三章 六節

 ベンチにユウを置き去りにした翌日、日が高く昇ってもクチバシ医者はベッドで腐っていた。いつもは夜明けから仕事をするが今日は億劫だった。予定が無いので偶には休業にしようと惰眠を貪る。


 しかしランゲルハンスが放った遣い魔に起こされ『話さねばならない事があるので家に来るように』と言伝を受けた。不機嫌に返事をしてベッドに潜る。いつも『ありがとう。ご苦労様』と言伝を聞く様子とは真逆の彼に遣い魔は驚いた。煌々と光る真紅の眼を何度も瞬かせた。悪戯心が湧いた遣い魔は掛け布団の上で幾度か跳ねた。不快になったクチバシ医者は掛け布団を勢い良く取っ払うと上半身を起こした。


 ベッドから転がり落ち、床に落ちていたマスクの横で尻を着いた遣い魔はクチバシ医者を見上げる。薄い眉をしかめ、窪んだ眼窩に嵌まる青白くて大きな瞳が遣い魔を睨む。噛みすぎた所為で赤黒いかさぶたになった唇が歪む。この世の物とは思えないクチバシ医者の形相に遣い魔は危険を悟り、主人の許へと逃げ帰った。


 舌打ちしたクチバシ医者は布団を被り惰眠を貪ろうとした。しかし瞳を閉じても寝付けない。頭に浮かぶのは自分の正体やユウの事ばかりだ。


 大きな溜め息を吐くと起き上がる。そして床に落ちていたマスクを拾い洗面台へ向かう。洗顔を終えてマスクを被ろうと手をかけると糸が突然切れた。蛇がうねるように糸が解けてマスクが二つに割れた。


 呆然と眺めていたが我に返り慌てふためいた。階段を駆け下りブーケ制作で使う針と糸を掴む。そして二階へ駆け戻りマスクの分厚い革に針を刺すが針の尻が出ない。昨夜乱暴に扱った所為で壊れたのだろうか。しかし投げつけたくらいで縫製が解ける物だろうか。マスクを被って海を漂った事もあるし高所から転がり落ちた事もある。それよりはダメージが少ない筈だ。ダメージが蓄積され、今日が限界の日だったのか。


 クチバシ医者は修繕を諦めた。


 昨夜から何度目かの溜め息を吐きブランチをとろうとパントリーを開ける。肩を落とした。今日は厄日だ。マスクが壊れた上に買い出しに行かないと何もありつけない。どうやってマスク無しで街まで出ろと言うのだ。


 着替えてベッドに座すと頭を抱えた。街に行かねばならない。ユウと顔を合わせるかもしれない。……しかしチャンスだ。もし彼女と会った時に素顔を見せれば嫌われるだろう。自分が振られた事にすればユウは心に傷を負わずに済む。


 白いマフラーを巻き付けて顔を隠そうと思い立ち、クローゼットを開く。しかしユウから貰った青いマフラーしかなかった。白いマフラーは昨夜ユウに巻いてそのままだ。ユウの物を着ける気分ではないが背に腹は代えられない。


 クチバシ医者はユウから貰った青いマフラーを巻き付けた。新調したばかりのウールの黒いトレンチコートを着て黒い中折れ帽を被り、顔からは青白く光る瞳だけを覗かせる。そして薄く積もった雪道を踏みしめ街へ向かった。


 街の眼鏡屋で丸いサングラスを購入するとそれを掛けて食料品店で買い物した。寄り道せず帰ろうとアクセサリーショップのウィンドウを通り過ぎようとしたが立ち止まる。ウィンドウには雪の結晶を象ったチョーカーが飾られていた。ユウが欲しがっていた物だ。クリスタル製なので少し高価な物だった。


 チョーカーを見つめていると背後から男に声を掛けられた。しかし無視してウィンドウから離れる。男は紙袋を抱えるクチバシ医者の腕を掴む。クチバシ医者は観念して振り返る。腕を掴んでいたのはリュウだった。


「トリカブト。お前ユウに何したんだよ」


「……マスクもペスト帽も被ってないのに何故、僕だと?」


 リュウは白い息を弾ませる。


「マフラーだよ。その青いマフラー、姉貴がお前にやった物だろう。一緒に選んでやったから覚えている」


 クチバシ医者は視線を落とすと唇に掛かったマフラーを見つめる。


「昨日何があった? お前が送りオオカミしてるんじゃないかって心配になって深夜帰ったんだ。そしたらユウが泣いてるんだ。訳を聞いても『大丈夫』としか言わねーんだよ馬鹿姉貴」リュウは溜め息を吐く。


「……何も無かったさ。ベンチで少し話して別れた。それだけだ」


「何も無い訳ねーだろ! お前、何か言っただろ!?」


「ああ言ったさ。でも話して何になる? これは僕と彼女との……いや、僕だけの問題だ」


「話せよ。力になりたい」


「話した所でどうにもならない。首を突っ込むな!」


 唇を噛み締めたリュウはサングラス越しのクチバシ医者の瞳を睨む。


「あー、そうかよ! 訳分かんねーよ! 自分勝手だな!」


 リュウは斜め前にステップを踏むとタイキックを見舞う。しかしリュウの脚はクチバシ医者のあばらに触れる直前で静止した。


「……理由も無く姉貴泣かせたら今度は殺すからな」


 脚を乱暴に下ろしたリュウは鼻を鳴らし、踵を返して雑踏へ消えた。




 帰宅したクチバシ医者は中折れ帽子をベッドへ放る。そしてコートを着たまま袋から青林檎を取り出すと齧り付く。すると脳内でユウの無邪気な声が響いた。


 ──お菓子の新作、青林檎のジュレってどうかな? 青林檎って初恋の味なんだって。


 齧りかけの林檎をテーブルに置くとランゲルハンス宅へ向かった。


 ドアをノックするとニエが出迎えた。マスクを被ってないクチバシ医者に彼女は驚いたがコートを預かると暖かいリビングへ招いた。昼食の後なのだろう、トマトの香りが漂い、マグから湯気が立ち昇る。


 クチバシ医者は丸椅子に座す。


「で、何の用だ?」


「急ぐ事は無かろう。君はマスクをどうしたのかね?」大きなカウチで脚を組むランゲルハンスは本から視線を上げない。


「被ろうとしたら糸が解けて壊れた」


 ランゲルハンスは顔を上げた。


「何だ? そんなに珍しい事なのか?」眉をしかめたクチバシ医者はマフラーに埋もれた唇を覗かせる。レンズを湯気で曇らせつつ、ニエに出されたコーヒーを飲む。


「想定外の速さで事態が悪化しているようだな。……君を呼びつけたのは言うまでもない。キルケーの事だ」ニエが隣の椅子に座したのを尻目にランゲルハンスは口を開く。


 クチバシ医者はランゲルハンスを見据えた。ニエは俯く。ランゲルハンスは言葉を紡ぐ。


「君達が心配するように、目覚めない彼女は過労ではない。彼女自身の支えが崩れて魔力が弱まり元の姿へ戻ろうとしている」


「何だよ。元の姿って」クチバシ医者は問う。


「木だ」


「木って……木でも魔女になれるのか」


「彼女は特殊でね。……選択をした故に不死だが魔力が弱れば木に戻る。魔力と体力を温存する為に眠り続けている。しかし消耗が進んでいるようだな。魔力を込めて作ったマスクの縫製が解けるくらいだ」ランゲルハンスは溜め息を吐いた。


「何故魔力が弱ったんだ。お前の次に偉い大魔女様なんだろ?」


「心配事が無くなったからだ。……彼女は家族への執着が強い。以前彼女が君に言っただろう。『心配するのが家族の仕事さ』と。彼女は私達や君、友人の心配をし魔力を弱めずに生活してきた。しかしパーンの件が解決し私とニエが丸く収まり、人魚が新しい友を得て、君とドラゴンの娘の仲睦まじい様を眺め安心した。心配と言う支えが崩れた」


「救う手立てはないのか?」クチバシ医者は唇を噛む。


 手を額に当てたランゲルハンスは長い溜め息を吐く。俯いていたニエは夫の腕に手を添え、仰ぐ。


「……あるにはある。しかしそれが問題なのだ」


「勿体振るな。力は貸す」クチバシ医者はランゲルハンスを睨む。


「……恩に着る。魔力を安定させる為には薬が必要だ。調剤は簡単だ。しかし材料の一つが入手に難しい。……金の鹿の角だからな」


「……以前話していた、入ると二度と出られない黒い森の金の鹿か?」


「ああ。神獣の鹿は見た者を魅了し駿足で逃げ、地の果てまで追わせる。私が金の鹿の許まで案内する。君は角を少し失敬し給え。私は悪魔故に神獣やら神やらとは相性が悪いのでね、触れる事は叶わない。その後術を使い森から離脱する」


「僕が角を貰うって……鹿と眼が合えば最期だろ? その対策は?」


「肉眼で見なければ平気だ。鹿は処女か処女の髪を差し出せば大人しく角を断たせる。問題はその金の鹿と黒い森を管理する偏屈者だ」


「誰なんだよ、その厄介な奴は?」クチバシ医者は眉をひそめる。


「……古い神だ。人の都合だけを押し付けられ、担がれ、裏切られたと呪われ、時代と共に名も姿も忘れ去られた哀れな神だ」


「人が神を生み出す? 神が人を生み出したんじゃないのか?」


「神も悪魔も精霊も人が生み出したのだ。抗えぬ厄災に人は神と精霊を生み出し幸福や人としての在り方を請うた。神の道を阻む欲望や厄災を悪魔と呼んだ。神の道に熱心な者は悪魔を憎み、そうでない者と戯れたものだ」ランゲルハンスはコーヒーを飲む。


「ふうん。じゃあその古い神は時代と共に悪魔として憎まれたのか?」


「邪神としてな。好戦的な貴奴は易々と鹿を差し出さないだろう。見つかれば一戦交えるかもしれん」


「……神様か。でも悪魔のお前なら神など恐れるに足りないだろう?」


「光は影を蝕む。私では太刀打ち出来ん。しかし光は影が無ければ存在を示せない。悪魔は神にも人間にも必要とされ存在するのでね。易々とは死なん。それに私は管理者故に不死だからな。土の属性を持つ夢魔故に土になるくらいだ」


 ニエは夫の片手を握る。


 ──嫌です。アロイス、土にならないで下さい。私を置いていかないで下さい!


「君を置いて居なくなる訳は無かろう。やっと少しずつ理解出来るようになったのに」


 恋に破れマスクも壊れ、苛立つクチバシ医者はテーブルを人差し指で忙しなく小突く。


 ランゲルハンスは鼻で笑う。


「襲って来る事は確かだろう。身を守る他無い。神と渡り合えるのは神において他ならない。しかしこの島に古い神に対抗出来る主神クラスはいない」


「ケーキ屋の売り子のバステトやワイナリーのディオニュソスじゃダメなのか?」


「彼らは部外者だ。それに序列が低い。古く、上位で未だに信仰される神が最適だ。しかしそんな神はこの島には……。クチバシ医者よ、キルケーの家族として付いて来てくれるかね?」ランゲルハンスはクチバシ医者の青白く輝く瞳をサングラス越しに見据える。


「いつ鹿を探しに行くんだ?」


「明日だ。一日猶予をやる。泊まりがけでフォスフォロから剣術を習え。護身の為だ。アイアイエ島へは私が送る」


「分かった。支度をしてまた戻る」クチバシ医者は立ち上がる。


「待ち給え。処女の髪も用意し給え」


「しょっ処女って」クチバシ医者は声を上擦らせる。


「近くに居るだろう。君の願いならば差し出す娘が。金の鹿は処女の香りを好む。雄だからな。それでおびき出す」


「馬鹿言うなよ。古い神に会う前にユウに張り倒されて死んじまう」


 ニエがクチバシ医者にコートを渡す。クチバシ医者はコートのポケットから小さな箱を取り出すとニエに耳打ちして外へ出た。箱を手に収めたニエは眉根を寄せ、頬を膨らませドアを見つめた。


 店に戻ったクチバシ医者は考え抜いた末に手紙を綴り、通りかかったハーピーに速達を依頼した。担当外の依頼にハーピーが渋ったのでチップを弾む。すると不承不承請け負った。クチバシ医者は着替えと差し入れをトランクに詰め、ランゲルハンスの家へ戻った。


 ニエが何か言いたそうに近寄るがクチバシ医者は早足でランゲルハンスに歩み寄る。ランゲルハンスは術を使い彼をキルケーの屋敷へ送った。


 屋敷ではフォスフォロと人魚がクチバシ医者を待ち構えていた。二人はクチバシ医者がマスクを被ってない事に驚いたが気を取り直して声を掛けた。既に話を通されていたようで人魚はクチバシ医者に『頼んだわよ』と睨みつけ、フォスフォロはいつになく真剣な表情で『手加減はしないからな』と剣を渡した。

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