二章 十一節

 クチバシ医者が帰宅するのを見届けてからランゲルハンスはドアを解錠し、自宅へ入った。眠ったニエをカウチに座らせる。彼女の手に巻かれたペスト帽の飾りリボンを外してテーブルに干す。リュックサックから白鳩を出し、ペスト帽を放った。バスタブに湯を張るとニエの頬を軽く叩く。その手は女性ではなく男性に変わっていた。


 目覚めたニエの前には半裸のランゲルハンスが居た。厚い胸板に刺創痕がある。頬を染めたニエは顔を背ける。男の半裸を見るのは恥ずかしい。最愛の男なら尚更だ。


「風呂を沸かした。先に入り給え。フォスフォロ達を案ずるな。山小屋に居るので明朝遣い魔をやる。クチバシ医者は回収した」


 ニエは安心して溜め息を吐いたが首を横に振る。先生に風邪を引かせるのは嫌だ。ランゲルハンスの手を取ると先生こそお先に、と綴る。


「では共に入るか?」ランゲルハンスは囁く。


 先程よりも頬を紅潮させたニエは凄まじい勢いで首を横に振り、バスルームへ駆け込む。心臓がかつて無い勢いで拍動する。


 リビングから喉を小さく鳴らして笑う声が聞こえた。


 体を手早く清めたニエはバスタブに浸からずに風呂から上がった。ベビーピンクのバスローブに身を包み、髪を乾かすとリビングへ向かった。


 半裸のランゲルハンスがカウチで脚を組み、片肘ついて読書していた。


 頬を染めたニエが近寄る。ランゲルハンスは片手で本を閉じ彼女を見遣る。


「早いな。気を遣って湯に浸かってないだろう。二階で休み給え」ランゲルハンスは節くれ立った手でニエの髪を搔き撫でると本を携えバスルームへ向かった。


 勝手な行動した事をニエは謝りたかった。しかし今日はこれ以上共に居ると気を失いかねないので二階へ上がった。明日謝ろうと固く誓った。


 白いネグリジェに着替えベッドに潜っても眠れないニエはランプを点けて本を読む。しかし内容が頭に入らない。未だに頬は紅潮し、頭に鼓動が響く。女姿の半裸の先生に抱きついた。その上男に戻った際に半裸を見た。更には風呂を共にするかと揶揄われた。


 厚い胸板が甦る。ニエは頭を振る。いけない。思い出したら心臓が爆発してどうにかなっちゃう。別の事を考える努力をしよう。どうやって明日謝ろうか。二度目の失態を起した私を許してくれるのかしら。女姿の先生に嫉妬した事を許して貰えるのだろうか。


 考えを巡らせたニエは冷静に戻った。女性の姿の先生は何者なのだろう。確かに先生が悪魔である事は知っていた。しかしわざわざ女性になるなんてどうしたものだろう。先生の左眼を奪った時、何故先生は女性に化けた後にその香りを漂わせて帰宅したのだろう。


 考え込んでいると階段から音がした。風呂を上がったランゲルハンスが昇っているのだろう。急いで本を閉じるとニエはランプを消すのも忘れ、眠った振りをした。


 片手にトレーを持った黒いルパシカ姿のランゲルハンスはノックせずドアを開けた。


 上気した横顔を覗かせたニエが寝た振りをしていた。ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑う。ドアを閉めるとピューロにトレーを置く。湯気が昇るマグを二つ取るとベッドに腰掛けマグに口をつけた。


「相変わらず君は寝た振りが巧いな」


 眉を下げたニエは上半身を起こす。


 ランゲルハンスは口をつけていないマグをニエに持たせた。


「蜂蜜生姜レモンだ。体が温まる」


 素直に口をつけると懐かしい味がする。少女の頃、風邪を引いた時に先生が作ってくれた飲み物だ。ニエは小さな溜め息を吐いた。


「落ち着いたかね?」


 ニエは小さく頷いた。


「……何故、探しに?」マグを両手で包んだランゲルハンスはニエを見つめた。


 俯いていたニエはランプのスツールにマグを置いた。そして師の隣に座すと彼の手を軽く叩く。マグを置いたランゲルハンスは片手を預けた。ニエは字を綴った。


『先生は毎年同じメモを残して下さいます。今年はそれが無く、お帰りにならないので心配しました。クチバシ医者に尋ねたら、山に籠るとしか聞いてないと答えました。何かあったかと想うと居ても立ってもいれず探そうと決めました。クチバシ医者が手伝ってくれる事になり、成り行きでフォスフォロと人魚が手伝ってくれました』


「嘘だな」


『本当です』ニエはランゲルハンスを仰ぐ。


「心配だ、と言うのは嘘だ。私には分かる」ランゲルハンスはニエを見つめる。


 頬を染めたニエは再び師の手を取る。


『……嘘です。本当は先生に会いたい一心で家を出ました。迷惑を掛けてごめんなさい』


 ランゲルハンスはニエに預けた手を軽く払い、彼女の頭を軽く叩く。


「知っている」


 ニエは俯いて唇を尖らせた。


「今度は私の話を聞いてくれるかね?」


 ニエは俯いたまま頷いた。


「既知の通りだが女になれる。私は悪魔だが夢魔でね、両の性を持つ。以前は自在に姿を変えられた。土の井戸も他者に任せていた。しかしその者と対立し毒を盛られた。その所為で性を変えられなくなり男として、つまりインキュバスとして固定された。私は復讐した。そいつを喰らい心臓に縛り付けた。しかし呪いを掛けられた。心から伝えたい事を口に出来ない呪いだ。以来自分で井戸を管理したが、ある時君が現れた」


 ニエはランゲルハンスを仰ぐ。


「君は魔術師の弟子としての出来はそれ程でもなかったな。しかし熱心に話を聞き理解しようと努める姿はいじらしかった。娘を持ったような気持ちだったよ」


 ニエは再び俯く。


「美しく成長した君は禁を破り記憶の本を閲覧した。その時君は西の山から私を召還した」


『召還?』ニエは顔を上げる。


「なんだ、やはり自覚が無いのかね。随分頑張ったと思うがね」


 ランゲルハンスは微笑んだ。


「急に自宅に戻されたので驚いた。リビングを見渡せば封印した筈の地下室の入り口が破られていた」


『何度謝っても謝りきれません。ごめんなさい。でも簡単に床板が外れました。本当です』


「簡単にね。恐ろしい事だ。私は何重にも術を施し封印した。それこそ君が封印を解かないように。しかし易々と封印を破った。驚いたよ」


『ごめんなさい』


「責めている訳ではない。過ぎた事だ。……地下室に駆け下りれば記憶の本を閲覧した君が消滅しかけていた。私は左眼を与え魂の消滅を阻止した。以来変化が起きた。感情が高ぶる時、つまり激しい怒りや悲しみを覚えると女の身……サキュバスに戻るのだ」


 目の周りに巻いた包帯を涙で濡らし、ニエはランゲルハンスの胸を見つめる。


「今日も突然、召還された。胸が引き裂かれそうに痛んだ。君が私を召還する際は不幸が起こるからな。……話を戻そう。当時私は自身に憤りを感じていた。君の気持ちを甘く見たからこんな事態になったのだと。激しく怒り、女の身に変わった。女である時間が続き家に帰らない日が続いた。調度いいと思ったよ。君が私から離れ魔術と無縁に暮らせるなら、太陽神と共に暮らせるなら、幸せになるならこれ以上の事はない。娘の幸せを願わぬ父は居ない。追い出す為に物呼ばわりもしたしそのような扱いもした。君を魔道に引き込んでおいて勝手だがね。時間が経ち男に戻るとサキュバスの香りを残し、君の待つ家へ帰った。私が女を抱いたと思い込んだ君が家を出ると思ったからだ」


 ランゲルハンスは溜め息を吐く。


「しかし現実は違った。君は嘘寝を決め込む私に抱きつき女の匂いを消そうと躍起になった。恐ろしくて目を開けられなかったよ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑った。


 ニエは再び頬を染める。


「歴史書を閲覧した君は葛藤したようだが最終的に私を選んだようだな。一時期私が作った料理も喉を通らなかったな。故国の事は気に病むな。なるべくしてなった事だ。生贄以前に政治や対外関係が悪かった」


 ランゲルハンスはニエの肩を優しく叩く。


「そんな折にキルケーが来た。彼女は勘が鋭くてね。私達の歪な関係と体の変化を看破した。流石大魔女様だ。私はキルケーに口止めした。時機が来るまで君には話さぬようにと。家族想いの彼女は胸を痛めた。それではニエが救われないと。しかし私とて悪魔の端くれだ。術で魔女を黙らせた。彼女は憤慨してね。その詫びがアイアイエ島と屋敷だ。まったく金が掛かる魔女様だ」


 ランゲルハンスはニエを見つめる。


「キルケーが引っ越し随分と時が流れ、君は海でパーンとシュリンクスを拾った。二人の件では多大な迷惑と心配を掛けた。しかし君は何も話さない私を信じた。パーンと仲違いせずに私の顔色を伺い生活するのは大変だったろう。よく付いてきてくれた」


 ニエは首を横に振る。


「謙遜するな。礼くらい言わせて欲しい。あの時は本当にありがとう」


『今日の先生は変です。いつもよりも沢山、沢山お話します。嬉しいけれども恐いです』


 ランゲルハンスは彼女の左手を固く握ると喉を小さく鳴らし笑う。


「呪いに掛かるまでは喋った方だ。三大精霊共は昔の私を知っている。聞いてみると良い」


 ニエは微笑む。


「……しかしこんな話をするよりも大事な事を伝えられないのが残念だがね」


 長い溜め息を吐くとランゲルハンスは虚空を見つめた。


「決着を付ける」


 ランゲルハンスはニエを見据えた。


「以前から……何百年も前から考えていたが君は弟子として相応しくない。使えるのは簡易魔術ばかりで高等魔術が使えても奇跡的だ。西の山に私を呼び寄せ迷わせたり、幾重にも掛けた封印を解いたり全てが無意識で滅茶苦茶だ。君には魔術師として魔力を調節するセンスがない。悪魔文字が読めても手伝いが出来ても致命的だ。いつかは身を滅ぼす」


 俯いたニエは唇を噛む。


「君は破門だ」


 ニエは包帯から涙を滴らせる。木の床にシミが生まれる。深い溜め息を吐くと虚空を仰ぎ、過ぎ去りし日々を想い出す。井戸から引き上げられ先生にキスした事、悪魔文字を教えて貰った事、クラブサンを弾いた事、キルケーと先生で食事をした事、パーンとはしゃぎ勉強中のシュリンクスと先生を怒らせた事、クチバシ医者が手伝いをしてくれた事、全て楽しい想い出だった。


 徐に立ち上がったニエは深く頭を下げると師の手を取った。


『今までありがとう御座いました。慈しみ育てて貰い、沢山の想い出まで持たせて下さって本当に感謝しきれません。私はとても幸せでした』


 手を離すとランゲルハンスの胸を見つめた。そして微笑み、踵を返す。ドアを開けると振り返り、最後に少しだけ最愛の男の胸を見つめた。


 仏頂面のランゲルハンスは左手を胸に当て、右手で左薬指を指し示した。


 彼の所作に疑問を抱いたニエはドアを閉める手を止めた。言葉を反芻する。


 ──呪いを掛けられた。心から伝えたい事を口に出来ない呪いだ。


 ──大事な事を伝えられないのが残念だがね。


 ニエはランゲルハンスの方を見つめる。真意や行動を理解しようと頭を整理し、結論に至った。右手をドアから離し左薬指に触れた。固い感触が伝わる。左手を翳した。


 薬指にはダイヤモンドの指輪が嵌められていた。


「言っただろう。君は破門だと」ランゲルハンスは恥ずかしそうに眼を逸らした。


 最愛の男に駆け寄りニエは抱き着いた。勢い余ってベッドに押し倒す。彼女は包帯から涙をにじませる。


 ランゲルハンスはニエを片手で撫でる。


「泣かせるつもりはなかった。悪く思わないでくれ。心から伝えたい事を口に出来ない」


 ひとしきり泣いたニエはランゲルハンスの首筋を見つめる。


「今年は鉱山に籠った。それを探すのに手間取ってね。随分と君を待たせたようだな」


 首を横に振ったニエはランゲルハンスの胸板に頬を寄せる。ノイズが混じった心音がする。気持ちが落ち着いた。


「察しがいい君の事だ。正体を明かした所で気付いていると思う。夢魔は生殖能力を持たない。子供は望めないがそれでもいいかね?」


 ニエは頷いた。


 ランゲルハンスは体を反転させニエをベッドに押し倒した。そして最愛の女の唇にキスを落とし、ランプを消した。




 翌朝目覚めるとランゲルハンスは床に放っていたジーンズに脚を通した。ベッドに座し二匹の遣い魔を呼び寄せる。一匹を西の山へ送り、もう一匹には金貨を八枚持たせケンタウロスを西の山へ向かわせる為に街へ送った。


 ニエはランゲルハンスの隣で安らかに眠っていた。


 少女の頃から無邪気な顔をして眠るものだと、ランゲルハンスは微笑した。慎ましい白い胸が掛け布団から覗く。胸の中央に薄紫色の痣が咲いていた。左眼を与えた時に出来た痣だ。その痣に触れ、かつて刺された際ニエの髪で縫合した自分の傷痕に触れた。互いが互いの物を取り込んだからこそ魂が通じ合ったのかもしれない。


 ランゲルハンスは苦笑すると自分を刺したパーンに胸中で礼を述べた。


 笑い声にニエは目覚めた。


「お目覚めかね?」


 寝ぼけたニエは会釈する。自分の裸の胸が見えた。急いで掛け布団を引き上げ、頬を染める。ベッドに座すランゲルハンスを見ると半裸だ。喉を小さく鳴らし笑っていた。


「何を恥ずかしがる。そんな仲になった訳だ。今後とも宜しく頼む、可愛い妻よ」


 頭から布団を被ったニエは昨晩の睦事を思い出して身悶えた。


 ランゲルハンスは部屋を後にしようとドアを開ける。


「……昨晩の交わりで君の魔力は私が吸収した。これで君が自滅する心配をしなくて良い。君の魔力も心も体も手に入られて一石二鳥だ」微笑んだランゲルハンスはドアを閉めた。


 ニエは恥ずかしさで死にそうになり、ベッドの中で暴れた。階下からランゲルハンスが喉を小さく鳴らして笑う声が微かに聞こえた。

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