四章 九節

 数週間経った。イポリトは帰宅し、ローレンスは仕事に真摯に取り組んでいた。ローレンスは何故家を空けていたのかと問うた。しかしイポリトは何故家を離れていたのか想い出せないようだった。執拗に問うたが彼は鼻で笑い『うるせぇ。クソじじい』とローレンスの頬を両手で引っ張った。


 ローレンスは疑問と不安を抱く。未だに冥府の最高神の座は冷えている。イポリトはヴィヴィアンの件をハデスに報告しなかった。職務怠慢したイポリトをハデスが攫い、罰として記憶を奪ったのではないか。疑問が臆測に変わっても確かめる術を持ち合わせていない。何はともあれ相棒が無事に戻って良かったと胸を撫で下ろした。


 ヴィヴィアンからメールが届いた。食事の誘いだ。『明後日夜八時ね。一カ月前に予約してたの忘れてた。ナイスビューって訳じゃないけど美味しいらしいから期待してて!』


 ローレンスは溜め息を吐いた。仕事中の彼女はアイディアを次々と出し、他人のお膳立てをする程有能だ。しかし私生活は全くルーズだ。都合を考えないので予定が狂わせられる。郊外のサービスエリアに黒いレディを停めていたローレンスは予定を調べた。遠出の仕事がなければいいが。魂の回収地は市街地がメインだったが明後日は件数が多かった。


 ローレンスはメールを打つ。『急に言われても困るよ。明後日は仕事が立て込んでるんだ。でも遅れてもいいのなら行けるよ』


 返信は直ぐに着た。『やった! 一月前に予約しないと入れない程人気なの。じゃあ明後日は先に入ってるわよ。郊外の素敵な所だからいつものジーンズは止めてね。地下鉄で行けるわ! 後でお店のサイトのアドレス送るわ』


 二日後、ローレンスは疲れて重くなった体を引きずり帰宅した。ヴィヴィアンと約束した時間の三十分前だった。着替えてから地下鉄に乗って件の店に向かおうと計画していた。


 着替えて水を飲んでいると携帯電話のライトが点滅する。ヴィヴィアンからかな。ローレンスは携帯電話を取るが彼女からではなかった。今日の追加の仕事だった。


 グラスを置くと予定を開き確認する。愕然とした。冥府送りの魂が同じ場所に何件も記載されていた。約束のレストランだ。リストの一件には彼女の名前と画像が載っている。


 ヴィヴィアンに電話を掛けた。早急にレストランから離れるよう伝えようとした。しかし電話に出ない。ローレンスは悪態を吐くと黒いレディのキーとヘルメットを掴み、ドレスシューズを乱暴に突っかけて駐車場へ駆け降りた。


 市街地の道路は混んでいた。詰まって遅々として進まない。時計を見遣ると約束の時間まで五分とない。ローレンスは走行中の車の横をすり抜け高速に乗った。どうか間に合ってくれ。友人を失いたくないんだ。


 ジャケットを雨粒が濡らす。雨脚は瞬く間に強くなった。高いギアを入れエンジンの回転を下げる。濡れた路面を気にしつつも頭の片隅で考える。依然としてハデスが冥府から姿を消している。再び僕が人間と関わりを持ったのに罰則を喰らわない。ガヴァンは突然消えた。心を砕いて世話をしていたのにヴィヴィアンはガヴァンを忘れた。戻って来たイポリトも記憶を失っていた。そして突然彼女の死亡予定を僕は知らされた。


 臆測は確信に変わる。これは罰だ。ハデスの仕業だ。しかし悪戯に命を取り上げるなんて許せない。確かに僕は罰を受けるべきだ。しかし人間の命と僕の罰を並べるのは卑怯だ。


 ローレンスは篠突く雨降る闇の中、青白く光る瞳を細めた。


 絶対に許すものか。


 黒いレディは高速の出口を抜けると郊外の下道を駆け抜けた。


 ローレンスが件の店に着いた時には全てが終わっていた。濡れたアスファルトは回転する青色灯を映し出す。耳を突く雨音の中、サイレンがくぐもって聞こえる。青色灯に照らされた規制線の内側では反射材を身につけた警官達が機敏に動いていた。


 ビルが建っていた場所には酷く崩れた鉄骨が重なっていた。燻った建材の破片が積み重なり、雨が降っているにも関わらず煙が漂う。二階のコンクリートの大黒柱は唯一残っていた。


 ローレンスはその場に立ち尽くした。


 野次馬やレストランの予約客が現場を眺め、口々に話す。


「爆弾仕掛けてあったんだって。死者はざっと見積もって十三人だって」


 ローレンスは唇を噛み締めると右手の包帯を解き、透過した。規制線をくぐり抜けると、レストランがあっただろう場所に足を踏み入れた。原型を止めてない木の骨組み達が散らばっている。コンクリートの大黒柱には無数の釘が刺さっている。釘が刺さったりガラスの破片が突き刺さったりして死んだ人々もフロアに転がっていた。彼らはどこかしら火傷を負ったり流血したりして息絶えていた。その地獄をローレンスは痩躯を亡霊のように引きずり歩き、ヴィヴィアンを探した。


 ある死体が眼にとまる。体の左半分に無数の釘が刺さり右半分にだけ茜色の髪を残した女の死体だった。尾を引いた魂が背から出ている。ローレンスはそれがヴィヴィアンだと直ぐに分かった。彼女は美しいエメラルド色の瞳を見開いていた。光を失った瞳の虹彩には釘が突き刺さり血の涙を流していた。


 歯を食いしばったローレンスは青白く光る瞳から涙を滴らせた。彼女の白い頬を撫でると髪に付いたガラスの破片を払う。そして魂の尾を断ち切ると濡れたジャケットへ入れた。


 黒いレディに跨がりローレンスは市街地へ戻った。雨は既に止んでいた。


 ヴィヴィアンの魂をランゲルハンス島へ送るべく河川敷に降りる。すると先客が居た。


「……ハデス」ローレンスは黒装束の痩躯の男を睨みつけた。


 青白い肌の男は首から小瓶を下げている。憂いを含んだ黒い瞳でローレンスを見遣る。


「……君が殺したんだ」


 ローレンスは怒気を含んだ言葉を投げ返した。


「……僕は君にも冥府の皆にも迷惑をかけた。罰を受けるべきだ。君が鳥に化けて彼女と僕を監視した事や攫ったイポリトの記憶を消した事は水に流す。だけど! だけど、彼女の命を悪戯に奪う事は許さない。罪を背負っていても僕は君を許さない!」


 青白く光る瞳で睨むローレンスをハデスは見つめていたが言葉を紡いだ。


「タナトス、私の立場も考えてくれ。私は君に随分と慈悲を掛けた。それは私よりも年長という理由だけではない。人間を慈しむ心に打たれて二度の罪を許したのだ。君は死神としての責務を放棄し人間になりたがっている。君は臆病で優しすぎる」


「確かに僕は人間になりたがっていた。皆が幸せそうに暮らしているのを眺める以上に僕は彼らと同じ死せる肉体になってその輪に加わりたかった」


 ハデスは長い溜め息を吐いた。ローレンスは瞳を閉じる。


「……でも今は違う。彼らの魂を運ぶこの仕事をやっと好きになれた。かつて笑ったり泣いたりした魂を冥府やエリュシオン、島へ運ぶ事に誇りを持っている。それを……それを気付かせてくれたのがこの魂やこの魂のおじいさんの言葉だ。だから彼女やレストランに居た人達の命を悪戯に奪う事は止めて欲しい」


 ローレンスはジャケットに仕舞っていたヴィヴィアンの魂を手で覆った。


 ハデスはローレンスの瞳を見据えた。ローレンスはハデスを見据えていた。


 眼を伏せハデスは考えた。ローレンスは昔から頑固な男だった。他者の痛みに共感し他者の幸せを考えて手を差し伸べる優しい男でもあった。例えそれが職務を放棄する事であろうとも一度決意したら貫き通す、それが彼だ。仕事を放棄して連れ戻され何百年もの間心を閉ざして忠実に働いた。そのローレンスが初めて死神として誇りを持ったのだ。許してやりたいが他の死神や冥府に仕える神の手前、重い罰を与えない訳にはいかない。


 長い溜め息を吐いたハデスはローレンスに近付いた。ローレンスは後退る。


「どんな罰でも受けるか?」ハデスは問う。


 ローレンスは頷いた。


「今まで以上の苦しみが待っているのだぞ?」


 ローレンスは深く頷いた。


「私はもう、君に慈悲を掛けられないのだぞ?」


 ローレンスはハデスを見据える。


「僕だって神の端くれだ。神に二言はない」


 憂いを含んだ瞳でローレンスを見つめたハデスは手を差し出した。ローレンスはジャケットからヴィヴィアンの魂を取り出し、青白い手に乗せた。ハデスは魂を懐に仕舞う。


「確かに彼女の魂は受取った。あの事件に巻き込まれた者の魂は他の神に回収させよう。残念だが一度起きた事は取り返しがつかない。ヘパイストスに新しい肉体を作らせ、その器に魂を入れて新しい生を送らせる」


「ありがとう」ローレンスは安心して溜め息を吐いた。


 微笑んだハデスは直ぐに表情を戻す。


「先程聞いた心意気を確かめる。罰はそれからだ」


 ローレンスに近付くとハデスは首に下げていた小瓶取り、透明な液体を彼の顔に掛けた。驚いたローレンスは口を開いた。液体が舌に乗った瞬間、彼は気を失ってその場に崩れた。


「……記憶を失っても心意気が生きているかどうか確かめる。真に彼女の魂の救済を願っていなければ君は甘い夢を見たまま堕落するだろう」


 ハデスはローレンスの胸へ手を差し込む。胸は波紋を広げる。彼は魂を取り上げた。そして空になったローレンスの肉体を引きずるとランゲルハンス島へ続く水脈がある河へ魂と共に放った。厚い雲の切れ目から覗いた月が沈み行くローレンスの体を照らした。

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