第13話 チャレンジとダウン
夏休み直前の夜間。自宅で宿題に取り組む。梅雨明けの影響もあってか室内はジメジメした空気に覆われていた。
「私さ、バイトしようかと思うんだけど」
「え? なに、突然」
部屋にやって来た華恋が椅子に腰掛ける。その口から発せられたのは小さな相談事だった。
「私もお小遣い貰っちゃってるけど、さすがに悪いかなぁ~と思って」
「いや、そんなの気にしなくても」
「それにホラ、放課後や土日は時間あるし何かしてた方が得じゃない」
「まぁね。クラスでも働いてる人とか結構いるし」
「だから私も何かしてみようかなぁと考えたの」
「う~ん、でもなぁ…」
「別にお金が欲しいって理由だけじゃないのよ。自分の趣味をもっと活かせないかなと思って」
「趣味…」
彼女の言葉にあるイメージが浮かぶ。ヒラヒラ衣装を身につけて接客している華恋の姿が。
「メイド喫茶?」
「違うわよっ、バカッ!」
怒鳴り声が辺りに反響。ついでに机を叩く音も響き渡った。
「あれ? 違うの?」
「当たり前でしょ。何でそんな所で働かなくちゃいけないのよ。まぁ興味はあるけども」
「趣味を活かしたって言うから、てっきりコスプレの事かと思ってたんだが」
「そっちじゃなくて料理よ料理。私、何か作ったりするの好きだから飲食店で働けないかと思って」
「あぁ、なるほど」
確かに彼女の料理の腕はかなりのものだった。リクエストすれば大抵の物は作ってくれるし、何より味が格別。同い年とは思えないスキルの持ち主だった。
「好きな料理やってお金貰えるんだし。一石二鳥じゃん?」
「でもさ、普通は女の子ってキッチンじゃなくてフロアに出されるものなんじゃないの?」
「そう言われたらそうね…」
「女の子に料理やらしてくれるお店って少ないんじゃないかな」
大抵の飲食店は男性が中で女性は外。接客が男だらけだと華か無くなるから仕方ない配置なのだろうけど。
「あ~、くそっ! 男装して面接受けようかな」
「声でバレるって。華恋の声高いもん」
「なんか良い方法ないの? 女の私でも調理を任せてくれる方法とか」
「う~ん……てかバイトした事あるの?」
「あるわよ」
「え?」
質問に対して毅然とした答えが返ってくる。その表情は自信と誇りに満ち溢れていた。
「スーパーで働いてたわよ。半年ぐらい」
「へぇ、レジも打ったりしてたの?」
「うん。主に陳列と在庫整理だったけど」
「トイレットペーパーをピラミッドみたいに高く積んだりとか?」
「しないわよ、そんな事」
脱線した話題で盛り上がる。思い付いたジョークを織り交ぜながら。
「ならまたスーパーで良くない?」
「え~。だってやかましいオバサンとかいるんだもん…」
「あぁ、いるね。文句つけてくる人とか」
「あと結構、力仕事が腰にくるのよね。重い荷物運んだり」
「その時は私が揉んであげよう」
ベッドから立ち上がり彼女の元に接近。指を激しく動かしていたらオデコを強く押し返されてしまった。
「近寄んな、スケベ」
「あんっ、冷たい」
「でも本当どうしよう。どこなら料理やらせてくれるかしら」
「そんなに厨房にこだわらなくても。他にも色々あるんじゃないかな」
「例えば?」
「ん~と…」
コンビニやビラ配りに新聞配達。職種にこだわらなければ他にも働きやすい環境は必ずあるハズ。だがそのどれもを彼女は拒否してきた。
「だって私、力仕事とか苦手だしさぁ。客にペコペコ頭下げるのも嫌いだし」
「ムカついたらすぐ手を出しそうだもんね」
「そうなのよ。スーパーで働いてる時も何度店長を張り倒してやろうと思った事か」
「えぇ…」
上司に殴りかかる女子高生の姿をイメージ。それはそれは壮絶な物だった。
「だから客を相手にするバイトは嫌なのよねぇ」
「なら働くの自体もうやめたら?」
「はぁ?」
嫌味な自慢になってしまうが我が家は他の家庭に比べてお金はある。両親が医療関係の仕事に就いているから割と裕福。しかも共働き。お小遣いだってそれなりに貰っているから今までバイトをしようと考えた事が一度もなかった。
「お金ならそんなに困ってないでしょ? 華恋って無駄遣いしてるように見えないし」
「……いや、やっぱりバイトはする」
「一歩も引かないね。そんなにやりたいんだ」
「だって新しい衣装とか買いたいもん。バッグとか化粧品とか」
「衣装…」
目の前にある表情が変化する。ニヤついて不気味な物へと。
「貴様のバイトへの欲求はコスプレに対する愛だったのか!」
「その通りよ。よくぞ見破ったわね」
「もう好きに働いてください…」
「さ~て、とりあえず履歴書でも書いてこようかなぁ」
呆れる感情が止まらない。肩を落としながら部屋を出て行く後ろ姿を見送った。
「聞いて聞いて、さっき合格の電話かかってきた」
「おぉ、良かったね。おめでとう」
それから数日後、華恋は焼き肉屋の面接を受けに行く事に。サービス業の仕事は嫌だと渋っていたが、好条件の場所を見つけられず。なのでやむなく近場で妥協する事にしたのだ。
「へっへ~。週に3回ぐらい出てくれれば良いっていうし、案外いけるかも」
「そっか。まぁ頑張って」
「よ~し、稼ぐぞぉ。そして新しいコスチュームを……デヘヘ」
まだ働いてもいないのに顔が綻んでいる。オモチャを買い与えられた子供のように。
「こっから近いんだっけ?」
「そうよ。駅のすぐ側」
「ふ~ん…」
「あぁ、ヤベッ。緊張してきた」
人見知りという言葉を知らない彼女の事だから平気で飛び込んでいけるだろう。多少は不慣れな環境にも。
そしてその週の土曜日に早速初出勤。緊張の色を見せていたが、ご機嫌で玄関を出ていった。
「なに難しい顔してるの?」
「いやぁ、将来の自分の事について考えててさ」
リビングでテレビを見ていると妹が話しかけてくる。板チョコにボリボリと噛みつきながら。
「将来? 大人になってからの事?」
「そうそう。どんな風になってるのかなぁと思って」
「そんなの分かんないよ。実際になってみないと」
「でも全く考えないより予想してみるのも楽しいじゃないか」
「まぁね」
以前に担任の先生に言われた事があった。アルバイトは社会の厳しさを学べる良い人生経験になると。
学生のうちに労働経験をしておけば社会人になった時に幾分かは楽かもしれない。だが自分はその考えを真っ直ぐ受け止められなかった。単純に怖かったからだ。
学校とは同じ年代の人達と勉強したりお喋りしたりする場所。しかし働くいう事は世代も価値観も違う人達と何かに取り組むという事。
失敗すれば責任を取らされるし叱られもする。面倒くさいからサボるなんて真似は出来やしない。お金を払って学ぶ事と、お金を貰って労働するという事は全くの別物だった。
「まーくんは普通にサラリーマンやってそう」
「だよねぇ。それが一番無難かも」
「あと結婚出来ずに一生独身」
「やめてやめてやめて」
本当にそうなりそうで怖い。自分が誰かと結婚して家庭を築いてる姿が想像出来なさすぎて。
「結婚願望とかあるの?」
「人並みには」
「へぇ、それは知らなかったなぁ」
「……何さ?」
「べっつにぃ~」
彼女が意味深な目で見てくる。言葉にはしなかったが何を言いたいのかは理解出来た。
「将来はどんな人とご結婚なさるおつもりで?」
「そんなの分からないよ」
「年上? 年下?」
「う~ん、どちらかと言えは年上かな」
「どうして?」
「しっかりしてそうだし。迷ってる時はグイグイ引っ張ってくれそうだから」
気が小さい自分には強気な姉御肌が合っている。そのような指摘を以前に颯太にもされた覚えがあった。
「いや、年下にしときなよ」
「理由は?」
「な、なんとなく…」
「でも理想は同い年かな。その方がお互い気を遣わなくて済みそうだし」
「あーーっ! 今、華恋さんのこと考えたでしょ!」
「違うって。一般的な理想論をだね…」
「へぇ、へぇ、へぇ~」
他愛ない話題で盛り上がる。本人は不在の場で。
「もしまーくんがお嫁さん連れて来たらイジメてあげる」
「や、やめてくれ」
「この家のしきたりを徹底的に叩き込んであげるわ」
「どうか勘弁してやってください」
自分にとって最大の障壁となる小姑がここに。もし付き合うとしたら香織の嫌がらせに耐えられる強い女の子じゃないといけないらしい。
「強い女性ねぇ…」
「ん? 何?」
「いや、それより香織はどうなのさ。こういう人と結婚したいっていう理想像とかないの?」
「料理が上手い人」
「それから?」
「掃除が好きで、買い物にも行ってくれる人」
「……あのさ、それ自分が家事サボりたいだけでしょ」
「そうだよ。あっはははは~」
「ダメだこりゃ…」
彼女は結婚する気なんかサラサラないと判明。きっと花嫁修行も行わないのだろう。
「……ただいま」
「おかえり。大丈夫?」
「う、うん。平気…」
「とてもそうは見えないけど。忙しかったみたいだね」
「はぁ…」
翌日の日曜日、夕暮れ時に帰宅した華恋を廊下で出迎える。その表情は今までに見た事ないぐらいにゲッソリしていた。
「お風呂沸いてるから入ってきなよ」
「ありがと…」
「ご飯は? まだ?」
「肉の匂いでお腹いっぱい……何にも食べたくない」
「そっか。お疲れさま」
食欲が無くなるほど疲弊したらしい。いつものような覇気が感じられない。
「湯船の中で寝ちゃダメだよ~」
「む…」
部屋から着替えを持ってきた彼女に注意を呼びかける。しかし大した返事は返ってこなかった。
「大丈夫かな…」
よっぽどキツかったのだろう。リビングには両親もいたのに敬語を使う素振りを見せない。
風呂から出て来ると彼女はそのまま部屋に戻り就寝。少しだけでも良いから何か口に入れた方が良いと勧めたのだが拒まれてしまった。
「あれ?」
そして翌日の月曜日の朝、とある異変に気付く。いつも先に起きている同居人の姿がどこにも見えなかった。
「まだ寝てるのかな…」
もしかしたら疲れて体を起こせないでいるのかもしれない。今朝は母親が早く家を出ていないから自力で朝食を用意しなくてはならなかった。
「朝だよ~、起きなさい」
トースターにパンをセットすると二階へと戻り制服へと着替える。ついでに隣の部屋のドアを乱暴にノック。時間がないので返事も待たずに中へと入った。
「起きなって、朝だよ。いつまでも寝てたら遅刻する」
「……んんっ」
「あのさ、華恋がまだ起きて来ないから様子見に行ってきてくれない?」
「えぇ……自分で行ってきなよぉ」
「それが出来ないからこうして頼んでるんじゃないか」
うっかり着替え中の現場に突撃してしまう可能性もある。そうなったら制裁は避けられない。
「……かーーっ」
「こら、寝ないの!」
「も、もう食べられないよぉ…」
「この寝言を言う人、初めて見たかも」
妹の頬をペチペチと殴打。相変わらず寝起きの悪さを露呈してしまっていた。
「う、うわあぁあぁぁっ!?」
強引に香織を目覚めさせた後は再び一階へと移動する。途中で階段から転倒しながら。
簡単な朝食を用意すると全ての皿をテーブルへ。しかし準備が出来たというのに待ち人2人は一向に現れなかった。
「う~ん…」
このままだと揃って遅刻してしまう。時間を確認すると残された猶予は僅かだけ。
「おーい、まだぁ?」
「もう少し~」
二階に呼び掛けたら焦ったような声が返ってきた。どうやらまだ着替え中らしい。彼女は良いとして問題はもう1人の方だった。
「仕方ないなぁ…」
起こさずに遅刻してしまったらそれこそ何を言われるか分かったものじゃない。覚悟を決めると客間へと向かった。
「あの……起きてますか?」
戸の手前から声をかける。けれど返事は無し。仕方ないので音を立てないようにゆっくりとスライドさせた。
「うわぁ…」
隙間を作った瞬間、予想通りの光景が視界に飛び込んでくる。床に敷かれた布団が盛り上がっている姿が。
「お~い、朝だよ」
「……んんっ」
「起きないと遅刻しちゃう。もう7時過ぎてるから」
中に入ると布団に手を乗せて揺らした。やや乱暴に。
「あ…」
「大丈夫? 起きれる?」
「……うん、平気」
「そっか。なら先に行ってるから着替えて来て」
予想に反して寝起きは良好。一安心したので部屋を出る事に。階段部分まで引き返してくると転落してきた妹と遭遇した。
「ぐわぁあぁぁっ!?」
「うるさいよ」
「いつつ……華恋さんは?」
「今、起こしてきた。すぐ来るから先に食べよう」
「了解」
この調子なら遅刻せずに登校が出来る。椅子に座った後は焼いた食パンを口の中へ。そして牛乳で一気に流し込んだ。
「ぷはぁっ!」
「早っ! もう食べたの?」
「香織も急ぎなよ。結構ギリギリだから」
「わ、分かった」
「ほら、奥にグイグイ押し込んで」
「グゲェッ!?」
食器を流しに入れると家中の戸締まりを確認する。テレビの電源やトイレの照明なんかも。
「あれ? 華恋は?」
「まだ来てないよぉ。部屋じゃない?」
「えぇ…」
リビングへ戻って来るが1人しかいない。朝食を食べている時間も無くなっていた。
「お~い、まだぁ?」
小走りで客間の前へとやって来る。そのまま乱暴に襖をノックした。
「早くしないと遅刻しちゃう。先に行っちゃうぞ~」
冗談めかしで声をかける。中から怒号が返ってくると覚悟しての行動。しかし怖いぐらいに無反応だった。
「あれ?」
嫌な予感が頭をよぎる。悪いと思いながらも無許可で戸をスライド。そこには予想通り先ほど来た時と全く同じ光景が広がっていた。
「お~い、起きなって」
「……うぅん」
「どうしてまた寝てるのさ。本当に遅刻しちゃう」
遠慮なく体を揺さぶる。さっきよりも強めに。
「今日は休みじゃないよ」
「ぐっ…」
「ん?」
ふと彼女の不自然な表情に注目。気のせいかいつもより頬が赤らんでいた。
「もしかして熱あるんじゃないの?」
「……はぁ、んはぁっ」
「ちょっとゴメン」
伸ばした手でそっと額に触れる。やはり少しだけ熱っぽい。
「風邪引いてるじゃないか。大丈夫?」
「なんか……苦しい」
「ちょっと待ってて。体温計取ってくる」
慌てて部屋を飛び出して廊下へ。そのままリビングへ移動した。
「華恋、風邪引いてた」
「え? 大丈夫なの?」
「まだ分かんない。ただこのままだと間に合わないから先に行ってて」
「あ、うん。了解」
妹を先に出発させると戸棚を漁る。体温計を手に持ち再び客間へ。
「しんどいけど熱測ろう。はいコレ」
「……ん」
パジャマの隙間から中に突っ込ませた。そして計測中に冷蔵庫から冷却シートを持って帰還。
「ちょっとヒヤッとするけど我慢ね」
「んっ…」
「熱はどうだった? もう終わった?」
パジャマの中から出てきた体温計を受けとる。すぐに画面に注目した。
「……38.5度」
予想以上に高い。もしかしたら昨夜帰ってきた時から発症していたのかもしれない。
「今日は学校休もう。連絡しとくから」
「はぁっ…」
「起きなくて良いから寝てなって。気持ち悪くはない?」
「ん…」
問い掛けに対して彼女が首を縦や横に振る。布団を被せてあげた後はリビングに戻り学校に電話をかけた。
「はい……はい。ですので少し遅れて行きます。すみません」
遅刻する旨と華恋が休む事を担任の先生に伝える。支離滅裂な口調で。
「……ふぅ」
普段は電話なんて緊張してかけられないのに。緊急事態時の行動力には驚くばかり。
「あのさ、もう学校に行かないといけない」
「ゴホッ、ゲホッ!」
「何かあったら電話して。母さん達には僕から連絡しておくから」
「む…」
鞄を持つと華恋に話しかけた。しかし彼女からの返事は無し。とっとと眠りにつきたいのだろう。
「じゃあ行って来るから。大人しく寝てるんだよ」
病人を1人残して行く事に不安はあったが、いつまでもここにいても仕方ない。立ち上がって自宅を出発した。
「ふぃ~」
「どうしたんだよ、溜め息ついて」
「朝からいろいろ忙しくてさ。ドッと疲れちゃった」
2時限目が終わった休み時間に美術室へと移動する。颯太と2人並んで。
「雅人が遅刻して来るって珍しいな。寝坊?」
「実は華恋が熱出しちゃってさ」
「な、何だと!? だから今日来てなかったのか!」
「うん。それで色々やってたら家を出るのが遅くなっちゃった」
「大丈夫だったのか!?」
「何とかね。先生には電話しておいたから怒られずに済んだし」
「お前の事じゃねぇよ、華恋さんの事だっ!」
「……あっそ」
友人の台詞に言葉が詰まった。予想通りな上に期待外れすぎて。
「熱ってどれぐらいあったんだ? まさか命に関わるほどじゃないだろうな!」
「そこまで大した事じゃないから平気だって」
吐き気はないと言ってたし、それなりに会話も出来た。何かあったら連絡するようにも言ってあるし。
「まぁ、大した事ないなら良いが」
「会えなくて残念だったね」
「帰りにお見舞いに行こうかな。いや、行くべきだな。行こう」
「それはちょっと……風邪伝染しちゃったら悪いし」
「何を言うか! 華恋さんの体内に存在するウイルスなら大歓迎だ!」
「そ、そっか…」
今の発言を本人に聞かれたらドン引きされてしまう。どうやら彼はかなり重い病気に侵されているらしい。
「おばさんが看病してんの?」
「いや、母さんもう仕事に行ってたから」
「え? なら今は家に1人でいるのか?」
「そうだよ」
「飯とか大丈夫かな」
「あ…」
指摘されて気が付いた。食事関係の不安を。朝食を抜いたからお腹を空かせているハズ。昼になったらさすがに何か口に入れないと元気も出ないだろうし。
「うおりゃあっ!! 美術の授業始めるぞ、うおりゃあっ!!」
「いけね、もう来やがった」
美術室の一角でたむろしていると先生が訳分からない掛け声と共に登場。その姿を見て友人も他のクラスメート達も一斉に自分の席へと戻った。
「……10時半か」
頬杖をつきながら窓の外の景色を眺める。家に残してきた同居人の姿を思い浮かべながら。
「ん…」
起き上がってトイレに行っているかもしれない。フラフラの体で。
「……あ」
そういえば昨夜は晩御飯を食べていない。つまり彼女はほぼ1日何も口に入れていなかった。
「ヤバい…」
睡眠前に薬を飲ませておけばこんな事にはならなかったのかもしれないのに。異変に気付いてあげられなかった事が悔しい。
ケータイの画面を確認するが連絡は来ていなかった。とりあえず無事という事らしい。けれど連絡すら出来ないほと悪化している可能性もあった。
「う~ん…」
無意識に子供の頃の記憶が蘇ってくる。風邪を引いた時の出来事が。
熱を出して学校を休んで1日中家でゴロゴロ。学校をサボれると喜んでいたが昼を過ぎた頃から病状が悪化してきた。
誰かに助けを乞おうにも唯一の家族であった父親は仕事で留守。職業が医者にもかかわらず、苦しんでいる息子を助けられないというのも皮肉な話だ。
あの時ほど母親を欲しいと思った事はない。風邪による高熱以上に家に誰もいない状況が辛かった。
「……華恋」
なら彼女はどうなのか。家族のいない人間は誰にも助けを求める事が出来ない。
「んっ…」
迷っている時はまず行動してみろ。どこかで誰かに聞いた格言。いつ耳にしたかは不明だが今がまさにその時だった。
「あ、あのっ! 体調悪いんで早退させてください!」
「は?」
唖然とする教師やクラスメートを後目に授業中の美術室を抜け出す。教室で鞄を回収した後は学校を出発した。
「はぁっ、はぁっ…」
駅から電車に乗った後は地元へ。陽射しの強い道路を全力で駆け抜けた。
「……暑っ!」
もしかしたら彼女は怒るかもしれない。余計なお世話だと。それでも不思議と見捨てようとは思わなかった。どれだけの苦労や辛さを味わいながら生きているかを理解していたから。
ひょっとしたら今朝だって家に残っていてほしかったのかもしれないのに。何故その気持ちに気付いてあげられなかったのか。
「華恋っ!!」
彼女にはいつも家事の事で世話になりっぱなし。だから今日は自分が助ける番だった。
「……え」
「あ、あれ?」
名前を叫びながら玄関の扉を開ける。しかし何故か廊下でその張本人を発見。
「ちょ……起き上がってて大丈夫なの?」
「んっ…」
「おっと!?」
靴を脱いで中へと移動。同時に彼女がもたれかかってきた。
「ゴホッ、ゴホッ!」
「フラフラじゃないか。無理してないで寝てないと」
「……お手洗い、行ってたの」
「あ、なるほど。それは悪かった」
倒れそうになる体を両手で支える。熱のせいで熱い全身を。
「よいしょ、っと」
「ハァ…」
「熱まだ下がってないみたいだね。何か食べた?」
質問に対して彼女が首を横に振って返答。背中に手を回す形で客間へと移動した。
「ならご飯食べよう。おかゆで良いよね?」
「食べたくない…」
「苦しいけど何か胃の中へ入れないと。体力が持たないって」
「……ん」
「新しいシートも持ってくる。少し待ってて」
本人の意思を無視して話を進める。強引な態度で。
「ほら、頭こっち向けて」
「んっ…」
「よしっ、と」
気分は保健室の先生か病院の看護師。こうして誰かの看病をするのは生まれて初めての経験だった。
「あのさ、冷却シート切らしちゃったからコンビニ行って来るよ。何か欲しい物ある?」
「……水」
「水? あぁ、水分か。分かった」
「んんっ…」
「すぐ戻って来るから。大人しく寝てるんだよ」
ズレた布団をかけ直すと再び玄関へ。鍵をかけないまま近所のコンビニへとダッシュした。
「ひいっ、ひぃっ…」
息切れが止まらない。電車を降りてから走りっぱなしなので。
店に到着した後は冷却シートと一緒に水や食料を購入。こんな時間に制服姿で入る事に抵抗はあったが店員さんには何も言われなかった。
「寝ちゃったか…」
帰宅すると寝息を立てている同居人を発見する。起こすのは可哀想なのでそのままにしておく事に。
「あっつ…」
買ってきた物を冷蔵庫に仕舞った後は自室で着替えた。半日も着ていないのに上下共に汗でグッショリな制服を。
「んむっ、んむっ……ぷはぁーーっ!」
その後、一階へと戻って来てスポーツ飲料水を一気飲み。乾ききった喉を全力で潤した。
「ふぅ…」
初となる自主早退を経験。まともに受けた授業は一教科だけ。
「……ん」
「お? 起きた?」
それから2時間ほどが経過した頃に華恋が目を覚ます。不測の事態を考え、ずっと彼女の側で待機していた。
「調子はどう? まだ頭痛い?」
「んん……ボーっとする」
「そっか。とりあえずおかゆ食べよう。今、持ってくるから」
台所のレンジでパックの中身を解凍。冷えた部分が無い事を確認すると茶碗へ移した。
「ほい、お待たせ」
「ありがと…」
「自分で食べる。それか食べさせてもらいたい?」
「……自分で食べる」
彼女が体を起こす。苦しそうに呼吸しながらゆっくりとしたスピードで。
「これアンタが作ったの?」
「いや、コンビニの。レンジで温めただけ」
「……なら食べる」
「どういう事?」
凄く失礼な発言をされたが今は気にしていられない。セクハラにならない程度に背中に手を添えて支えた。
「美味しい?」
「まぁまぁかな…」
「レトルトだからね。味はそんなものだよ。他に何か欲しい物ある?」
「……ごま塩が欲しい」
「台所にあったハズ。取ってくるわ」
やはりお腹を空かせていたらしい。スプーンを次々に口へと入れている。その姿はまるで早食いにチャレンジしているフードファイターのようだった。
「んむ、んむ…」
「よく噛んで食べるんだよ。おかゆだからって飲み込むと体に悪いし」
「んむ…」
「それだけで足りる? もう1つあるけど」
「……おかわり」
「え?」
目の前に茶碗を差し出される。冗談半分で聞いたのに彼女は食欲旺盛だった。
それから新たに解凍した2杯目のおかゆも綺麗に完食。ついでに風邪薬も飲ませた。
「ふぅ…」
「また寝てなよ。熱下がってないんだから」
「……うん」
「38.9度か。朝より上がってるね」
「ゴメン…」
「いや、謝られても」
体温計で熱を測る。直後に本人が申し訳なさそうに謝罪。どうやらウイルスは華恋の凶暴性までも奪い取ってしまったらしい。
「……着替えたい」
「え? もしかして汗かいた?」
「ん…」
「タオル取ってくる。待ってて」
意外な態度に戸惑っていると次なる要望が出された。予想していなかった身体の相談事が。
「はい、これ」
「……ありがと」
「1人で出来る? 背中拭いたげよっか?」
「む…」
「ま、まぁそうだよね…」
タオルを手渡しながら助っ人を名乗り出るが睨まれてしまう。強靭な敵意が存在した瞳に。
「じゃあ向こうにいる。10分ぐらいしたら戻ってくるから」
彼女の意志を確認した後は廊下へと退散。ゆっくりと襖を閉めてその場に座り込んだ。
「ふいぃ…」
なかなか気が休まらない。苦しんでいる本人に比べたら大した事のない悩みなのだけれど。
時折、中から聞こえてくる咳払いを耳に入れながら待機する。そして物音が完全に消えたタイミングを見計らってゆっくりと戸を開けた。
「終わった?」
小さく声をかける。部屋の中で布団に潜っている女の子に向かって。
「あれ? 着替えは?」
「……もう着替えた」
「いや、そうじゃなくてさっきまで着てた衣類」
使用済みのタオルが床に転がっているのを発見。ただそれ以外の物が見当たらなかった。
「洗濯機に入れておくよ。どこにあるの?」
「えっと…」
「別に隠さなくても良いから。盗んだりしないし」
「ゲホッ、ゲホッ!」
「本当だって。信用してくれよ」
自分の着ていた物を見られたくないのだろう。ブラやパンツ等の下着類を。
「濡れたまま置いとくとカビ生えちゃう」
「……ん」
「お?」
説得を続けていると布団の横から手が飛び出してきた。グチャグチャに丸められたピンク生地の衣類が。
「こんな所に隠してたのか…」
彼女の手から下着を奪い取る。バスタオルと共に回収した後は脱衣場へと持っていった。
「入れてきたよ。もう隠してる物ないね?」
話しかけながら枕元に座り込む。振動を与えないように注意して。
「アンタ……学校は?」
「うん? サボった」
「え…」
「行ったけどすぐ帰って来ちゃった」
「……バカ」
「なっ!?」
上から顔を覗く形で会話を開始。直後に相手からは感謝の気持ちが微塵も感じられない言葉をぶつけられた。
「それだけ生意気な口が利けるなら大丈夫だよ」
「うるさいなぁ…」
「ここにいると邪魔? いなくなった方が良い?」
「ジャマ」
「……あっそ、分かりましたよ」
もう用済みだから立ち去れと言いたいらしい。口調が大人しくなっても基本的な態度は変わらない。
「ゴメン、やっぱここにいて…」
「え?」
「……ん」
「はいはい…」
しかし立ち上がろうとした瞬間に布団から出てきた手に腕を掴まれる。その行動を見て中腰体勢の体を元に戻した。
「……あ」
「おやすみ」
「ん…」
子供を寝かしつけるよう母親のように彼女の頭を撫でる。振り払われるかと思ったが意外にも受け入れてくれた様子。
「はぁ~あ…」
同時に自身にも強烈な睡魔が到来。敷いてある布団のすぐ横に体を倒すとゆっくり目を閉じた。
「へっくし!」
それから何度も空想と現実の世界を往復する事に。女性と公園で遊んでいる夢を見たり。そしてハッキリと目が覚めた時には夕方近くになっていた。
「すぅ…」
「子供っぽい寝顔」
あぐらをかきながら再び撫でる。熟睡中の病人の頭を。
「あ、そうだ」
空腹感と共にある事を思い出した。買ってきた食料の存在を。部屋を出てキッチンへ移動。冷蔵庫に入れていた唐揚げ弁当をレンジで温めた。
「うまっ…」
疲弊しきったからか普段より何倍も美味しく感じる。涙が出そうになるレベルで。
テレビを見ながら1人で過ごしていると妹も帰宅。玄関で出迎えた。
「おかえり」
「ただいま~。華恋さん、どう?」
「薬飲んで寝てる」
「そっか。なら病院に連れて行かなくても平気かな」
「大丈夫じゃない? 父さん達に診てもらえば良いと思う」
こういう時は身内に医者がいるというのはかなり心強い。神懸かり的な役得だった。
帰宅した父親にも診てもらったが予想通りただの風邪と判明。母親にはおじやを作ってもらった。
「今日ってバイトの予定入ってる?」
「うぅん……休み」
「そっか。なら良かった」
しばらくすると華恋も起床。勤務先の予定を尋ねてみたが運良くシフトは入っていなかった。
「調子はどう?」
「だいぶ良くなったかも……てかアンタ何でまた来てんの?」
「いや、熱下がったかなぁと思って。ほい」
「ん…」
宿題を終わらせた後に再び客間を訪れる。暇潰しの意味も兼ねて。
「38度ジャスト。下がってきてるじゃないか」
「昼よりは楽よ。まだズキズキするけど」
「でも油断するとぶりかえすかもしれないからちゃんと寝てないと」
「はいはい。けど昼間タップリ寝ちゃったから目が冴えちゃってんのよね」
「それはいけない。睡眠薬たくさん持ってくるわ」
「……殺す気か」
顔は赤らんでいるものの朝みたいな辛さは感じられない。無事に完治へと向かっていた。
「はぁ……皆勤賞逃しちゃった」
「そんなの狙ってたの?」
「冗談よ。ただ学費払ってもらってんのに休んじゃうのも悪いかなと思って」
「明日も休んだ方が良いよ。念の為に」
「うん…」
空気が微妙に変化する。今までに感じた事がない穏和な物に。
「今日は添い寝してあげようか? 1人じゃいろいろ不安でしょ」
「バァ~カ」
冗談に対して罵声が返ってきた。1つだけいつもと違うのは彼女が笑顔だという事。
「じゃあ部屋に戻るから。何かあったらすぐ呼んで」
「……呼んだらすぐ来てくれるの?」
「ん~、漫画読んでなくて寝てなくて暇してたら来るかも」
「この役立たずが…」
「ひひ、んじゃおやすみ」
これだけ減らず口が叩けるのなら大丈夫だろう。笑った顔に安堵感を覚えながら二階へと戻った。
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