四章 八節

 休日の朝の光を浴びたローレンスはベッドに寝そべり、白薔薇のカードを眺めた。販売員に気圧され買ってしまった。手許に置くには勿体ない程美しいカードだ。誰かに贈った方がいいだろう。真っ先にユウの顔が浮かぶ。愛を注いでくれたユウを忘れられずにいた。しかし彼女が島に行った今、渡す事は叶わない。ローレンスの近辺の女性はパンドラ、カロン、ヴィヴィアンの三人だ。姉分のパンドラに日頃の感謝を込めて贈りたいが人気者の彼女には当日近付けそうも無い。カロンはカードよりも宝石を寄越せと騒ぐだろう。消去法で考えるとヴィヴィアンが残る。仕事で世話になってるので彼女がいいだろうと決めたローレンスはささやかなプレゼントも贈ろうと考えた。しかし良い案が思い浮かばない。


 パンドラに相談しようとステュクスに出向いたが先客が話し込んでいた。ローレンスはカロンに相談しようと冥府のアケロン河まで足を延ばした。彼女の仕事の亡骸運びを手伝いつつ、ヴァレンタインのプレゼントは何がいいかと問うた。


「気が利くようになったでな! 儂を労ってくれるとは! 無論、宝石一択だで!」フードを脱いで亡骸の山に座していたカロンは喜色満面の笑みを向ける。


「違う違う。普段お世話になってる人間にあげようと思うんだ」ローレンスは山に座すカロンを見上げた。彼は小舟が停まる河岸まで亡骸を引きずる。


「つまらん。しかし童貞を貫く貴様が女になんぞ興味を抱くのは珍しいな。ハデスも世継ぎが出来れば喜ぶぞ」


「そんなんじゃないよ。彼女、若いけどお母さんみたいな人なんだ」


「頼りない男は母性をくすぐらせる。向こうが本気なら貴様みたいなヒョロ吉は直ぐに組み敷かれるだで」腕を組んだカロンは笑った。


 ローレンスは亡骸から手を離すとカロンを睨みつけた。


「む。言い過ぎたようだでな。すまんすまん。ほれ、手伝っちゃる」カロンは山から軽やかに飛び降りると亡骸の脚を掴んだ。


「僕がカロンを手伝っているんだ」


 ローレンスは再び亡骸の腕を掴んだ。カロンは脚を持ち上げる。


「や。そうだった。さてプレゼントだでな。何が良いかのう。……恋人ならアクセサリーかのう。近所なら後腐れ無い菓子、仕事仲間なら気が利いた小物とかどうだで?」


「小物かぁ……例えば?」


「いい香りのキャンドルとか風呂に入れるアロマオイルとかどうだでな?」


「それはいいかも。ありがとう!」河岸に辿り着いたローレンスは亡骸の腕を離した。


 カロンも亡骸の脚から手を離すと足蹴にして小舟へ転がす。そして棹を握る。


「それはそうと、停職処分が解けるらしいぞ。携帯電話とやらも支給されるそうだで」


「え」


「ペルセポネに慈悲をかけられたな。しかし貴様は子孫に継がせたくない程に仕事が嫌いだったでな。復帰するのは辛いかのう」カロンは軽やかに小舟に飛び乗る。


 足許を見つめるローレンスはヴィヴィアンに掛けられた言葉を想い出した。


 ──誰かの役に立てて幸せか、自分も救われて幸せかどうかを感じなさい。自分を好きでいられるように努めなさい。


 ローレンスはカロンを見据える。


「誰かがこの仕事をやらなければ皆が困るんだ。僕は選ばれた神だ。魂を冥府や島へ運ぶ神として役に立ち、自分も救われたい。僕もそれで幸せになりたい。やっと気付けたんだ。この仕事を通して幸せになる事は悪い事ではないって」


 真っ直ぐに見据える瞳にカロンは微笑んだ。


「そうか。この世に生まれ落ちてから抱えていた迷いがようやく消えたな」


 ローレンスは頷いた。カロンも頷くと河岸を棹で小突き小舟を岸から離した。それを見届けたローレンスは背から黒い翼を出し、冥府を後にした。




 ヴァレンタイン当日のギルロイには客足が絶えなかった。ローレンスは予約客や会計をさばきヴィヴィアンはひたすらブーケやアレンジメントの追加制作をした。時々ヴィヴィアンへカードを置いていく馴染みの男性客が居たが、仕事に追われた彼女は花しか見ていなかった。客足が絶えない店内に興奮したガヴァンは鶏冠を立てて体を細くした。


 閉店一時間前には生花を売り切り、ヴィヴィアンは笑顔で鼻歌を歌っていた。


「少し早いけどもう閉めちゃおうよ。あとは片付けるから帰っていいよ。あなたも彼女にカードを渡さなきゃ」ヴィヴィアンはレジ締めをしつつ微笑んだ。


「生憎と恋人がいなくてさ、片付けしてから帰るよ」言葉とは裏腹にローレンスの胸中ではユウの笑顔が浮かぶ。


 ローレンスは水だけになった花器を水場へ運ぶと中を空けた。目の端でヴィヴィアンを見遣る。彼女は暖まって痒くなった手を掻きむしりつつ引っ張り出したジャーナルを睨む。気が逸れている今がチャンスだろう。カード置き場に水色のカードとアロマオイルの瓶を置くと片付けを続けた。


 ドアを施錠したローレンスがシャッターを下ろすとヴィヴィアンは鼻歌を歌っていた。


「今日は売れたね」ローレンスは鍵を渡した。


「本当に助かったわ! 一人だったら結果は出せなかった」ヴィヴィアンは微笑んだ。


 ローレンスは気不味くなった。店を閉めてから辞める旨を伝えようと思っていた。停職が解ける話を聞いたからには早急に伝えなければならない。他の販売員を見つけなければならないヴィヴィアンを思いやり、俯いたローレンスは口を開いた。


「あのさ。言いにくい事だけど……そろそろ辞めなきゃならないんだ」


「そっか。停職解けたんだね。おめでとう!」ヴィヴィアンは微笑んだ。


「あ、ありがとう」


「いつから本業に戻るの?」


「まだはっきりした事は……。同僚に聞いた話なんだ。でも早く伝えた方がいいかなって」


「分かったわ。あと一週間程働いて貰っても大丈夫かしら?」


「うん。でもスタッフ見つかりそう? 今まで募集掛けても来なかったから」


 ヴィヴィアンは小さな溜め息を吐き笑った。


「心配ないわ。何とかするから。それよりも復帰祝いに今度食事しましょうよ。今日の売り上げ良かったからご馳走してあげる」


「う、うん」


 満足そうに微笑んだヴィヴィアンは鳥かごとカードの束やプレゼントを大事に抱えてエントランスに入った。かごの中ではガヴァンがローレンスを見つめていた。


 一週間が過ぎローレンスはタナトスの仕事に復帰した。正式な辞令を受けステュクスで新しい携帯電話を受け取った。イポリトの行方を聞いたがパンドラは首を横に振った。


 出勤時に黒いレディを押し歩いているとギルロイで新人に仕事を教えるヴィヴィアンと目が合った。彼女は手を振り『いってらっしゃい』と口を動かす。ローレンスは会釈すると大通りまで黒いレディを押した。


 更に時は過ぎた。街路樹の裸の枝には芽が出て、日々膨らむ。ローレンスはヴィヴィアンに掛けられた、老人の言葉を胸に仕事をした。以前は人殺しとしか思えなかった仕事が人を看取り、魂を運ぶ意義ある仕事だと感じた。自分に許された魂は島へ運びそれ以外は裁定に任せた。魂の門出に触れる、選ばれた者にしか出来ない仕事だと誇りを持った。


 ある夜、アパートの前で電話を受けていると仕事上がりのヴィヴィアンに取っ捕まった。彼女は番号とアドレスを教えろとせがむ。大した用ではなかったので電話を切ると、食堂で余分に貰った紙ナプキンに電話番号とアドレスを記して渡した。ヴィヴィアンは『食事の約束延びてるけど忘れてないわよ』と手を振りエントランスに入った。


 翌朝、枕許の携帯電話に起こされた。何だろう、今日休みなのに。液晶画面を見ると見知らぬ電話番号が表示されている。


 電話をとるとヴィヴィアンだった。先程かごを掃除していたらガヴァンが逃げたらしい。窓やドアを開けていないのにも関わらず部屋にいないと言う。ローレンスは家具の隙間や床にいないかと問うた。ヴィヴィアンは悲痛な声で『探したけどいないの。飼い主さんに申し訳が立たない。店に降りなきゃいけない時間なのにどうしよう』と答えた。唯一の縁者だった老人を亡くし保護したインコにまで姿を消された彼女をローレンスは不憫に思った。彼は『僕が代わりに探すから部屋の番号教えて』と彼女に問うた。


 数分後ローレンスは部屋を訪ねた。ヴィヴィアンの頬は涙の筋が出来て眼の周りは腫れていた。ローレンスは彼女の頭を軽く二度叩いた。ヴィヴィアンは『ごめんね。頼みます』と家の鍵を預けて店へ降りた。


 部屋に上がったローレンスは口笛を吹いたりヒマワリの種を食べたりして、隠れたガヴァンの気を引こうと試みた。しかしガヴァンは姿を現さない。


 ガヴァンが床に居るかもしれないので足許に注意を払いつつ本棚の隙間や壁と家具の隙間を探す。洗面所に差し掛かる。洗濯機の真上に洗濯物が吊るし干ししてあった。ブラジャーが視界に入ったローレンスは頬を染めて視線を逸らす。友人とはいえ女性の部屋に居る事を思い出した。すると蓋が開けっ放しの洗濯機から音が聞こえた。なるべく下着に焦点を合わせぬように洗濯機の中を覗く。


 水滴が付いた洗濯槽にガヴァンはいた。姿勢を低くとり槽から飛び立とうと距離を測る。しかしガヴァンにとって槽は狭く高いので脱出出来ない。ローレンスは手を差し出したがガヴァンは『フーッ』と鳴いて威嚇する。雄の所為かローレンスには懐かなかった。


「大丈夫だよ。手に乗って」


 ガヴァンは噛み付く。しかしこれ以上脅かさないようにと彼は痛みをこらえた。それを察したのかガヴァンは大人しく手に乗った。


「良い子だ。よく頑張って耐えたね」ローレンスはガヴァンを救いだした。


 鶏冠を立てたガヴァンは血色の瞳でローレンスを見つめる。瞳にはローレンスではない誰かが映っている。知っている人だ。しかしローレンスは誰だか思い出せなかった。瞳に惹き付けられると意識を失い、彼は崩れた。


 休憩をとりに帰宅したヴィヴィアンにローレンスは起された。彼女は何故気絶したのかか問うた。我に返ったローレンスはガヴァンを探す。ヴィヴィアンは要領を得ない。ローレンスは彼女に一から説明した


「インコ? ガヴァン? 何それ?」ヴィヴィアンは問う。


「ほら、君が保護したクリーム色のインコだよ。今朝君が掃除する時にガヴァンが逃げて混乱していたじゃないか」


「鳥かごの掃除? 鳥かごなんてないわよ」


 ローレンスは眉を下げた。彼はガヴァンを思い出して貰う為に鳥かごを取りにリビングへ向かう。しかし先程まであった鳥かごは姿を消していた。ガヴァンも鳥かごもいくら探しても出て来なかった。携帯電話のブラウザを開き、以前彼女と共に書き込んだ迷い鳥のページを開こうとした。しかし書き込みはなかった。


「忘れたの? 家に大事な物忘れて来たから通りがかりのあなたに頼んだのよ? そしたらあなた、全然戻らないし気絶してるんだもの」ヴィヴィアンは肩をすくめた。


 ローレンスは彼女を見つめる。


「嘘吐いてないわよ。心配したんだからね。取り敢えず今日は帰って休みなさい。きっと疲れて夢でも見ていたのよ」


 腑に落ちなかったが借りた鍵を返すと部屋を出る。しかし声を掛けられて立ち止まった。


「そうそう。ずっと言い忘れてた。水色地に白バラの綺麗なヴァレンタインカードってあなたでしょ? 堅苦しい文章だし書体で直に分かったわ。アロマオイルもありがとう!」


「え、あ、うん……どうも」ローレンスは頬を染めて俯いた。


「それと白バラで思い出したわ。おじいちゃんが死んだ時に白バラを供えたのもあなたでしょ? ありがとう。おじいちゃんも喜んだだろうし私も慰められたわ」


 ローレンスは気恥ずかしくて死にそうになった。彼は早足で部屋を出た。夢の世界にいるようだと感じて頬をつねったが痛かった。


 何故ヴィヴィアンはガヴァンを忘れてしまったのだろう。何故迷い鳥の書き込みや鳥かごが消えてしまったのだろう。何故イポリトは帰って来ないのだろう。何故ハデスは冥府から姿を消したのだろう。帰宅するとソファに座し不安と疑問に悩まされ、ドラゴンのぬいぐるみを抱きしめた。

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