第2話 神庭裁判、開廷!
扉をくぐると同時に、目が眩んだ。
真っ白い、光の洪水が俺の周りを包んでいる。
瞼を閉じてしばらく耐えていると、その光量にようやく目が慣れ始めた。
恐る恐る、目を細く開ける。
そこには見たこともない光景が広がっていた。
高校の講堂ぐらいはあろうかという、だだっぴろい空間だ。特に天井から差す光の位置は見上げてもきりがないほど高い。頂点に向かって伸びる柱もまた先が見えなかった。
周囲から強烈な圧力を感じ、俺は思わず首を巡らせた。
それは俺を取り囲む、傍聴人達の眼差しだった。
物珍しそうな目。厳しく見透かそうとする目。疑惑の色を浮かべる目――十人十色の視線が無遠慮に俺の肌を刺した。針のむしろ、なんて表現をこれ以上ないほど体感する。
両脇を固める男に小突かれ、俺は不承不承歩を進めた。床も壁も白一色、どこもかしこも磨き上げられていて一点の曇りもない。逃げ場もなく連行されていく自分の様子が、鏡のように壁に映り込んでいた。
やがてたどり着いたのは、腰ほどの高さまである半円状の柵の前だった。ちょうど人一人が入れる檻のような場所だ。中にある小さな丸椅子に腰掛けると余計に、閉じ込められ、晒し者にされているような気分になる。
所在なく足元を睨む俺に、一層強い光が降り注いだ。
まるでここにいる者の罪を、子細漏らさず暴こうとしているかのように。
四方八方から空気が押し迫るような息苦しさに、初めて実感する。
俺は、今からここで――裁かれるのだ、と。
「で、では」
しきりに頭を下げながら、りりぃがよろよろと離れていく。同時に、役目を全うしたとばかりに、男二人も下がっていった。
隣を見ると、鞠ちゃんは俺にくっついたままだ。傍聴席に行かなくてもいいんだろうか?
俺の疑念を察したように、鞠ちゃんが目を上げた。
「心配ごむよーです。下界から来たばかりの魂は、天界の事情が分からない場合もありますから、補佐人が認められてるんですよ」
「あ、そう……。ならいいんだけど」
「――そうそう。あのムッキムキ天使どもからも、お咎めなしだっただろう?」
しれっと割り込んできた声は、聞き慣れない男のものだった。わっ、と身をのけぞらせる俺とは対照的に、鞠ちゃんは笑顔で振り向いた。
「あっ、センセイ。おはよーございます!」
「はよ、マリ子。久しぶり」
軽く手を上げて鞠ちゃんと挨拶しているのは、ひげ面のチャラそうなにーちゃんだった。でかい手で鞠ちゃんの頭を撫で回した後、俺に向き直る。
「今日は頑張れよ」
「はぁ……」
傍聴席にでも戻るのかと思いきや、おっさんはそのまま俺たちの後ろに居座った。鞠ちゃんの知り合いらしいが、どこのどいつなんだろう。いい加減、考えるのが嫌になってきて、俺はそのまま前を向いた。
なすすべもなく被告とされた俺を、奥にある馬鹿でかいステンドガラスの窓が見下ろしている。
そのすぐ下に、人影があった。
部屋の端から端まで届くような長い台、その中央の席についているのは――一人の少女だった。
真っ白い法服に、長い髪が流れ落ちている。歳は俺と同じぐらいか。けど、雰囲気のせいか固い表情のせいか、十代が持つとは思えない威厳があった。
「あれ、俺の部下。今日の裁判長ね」
背後からにーちゃんがぼそっと呟いてくる。
裁判長はしばらく俺をじっと見下ろしていた。不思議な色の瞳がやけに熱心に見つめてくる。さすがに居心地の悪さを感じたところで、彼女は手元の木槌を取った。
――かぁん、と鋭く木槌が打ち鳴らされる。
ぶわりと全身が総毛立つ。俺は人知れず、ごくりと固唾を飲み込んだ。
いよいよ……
いよいよ、始まっちまうのか。
「――神の名の下において、これより被告第〇二五番・柊木奈津雄の神庭裁判を開廷いたします。弁護側、検察側、各々準備は完了していますか?」
「かかっ、完了していますぅ」
聞き覚えのある吃音に、はっとして振り返ると、向かって右側の席にりりぃが立っていた。弁護人席、といったところだろうか。机の上に様々な資料をぶちまけている。
とすると、反対側は――
「検察側、もとより完了しておりますわ」
か細いりりぃの声を吹き飛ばさんばかりの、朗々とした言葉が響いた。
弁護席の対面――つまり、検事席には――袴姿の女が立っていた。
腰まで届く長い髪を、真っ赤なリボンで結わいている。これまた赤い袴の下は編み上げブーツを履いていて、いわゆる昔のハイカラさんみたいな格好だ。さっと一筆で引いたような眉や、爛々と輝く大きな瞳は、総じて意思の強さを感じさせる。こりゃ、かなり勝ち気な女だぞ……
顔を引きつらせていると、鞠ちゃんがちょいっと背伸びして、耳打ちしてきた。
「あの方は
「ご令嬢って……。つか、死んでからも名門とかあんの?」
「なんでも下界にいたころから代々検事として名を馳せた一家だそうで……。それが家族旅行の際、ひこーきの事故に遭われてしまったとか」
「ちなみにお嬢様の隣にいるのが、あれの母ちゃんで天界検察局局長ね。完璧主義のガチガチエリートってやつだな」
にーちゃんの言うとおり、検事――字見野蝶子の隣にはもう一人、女がいた。検事である当人に負けず劣らずの鋭い眼光で、法廷全体を睨み付けている。確かに顔立ちは似てるけど、あんなでけえ娘がいる歳には見えない。かなり若作りしてんだろうな。
双方の準備が整っていることを確認し、裁判長は大きく頷いた。
「よろしい。それでは字見野検事、冒頭陳述をお願いします」
すると、蝶子は不意に形のいい唇を震わせた。
「ふふっ……今日の法廷は『新人』ばかりですのね。弁護人も、裁判長も、そして――この私も初法廷」
俺は思わず目を見開いた。りりぃは分かるとしても、あの堂々とした裁判長と検事、二人もそうだと言うから驚いたのだ。
「字見野検事、何が仰りたいのでしょうか」
「つまり、それだけ単純明快な裁判だと言うことですわ。被告人・柊木奈津雄の自死はこれ以上ないほど明白でしてよ」
自信満々に断言すると、蝶子は一枚の資料を取り出した。
「事は、とある雑居ビルで起こりましたの。昨日の夕刻、そのビルの屋上から一人の高校生が身を投げましたわ。彼はすぐ下の道路に激突。ほどなくして、かの魂を発見した天使が現場に急行し、天界へ連れてきた次第ですわ」
矢継ぎ早に語られる言葉に、俺は唖然とした。
――雑居ビル? 身を投げた?
「なんだ……それ」
気づけば、ふらりと立ち上がっていた。
「さっきから黙って聞いてりゃ……一体、誰の話してんだよ!」
「な、なっちゃん……」
「俺は雑居ビルになんか行ってねえ。もちろん、屋上にもだ。俺は……んなところから、飛び降りたりしてない!」
鞠ちゃんが慌てて俺の制服の裾を掴む。間髪入れず、木槌が鳴らされた。
「静粛に。被告人はすみやかに席についてください」
「けど……!」
「どうか落ち着いて。全てはこれから審理されるのです」
俺がぐっ、と押し黙った瞬間を狙って、蝶子が聞こえよがしに溜息をつく。
「ふぅ。弁護人がおとなしいと思ったら、被告人自ら吠え出すなんて。しつけがなってませんわね」
「あ、あぅ」
りりぃは口をぱくぱくさせるばかりで何も言わない。その態度も苛立たしかった。ドジで内気か知らねえが、てめー、弁護士じゃねえのかよ。
「なっちゃん、だめです。法廷のしんこーを妨げると、しんしょーが良くないです」
「……分かったよ」
鞠ちゃんにたしなめられて、俺は渋々腰を下ろした。
蝶子は畳みかけるように続ける。
「検察側は最初の証人に、かの魂を天界へと運んだ担当天使を召喚します。よろしいですわね?」
「承知しました」
「ええっ……あ、あぅ、はい」
相変わらずしどろもどろのりりぃを一顧だにせず、蝶子は手元の呼び鈴を鳴らした。
「では――証人を入廷させてくださいまし」
打てば響くように法廷の大扉が開いた。そこから入ってきた一人の男が大股で証言台に歩み寄っていく。
俺らの後ろでにやにやしてるにーちゃんより、さらに若い男だった。
黒いスーツに黒いコート。髪の毛も黒いし、靴も黒いし、まさに黒ずくめといった感じだ。街で見かけたなら、お堅いサラリーマンかと思わないでもないが――唯一異彩を放っているのが、腰の両側に下げられた二振の日本刀だ。コートのスリットからはみ出たそれは、物騒極まりない。本人の目つきもちょっと悪いし、どうひいき目に見ても『天使』とはほど遠い。
そして――もちろん、俺に見覚えはない。
「なぁ、天使って何なんだ? あいつが俺を天界に連れてきたって……?」
「あ、それはですね」
どこに持っていたのか、鞠ちゃんはスケッチブックにペンでさささっと何かを書き上げた。
どうやら図解してくれるらしい。
「通常、下界で亡くなった魂は自発的に天界へやってきます。ところが何らかの不具合で下界を彷徨ったままのかわいそーな魂があるんです。それを連れてくるのが天使のお仕事です」
もくもくとした雲が浮かんでいるところが天界、波線で区切られた下が下界、そしてその波線の真ん中に『てんごくのもん』と書かれた扉がある。
「下界と天界を繋ぐのが、この『天国の門』です。なっちゃんはあの天使さんに連れられて、門を通ってきたということですね」
うう……全ッ然、覚えてねえ。
また痛み出した頭を抱える。なんとか目だけを上げると、ちょうど証人の天使とやらが証言台についたところだった。
「では、証人。名前と階位をお願い致しますわ」
天使はじろりと法廷全体を見回した後、気乗りしなさそうに答えた。
「名前は
「しばこ……?」
「――あァ?」
俺の小さな呟きを聞き咎めたらしく、肩越しに鋭く睨まれる。
「んだ、コラ。変な名前だって言いてえのか。可愛い柴犬みたいな名前だって言いてえのか!」
言ってねえ! てか、チンピラかよ。絶対、天使って面じゃねえだろ!
天使――天宮柴乎は、けっ、と吐き捨ててから、正面に向き直った。
「なぁ、俺もヒマじゃねーんだけど。一日穴開けただけで、給料に響くしよ。……必要なのか、この裁判?」
「あら、奇遇ですこと。私も同感でしてよ」
「いや、アンタが呼んだんだろうが……」
しれっと賛同する蝶子を、柴乎が半眼で睨む。両者をとりもったのは裁判長だった。
「自死の疑いがある魂は必ず、この神庭裁判で裁かれることとなっています。証人、お手数ですが証言をお願いします」
さっきの俺もそうだったけど、この静かな口調で諫められると、どうにも反論しにくい。柴乎もまた、決まりが悪そうに後ろ頭を掻いた。
「しゃあねーな……。で、何について話せばいいんだ?」
「では、被告人の魂を発見した時の状況について、お願いしますわ」
柴乎は咳払い一つで憎まれ口をしまうと、証言台に向き直った。
俺は我知らず、木枠から身を乗り出した。
――最初の証言が始まる。
これで俺がどうしてこんな目に遭っているのか、何か分かるかも知れない。
「そいつの魂を回収したのは、昨日の夕方だ」
滑り出しは、意外にも落ち着いた口調だった。
「確か、いつもある変な歌の放送がすぐ流れたっけな……。んで、そいつは雑居ビルの屋上でふよふよ漂ってやがって、死にたてなのか魂も意識はなかった。そのまま『門』まで連れてったけど、問題なく通れたから、大した『未練』もなかったらしいな」
「未練……?」
「下界を彷徨っている魂は、この世に『未練』を残していることがあります。その場合、未練を解消するまで『門』を通れないんです」
眉を顰めた俺の隣から、鞠ちゃんが間髪入れず教えてくれる。理屈は……まぁ、分からんでもないが、心の中は反論したい気持ちでいっぱいだ。
俺に未練がないだって……?
未練だらけだっての、ちくしょう――
「とまぁ、マジでこれぐらいしか言うことねえけど」
柴乎はそう言って肩を竦める。どうやら本当に証言はこれで終わりのようだった。
くそ、何がどうしてこうなってんだよ。これじゃ何も分からねぇ。
裁判長は小さく頷き、りりぃの方を振り返る。
「それでは弁護人、反対尋問をお願いします」
「あ、あう。はいぃ……!」
返事をしたものの、りりぃはわたわたと意味もなく資料を漁り始める。
尋問ってのはつまり、証言に対する質問っつーことだろう。
聞きたいことが山ほど積もって、頭の中を渦巻いている。うずうずと身じろぎする俺とは反対に、りりぃの口からは一向に言葉が出てこない。
「え、えと、あの」
「弁護士さん、質問がなければ無理になさる必要もなくてよ?」
「そ、そんなことは……。じゃあ、あの、はいぃ!」
小学校の授業かよって勢いで、りりぃが手を上げる。
俺が死んだときの状況のことか、はたまた現場になった雑居ビルのことか、そもそも本当にそれは俺だったのか――
りりぃの口から飛び出す言葉に、全神経を集中する。
しかし、
「おっ、お天気は、どうだったんでしょうかぁ!」
――一瞬、法廷が静まり返る。
柴乎がきょろきょろと辺りを見回した後、自らを指さした。
「……え? 俺?」
「はい。証人は弁護側の質問に答えてください」
裁判長から冷静に促され、柴乎は記憶を辿るように視線を浮かせる。
「あー……えっと、曇ってたような」
「私がお答えいたしますわ。現場の天気は曇り。気温十五度、湿度六十%。無風状態でしてよ」
「あ、あぅ、そうですか……ありがとうございます」
「いえ、礼には及びませんわ」
再び、法廷が沈黙する。
俺はぎぎっと隣に首を巡らせた。
「え……。あいつ、何が言いたいの?」
「ま、鞠にもよく分かりません」
顔を真っ赤にして、俯いてしまったりりぃに、悪夢を見ているような気分になる。あれが俺の弁護士……? マジか、マジなのか。
「その、弁護人。先ほどの質問の意図は一体……?」
見かねたのか、裁判長が遠慮がちに尋ねる。
「あぅ、えっと、雨が降ってたり、風があったりしたら、足を滑らせた可能性もあるかなぁ、なんてぇ……」
「あぁ、それはねえな」
りりぃの言葉を遮るように断言したのは柴乎だった。
「屋上には結構な高さのフェンスがあったから、事故で落ちることはまずないだろ」
「だ、そうですわ。ご満足いただけて?」
「あ、あ、あううううう」
りりぃは目に涙を浮かべ、黙り込む。
一方、俺の苛立ちは頂点に達していた。
なんなんだ、こいつ。――わざとかってぐらい使えねえ!
「なっちゃん、抑えて」
「分かってるよ……!」
幼い女の子の手前だ。平静を保っていたいのは山々だが、さっきからどうしても貧乏揺すりが止まらない。もどかしさで全身をかきむしりたくなる。
俺なら。少なくともあいつよりは、もっとマシなことを言うのに――!
「他になければ、この証人に対する尋問は終了となりますわね。よろしくて、判事様?」
裁判長は厳しい表情を浮かべたまま、答えない。沈黙を肯定と受け取ったらしく、蝶子は朗々と続けた。
「冒頭に申し上げた通り、被告人の自死は一点の曇りもなく明白ですわ。よって――検察側は、今ここで判決を求めます!」
「は、判決――!?」
「そんなっ」
俺は思わず目をむいた。鞠ちゃんも息を呑んでいる。
い、いやいやいや、いくらなんでも早すぎるだろ! まだ何にも分かっちゃいない!
驚く俺たちに向かって、蝶子は薄笑いを浮かべていた。
「あら、何か問題があって?」
「大ありだ! 俺は飛び降りてない! そもそも……」
何も覚えてないんだ、と言いかけてとっさに口を閉じる。
記憶にございません――と言い訳する、政治家や芸能人の姿がとっさに頭をよぎった。うう、傍から見るとあんだけ怪しいヤツもいねえよな……
「言い張るだけではお話になりませんわね。それとも、先ほどの証人の証言に何か具体的な疑問がありまして?」
「それは……」
俺が口ごもった隙を狙ったかのように、重たい声が響いた。
「裁判長」
蝶子の隣、その母親だとかいう女が――法壇を鋭く見据えている。
「検察側の主張は変わりません。即時判決を求めます」
「……しかし」
「二度とは申し上げません。さぁ――神の庭にふさわしき、公平なる裁きを」
あの裁判長の瞳にはっきりと動揺の色が浮かんだ。俺を見つめる表情は年相応に幼くなっている。
俺は一瞬、怒りも焦りも忘れて、彼女に見入った。
なんだろう。この感じ、どこかで……
「て――天使さぁん!」
隣から、がたん、と大きな音がして、はっと我に返る。鞠ちゃんが被告人席から身を乗り出して、証言台に訴えかけていた。
「もう、本当にないんですかっ? 変だったこと、おかしかったこと、気になること……なんでもいーですからぁー!」
俺は毒気を抜かれたように鞠ちゃんの横顔を見ていた。
はは……なんだよ、それ。あんだけ俺に抑えろって言ってたのに。
鞠ちゃんの必死の様子に気圧されたか、柴乎は絞り出すように答えた。
「あー……まぁ、気になるっちゃあ、気になることなら……」
「そ、それを、しょーげんしてください!」
「――異議あり! 裁判長、すでにこの証人に対する尋問は終了していますわ。それに被告の代理人でもない者の要請など、聞く必要ありませんことよ!」
すかさず異議を唱えた蝶子に、しかし裁判長は大きく首を振った。
「先ほど『気になることがある』と発言したのは証人です。我々は証人の言葉に耳を傾ける義務があります。天宮さんには引き続き証言をお願いします。……弁護側もよろしいですね?」
もはや完全に蚊帳の外、なりゆきを見守っているだけだったりりぃはかろうじて頷いた。
俺は思わず歯噛みした。
柴乎から証言を引き出したのは鞠ちゃんだった。検察側の異議を却下したのは裁判長だ。
その間、俺の無実を証明すると豪語していたあいつは何をしていた?
小さく縮こまってるだけだったじゃねえか。
あんな奴、信用していいのかよ――
「……ったく、わぁったよ。でもマジで大したことじゃないぜ」
気まずそうにそう前置きしてから、柴乎は第二の証言を始める。
「そいつを見つけた時、遺体はビルのすぐ下にあった。正確に言うとまだ息はあったみてえだが、こうして魂が天界に来ちまった以上、助からねぇけどな」
助からない。その言葉を聞いて、暗澹とした気分になる。柴乎は俺をちらりと見やった後、閑話休題とばかりに続けた。
「その肝心の魂だが、遺体のすぐそばにあるもんだと思ったら、何故か屋上を漂っていやがった。意識がない魂は普通、肉体の近くを離れねぇもんだが……」
「無意識にでもその場を動くことは有り得るでしょう。一種の夢遊病のようなものですわ」
そう口を挟んだ蝶子に、柴乎は一つ頷いた。
「もちろん、ある。けど、俺の経験上、それはその場に『未練』がある時が大半だ。飛び降り自殺した奴が屋上に未練ってのも妙だな、と思っただけだ」
「でも実際のところ『天国の門』は問題なく通過した。違いまして?」
「ま、その通りだな」
柴乎はあっさり頷き、口を噤んだ。どうやら証言は終わりらしい。
「なっちゃん、ビルの屋上に未練があったんですか?」
「いや……」
そもそもどこなんだよ、その雑居ビルって。それが分からなきゃどうしようもない。
「何か、言いたかったのかな……?」
鞠ちゃんの小さな呟きを聞いて、脳裏に閃くものがあった。
ミステリー小説なんかではよく、死の間際に遺言を残す。いわゆるダイイングメッセージってやつだ。
俺は――自殺なんてしない。矛盾してるかもしんねーけど、死んでも自殺なんかするもんか。それは俺自身が一番よく知っている。
弁護席を見ると、案の定、りりぃは押し黙っている。
その様子を見かねたか、法壇からやや鋭い声が飛んできた。
「弁護人、反対尋問をしてください」
「あ、あぅ、あの……ええっとお」
「分かっていますか。あなたが何も言わなければ尋問はそこで終了します。被告人の命運が決まってしまうのですよ」
「はい、はいぃ」
検事席では蝶子がほくそ笑んでいる。
発言するなら今しかない。
認めたくはないけど――もう、死んでんだ。
だったら、怖いモンなんてねぇ!
「……俺は、自殺なんかしてない」
静かに立ち上がった俺を、一気に集まった衆目が突き刺す。
自ら命を絶ったんじゃない。
なら、どうして死んだのか?
決まってる――
「俺は、殺されたんだ!」
途端、法廷内が渦を巻くようにざわつき始めた。木槌が断続的に打ち鳴らされる。
「静粛に。静粛にしてください!」
その混乱の最中、ふっ、と嘲笑するような吐息が検察側から漏れた。
「あなた、今までの審理をちゃんと聞いてまして? 屋上に人影はなかった。門を通れなくなるような未練も持ち合わせていなかった。残念ながら、あなたが殺人の被害者である要素は一つもありませんわ」
俺はにやりと口端を吊り上げた。実際は毛先ほどもない余裕を、たっぷりと見せつけるように。
「全部――そこの、天使のしわざだとしたら?」
「へっ?」
素っ頓狂な声を上げたのは、横の鞠ちゃんだった。他のメンツは言葉もないぐらい呆気に取られているようだったので、これ幸いに俺は続けた。
「天使ってのは、天界に魂を運ぶのが仕事なんだろ。しかも生きてる人間には見えないし、分からない。仕事欲しさに、こっそり人を殺したっておかしくないんじゃないか?」
「ん……だと、てめえコラァ!」
自分に疑いがかけられてると、ようやく気づいたらしい。柴乎は振り返り様に、青筋を立てて吠えまくった。
「誰がんなことするか! ふざけんじゃねえぞ!」
「じゃあ、あんたがやってないって証拠はあんのか!?」
「ぐっ……このっ……!」
柴乎は歯をむき出しにして、言葉を詰まらせた。これで謂われのない罪を押しつけられる理不尽さが少しは分かったろ、いい気味だ。
「被告人。あなたは……証人を告発するというのですか?」
裁判長が目を丸くして、そう尋ねてくる。俺が口を開こうとした瞬間、上擦った声が検察側から飛んできた。
「異議あり! じょ、冗談じゃありませんわ。魂の守り手である天使がそんなことをするはずないでしょう!」
「だから証拠はあるのかって。あるなら今すぐ見せて欲しいね」
「ま……待ってくださぁい、柊木さん……!」
口を挟んできたのは弁護席のりりぃだった。俺はじろりとそちらを睨み付ける。今の今まで、何にも言わなかったくせに、こんにゃろ……!
「そんな無茶な告発……だ、駄目ですぅ!」
「その通りですわ。それに裁判は検事と弁護人による議論が行われる場――代理人を立てたのなら、被告は発言を慎むべきですわ!」
「こんなポンコツ弁護士、こっちから願い下げだ!」
そうだ、もう誰にも頼るもんか。
今までだって、そうやって生きてきたんだ。
あの世だのこの世だの、んなことは関係ない。
「俺がやる」
怒りに身を任せ、俺は弁護席をまっすぐ指さした。
「――俺の弁護は、俺自身がする!」
法廷が水を打ったように静まり返る。
唯一、平静な表情を保っていた裁判長が、弁護席に呼びかけた。
「弁護人」
「は、はぃ」
「厳しいようですが――私も、被告人の訴えは正当と考えます。あなたは弁護士の責務を十分果たしていると言えますか?」
「そ、それは……」
りりぃが口ごもったその時、突如として机を叩く大音声が響き渡った。対面の検事席からだ。
「それならば、判事様。――貴女も裁判長たる責務を果たしていると言えますの?」
「えっ……?」
「さっきから、随分と被告に肩入れしているようですわね。その証拠に、被告人の横にべったり張り付いてるのは、あなたの私設助手ではなくて?」
なんだって……!? 俺は弾かれたように隣を振り返る。鞠ちゃんはぎゅっと眉根を寄せて、裁判長を心配そうに見つめていた。
「皆々様。お聞きの通り、この判事様は裁判に最も重要な『公平性』に欠けていますわ。検察側は本法廷における裁判長の交代を要求します!」
再び、法廷内が喧噪に包まれ始める。前後左右上下、あらゆる箇所に設けられた傍聴席から、混乱の波がとぐろを巻いているようだった。
さしもの俺も法廷をぐるりと見渡し、呆然とするしかない。
ど、どうなってんだ。どうなっちまうんだ、これ……!
「――はいはい、皆さん、静粛に!」
ぱぁん、と大きく手を打つ音が、すぐ背後から聞こえた。見ると、あのにーちゃんがゆっくりと立ち上がるところだった。
「神庭は検察側、被告人、双方の申し立てを認めよう。裁判官は望月判事補に代わり、この俺が。被告人は今から本人による弁護を行うとする。ご一同、よろしいかな?」
鶴の一声、ってやつだろうか。法廷が一気に落ち着きを取り戻す。
そういえば、このにーちゃん、裁判長の上司だとか言ってたな……。結構なおエライさんだったのかもしれない。
「お待ちなさい、吉瀬長官」
しかし、それに唯一異議を唱える人物がいた。顔のひきつった蝶子の隣に陣取る、モンスターペアレントのオバサンだ。
「弁護人の交代も認めるというの? 資格も持たない、天使でもない――ただの一介の魂に?」
「弁護するのに必ずしも資格が要るわけではないでしょう、字見野局長。被告本人が代理人をクビだというならクビですし、自分が弁護をするというならすればいい」
「あう、あううう」
わたわたとするばかりのりりぃと反論を引っ込めた検察側を置き去るように、にーちゃんの一声が響く。
「――では、本法廷はこれより十五分間の休廷に入ることとする!」
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