01 ただすれ違っただけの君
『……、……』
無言電話という名のいたずら電話を聞いた後、僕はため息とともに通話を切った。
待ち人からの連絡かと思って、確認しなかった僕が悪い。
無駄な時間を使ってしまったと憤る前に、自分の至らなさを考えるべきだろう。
「はぁ」
それでも、ため息は出るけれど。
白い息が宙に溶けて、見えなくなる。
こすり合わせた手袋の中の指先が、少しかじかんできていた。
防寒具を身に着けていなかったら、とっくに指先が凍り付いていた事だろう。
目の前の景色は、大体の部分が真っ白。
勤勉に降り注ぐ凍り付いた天の恵みが、凍てつく冬の祝福を積み重ねていた。
それらは時間が経つ事に深みを増して、白さで周囲を塗りつぶしていく。
などと、難しい言い回しで表してみたが、要するにくそ寒い寒空の下、雪が降り積もっている中で、僕はもう一時間も外で立っている……という事が言いたかったのだ。
「遅い」
不満げに呟いた言葉への返答は当然ない。
もう、かれこれ一時間経つというのに約束の待ち人は、気配すら見せなかった。
僕はその人に用があった。
その人はその件に関して時間を割く事を、快く承諾したというのに。
忘れて寝坊でもしてるのだろうか。
僕が立っているのは駅前。
……の、人通りが多い目立つ場所。そこそこ有名なビルの屋上だ。
視界の中にはそれなりの人数が収まっているが、ただの有象無象に過ぎない。
関係のない第三者。ただそこにあって景色となるだけの他人
無許可で僕の視界の中に存在するならその熱を寄越せと言いたかった。
普段人にあたることなんてすくない僕だけだれど、人間なんだから気分の変化は当然あって、時と場合によるものだ。
どうしようもない理不尽な苛立ちの思いを抱いてしまうくらいには、冬の寒さは体にきつい。
「……」
命とは?
命とは何だ。
目の前を通り過ぎていく人間は、ただの血液と皮と肉でできた物体だというのに、命なんて言うシロモノは一体どこに宿っているのだろう。
僕は、ふいにそんな事を考える。
永遠に解けなさそうな謎。
いかに頭の良い人間でも、学者でも、科学者でも、その答えを容易に知る事は出来ない。
だが、それでも僕は僕なりの答えを持っている。
命とは熱だ。
感情を燃やし、生命活動に燃やし、常に熱を内包しながら命とは存在している。
人間は、そのどちらかを失くした時に死ぬのだろう。
例えば、彼女の様に。
僕は瞼を閉じて思い出す。
数日前に、この場所でただすれ違っただけの人間の事を。
何の関わりもない、繋がりも存在しない第三者、他人の事を。
最初に過去から聞こえてくるのは呟きだった。
小さく、かすれて、ひびわれた感情をむき出しにしたような、細々とした途切れ途切れの声。
冬よりも冬らしく、氷の様に凍てついた声。
『……かな』
反応して、記憶の中に存在する僕は振り返る。
その声の主が、横を通り過ぎて行ったからだ。
その時、僕には顔が見えなかった。
分かるのは後ろ姿だけ。
栗色の長い髪の、僕と同じくらいの歳の少女。
『ここから落ちたら、死んじゃえるのかな』
誰に言うでもない、ただの独り言だ。
ただ吐き出され、宙に溶けて消えていくだけの言葉。
寒々しく響いた君の声は、何故だか僕の胸に突き刺さってそこに穴をあけていく。
貫通しない、ただ指で強く押しただけの様な、そんな凹みの様な穴を。
君はすれ違いざまに僕に、精一杯の力で人を傷つけたんだ。
僕はまんまと傷つけられた。
言葉で人は殺せない。
でも心は殺せるんだ。
焼き付いて離れなくなったり、消えない傷をつける事なんて簡単にできる。
そうして僕と、強烈に印象に残る一瞬の邂逅をした君。
ただすれ違っただけの君は、僕の目の前で、空から落ちて、落ちて、落ちて死んでしまった。
屋上から、飛べないと分かていて空に飛んだ君。
一瞬して湧き上がる周囲の人々の喧騒。
それは同じ階層でも起きて、遥か遠くの地面からも起こる。
騒ぎが起こる中で、僕は落ちていった君の行方を追いかけてそれを見つめた。
何の関係もない第三者達と並んで、赤の他人として眺めていたのだ。
真っ赤な血だまりの中、壊れた物の全部を。
少し前まで確かに人だったそれを。
遠くの地面から、君が見つめる。
空っぽの瞳と目が合った気がした。
何もないはずの骸が僕に訴えかけてくる。
――ねぇ私、行きてる意味……あったかな?
一生忘れられない他人の声。
どうやっても消せそうにない記憶。
刻まれた痛みは僕に何を求めるんだろう。
君は死にたかったの?
それとも……。
僕はどうしてこんなにも気になっているのだろう?
僕は、どうするべきなんだろうか。
誰か正しい解を教えてほしい。
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