取るに足らない小噺
喜市
鷹の狩り
羊が逃げた。
白い綿毛の海にひょい、と飛び込んでしまった。青年は草原のような瞳を探すも、どれもこれも黒や茶の暗い色。
「ゲレル!」
吠 えるように呼んだが、銘々にめいめいと鳴くだけで、あの幼馴染の羊は見つけられない。群の周りで同じように犬が吠える。
「ゲレル!」
も う一度呼ぶも近くの羊が声に驚いて飛び退くだけだった。
彼の部族は一夫多妻。地位の高い者程沢山の妻を迎える。彼の幼馴染は、族長の息子の第二夫人の座に収まろうとしていた。我慢ならぬと呪術で隠したものの、逃げられてしまったのだ。
「ゲレル、何が不満なのだ!」
青年は部族の中でも五本の指に収まる程の狩りの腕前であった。鷹狩りが特に得意であった。また、羊の数も部族の中でも四番目に多い。族長の息子との縁談を断れと言っても、悲しげに微笑むだけ。ならば遠くへ馬を駆って、誰も知らないところで暮らそうとも言った。しかし、ゲレルは首を横に振るだけだった。彼は何不自由ない暮らしを約束できる。しかし、何が不満なのか青年にはわからなかった
日が暮れて来て、探すことを諦めた彼は、草ばかり食べていたらきっと人間の暮らしが恋しくなって出てくるに違いないと、暫く放置することにした。
羊を追い、鷹で鳥を狩り、一ヵ月。遊牧民の彼らは牧草地を移ることになった。
馬を駆りながらずっと、瞳の奥底の、草原の煌めきを探す。ゲレルの瞳はとても美しい。二代前、嫁に貰ったらしい隣の国の血が濃く出たのだろう、緑の瞳は部族の誰もが持っていないものだった。よく日に焼けた肌に、黒の髪が川のようにうねり。きらりと輝く宝石が唯一光る。煌めく名前の彼女は、彼の記憶の中でくるりと舞った。
日が出て移動し。日が斜めに差し掛かる頃、次の牧草地についた。前に居た平らな場所とは違い、岩肌が所々にゴツゴツと、大小と空に突き刺さっている。住居の用意を終わらせると、日は傾き、空は橙と。月と一緒に本で見た海の様な群青が押し迫っていた。
「ヴルグト」
青年は久しぶりに呼ばれた気がした。待ち望んだ静かな声に振り向くと、父の手によって、羊が首を落とされた。
晩飯はよく肉のついた羊だった。待ち望んでいた緑の瞳が私を見ている。
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