猿まね先生

矢田川怪狸

第1話

 あの頃、俺はまだ駆け出しの新人編集者だった。大物作家を担当して歴史に残るような名作を作るのだという野心もあった、又は新人を発掘して人気作家に育てるのだという熱意もあった、ただ、キャリアだけがなかった。


 だから、編集長からの辞令を受けた時には、思わず我が耳を疑ったものだ。

「いま、なんて?」

「だから、君には明日から猿田マサル先生についてもらう」

「俺、まだ新人ですよ?」

 相手はいくら熱意があっても臆すほどの大物作家……猿田マサルといえば、いずれシェークスピアを抜くだろうと言われる累計発行部数を誇る超人気作家だ。

 ただしこれには裏があって、猿田マサルは人間ではない。生まれてすぐに脳処理を施し、さらに特殊な育て方をして人間と同等の知能を持たせた猿なのだ。

 彼は『小説を書く猿』という特徴を最大限に生かす宣伝戦略をとっており、テレビや雑誌などへの露出も多い。本屋へ行けば彼の著作は常に平積み、猿が書いたという謳い文句につられて手を伸ばす新規読者も多く、猿であるからこそ大作家であるともいえるだろうか。

 それでも世に知られた大作家には違いない。その大作家先生の担当編集に選ばれるというのは大抜擢である。

 あの頃の俺はまだ若かった。

 だからこれが自分の実力を認められてのことだと、のぼせ上がったものである。

 そうではないのだということを思い知らされたのは、猿田マサルの家に住み込むようになってすぐのことであった。


「センセイ! バナナの皮はゴミ箱にって、何度言ったら覚えてくれるんですか!」

「われ思う、ゆえにバナナ在り」

 猿田マサルはオランウータンである。群れで暮らしたことがないせいか顔に特徴的なコブこそないが、実にオランウータンらしい思慮深い顔立ちをしている。その彼がもの思うように片手で目元を覆い、天を仰ぐ姿は哲学的……。

「って、騙されないですからね! 先生がそういう顔をしているときは、言い訳を考えているんだ!」

「バレてしまったか」

「あ~、あ~、あ~、洋服も脱ぎっぱなし! 脱いだら脱衣所の籠に入れてくれって、お願いしましたよね?」

「すまんな、森で暮らしていたころのクセでな」

「うそつけ! あんた、研究所育ちじゃん!」

 猿とはいえ人間と同等の知能があるのだから服は着ている。ところがこの大先生、自分ではパンツ一枚洗わない。印税で買った立派な家があるのに、掃除一つしやしない。キッチンだってこじゃれたアイランド型だというのに、リンゴの皮すら剥けやしないのである。

 そうした家事雑用は俺がしなくちゃならない。

「これって担当編集という名の、ていのいい飼育係ですよね!」

 俺が不満を口にすると、猿田先生は長い腕を器用に曲げて顎をかいた。

「まあ、そう怒るんじゃないよ、君」

「怒りもしますよ、俺はおさんどんするために編集者になったわけじゃないんだ!」

「しかしねえ、私はスランプで小説が書けない。編集者としての仕事を君にさせてあげられそうもないんだよ」

 猿田先生は申し訳なさそうに首をすくめて、「ウホッ」と鳴く。

「帰ってもいいよ。編集長には私が話しておいてあげるから」

「そういうわけにはいかないでしょ、俺がいなかったら、先生はあっという間にバナナの皮と汚れた洗濯物に埋もれて死んじゃうでしょ」

「大げさだな、人はゴミぐらいじゃ死なないよ」

「先生は人じゃないですし」

「それもそうだな、ははは」

 少し乾いた笑いだった。

 ここに来てからずっと、この猿が心から笑うのを見たことがない。俺はそれが気にかかっていた。

「先生さあ、たまには気分転換に映画とかどうですか? 俺、ひとっ走り借りに行ってきますよ」

「映画は、いま構想している物語のイメージを濁すから見ない」

「何も心奪われるような名作を見ようっていうんじゃない。何も考えずに見ることができて、ただ笑えるだけのくだらないギャグとかどうですか」

「すまない、それでも見たくない。ともかく他人の構築した物語というものことごとくが見たくないのだよ」

 猿田先生は足元にあった座椅子を引き寄せ、「よっこいしょ」と声を上げてそこに座った。

「さて、新高くん、私が口の悪い批評家の間でなんと呼ばれているか知っているかね?」

「『小説を書ける猿』ですか?」

「それは出版社が私を売り出すためにつけたキャッチコピーだよ。口さがない評論家たちは私のことを『猿まね先生』と呼ぶのだ」

「それはまあ、猿ですからね」

「そういうことじゃないよ、私の作品の本質が猿まねであることを見抜かれているのだ」

「パクリってことですか?」

「いいや、違う。天地神明に誓って、私は他人の作品を意図的にまねたことなどない!」

 強気だったのはここまで、猿田先生は突然に黙り込み、長い腕で頭を抱え込む。その所作は何かを悩んでいるというよりは、何かにおびえているようにも見えた。

「違う……違う違う。私は自分で無意識だと思っているだけで、あれはすべて何らかの物語のひな型をなぞったに過ぎない……見事なパクリじゃないか!」

 どうやらこれがスランプの原因か。俺はできるだけゆっくりとした動作で静かに腰を下ろし、猿田先生と視線を合わせた。

「ねえ、先生、俺は実は、先生の作品のファンなんです」

「あんなパクリ作品の?」

「パクリなんかじゃないですよ。先生のお話はどれも『構成のサルティンバンコ』と呼ばれるくらいトリッキーで、あれがパクリだっていうなら、元ネタは何なんです?」

「『猿は二度転ぶ』という話は読んだかね?」

「ええ、先生の初期作ですよね」

 それは猿を訓練によって腕のいい狙撃手に仕立て上げ、それが任務中の負傷によって死にそうになったからと左腕をサイボーグガンに改造し、最終的には体のすべてをサイボーグ化するために宇宙へと旅立ってゆく話だった。その合間にヒロインである雌猿との絡みが挟まり、全体を俯瞰すれば雌猿への愛のために死を拒む男の哀愁が描かれた超大作スペースファンタジーなのだ。

「まさか、あれがパクリだというんですか? あんな奇異な物語、人間じゃ思いつかないでしょう」

「そう思うかね? 例えば凄腕のスナイパー、これだけを見たらどうかね?」

「あ!」

「他にもある。任務中の負傷によってサイボーグ化、銃を取り付けた左腕、体のすべてをサイボーグ化するための宇宙の旅……」

「だってそれは! あくまでも影響を受けたという範囲内であって、パクリとは別物でしょう!」

「やれやれ」

 猿田先生が実に猿らしい表情で唇を突き出し、「ぶふるるる」とため息をつく。

「君は、AIに小説を書かせようという研究の話は知っているかい?」

「もうずっと人類が取り組んでいる研究ですよね。特にウチの出版社なんかは熱心で、そのために社内でAI開発室を立ち上げていますよ」

「実はAIに小説を書かせるためのデータの蓄積は、すでに終わっているのだよ。ところがこれが実用段階に移せない理由を、君は知っているかね?」

「いいえ」

「実に簡単なことだよ、AIには『欲望』がない」

「欲望ですか。そんなものがないから、どうだっていうんです?」

「欲望とは小説を書くにあたって実に大切なファクターだよ。欲望とはつまり、物語の進む方向性を決める推進力である」

 そう言いながら猿田先生は長い腕を伸ばし、足元に散らばったバナナの皮をかき回した。

「ああ、バナナ、バナナがない」

 俺は立ち上がって台所へ行き、急いでバナナを持ってくる。

「先生、ほら、バナナです。で、AIの話は?」

「そうそう、AIに欲望が欠如している話だったね。欲望がないということは、つまり世にある事象に優劣をつけることができないという話なんだよ」

「難しいことを言いますね……」

「難しくなんかないよ。例えば私には欲望がある、バナナ欲だ。だから私は物語の主人公をバナナとして、百万の言の葉をつなげてバナナに対する愛を語り、バナナの素晴らしさをたたえ、バナナに対する渇望を伝えようとするだろう」

「バナナですか」

「そう、バナナ。最もこれは私にとっての最優先事項がバナナだからということであって、人によってはこれが金であったり、恋人であったり、愛や勇気であることもあるだろう。ところがAIにとっては、金もバナナも自分の欲望とは関わりないただの物質である、お判りかな?」

「なんとなくですが……つまりAIは欲望がないから、物語の中で何を訴えようかというテーマが作れないということですね」

「その通り。だからAIの作った物語は奇想天外であり、時にバナナが人を襲い、石が歩き回り、友人が友人を食うようなインモラルさえ踏み越えた一貫性のないものしか書けないのだよ。これはAIが書いたという前提がなければとても読めたものではないだろう」

「しかし、先生は曲がりなりにも生物であるから欲望がある、だから、一貫性とテーマをもったものが書けると……」

「その通り。だから私は、AIの開発の遅れによって生まれた損失を補うべく生み出されたのだよ」

 猿田先生は手元のバナナを食べようとはせず、長い指の間でペンでも回すかのようにくるくると弄んでいた。

「文章を書く猿を作るだけなら、チンパンジーでも、ゴリラでもよかった。なのにオランウータンである私が選ばれたのはなぜか、知っているかね?」

「他の猿より賢いとか、人間に近いからとか、そういう理由じゃないんですか?」

「違うね、見た目だよ。チンパンジー作家では道化にしか見えない、ゴリラ作家はガタイが良すぎて思慮深そうには見えない、ところが、私はどうだ?」

 確かに、少し奥まって小さな丸い瞳は賢そうでありながら愁いを帯びて作家の風情であるし、ふわふわと薄い毛の感じが知的作業を行う作家らしさを演出している。これ以上作家向きの外見を持つ猿など、他にいるだろうか。

「わかったかね、つまり私は、外見さえ人間の作家を猿まねしただけの存在なのだよ」

「だからって、作品まで猿真似だとは……自嘲が過ぎるんじゃないですか?」

「あの作品を書いた頃の私はね、『売れるものを書きたい』という欲望に囚われていた。何しろ私はAIが出した損失を埋めるために作られた存在なのだから、売れなければ存在価値がないと思っていたのだよ。だから古今東西およそ物語と呼ばれるものから売れる要素を抜き出し、書き上げたのがあの作品だ」

「次に書いた『転生秘伝猿飛佐助』は! 猿飛が実は本物の猿で、おまけに転生者だっていうのは、あれは他に類を見ませんよ、あれこそオリジナルでしょう!」

「いや、どうかな。転生という要素自体が目新しいものではないし、戦国武将が女性化されたり、バケモノ化されるというのもよくある話じゃないか」

 猿田先生はついにバナナのヘタに手をかけ、まるで女性の薄衣をはぐように黄色い皮を引きはがしてしまった。白い抜身のバナナは悲しいほど清廉であったが、先生はそれを一気に口に放り込んで飲み下してしまった。

「ああ、悲しい。何が悲しいって、それほど汚い自己顕示欲に塗れたものが、猿が書いた物語であるという特異性と出版社の宣伝戦略によって売れに売れまくってしまったことが、何よりも悲しいのだよ」

 なるほど、これがスランプの原因か。俺はぐっと腹に力を込めて、少し低い声を出した。

「先生、書きましょう、先生の作品を!」

「私の作品などいくら書いても、すべて人間の物語を猿まねしただけにすぎぬ駄作だよ」

「そうじゃないです。先生の欲望を、書きましょう!」

「私の……欲望?」

「そうです、先生の欲望って、何ですか?」

「……バナナ」

「そうです、それでいいんです! バナナをどうしたいですか?」

「バナナを……ただ、たらふく喰いたい。喰って腹がくちくなったら、それがこなれるまで日当りのいい枝の上で昼寝するのだ」

「いいっすね! 幸せな感じじゃないっすか!」

「しかし、猿ならいざ知らず、そんな物語を人間が読むと思うかね?」

「知らないんですか、人間なんてちょっと賢いだけの猿ですよ」

「だったら、書きたい物語があるんだ。とある猿が花屋でバナナの木に出会い、これが実をつける姿に焦がれて、鉢植えにして南の国を目指して旅する物語だ!」

「いい! いいっすね、愛の逃避行ですね!」

「うん、俄然執筆欲がわいて来たぞ!」

 猿田先生はバナナの皮を投げ捨てて立ち上がった。きっとこれから執筆ルームに向かうのだろう。

 俺に背中を向けた後で先生は立ち止まり、ふと振り向いた。

「……ありがとう」

 それから先生は速足で部屋を出て行く。執筆ルームのドアが開くきしんだ音を遠く聞きながら、俺は編集者としての充足感に満たされてしばらく呆然としていたのだった。


 編集長に連絡の電話を入れたのは、ひとしきり感慨に浸った後でのことだった。

「あ、編集長? 猿田先生なんですけど……」

 意気揚々とした俺の声をくじくような、気の抜けたひとこと。

『お前、あんな猿のところにまだいるのか、いいから戻って来い』

 俺は憤慨して、少し語気を強めた。

「戻って来いって、俺を猿田先生の担当にしたのは編集長でしょ!」

『いいんだよ、あんな猿まね作家、それにスランプで書けないなんて、もはや作家ですらない猿じゃないか。それよりも驚くなよ、ついにAI開発室が、AIに物語のテーマという概念を教えることに成功したんだ!』

 俺は黙って電話を切る。編集長がまだ何かを話しているような声が聞こえたが、これ以上何も聞くつもりはなかった。もちろん、AI開発が成功した話を猿田先生に聞かせるつもりもない。

「さて、あの猿が喜ぶ夜食でも作ってやるかな」

 俺は腕まくりをすると、猿田先生の執筆の邪魔にならぬように足音にさえ気をつけて、そっと台所へと向かったのであった。

                                     FIN

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猿まね先生 矢田川怪狸 @masukakinisuto

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