男の子だとは想わなかったよ」
「ほーん。金持ちの粋な恩返しって訳か」
給仕に冷えたシェリーを差し出されたマルチェロはティコのグラスにグラスを当てた。高く小気味の良い音がテーブルに響く。
シェリーに口を付けたマルチェロはメニューを眺める。
「何にする? コースにする? 肉料理は子羊のパン粉焼きだって。……アラカルトもいいな。シラスとトマトのピザってのも捨て難い」
ティコは鼻で笑う。
「お前さんはよく喋るね」
「テーちゃんはあまり喋らないね」マルチェロは微笑んだ。
「お前さんが喋るからだよ」
「……俺、黙った方がいいかな?」
マルチェロは店内を見遣った。夕陽が水平線に身を沈め、瑠璃色の帷が下りる。夜空の下、食事を楽しむ数少ない宿泊客の密やかな談笑、カトラリーを動かす音が聴こえる。篝火とテーブルのキャンドルに照らされた女性客の白いデコルテを飾る豪奢なネックレスが輝く。紅い唇は料理への賛辞や明日の予定を慎ましく紡ぎ出す。
「私は……迷惑とは想ってないよ。だけど店のエロい雰囲気ぶち壊さないようにトーンは落とした方が良いね」
「あれ? テーちゃん意外と俺に優しいな。怒られるかと想ってたのに」
ティコは鼻を鳴らす。
「男のお喋りは嫌いじゃないよ」
「へぇ。元彼、お喋りだったんだ?」マルチェロは悪戯っぽく微笑む。
「うるさい。やっぱり黙りな」
コースをオーダーすると、微笑んだマルチェロは話に花を咲かせる。彼は欧州や新大陸を仕事で頻繁に渡っているらしい。
「仕事って……何してんの?」ティコはカトラリーを持つ手を動かしつつも問う。
「何って、色々」
「色々って何?」
眉を上げたマルチェロは肩をすくめて両手を広げ、唇を横に引き結ぶ。
「胡散臭い奴だ。……大方ペテン師だろ?」ティコは鼻を鳴らした。
「まあ、似たようなものさ」
「開き直ってるね」
「証拠が無ければ泥棒だってペテン師だって堂々と歩ける。それに気高い女神を眼の前に美味しい食事にもありつけるからね」
「呆れるよ」
「テーちゃんは何してる? 子供の扱いが上手かったから先生?」
「そんなモンさ」ティコは前菜を口に運ぶ。
「そろそろ新学期始まる頃だよね……先生がこんな所でのんびりしてても?」
「辞めたんだよ」
「へぇ。これからどうするつもり?」
「さあね」ティコはシェリーを呷った。
ティコの青白く光る不思議な瞳をマルチェロは見つめる。
「じゃあ俺のパートナーにならない?」
眉を顰めたティコはグラスを置く。
「犯罪の片棒を担げって? 他者が人殺しや強姦以外何してようが興味無い。だが巻き込まれるのはごめんだ」
「そっか。じゃあ惚れさせれば良い訳だ」
「阿呆抜かせ」
ボトルを二本空け、ドルチェのサーヴを待つ間、気分が良いのかマルチェロは鼻歌を歌った。昼間ビーチで聴いた『いとしい女よ』だ。
「その唄、余程好きなんだな」ティコは赤ワインが浅く残るグラスを傾ける。
「そうでもないよ」
「いや、好きだろう。気が付けば歌っているからな」
「テーちゃんはこの歌好き?」
「残念だが嫌いだ」
「なんで?」
「なんでも」
「そっか。じゃあもう歌わない」マルチェロは微笑んだ。
自分がマルチェロを苛めたようになってしまい、居心地が悪くなったティコは口をもぞもぞと動かした。
「歌えばいいじゃないか」眉を顰めたティコはマルチェロの瞳を覗いた。
「ううん。いいんだ。俺は歌よりもテーちゃんの方が好き。ビーチで出会った時と違って今はすっごく良い香りがする。ずっと嗅いでいたいなぁ」マルチェロは満面の笑みを向けた。
「酔っ払ってるなら部屋に戻りな」ティコは鼻を鳴らした。
「ヤだね。次の食事の約束取り付けるまで帰らない」
「私はもうペテン師とは食事をしない。今日はヨアンの母親達の顔を立てただけだ」
「それならずっとこのテーブルに齧り付いててやる」
「ご勝手に」
「いいのか? こうやって齧り付いてずっとテーちゃんの名前呼び続けるぞ? 『テーちゃん。テーちゃん。良い香りー大好きー愛してるー』って」マルチェロはテーブルの両端を掴んだ。白いクロスに皺が寄る。
強面の男が酔っ払い、駄々を捏ねる様にティコは苦り切った。教え子なら向こう脛に蹴りを見舞う所だがいい年した男にこの手の店でこんな事をやられては辟易する。しかしただ言う事を聞くのも嫌だ。
「大の男がみっともない。……分かったよ。じゃあ賭けをして……コイントスで決めようじゃないか」
ティコの提案に微笑んだマルチェロはクロスから指を離し、顔を上げる。
「何を賭ける?」
「私は滞在中にペテン師が干渉して来ない事を望む。……今後会っても挨拶も一切無しだ」
「手厳しいな。じゃあ俺はその反対。滞在中は俺が常に俺の女神をエスコートするってのはどう? おはようからおやすみまで。ガラスのように繊細な女神がオオカミに襲われないように部屋まで送り迎えする。勿論三食、お酒も奢るよ?」
「奢らなくていい。……構わないよ」
マルチェロはコインを取り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます