届けもの

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届けもの

 白い犬の胎児のようなやつが死んだ。俺はタバコを吸いながら、死んだそいつのことをただ眺めている。テレビからは体操の音楽が流れ、画面の中ではピアノの音に合わせて女の子たちが体を動かしている。しかし画面の外では、死んだそいつの白い体が変色し始めていて、黒っぽい斑点が幾つも浮かび始めていた。俺はタバコの火を消し、こいつ、腐って嫌な臭いがするんだろうなと一人でつぶやいた。するとテレビの中の女の子たちはまた明日と言いながら、手を振って俺に別れ告げる。

 電話が鳴った。

「もう死んだかい?」と電話の向こうから男の声が言った。「そうか、それなら今夜はぐっすり眠れそうだよ」

 俺は腐りかけたあいつの処分について尋ねた――もう変色してどうにもならないと。

 男は電話の向こうでウームと唸った。

「君はつまらんことを訊くなあ――私にどうしろというのかね? まあ、線香の一本でもあげておいてくれたまえ。失礼」と言って、男は電話を切った。

 俺はいらいらしながらタバコに火を点けた。

「つまらんことだって?」と俺は心の中で言った。「つまらん些細なことほど、余計にいらいらさせられるんだ」

 俺は古い新聞紙を引っ張り出してきて、腐りかけたそいつを無造作に包んだ。そして空になったトマト缶にそいつを押し込み、さらにそのトマト缶を新聞紙でくるむと、最後に黄色いビニールテープで全体をぐるぐる巻きにしてやった。そいつはまるで不器用なテロリストが作った、出来そこないの時限爆弾のような代物だった。俺はその惨めな爆弾をリュックに放り込むと、そいつを背負って部屋を出た。


 昼の街は、霧のような白い光に包まれていた。きっと、地上を覆う大気のプリズムが狂っているせいなのだろう。最近よく起こる現象なのだ。街ゆく人々は、清潔でオシャレで元気だった。ときおり、憂鬱なポーズを決めて見せる連中も中にはいたが、狂った白い光のことなど気にもならない様子だった。俺だって、この白い光にはずいぶん馴れたつもりでいたのだが、今日はいつもと違ってひどく気分が悪い。白い光は呼吸器に影響を与えるらしいのだ。俺は歩道沿いのベンチに腰を下ろし、背負っていたリュックを足下に置いた。呼吸を整えたかった。俺は呼吸を整えながら、目の前を歩く人々を眺めた。彼らの足取りは、まるでワルツのように軽い。歩行をよく観察してみると、彼らのリズムは昔ながらの二拍子ではなく、どうも三拍子らしいのだ……。いつからこんな風に変わってしまったのだろう? いったいどうやったら、あの夢見心地な三拍子のリズムで歩けるようになるのだろうか……。俺はいつの間にかウトウトしていた。夢の中で三拍子の練習をしていた。すると風のささやきのような声が聞こえたので、目をこすりながら顔を上げると突然、目が痛くなるような、鮮やかな緑色が目に飛び込んできた。

「こんなところで眠ってはダメよ」と声は言った。目の前には緑色の髪をした女が立っている。「まだ太陽光線の入射角度が深くて危険だし、今日は大気のプリズムが特別におかしいの。このまま眠ったら、あなた死んでしまうわよ」

 俺は緑色の髪をした女をまじまじと眺め、「いったい、君は誰なんだ?」と少し面食らったように言った。「危険なことなんてないさ。みんな平気で歩いてるじゃないか」

 俺は、弱って動けない自分が恥ずかしかった。しかし、胸が苦しいのも確かだ。

「べつに強がらなくてもいいのよ」と緑色の髪の女は言うと、俺の隣りに腰を下ろし、俺の背中を軽くさすった。「風が気持ちいいわね……」

 俺たちは、しばらく黙ってベンチに腰掛けながら、街路樹の柳が風に揺れるのをただ眺めていた。柳は風になびいているようで、じつは抵抗しているのだ。しなやかな枝や葉で、巧みに風を殺している。

「ところで」と女は言った。「あなたのリュックの中身なんだけど。そんな物騒なもの、いったいどうするつもり?」

 俺は溜め息をついた。あいつのことなど、もうどうでもよくなっていたのに。

「問題をうやむやにしてはダメ!」と緑色の髪の女は、俺を真っ直ぐに見ながら言った。「状況はどんどん悪くなって行くばかりよ。陽が沈んでしまえば、あなたはすっかり忘れてしまうのよ。白い光のことも、彼の死も」

 あいつはもうドロドロに腐っているだろうな……。考えるだけで気が滅入る。ドロドロになったあいつは、リュックからジワジワと染み出して、死ぬほど嫌な臭いを撒き散らすに違いないのだ。俺は足下に置いたリュックを、恐る恐る手で持ち上げた。

「まだ時間はあるわ」と緑色の髪の女は、横顔で言った。「かなりヤバいけどね」

 緑色の髪の女はベンチから立ち上がると、すばやく一台のタクシーを止めた。

 俺はぼんやりと女の様子を眺めていた。

「なにしてるの? 早く乗って!」と緑色の髪の女は俺に怒鳴った。

 俺が首をかしげていると、女は俺の手を引っ張ってタクシーの後部座席に押し込んだ。そしてドアが閉まると同時に、タクシーは弾丸のように走り出した。

「姐さん、行き先はアチラでよろしいですね?」と運転手は言った。「ところでそちらのお兄さん。顔色悪いけど、大丈夫?」

 俺は、急発進に文句を言いながら態勢を立て直し、バックミラーを覗いた。すると兎のように真っ赤な目をした運転手の顔が見えた。目が合った瞬間、赤い目の運転手は俺を見てニヤリと笑った。

 彼の運転は鮮やかで、すいすいと前方の車を追い越していったが、信号はまるで無視していた。

「おいらの目には赤信号が見えないもんで、へへ」と赤い目の運転手は言い訳をした。「みんなおいらの目が赤い赤いって言うんですがね、おいらは赤って色が、いったいどんな色なのか知らないんです。なぜかと言うとおいらの目は赤い色紙なんだな。つまりね……」

 緑色の髪の女は窓の外を眺めていた。赤い目の運転手の話など、まるで聞いていないようだった。おそらく、同じ話を何度も聞かされているのだろう。

「……つまり、赤い色紙に赤鉛筆で絵を描いたって、何も見えやしないでしょう? 暗闇に黒いカラスが飛んでいても、誰も気付かないでしょう? 理屈は簡単さ。しかし、あんたたちは、おいらの赤目より自分たちの目の方が、よく物が見えるようなつもりでいる。でも違うんだな……。あんたたちの目も、やっぱり赤い色紙なんだよな……」

 赤い目の運転手はそこまで言い終わるとタクシーを止めた。

「さあ、着いたよ」


 タクシーを降りると、目の前には、城のように高くて立派な建物が立っていた。周囲の建物より何倍も大きくて、威圧感があった。しかしよく見ると、建物の至る所に小さな覗き窓がクリ抜かれていた。周囲を絶えず警戒しているようにも見える。

「ここが問題の場所よ」と緑色の髪の女は、その城のような建物を見上げながら言った。そして女は映画に出てくる女スパイのように、黒い革手袋と、黒いサングラスを装着した。

「覗き窓はハッタリよ。誰も監視なんかしてないわ」

「君、ずいぶん詳しいんだな」と俺は、建物と女を交互に見ながら言った。「中に入ったことがあるのかい?」

「ないわ」と女は言った。「でも中の様子は、透き通るように良く見えるの……。さあ、行きましょ」

 俺たちは建物へ向かって歩いて行った。門をくぐって敷地の中へ入ると、いきなり守衛に止められた。

「おい! 待て待て!」と守衛は叫び、警棒を片手に持ちながらこちらへ近付いてきた。「お前ら、怪し過ぎるぞ! なんというかその……、緑色の頭なんて変じゃないか! メロンソーダみたいな頭しやがって! 自分だけ特別な人間のつもりか!? 世の中を馬鹿にしてれば、それで満足ってわけかよ! お前らは所詮、世の中が怖いだけなんだ! 狂ったフリをしてるだけなんだ! 帰れ帰れ!」

「ふんっ、馬鹿みたい」と緑色の髪の女は、鼻で笑いながら言った。「許可証ならあるわよ。見せてあげてもいいけど?」

 女は上着のポケットから何かを取り出すと、守衛の鼻先に突き付けた。

「これよ!」と女は言うと、守衛の顔面にスプレーを噴射した。「みんな何かに怯えてるし、みんな自分の狂った部分を特別だと思ってる」

 守衛はそのまま気絶して、ゴム人形のように力無く地面に倒れた。

 俺はあっけに取られたまま、ゴム人形の守衛を見ていた。

「平気よ」と緑色の髪の女は明るく言った。「一時間もすれば目が覚めるわ」


 建物に入ると、まるで果てしない荒野の一本道のように伸びた廊下が、ずっと奥まで続いていた。しかし廊下の一番奥は、あまりに奥行きが遠いせいで霞がかかっっている。緑色の髪の女が廊下の奥に向かって歩き出したので、とりあえずついて行ったが、しばらく歩いているうちに俺はあることに気がついた。廊下の白い壁にはドア一つ見当たらないし、廊下を曲がろうにも、横へ抜ける通路がない。つまり、その真っ直ぐな廊下を進む以外、ほかに選択のしようがないのだ。もっと先へ行けばきっと何かあるだろうと信じてさらに歩き続けたが、状況は一向に変わらなかった。廊下の一番奥は依然として無限の彼方に霞んでおり、後ろを振り返ると建物の入口はすでに小さな黒い点になっていた……。そんな風景に囲まれていると、遠近感や奥行が失われていくのを感じる。それはまるで、だまし絵の世界であり、一本の無限の直線を引いただけの単純な迷路だった。何も間違っていないのに、何かが間違っている……。俺は気分が悪くなっていった。息が苦しかった。肺の調子がおかしい。肺が潰れそうだ。左右の白い壁が膨張して、俺を押し潰そうとしているのだ……。

「しっかりして!」

 俺は声のするほうを見た。

 緑色の髪の女は俺を見下ろしていて、俺はいつの間にか床に座り込んでいた。女はその場にしゃがみ込むと、掛けていたサングラスを外して俺の顔をじっと見た。

「あなた、まるで死人みたいな顔をしてるわ」

 そう女は言うと、突然俺の鼻を指でつまんだ。そして顔を近付けてそっと唇を重ね、俺の肺へ空気を送った……。

 廊下には、ゆっくりと繰り返される、呼吸の音だけが響いていた……。

「これで少しは楽になれるわ」と女は、息を切らしながら言った。「廊下はここまでよ。次は、エレベーターで上へ昇りましょ」

 壁を見ると、確かにエレベーターの扉らしきものがあり、横に付いているボタンを押すと扉が開いた。


 エレベーターは、音もなく滑りながら上昇していった。緑色の髪の女は、マネキンのように無言で立っていたが、タバコが欲しいわとぽつりと言った。

 俺は、女にタバコを一本渡して火を点けてやった。

 女はタバコを深く吸い込むと、急に表情を変えて咳き込んだ。

 俺が女の背中をさすっていると、一瞬、体がフワリと浮くのを感じた。

「着いたわ……」と女は、タバコにむせ返りながら言った。

 自動扉が開くと、扉の向こうから刺すような光が入ってきた。それは、朝一番にカーテンを開けたときに出くわす、あの突き刺さるような光と同じだった。

「なぜ人は、朝起きるのかわかる?」と女は、扉の向こうを睨みながら言った。「朝起きると、自分がまともな人間になったような気分がするからよ。それはとても気持ちがいいことだから、みんなやめられないのよ」

 女は、眩しさのあまり目を伏せたままでいる俺の手を取って、エレベーターの外へと歩き出した。じきに目が慣れてくると、俺は辺りの様子を確認した。そこは王様の部屋のように広くて豪華な造りになっている場所だった。部屋の中央で、男が一人、高級そうな革張りの黒いソファーに深く腰掛けているのが見える。俺たちが近付くと、男は不機嫌そうに俺たちを眺めた。

「何も用はないぞ」と男は言うと、グラスの酒を一口すすった。「なぜ来た?」

 緑色の髪の女はタバコを吸い込むフリをすると、高い天井に向かってゆっくりと煙を吐いた。

「大切な用があって来たの」と女は言うと、テーブルに置いてあった灰皿でタバコを消した。「わたしにもお酒をちょうだい? 赤ワインがいいわ」

 男は少しあきれたように笑い、大儀そうにソファーから立ち上がると、ワインとグラスを取りに行った。そしてゆっくりとした足取りで戻ってくると、テーブルにグラスを置き、血のように赤いワインを注いだ。

「ありがとう」と女は言うと、グラスを手に取ってワインを軽くすすった。

 男は再びソファーに腰を下ろし、「用があるなら早くしてくれ」と言いながら、どこか遠くを見ていた。

 女は俺に、リュックの中の物を出すよう言った。俺はリュックの中の――すでに腐りきっているであろう――“あいつ”を取り出し、女に渡した。

「大切な届け物なんだけど」と女は言うと、黄色いビニールテープでグルグル巻きにされた不格好な代物を、テーブルの上に置いた。「これ、あなたのお父さんでしょ?」

 男は無表情だったが、テーブルの上に置かれた黄色い物から、目を離すことはなかった。

「用が済んだから、帰るわ」と女は言うと、再びワインを一口すすり、グラスをテーブルに置いた。

 女は部屋をうろうろ歩きまわると、部屋の隅に置いてあったゴルフバッグから一本のクラブを抜き出した。そして窓際へ行き、大きなガラス窓の前で立ち止まった。女は一度深呼吸をすると、両手で握ったゴルフクラブを高く振り上げた……。次の瞬間、ガラス窓は狂ったような音を立てながら砕け飛び、窓の外から、ヘリコプターのプロペラ音と風が入ってきた。

「さあ、帰りましょう!」と緑色の髪の女は、俺に向かって怒鳴った。

 窓の外に縄梯子が降りてくるのが見える……。これに掴まれということか?

「勇気を出すの」と女は言った。「下を見ちゃダメよ」

 俺たちは窓から身を乗り出して縄梯子に掴まった。上を見上げると、ヘリコプターの操縦席の窓から、あの赤い目の運転手が顔を見せていた。

「しっかり掴まっててくだせえよ!」と運転手は叫ぶと、ニヤリと笑って窓から顔をひっこめた。

 ヘリコプターはゆっくりと建物から離れて行った。しばらくすると建物の方角から、突然、爆破音が聞こえた。ついさっき、男を一人残してきた部屋の窓から、煙がモクモクと上がっているのが見えた。ヘリコプターからぶら下がった縄梯子は、振り子のように揺れ続けていた。俺たちは縄梯子にしがみつきながら、不安定に揺れ続ける風景を、いつまでも眺めていた。


 その後、緑色の髪の女と俺は恋人同士になった。付き合い始めて半年が過ぎた頃、女は俺の前から突然姿を消した。女がいなくなった後、俺は街で一度だけ女の姿を見かけた。女は緑色だった髪を黒く戻し、見知らぬ男と一緒に歩いていた。そして女の両腕には、産まれたばかりの赤ん坊が抱かれていた。

 赤ん坊の母親は、ふと何かを思い出したように空を見上げた。しかしそこには青ペンキで塗りつぶしたような空しか見えず、その記憶はすでに思い出すことができない記憶であることを彼女は思い出した。

 俺はその青色の空を切り取って持ち帰り、部屋の壁に貼り付けた。そうすれば、この物語がまだ続いていくような気がしたから。

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