16話【逃】
「森山、
千尋が雅に指示するが雅はまた気弱な顔をした。
「でもさっきやったけど何も分からなくて…」
この霧で音がかき消されているのか、と千尋は考えたが、それなら雅の匂いも同様に追えなくなっているだろうと思い直した。
恐らくこの霧は視覚しか支配出来ないはずだ。
「よく考えてみろ、俺は匂いを認識してお前を見つけた。五感が消えたりはしてない。―落ち着いて、もう一回やってみろ」
千尋が真っ直ぐに雅を見た。その視線に先ほどの悪寒がすっと抜けていくような感覚がした。
「う、うん―」
雅が目を閉じ、再び周囲を探り始める。
冷静に、返ってくる音を丁寧に受け取る。
やがて、頭の中に風景が浮かび上がってきた。噴水、ベンチ、2m程まで育った木々、そして、離れた所にそれぞれいるいくつかの人影。
「―ぼんやりとだけど見えた。ここ、さっきの公園なんだ…じゃあこれはただの幻覚。なら…」
「位置は大して変わってねぇってことだな」
「千尋くん、二時の方向!」
千尋は【
唸りを上げて飛び掛ると同時に霧が少し薄くなった。
先ほどより強く物の位置を感じることができる。
「これなら―」
雅が霧の向こうの紅麗目掛けて振動波を放ったが、金属音のような音と共に弾かれ、同時に千尋の呻き声が聞こえた。
「ぐぁっ…」
霧の事も忘れ駆け寄ると、千尋の腕に裂傷が出来ていた。かすっただけに思われるが、血はしっかりとその腕を伝っている。
雅は屈むと急いでハンカチを千尋の腕に巻き応急処置をした。
「ッて…お前は毎回大袈裟なんだよ」
「黙って」
二人の前方から厭に響く足音が聞こえ、霧の中から柑子色の髪―遠藤律が現れた。二人が紅麗だと思って狙ったのは律だったらしい。―なら三人、いや二人が危ない。
だが雅は動かなかった。千尋を傷つけた物の正体を掴んでいないからだ。
「センセーの邪魔しないで…次は心臓に当てるから」
その言葉は確かな様だ。律の手には何も握られていないが、その背後から無数の切っ先が覗いていた。恐らくあれで千尋を威嚇したのだろう。
「……それは…」
「字持ちだからって、ほいほい自分の能力を教える訳ないでしょ」
そう言いながら律は、どこからともなく現れた大小様々な刃物を構えた。切っ先はどれも雅の方を向いている。
「あ…」
雅は今度こそ動けなくなった。
今まではみんな本気で殺すために字を使っていなかったことは、理解している。だからこそ、純粋に人を傷付ける為の字が初めて自分に向けられたことに恐怖していた。
「一旦退くぞ森山」
千尋が自身の腕を庇いながら雅の肩を押す。だが雅は目の前の刃から目を逸らせなくなっていた。
「チッ……」
その時、二人は足下から水が流れているような音が聞こえたのに気づいた。その音で雅は金縛りが解けたように立ち上がった。
「水が…」
だが冷たいという感覚は無く音も一辺倒なことに気付き、これもまた本物ではないことに気付く。
「これも幻覚なんでしょ」
紅麗は焦っているのだろうか。明らかに先ほどまでの霧よりも程度の低い幻覚だった。
「霧が効かなくなった…」
この洪水の代わりに霧が消えたようで、向こうから灯と因幡の二人が近付いてきていた。だがその歩みは遅い。
頭では分かっていても、これだけ勢いの強い水が見えていれば足をとられて上手く歩けないのも無理はないだろう。
「ああもう、時間がない」
吐き捨てるように言い、律がダガーナイフのようなものを複数顕現させ、雅達を目掛けて放った。
「危ない!」
雅は咄嗟に千尋の前へ出て音波で迎撃し撃ち落とすが、2本、捌き切ることが出来ず雅の腕と太腿を掠めた。
「うっ…」
かすっただけとはいえ皮膚が切れたのは確かだ。血の出ている箇所が熱い。
雅がきっと律を見やると、その表情は今までで一番冷酷―いや、それ以上に感情が無かった。
「へえ…霧の中で泣きべそかいてた割にはやるじゃない」
「うる、さい……!」
「律、もういい。行くぞ」
最初に見たのと変わらない黒髪に眼鏡を掛けた男性―浅井紅麗が水を割りながら現れた。
「はい、センセー」
当然のように律は紅麗について行こうとする。雅達に向けたあの表情とは打って変わって虚ろで穏やかな顔だった。
「待て!」
千尋が二人を追おうとするが、二人はまるで風に溶けるように消えてしまい、その姿を見ることが出来なかった。
気付けば足下の洪水も跡形もなく消え、灯達もこちらへやってきた。
「クソッ!また逃がしたのかよ…っ痛」
「雅ちゃん!千尋くん!」
「二人共!…ああ、また怪我を…」
因幡がまた曇った顔をした。防ぎきれなかったのは自己責任だと、この時雅も千尋もそう思っていた。
「大丈夫です。かすった…っだけですから」
「お前さっき…」
千尋を遮り雅が言う。
「それより!蒼亜さんはどこへ!」
「ここだ…」
傷一つない蒼亜が険しい表情をして姿を見せた。雅にとって今誰よりも疑わしい人物である蒼亜を雅は問い詰めた。
「どうしてお兄さんの字を明かさなかったんですか!?―それに、アレが幻覚なのは蒼亜さんは知ってたはずです」
蒼亜を見ると、何か恐ろしいものを見たような顔をしてゆっくりと頭を下げた。
「すまない。最初はすぐに無力化するつもりだったんだ…本当だ」
「なら、なんでですかっ!」
噛み付くような勢いの雅を慌てて灯が押さえた。
「雅ちゃん、落ち着いて…」
「だって…一つ間違えたら千尋くんが…」
千尋は遊園地でも傷を負っていたのに、こんな調子で何度も小さい怪我を繰り返せば上限を無くして、どんどん無茶な戦い方をしてしまうかもしれない。雅はそれが心配だった。
「―それは!雅ちゃんも…一緒だよ?雅ちゃんも怪我、してるんだよ?」
灯は怒っているような、悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべていた。その表情に何も言えなくなり、雅はこれ以上蒼亜を問い詰めることはしなかった。
「…戻ろう、NOAHに」
徐々に周りにも人が集まってきた。転移はかえって目立ってしまうだろう。
「雅ちゃん、肩貸すよ」
「…ありがと」
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