終章

夜はまさに明けようとしていた。


鉛色の海からは、頬を凍らせるような風が強く吹き付けていた。それとは対照的に、わたしの背後からは温かな朝の光が射し込んできている。


わたしは何をするでもなく、ただ呆然と海を眺めていた。


子供のときから見慣れてきたはずの海――。見飽きた風景であるにも拘わらず、毎年冬至の時期が近づくと視線は海へ向かってしまう。もっと言えば、その向こうにあるものが気になって仕方がない。冬至の夜が明けた朝は、こうして青ヶ浜に立って海を眺めるのが恒例となった。


日はどんどんと高くなり、水平線近くまで白くなろうとする。海の彼方にある常世の国の幻影が、何の面白味もない海原に変わろうとしている。


三年前のこの日――山陰地方を襲った震災は、最大震度五、マグニチュード七・三を記録した。震災発生から約三十分後に到来した津波は、平坂町を襲った十メートルのものが最大であった。負傷者数は三百五人、六百一棟の家屋が津波によって全壊した。


しかしこれだけの災害であったにも拘わらず、奇跡的に死者は出なかった。これは積雪の多い地域のため、頑丈な造りの民家が多かったことや、地盤の強固な地域であったこと、人口の密集している地域からは離れていたことなどが理由として挙げられる。


人的被害と呼べるものは、ただ二人の行方不明者のみであった。


ふと、すなを踏みしめる音が背後から聞こえた。


こんな時間に、わざわざ青ヶ浜まで来る人間などいないはずであった。


わたしは背後を振り返る。


そこには痩せ身の壮年男性が一人立っていた。道路には、たった今乗ってきたと思われる車が停められている。風音と潮騒のせいで、車が近づいてきていることに気づかなかったらしい。


おはようございます――と言い、彼は微笑む。


「――谷川さん。」


知り合ったとき――つまりは震災によって息子が「行方不明」になったとき――と比べて、谷川の頭には白いものが目立つようになっていた。不如意な人物の登場に、わたしは少しだけ不快感が湧く。


「なぜ――ここにいるんですか?」


「大したことではありません。――ちょっと仕事で、こちらのほうへ来ることがありましてね。毎年この時期になると、貴女が青ヶ浜まで来るらしいことは社から知らされていました。けれどもその気持ちも分からなくはありませんよ。私も今日、何となくこちらへ来たくなったのですから。」


「――ああ。」


震災が起きて以降、わたしはこの男の所属する企業から保護観察のようなものを受けている状態にあった。実際、あの惨事の引き金となってしまったのはわたしなのだから仕方がない。彼らからすれば、わたしは非常に優れたシャーマンであるらしい。


「この向こうに、常世の国はあるのでしょうか?」


ありますよ――と谷川は答えた。


「この世界ではないだけで、あることにはあるでしょう。そうでなければ、寄神の来たことも、あの震災が起きたことも説明ができない。死者が出なかったことだって、奇跡と言えば奇跡だ。」


確かに、津波があって死者が出なかったことは奇跡だろう。


ただし、平坂町に住む者の数はめっきり減ってしまった。家を失った者の何割かは、町の外へ移り住んだまま帰って来なかった。立地の不便さからか、それとも長年、平坂町に何者かのいることを感じていたためか――そうでなくとも、ここは元から過疎化の激しい地域だ。中学校は津波で鉄筋校舎まで破壊されて以降、廃校が決まった。小学校は統廃合で一つとなった。わたしが子供の頃からあったものは次々と無くなっていった。


「この町は、そのうち無くなってしまうのかもしれません。何しろ、守護神がいなくなったのですから。そして、再び呼ばれることもない。」


三年前に冬樹の行った神送り以降、神迎えの儀式は行われていない。町民が平坂神社の存在を思い出したのかどうか――それは誰も口にしないので判らない。けれどもこの町で何が起きたのか、誰もが何となく察しているのだろう。帰って来ない人が多いのは、そのためだ。


貴女のせいではありませんよ――谷川は慰めるように言う。


「あれは、かなり稀な事故だった。あの年にやって来た寄神が、たまたま貴女という優れたシャーマンに感応してしまっただけだ。」


しかし、わたしには納得しかねた。


「はたしてそうでしょうか。ならばなぜ、貴方達はわたしを観察などしているのですか? 谷川さんがここへ来たのも、わたしが妙なことをしないか気にかかったためでは?」


「いえ――それとこれとは別です。今ならばともかく、そのときの早苗さんには、シャーマンとしての力をサポートする存在がいなかったのですから。責任はありません。誰にも貴女を責める権利などないのです。」


「――そう。」


谷川の空虚な言葉に呆れて、わたしはうつむいた。


「それならばなぜ、息子は頭屋になど選ばれてしまったのでしょうね。わたしには――何らかの報いであったとしか思えません。」


谷川は押し黙った。


「遺体ですら見つかっていないというのは、なぜなのでしょう。なぜあの子は――常世の国へ逝くこととなったのか。わたしに、形見の一つですら残すこともなく――。唯一、残されていたはずの、妹の形見まで持っていってしまって――。わたしは――」


わたしは、次第に声が震えてゆくのを感じていた。


「わたしは、ただ妹と過ごしたかっただけです。二十八年前に、理不尽な死に方をした妹が、帰って来てくれたらばいいのにな――と思っていた。すでに結婚して、息子がいたにも拘わらず――です。ひょっとしたらこの願望が強かったあまり、わたしは判断を誤ってしまったのかもしれませんね。この、どうしょうもない望みが叶えられるかもしれないと思って――わたしは妹の偽者を掴まされてしまった。そしてそのために――代用の幸福ばかりではなく、冬樹まで失ってしまうなんて――」


わたしは前かがみとなり、右手で眼を覆った。こんなにも悲しい気持ちが込み上がってきたのは、三年ぶりであったか。


わたしはあの日以来、冬樹がどこからともなく、帰って来るような気がしていた。けれどもそれは、言うなればわたしの願望が作りだした幻影だったのだろう。それを認識しなければ――わたしは、また邪悪な存在から、冬樹の偽者を掴まされてしまうだろう。


谷川はそっと近寄り、わたしの肩を抱いた。


わたしの両目からは、止めどなく温かいものが流れている。それは目の前で激しい唸りを上げる、あのうしおの味と酷く似ていた。


                                了

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