神送りの夜【旧版】
千石杏香
序章
序章
夜はまだ明けていなかった。
漆黒の空には濃い藍色が融けていた。
青黒い闇の中で、海原は轟音を上げている。荒々しい波は、浜辺へと
一年で最も長い夜が明けようとしている。
冬至の日が近づくと、わたしはこの
三年前に起きたことの記憶が蘇ってきて、眠れなくなるからだ。
妹の存在と――震災。
あらゆる記憶や思いが胸を通り過ぎて、今年もまたこの沙浜へ導かれた。
沙浜の名前は、
ただし十四年前までは、この青ヶ浜は、海の向こうから神を呼び寄せたり、送り返したりする儀式が行われていた場所でもある。
儀式は春分の日と冬至の日に行われていた。春分の日の子の刻――二十三時頃――には、海の向こうから神を呼び寄せる儀式が行われ、冬至の日の同時刻には、神を送り返す儀式が行われた。海から迎えられた神は、この町に存在した古い神社に鎮まって、送り返される日まで町の
しかしその神は守護神であると同時に、祟り神でもあった。神迎え・神送りの夜には、儀式に携わる者――
その実例らしきものを、わたしは片手で数えられるほど知っている。
三十年ほど前には、こんな例があった――。
冬至の夜のことだ。三人ほどの高校生のグループが、肝試しと称して家の外で一夜を明かしたという。その高校生たちは、二度と帰宅しなかった。一人は、翌朝に路上で倒れて死んでいるのを発見された。あとの二人はいまだ行方が判っていない。
また、わたしが子供の頃にはこんな事例もあった。
確か、この町へ引っ越して間もない者であったか。春分の夜の出来事であった。彼は真夜中に煙草が切れたので、近所の自動販売機まで買いに行ったのだそうだ。そしてそのまま帰って来なかった。奥さんは、町民が発していた言葉を恐れたのと、夫が決して遠出したわけではないことを信じて、家の外へ出ることはなかった。
翌朝になって、夫は漁港に遺体となって浮かんでいるところを発見された。
他にも、漁船の様子を見に行った漁師が、顔中を血まみれにして帰ってきた話だとか、発狂して精神病院に入院している話だとか、そのような事例はいくつもある。
故にこの二つの夜、町民は――神遣いを除いて――決して外へ出なかった。
わたしは、この海の向こうに違う世界があることを信じている。
古代の日本人は、そこを「
地図を眺めたとき、海の向こうにあるものといえば、朝鮮とロシアの一部に過ぎない。現代人でそれを知らない者はいないだろう。実際、青ヶ浜には、まれにハングルや簡体字の書かれた漂着物が転がっている。
そうであったとしても――。
実際に浜辺へ立ったときに感じられるものといえば、宏大な世界の拡がりだ。地球上のごく一部分、地図の上では庭池でしかないものが、無限に続く巨大な生物へと変化する。わたしが脚の竦むような畏怖を感じてしまうのは、そんなときであった。ただの知識でしかないものが、急激に実感を失ってしまう。この果てしない、暗い海の向こうにあるものが、全く未知の領域へと変化する。
わたしは――この世界の拡がりが恐い。
実際――十四年前までは、この暗い海の向こうから何者かが来ていた。
気の遠くなるほど太古から、この地に住む者達は、常世の国から神を呼び寄せたり、送り返したりする儀式をこの青ヶ浜で行っていた。神がもたらすものとして露骨に認識できたのは、豊穣よりも災いのほうであった。
しかしその儀式も十四年前から行われなくなり、三年前が最後となってしまった。わたしが生まれ育ったこの町も、過疎化でもはや滅亡寸前である。
そしてその
ある人に言わせれば、そのことについて、わたしには何の責任もないらしい。全ては事故であり、天災のようなものなのだそうだ。実際、あのときのわたしの心は、あまりにも幼すぎた。相談相手と言える者も、誰もいなかったのだ。
それでも冬至の日が近づくと、激しい悔悟の念に襲われる。あの大惨事を招いてしまったのは、結局のところわたしなのだから。
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