第10話 アズィ・アシーク 2




「わかった。その――『間隙』とやらの中にいるから、寒さや暑さを感じない、という説を、とりあえず信じることにする。原理なども気にはなるが、優先すべきはそれではないしな。……ここを出れば文献通りの気温だということだが、ならばどうするんだ? 私もお前も、そんな寒さに耐えられるような格好はしていないだろう」

「それは焔が居るから大丈夫。実体化した時にわかったと思うけど、焔は炎の眷属だから。わたしたちの周囲の気温だけ適温に変えてもらって、移動するときに凍えないようにするつもり」


 そう言うと、アル=ラシードは少し驚いたようだった。


精霊イーサーは【禁智帯】でもそのようなことができるのか?」

「うん。精霊イーサーが使うのって、魔法とも魔術とも違う力だから……それでも【禁智帯】だとちょっとうまく力を揮えないらしいけど」


 言いつつ、蹲って何やらやっているらしい焔に目を向ける。リルたちからすると背中しか見えず、何をしているのかはわからないのだが、随分熱中しているらしい。視線に気付く様子は全くない。


「……あんなだけど、精霊イーサーなのは間違いないから。寒さに関しては心配しないで大丈夫だよ」


 少しでも安心してもらえるようにと笑みを向けたのだが、アル=ラシードは無言でふいっと顔を背けた。


(あれ、何かまずいこと言っちゃった? それとも『誰が不審者と馴れ合うか!』的な意思表示だったり?)


 そう長い間ではないと言えど、共に行動するのだから、円滑な人間関係を築きたいとリルは思うのだが、アル=ラシードは違うのかもしれない。


(まあ、わたし、怪しいもんね……)


 王族だし、対人関係も警戒から入るのが基本なのかもしれない。無理に打ち解けようとするのは逆効果だろうと考えて、リルはとりあえず気にしないことにした。


「それじゃあ、出発してもいいかな?」


 極力優しい声を意識して尋ねると、アル=ラシードは顔を背けたまま、ぽつりと返した。


「…………構わない」


 それにリルは少しだけ笑って、「そっか」と頷いた。

 空を見上げれば、少しずつ欠けゆく白銀の月が煌々と照っている。それを確認してほっと息をつくリル。


(時間の方は大丈夫そうかな。見た限り、今はアズィ・アシークの中も凪いでるみたいだし、移動しても問題ないよね)


 【禁智帯】の中は、『外的魔力』が欠如している関係で時折荒れることがあるのだと、リルはザードに聞いていた。

 アズィ・アシークにおけるその兆候は、月が赤く染まること。綺麗な白銀の月に、どうやらそれに遭遇せずに済みそうだ、と安心する。


 荒れる、と一口に言ってもその内容は様々らしい。最も多いのが砂嵐だということは知っているが、それ以外はリルも詳しくはなかった。しかし、砂嵐にしろ、それ以外にしろ、巻き込まれず済むのならそれに越したことはない。


(……って言っても、アズィ・アシークから出るときには絶対に何かしら起こるわけだけど)


 リルに可能なアズィ・アシークからの脱出方法は、ある意味では安定していると言えるアズィ・アシークの状態を、多少なりと揺り動かす――乱すことになる。少なくとも、今の『凪』の状態を崩すことになるのは確実だ。できる限り迅速にアズィ・アシークの外に出るつもりではあるが、それでも危険な目に遭う確率はゼロではない。

 それ以外にも、アズィ・アシークの在り方に関わる心配事もある。何が起こるかわからない。

 とりあえず、アル=ラシードには危険が及ばないように努力しよう、とひっそり心に決める。


「あ、やっと出発?」


 暇に飽かして砂で遊んでいたらしい焔が、立ち上がったリルを仰ぎ見る。

 ずっと我関せず状態だったことに色々言いたいような、もうどうでもいいような気分になりつつ、リルは焔に近づいた。


「うん、出発。気温の調節は任せるけど、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。それくらい軽いって。微調整までお任せあれ」

「いや、そっちじゃなくて魔力残量のこと」


 言えば、焔は自分の内を探るような少しの間をおいて、にっと笑った。


「そっちもだいじょーぶだって。満タンとまでは言わねーけど、半日くらい実体化できる程度にはあるし」


 リルは焔の契約者だが、『魔力因子』を持っていないので、焔に魔力を供給することができない。なので、焔はリルの周囲の人間――主に兄たちの魔力を精霊石イースを通じて吸収しているらしい。兄たちは焔をリルの護衛代わりのように扱っているので、魔力を吸収されることには全く頓着していない。というかむしろ推奨している。


 イースヒャンデに居れば魔力について心配する必要はないのだが、ここはイースヒャンデではない。精霊石イースに貯められている魔力が尽きたら、焔はこうして顕現することもできなくなってしまうのだ。

 しかし、リルが思っていたよりも魔力を貯めてあったらしい。実体化には結構な魔力を必要とするのだが、それを半日行える程度にあるのならば問題ないだろう。


「それなら大丈夫かな。じゃあ、よろしくね――……って」


 まだ座り込んでいる焔の傍らに歩み寄ったリルは、何気なく視線を下に向けて、頬を引き攣らせた。


「ほ、焔、それ……」

「んー? スゲェだろ。俺の自信作!!」


 そこにあったのは、砂で描かれたとは思えないほど精緻な肖像画――と言って良いか悩む砂絵だった。ついでに上手すぎて引くレベルの代物だった。

 色彩は無く、金色の砂のみで表現されているはずなのに、今にも動き出しそうなくらいに生気を感じさせる仕上がりの、間違いなく素晴らしい出来の砂絵だったが――。


「何でわたしの姿なの! しかもこれ小さい頃だし! っていうか泣いてるところだし!!」

「えー……何となく?」

「何となくでこんなの描かないでー!」


 「悪趣味にも程があるでしょう!」と怒鳴るリルにも、焔は悪びれる様子はない。


「何となくって言っても、一応理由はあるんだぜ? どうせ絵にするなら、もう見れない昔の姫さんがいいなーって思ってさ。ちっさい姫さんが泣いてるのってすっげぇ可愛かったから、つい。いや今の姫さんも可愛いんだけど、それとはまた違うって言うか。こう、ちっさくてふにふにしててただでさえ殺人的に可愛いのに、顔真っ赤にして必死で泣き止もうとしてるんだけどできなくて、恥ずかしがって小さくなって声殺そうとしてるけど殺しきれてない感じの――」

「ちょ、焔……っ」


 何かもういろいろとつっこみどころがありすぎる。そして恥ずかしいことこの上ない。


(これだから精霊イーサーはっ!)


 精霊イーサーは気に入った人間としか契約をしない。つまり最初から契約者にベタ惚れ状態と言っても過言ではないのだ。

 そして人間の羞恥心とかそういうものへの理解が基本的にない。少なくとも焔にはない。どちらかと言えば気の利くほうであるのに、変なところで理解が足りなかったりする。


 リルは無言で焔の正面に回り、全身全霊を込めてその砂絵を崩した。


「あー! 姫さん何するんだよ!?」

「それはこっちの台詞だから!」

「俺の汗と涙の結晶ー!!」

「汗も涙も出てないっていうか出ないでしょう! 何で焔は時々すごいバカになるの!?」

「心意気の問題だっての! あーあ、見るも無残な姿になっちゃって……」

「だって『間隙』だから、放っておいたら半永久的に残っちゃうでしょう!? わたしそんなの耐えられない!」

「俺は全然構わないんだけどなー」

「焔が構わなくてもわたしが構うの! ……とにかく、出発だからね。ちゃんと気温の調節してね?」

「はいはい、りょーかーい」


 名残惜しそうに砂絵の残骸を見つめつつ、焔が頷く。


「……よくわからないのだが、もういいのか?」

「……うん、大丈夫」


 リルと焔のやりとりを黙って聞いていたアル=ラシードが怪訝そうな顔をしつつ尋ねてくるのに、リルは疲れた笑みを浮かべて答えた。


 ……とりあえず、アル=ラシードに見られなかっただけでよしとしよう、と自分を慰める。

 嫌がらせかと思うくらい見事な再現っぷりだったのだ。さすがにあんなもの見られたら平然と会話できない。


 気をとりなおして、リルはアル=ラシードに近づく。


「それじゃあ出発しようか」

「了解した」


 言いながら立ち上がるアル=ラシードを見て、リルは改めて彼の幼さを意識する。身長が低めなのもあって、年齢よりも幼く見られがちなリルと比べても、頭一つ分くらいの差があった。

 全体的に華奢で頼りなげな印象を抱くのは、病弱ゆえに見た目だけは儚げなセクトに通じるものを感じるからだろうか。

 王族だから食うや食わずの生活をしているとは思えないが、ちゃんと食べてるのかな、とリルは少し心配になった。


 じっと自分をを見つめたまま動かないリルに気付いたアル=ラシードが声をかけるまで、リルはシャラ・シャハル王族の食生活に思いを馳せていたのだった。


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