二章 十節

 ずぶ濡れのニエは暗い森を歩く。ブーツに水が染み、地面を踏む度に音が鳴る。歩けども、歩けどもクチバシ医者の姿は見えず聞こえるのは雨音ばかりだ。眼窩の包帯は涙と雨で濡れた。登山地図もコンパスも水もチョコレートも自分が持ってるのにどうしよう。


 ニエは包帯を拭う。すると目の前に泉が現れた。緑豊かな木々に囲われた泉は溢れんばかりに水を湛え天から降り注ぐ光を反射する。鳥のさえずりや小虫の羽音が聞こえる。


 歩みを止めたニエは天を仰ぐ。頭上の空は暗く、強い雨が顔を打ち付ける。顎を引き再び泉を向く。泉の真上は闇を丸く切り取ったように青空が広がっていた。


 思い出した。先生から昔教わった。こんな不自然な空間には絶対に近付いてはならない事を。心を惹き付ける空間には大抵人を喰らう化け物が潜んでいる。人を引きずり込み化け物の仲間にする。自分の不安定な魔力では太刀打ち出来ない。立ち入れば最期だ。


 泉に背を向けたニエはクチバシ医者を捜そうと一歩を踏み出す。


 しかし踏みとどまった。クチバシ医者があそこに踏み込んでいたらどうしよう。彼は命を投げ打ってパーンを探しに冥府へ行く程、天使のように心根の優しい男だ。魔術知識も皆無で甘言に騙され化け物に引きずり込まれてもおかしくない。


 ニエは泉を振り返る。先生から左眼を奪いこの島に魂を固定された自分は不死だ。どんな姿に変えられても愛する先生に二度と会えないとしても、自分なら泉の化け物に取り込まれたクチバシ医者を救えるかもしれない。先生はクチバシ医者を可愛がっている。私もクチバシ医者が好きだし優しい友人を失うのはとても辛い。


 意を決したニエは光を湛える泉へ向かった。木々の枝をくぐり抜けると雨は途端に止んだ。ブーツは柔らかい芝生を踏みしめ、泉に近付く。クローバーやタンポポ、オオイヌノフグリ、ヴィオラが咲き乱れ、肩にはテントウ虫が止まった。ミツバチの羽音や小鳥のさえずりが木々の狭間で反響する。


 泉を覗くが底が見えない。群青色の空間が広がるばかりだ。これではクチバシ医者がいるかどうか分からない。リュックサックを下ろしたニエはペスト帽の黒い飾りリボンを右手に巻き付けた。そして右手を泉へ差し込む。クチバシ医者の物を持っていれば気付く筈だ。しかし反応がない。水面は波紋を打つだけでクチバシ医者や化け物は出て来ない。手を引き上げると波打つ水面を覗いた。


 水面は静止してニエを映す。ニエは泉から顔を離した。すると女性に声を掛けられた。


 ──大切な人を探しているのね。


 辺りを見回す。しかし芝生や木々の間には誰もいない。


 ──ここよ。私は泉の中。


 恐る恐る泉を覗く。自分の顔が映るだけだ。


 ──私よ。私は貴女。


 声と同時に水面に映ったニエの口が動く。ニエは首を横に振る。


 ──でも私は貴女。生まれてから一度も喋れない貴女。本当の貴女はこんな声よ。


 騙されまい、と頑に首を横に振った。


 ──頑固ね。だから叶わぬ恋に魂を焦がしていられるのよ。貴女が恋い焦がれる男は何とも思っていないのに。誰かさんが泣いているわ。振り向きもしない貴女を強く想って、役に立ちたいと力を貸す優しい誰かさんが。


 ニエは小石を泉に投げつける。水面に映る顔は崩れたが直ぐに戻った。


 水面のニエは、芝生のニエを嘲笑した。


 ──おお恐い。澄ました顔をして暴力的で、何も出来ないくせに計算高くて、好奇心は旺盛なのに弱虫で、泣き虫で男に媚を売り綺麗に取り繕う……嫌な女。だから愛しい男の左眼を奪ったのよ。本当に嫌な女。


 耳を塞いだニエはうずくまった。


 ──だから貴女は皆に嫌われるの。国を滅ぼした汚い女だって。貴女に想いを寄せる男は気付いてないだけ。貴女が恋い焦がれる男は気付いてるわ、だから他の女を抱いたの、貴女が去るようにって。


 血の涙を流したニエは激しく首を横に振る。


 ──まだ認めないのね。馬鹿な女。愛しい男が帰らないのは貴女が出て行かないから。あの男は出て行ったの。他の女を抱きに行ったの。もう二度と帰らないわ。


 唇を噛み締めたニエは思い切り水面を打ち叩く。しかし水面から出て来た手に手首を捕えられた。節くれ立った大きな手だ。ニエは驚いた。懐かしい感触だ。


 大きな手は泉から浮き上がり全容を明かす。現れたのは赤いストールを巻いた黒尽くめのランゲルハンスだった。雪舞う冬空を思い起こさせる鈍色の右眼、左眼窩を遮蔽する黒い眼帯、通った鼻筋、痩けた頬、闇色の短髪、逞しい体躯、ニエが一番見たかったものだ。


 ニエは思わず手を離す。


 驚くニエに泉の中のランゲルハンスは右手を差し出した。


「案ずるな。共に帰ろう」


 涙を流しつつニエは首を横に振る。こんな私では先生に迷惑をかけてしまう。


「そんな事は無い。君は私の妻だろう。私の妻を悪く言うつもりかね?」


 ランゲルハンスは慈愛を込めた瞳でニエを見つめた。


 ニエの眼窩を覆った包帯から止めどなく涙が溢れた。気が遠くなる程昔から欲した言葉だ。最愛の男からの言葉に突き動かされた。


 立ち上がったニエは愛しい男の手を取る。ランゲルハンスは彼女を抱きしめると泉へ誘う。徐々に泉の中央へとランゲルハンスはニエを引き込む。ニエは水深が深くなる事なぞ気にせず最愛の男の胸板に頬を寄せ、大好きな心音に耳を澄ませた。


 しかし聞き慣れた音とは違った。ノイズが混ざった心音ではない。


 ニエはランゲルハンスを仰いだ。


 立ち止まったランゲルハンスは微笑み、彼女の顎に指を掛けキスを落とそうとする。


 ニエは唇を噛み締める。違う。先生じゃない。いつもの心音とは違う。それに私は先生の顔を見られない罰を受けているもの。


 偽ランゲルハンスの頬を引っ叩いたニエは駆け出す。しかし水中で足は思うようには上がらず、なかなか岸に辿り着けない。水を打ち付ける音が辺りに響く。


 頬を引っ叩かれた偽ランゲルハンスは術を解き、水に戻った。水はうねり勢いを付け、ニエの手足を凄まじい早さで捕える。非力なニエをねじ伏せると水中へ引きずり込んだ。


 泉に大きな波紋が広がる。辺りは先程とは打って変わって静まり返った。


 静謐な泉に突如一人の短髪の女が姿を現した。背の高い女は血相を変えて駆け込む。女は黒いコートと白いルパシカを脱ぎ捨てると泉へ飛び込み、潜った。


 水中を進むと、気を失い茜色の髪を漂わせて水底へ沈むニエを見つけた。女は息を全て吐き全身に力を込めて潜る。深く潜る度に大小数多くの泡が生まれる。女は力なく沈むニエの腕を捕えると筋肉質な腕に抱え水面を目指す。


 水はそれを許さなかった。女の脚に水は巻き付き、水底へ引きずり込もうとした。


 顔をしかめた女は二言三言何かを呟く。口を閉じた瞬間、泉は消えた。


 上半身裸の女はニエを腕に抱え、激しい雨が打ち付ける暗い森に佇んでいた。足許にはリュックサックとペスト帽、服が落ちている。女は片手を挙げると人差し指をタクトのように下へ振る。半球体の透明な薄膜が天を覆い、雨から彼女達を守る。コートを地面に敷くとニエを優しく下ろした。そして頬を軽く打つ。


 ニエは目覚めた。咳き込み、水を吐き出す。女は起き上がったニエを抱きしめると対面に座らせ優しく背をさする。


 水を吐き出したニエは女に凭れて辺りを見渡す。光が満ちた泉は消え、暗い森に戻っている。周りでは強い雨が降る。しかし天蓋のような膜に守られ雨は肌に触れなかった。


 女はニエの背をさする。


 命の恩人に礼を伝えようとしたがニエは咳き込んだ。これ以上迷惑をかけまいと背を向け、水を吐き出す。視界の端で女が見えた。ツンと天を仰ぐ豊かな胸をした筋肉質の女だった。胸の谷間に傷がある。ニエは息を吸う。女の香りが鼻腔をまさぐった。


 嗅いだ事のある香り。そうだ、先生の首筋から漂った香りだ。ニエは恋敵に助けられた事に唇を噛むが頭を下げる。恥ずかしくて顔を上げられなかった。


 女は白いルパシカを差し出した。


 ニエは戸惑う。女だって濡れている。助けられた自分だけ乾いた服を着るなんて。友人であろうと恋敵であろうとそんな真似は出来ない。首を横に振った。


 しかしルパシカを差し出されたままだ。


 埒が明かない。困惑したニエはルパシカを受け取るとその場でワンピースを脱ぎ、大きなルパシカを着て膝を抱き座した。情けない。危険を顧みず自分を助けて服を貸す優しい女性に嫉妬していたなんて。この人なら先生とお似合いだ。自分が恥ずかしい。抱えた膝に顔を乗せたニエは女の横顔を仰いだ。


 背筋を伸ばした女は胡座をかいていた。暗い空を見つめ黙す。長い睫毛の中に嵌められた雪舞う冬空のような鈍色の瞳が美しい。視線に気付いた女は瞳を動かし、顔を向ける。


 鈍色の右眼、左眼窩を遮蔽した黒い眼帯、通った鼻筋、品の良い唇、痩けた頬、闇色の短髪、どれもニエの見覚えがあるものだった。


 ニエは息を飲んだ。そして気付いた。その途端視界から美しい女の顔は消える。ニエは女の胸に飛び込み涙を流した。もう二度と離すまいと最愛の人を抱きしめた。


 女姿のランゲルハンスはニエを抱きしめ頭を撫でる。ニエは暫く泣いていたが、気持ちが落ち着くと眠ってしまった。ランゲルハンスは彼女を見下ろし、瞳を閉じた。


 暫くして雨は小降りになった。ランゲルハンスはニエを起さぬように立ち上がる。術で黒傘を出し、開いて地面に置く。ペスト帽をねじ込んだリュックサックをワンピースと共に肩に掛けるとニエを両手で抱き上げた。そして地に敷いていたコートを乱暴に蹴り上げて肩に掛け、傘を持つ。薄膜の天蓋から出ると術が切れて消失した。


 濡れた木の葉を踏みしめる音と優しい雨音が森に響き渡る。


 ランゲルハンスはニエを覗く。少女の頃から変わりない無邪気な寝顔だった。馬鹿な女だ。左眼をくれてやっても尚、自分を求め彷徨う様が愚かで純粋で可愛らしい。放っておけばいつか身を滅ぼすだろう。


 ランゲルハンスは鼻で笑う。すると地面から洟をすする音が聞こえた。


 その場に屈むと耳を澄ます。眼前の穴から音がする。立ち上がるとニエを片手で抱き直した。傘を肩に掛け自由になった片手の爪に火を灯し、穴を覗く。


 ずぶ濡れになり肩を震わせるクチバシ医者が見上げていた。声を出す気力も無さそうだ。


「そこに居たのかね」


 見知らぬ半裸の女に声を掛けられたクチバシ医者は戸惑った。しかしフォスフォロの話を思い出し、隻眼の女の正体に気が付き声を振り絞る。


「ばっ馬鹿野郎。皆で探していたんだぞ。早く助けろ」震えるクチバシ医者はカチカチと歯を鳴らす。


「大昔、暇潰しで掘った穴に大きな獲物が掛かるとはね。掘った甲斐があったよ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らし笑う。


「馬鹿野郎!」クチバシ医者は大きなくしゃみをした。


 ランゲルハンスは術を使い、クチバシ医者を引き上げてやった。両腕を抱きしめ震えるクチバシ医者にリュックサックを持たせ、両手でニエを抱き上げた。


「フォスフォロが話したな?」


「ああ」


「お喋りめ」ランゲルハンスは鼻を鳴らす。


「フォスフォロと人魚もお前を探しにきたんだぞ。途中で二手に分かれたからフォスフォロ達も探してくれ」クチバシ医者は洟をすする。


「案ずるな。彼らは山小屋に居る。入山した際見かけたが仲良くうたた寝していた。日は沈んだ。明朝遣い魔を寄越して下山させる。君は私達と共に帰るんだ。術を使う。掴まれ」


 クチバシ医者は大人しくランゲルハンスの腕を掴む。


「私の事は言外無用だからな」ランゲルハンスは睨んだ。


 寒くてそれどころではなかったがクチバシ医者は幾度となく首を縦に振った。


 ランゲルハンスは鼻で笑うと西の山を後にした。

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